なんでこんなときこんなことを思い出すかなぁという瞬間は誰にでも経験があると思います。
塔のぼる一万段目あがるときふいにガス栓思い出す俺 柳本々々
『かばん』(2014年6月号)より。
そのときどうするかは、人によってさまざまです(私は9,999段を引き返したりしません。「爆発してしまえ、俺の部屋」と思うことにします)。
ただ、人それぞれに次の行動を決定する前、この思い出してしまった、気づいてしまった「一瞬」には、なんとも名状しがたい心の状態がある。この歌はその瞬間を詠んでいます。
わっ。
ぽけー(「エポケーとはポケーっとなること」とほとんどの日本人は理解している)。
ううむ。
そのへんやそのほかの言語以前の何かが到来し、同時に「俺」を包み込む。
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ところで、私はガス爆発を間近で聞いた(見た)ことがあります。19歳か20歳の頃、道をぶらぶら下宿に向かって歩いていたとき、ものすごい音がした(ほんとにものすごいです)。音のしたほうを見ると(若いから運動神経がある、首が素早く動く)、路地の数十メートル先の家の窓から噴煙か何か爆発の名残(零点何秒か後の名残)。
その夜、その話を友だちにしたところ、「ガス爆発って、ガス代、どれくらいかかるのだろう? 考えるだけで怖い」。って、そっちの怖さに、即座に持っていかれてしまい、ううっ、コクの深い話をしている、と思ったことでした。下宿暮らしにおける「ガス代」のリアル。
『かばん』のそのページには、
図書館のまだひらかれぬ戯曲からひかりが漏れる生殖の午後 同
などもあり、なぜか、自分の若い頃のことを思ってしまいます。図書館や戯曲を親しくしていたという意味ではなくて。
あるいは、こんな歌。
「そうだ、京都行こう。」をゆめみる日常に牛丼などが横でつゆだく 同
西荻の松屋(吉野家ではないのですね)で京都を夢見ることはなかったのですが(だってガス爆発体験の1年前は京都にいたし)、この「横」は、「俺」の「横」ってことでしょうから、この「横」感、すこぶる付きの「横」感は、なんだか実感なのですよ。
せっかく部屋に『かばん』が1冊あるので、ときどきそのなかのこと(短歌や記事ってことです)を書いていくかもしれません。ごめんね。
(ごめんね、が自分の中で流行中)
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1 件のコメント:
早速レスポンスをいただきました。多謝。
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そしてその〈名状しがたさ〉はどこかでこの世に対して世界から疎外されたときの、しかしそれでもその疎外を甘受しようとする一人称として語り手に〈俺〉を選び取らせるように思いました。(柳本々々)
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