2017/05/27

■サキソフォニック 『クプラス』終刊号から

ゴーゴーバーとゴーゴー喫茶の違いは、ゴーゴーガールの有無。……かなあ。断言はできませんが。半世紀以上も前の話ですが。

サックスのぐるりに映り素足なる
  阪西敦子

ゴーゴーガールのミニスカート、あるいはパンタロンの中身が素足だったのかどうか。そういう問題ではないような気もしますが。

(だいたいにして、ゴーゴーなんて、この句のどこにも書いてないし)

サキソフォンの外観のテカリ・ヌメリ、音のノタウチに、素足(の動き)が乗っかる。

(「ぐるりに」がいいのです、きっと)

あっさりした作りなのに、サキソフォンのサキソフォンたるサキソフォン性が横溢。



そういえば、ヴァン・モリソンのライブ盤「ア・ナイト・イン・サンフランシスコ」の途中、いったいなんべん「キャンディー・ダルファー!」と叫ぶんだ? というくらい叫びまくる箇所が1曲ならずあって、つまりキャンディー・ダルファーのサックス・ソロのたびに叫ぶ。

むかし、この女性サックス奏者がデビューしたとき、金髪で綺麗なおねえさん、といったルックスのせいで、そうとう軽んじていた。どうせ見た目でデビューができて、人気があるのだろう、といった過小評価〔*〕。ところが、今になってみると、内実(音)がとてもいい。ヴァン・モリソンが名前を叫びたくなるのがわかる気がする。


〔*〕参照:『魅力的な容姿』の科学者 『能力が劣る』と思われやすい研究結果


2017/05/25

■夜の扁桃腺

扁桃腺腫らしてコレコソガ夜  瀧村小奈生

扁桃腺が腫れること=夜。この等式は、たいそうおもしろく、等号記号にあたる「コレコソガ」には、カタカナの使い途だなあ、と感心。

この句を掉尾とする8句連作のタイトルは「射干玉の」。ぬばたまを最後の句で受け止めるという構成。

≫瀧村小奈生「射干玉の」:川柳スープレックス
http://senryusuplex.seesaa.net/article/449482665.html

■甘酒ブーム継続中

嫁はんの甘酒ブームは継続中。

参照記事≫http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2017/05/blog-post_4.html

ただし、ブランドに関しては浮気性。


2017/05/23

■続篇が本篇よりも長大かつ面白いという倒錯 福田若之のオモテとウラ

このあいだ、福田記事のダメなところについてちかぢか書くと言いましたが、ウラハイに載った福田若之「〔ためしがき〕滑って転んじゃった話」

http://hw02.blogspot.jp/2017/05/blog-post_23.html

これが面白いので、私のはもうどうでもいいかな、と。

それに、「ダメ」というより、「こういうやり方は好きではない」と思った箇所は、週俳掲載時にはなくなっていた(楽屋話になるが、掲載の前に「読んでくれ」と言われて読んで、すこし感想を伝えた)ので。



ウラハイ記事の細かいところに反応しておくと、
天気さんは僕の書いたものに「《名誉欲にまみれた老人・中年 vs 俳句をことをマジメに愛する》という構図の絵」を見てとろうとしているけれど、これはあまりにもプロレス化しすぎじゃないだろうか。
たしかに、レッスルさせすぎの傾向。私んなかにある。認める。

でも、このツイートの「老人・中年」は、有馬朗人だけではく、その周囲の老人・中年(あるいは若年も含む)を指しています。だから、「有馬さんって(…)見境なしに夢を追っかけちゃってるだけ」(福田)という見方に反対はしない。迂闊な人なんだろうなあ、と想像します(良い意味でも悪い意味でも)。

4団体の人たち全員が、今回の「俳句を無形文化遺産に」の宣言と運動に連なる人たちではあるわけですよ。

現代俳句協会青年部は、今回の件をテーマにシンポジウムを開けばいいのに、ね。

たぶん行かないけど。


もうひとつ。
協会を抜けるというアクションを起こしていた四ッ谷龍さんについては追記して、そもそも協会に入っていない西原天気さんについては何ら追記しなかったのも、結局は、ひとえに僕個人のこの「不安」に関わってのことだったと今にして思う。そりゃ、たしかに「大笑い」だ)
これはもっと現実的にね、個々について「アクションを起こしていた」事実を知るたびに訂正していたら、大変だぞ、という意味合いのほうが強かった(誤解を招きやすいツイートだったですね。私は、いいんですよ。私が協会に入っていないことに、それほど意味はないし)。

それよりも、前の記事で書いたように、ツイート(さえずり)はアクションではない、と捉えるのは、私にはちょっとわからない。こちらのほうが重要。


もうひとつ。

有名人・言論人etcの人名への言及は、呼び捨てが原則。「氏」も「さん」も要らない。

このルール、最近、崩れちゃってるけどね(この話題はまたあらためて)。


最後に、ひとつ。
僕がなんでそんなに「個人の感想」にこだわるのかというと、結局、僕は、それが全体主義的なもの(忘れないでおきたいのは、それがしばしば善意の塊によって発生するということだ)の一切に対する反対物になりうると信じているからだ。
「個人の感想」という立脚点はだいじだと思うけれど、個人がどこを見ているかが重要、という考え方を、私はしちゃう。

「自分」を見ているぶんには、何に抗しても、ルサンチマンをひきずる。

「公共」を見るとき、個人の感想に「義」が宿る。私は、「義」のある見解を支持する。「義」が好き。

もっとも、福田若之はこれを全面否定するかもしれない。それこそが「善意の塊」として機能する全体主義なのである、と。

■続おるがん 『オルガン』第9号より

オルガンの奥は相撲をするせかい  鴇田智哉

やっぱり、オルガンは「野」なのだ。

掲句は『オルガン』第9号(2017年5月1日)より。