2008/10/30

ええっと、ですね 2

華々しく開店、というのがふつうなんでしょうが(ここまで引っ張ったし)、地味に、なんとなく始まった、というのも、アリかな、と。

開店間近、かも、ということで、それまでビデオでも観てお過ごしください。
(ときどき換えていきます)

THE WHO -QUADROPHENIA- Photo Book

2008/10/28

ええっと、ですね


開業に向かって、着々、とは行きませんが、その方向に向かっていることだけは、たしか。

2008/10/22

2008/10/21

4+17.44



2008/10/20

ロハスとは?

ロハスの胡散臭さは、簡単な話、マーケティング用語を、商売するほうはともかく、商売されるほうが手軽に口にする、そのことから来ている。

ロハス(Lifestyles Of Health And Sustainability)とは?→http://mscience.jp/nolohas.htm

一般に、「それ自体は良いことなんじゃないの?」といった分野は、それ独特のエグいことが起こる。エコとか、福祉とか。

本人は胸張ったりしちゃうぶん、後ろめたい商売分野よりも、タチが悪いのですね。

2008/10/19

大統領の器

米大統領選の帰趨はすでに決まったらしい。

共和党候補のジョン・マケインという人は、私の知る範囲で(もちろんそんなに知っちゃいない)、りっぱ人、魅力的な人なんですけどね。残念です。

参考(Wiki)

もっとも、アメリカ人の気分の主成分は Anybody but Bush (ブッシュじゃなければ誰でもいい)。どっちが勝ってもブッシュよりはマシだろうという空気だったのだと想像する。

ブッシュでアメリカはガカガタになり、小泉というイチビリの政治家のせいで日本はボロボロになり、ジーコによって日本サッカーの10年が失われた。次元がぜんぜん違うが、誰かを選ぶことは合理的に行かないし、当たり籤もなかなか引けないようだ。

2008/10/18

マンフレッド・マンの不思議

週刊俳句の動画、10月12日から1週間は上田信治さん見繕いのマンフレッド・マン特集。信治さんの解説はこちら

マンフレッド・マンについては「イギリスの古いポップバンド」くらいしかイメージがなかったが、上記解説を読み、動画を見て、ちょっと気になって、ネットで少し調べてみると、とても不思議なバンドに思えてきた。

何が不思議かって、その存在感のなさ。

レコードデビューは1963年。キンクスやザ・フーより1年早く、ローリング・ストーンズと同年。この3つのバンドはメンバーが変わりはしたが、まだ現役。マンフレッド・マンも、その歴史といまだ現役(現在の公式ホームページ)という点で、3バンドと共通するが、存在感という点ではダンチ。

…と思う。少なくとも日本で暮らしているぶんには、マンフレッド・マンなんて、ずうっと聞いたことがなかった。

ストーンズ、キンクス、ザ・フー。こう並べると、りっぱに「英国ロックの半世紀」という感じがするが、そこにどうしてもマンフレッド・マンは入ってこない。60年代から、ずうっと活動はしていたらしいのに…。

ざっとバンドの歴史を見てみると、70年代、マンフレッド・マンズ・アース・バンドという時代、これがどうも、大きなマチガイだったっぽい。YouTubeでも観られるが、突如、アートロック(!)というか、スワンプというか、アーシーというか、ヒッピーの真似というか、そんな感じで、ポップ音楽業界・ヒットチャート・芸能界の表舞台からドロップアウトしてしまった感じだ。

キンクスもRCA時代といって、アメリカ音楽の凝った路線に傾いた時期があったが(私はこの時期がいちばん好き)、ロックンロールへの回帰は、驚くほどあっさりと素早かった。ここでカムバックするんですね。

繰り返しますが、不思議です、マンフレッド・マンの存在感のなさ。

トリビュート・アルバムも見たことがない。キンクスなんて、こんな怪しげな、絶対聞きたくないトリビュート・アルバムまであるというのに。

暇なとき、ゆっくり研究してみるざんす。

2008/10/17

サボテンな散歩





東京都台東区根岸

2008/10/16

アルトゥーロ・サンドバル


↓不動産屋の社長みたいなオッサンがアルトゥーロ・サンドバル。キューバ生まれのトランペット奏者。ディジー・ガレスピーとの共演。



ところで、Gillespie。Gi なのに、なんで「ガ」レスピーなんでしょう? むかしから不思議に思ってます。

2008/10/15

はくびしん

夜中、町内で、はくびしんを見たときはやはり吃驚しましたよ。

いたんです。塀の上に、ね。

最初はたぬきかと思いました。ペットが逃げ出して、町なかにはいろいろな獣が棲んでるんでしょう。ふだん気がつかないだけの話で。

しかし、逃げ出したのが1匹だけだと交尾ができない。やがてその個体が死んで、おしまい、ということなんでしょうか。

ひょんなことから異種交配が起こるなんてことはないんでしょうか。そうなると、さらに多種多様な獣が町に繁殖することになります。

そのへん、専門家に訊いてみたい気がすごくします。

2008/10/13

若すぎて

もらいもののCD(プライヴェート・コンピレーション)に入っていた曲。



too young.

なんと甘美なことばだろう!

2008/10/12

地図の効用

旅行に出かける。いつ、とは言えない。いろんな事情があって。

きょう旅先の地図を広げた。

とたんに、自分の中で、旅が盛り上がりはじめた。もう幕がぱーっと上がって、バンドの音がバンっといっせいに鳴ったくらいに、盛り上がった。

地図とは、すごいものだ。

あたりまえだけど、いまさらながら。

2008/10/11

戦後最大のミステリー

テレビドラマという名の学芸会は、見ない、と言っているくせに、昼ごはんを食べているとき、NHKの連続ドラマが点いていた。

双子の女の子が主人公とか
。カミさんは「見る」と決めて、だいたいは見ているらしい(前の連続ドラマ、月島が舞台のドラマは「見る」と決めたのに数回で挫折していた。「めまいするほどつまらない」と言って)。

今回の連続ドラマは、今のところ期待大らしい。カミさんがあらましを説明してくれる。

なるほど。ポイントはそこだな、つまり、宍道湖のシジミ採りの漁師さんが、どんないきさつで京都の舞妓さんだか芸妓さんだかと、二子をもうけたのか。

これは戦後最大のミステリーかもしれない。

2008/10/10

ニュースの合間の一曲

今夜もラジオの話題(引っ張る引っ張る)。

J-WAVE(東京のFM局)の「ジャム・ザ・ワールド」という番組がある。

月曜日から金曜日まで20:00~21:50。ニュース番組。ヘッドライン(ストレートニュース)は簡潔で、時事トークとでもいうべき時間が多い。

途中、20:40から10分間、「ロハス・トーク」といってソトコトという雑誌の人が出てくる。この10分間は、他局に切り替える。「ロハス」とか「ソトコト」とか、大の苦手というか大嫌い。なので、切り替える。なぜ大嫌いなのか、うまく言えないが(またゆっくり考えて、どこかに書くかもしれない)、ともかくその10分間は聞かない。

で、この「ジャム・ザ・ワールド」、ニュース番組として落ち着いて聞け、テーマの取り上げ方もおもしろいのだが、それよりもちょっと「なぜ?」とびっくりしているのが、選曲。

コーナー間に1曲、という感じで流れるだけなのだが、この選曲が素晴らしい。新しいところが多いからだろう、知っている曲は少ないのだが、きわめて高確率で自分の趣味にフィットする。いや、自分の趣味との相性というだけでなく、その懲りよう、いわゆるセンスの良さがラジオ全体のなかでも抜きん出ている。

ラジオの音楽番組ではなくニュース番組。その選曲が素晴らしい、というのは、ふつうに考えるとヘンだが、実はそうでもない。音楽番組は、音楽ビジネスと密接に絡むので、個人のセンスをそのまま反映した選曲はできないのだと思う。ニュース番組では、曲は添え物。だからこそ、幅広く自由なセレクトができるのだと推測する。

ともかくJ-WAVEが聞けるなら、夜の「ジャム・ザ・ワールド」、そこでかかる曲を聞いてみてくださいませ(曜日によって選曲担当は変わるかもしれないが)。ニュースや時事問題の合間に流れる音楽がいいと、とても気持ちのいいものですよ。

2008/10/09

さ、ラジオを聞こう 2

椅子に坐って唄う。電波が飛ぶ。たらっとした時間が気持ちよいです。

Corinne Bailey Rae Put Your Records On

2008/10/08

さ、ラジオを聞こう

この数年、ラジオをよく聞く。

  寺山忌ラジオのごとくうづくまる      五十嵐秀彦

掲句は五十嵐秀彦さんのブログから引いた。寺山忌は5月4日。ブリジット・フォンテーヌ「ラジオのように」(Brigitte Fontaine - Comme à la radio 1969)が踏まえられていることは、作者・五十嵐秀彦さんがブログでこの曲に触れていたことからも明らか。

「うづくまる」はいかにもラジオだと思った。

 ●

ところで、句から離れるが、ラジオでしゃべっている人は、基本的に坐っている。うずくまるまで行かなくとも、立ってはいない。走りまわりもしない。

テレビのなかの人たちは、立ち、走り回り、はしゃぐ。もう、そういうのはいい、と思っている人が多いと思う。私自身はほとんどテレビを見ない。スポーツ中継はたまに見るが、音は消す(倉敷保雄のサッカー中継を除いて)。

テレビドラマという名の「学芸会」、バライエティと呼ばれる「芸人の宴会」を、そろそろ皆が飽きてもいい頃だ。ニュースも、映像がなくて結構。テレビは、(スポーツ中継を含めた)ドキュメンタリーだけでいい。

あとはラジオがいい。

2008/10/07

エレガントな抽斗

「知識についての知識について」
http://blog.tatsuru.com/2008/09/24_1730.php
内田樹と町山智浩という、愛読ブログふたつが接近。

ネット検索があれば、「無知」が数分後には「博識」に化ける。 知識はすぐに備わる。たくさんの抽斗をいっぱいにするくらいの書類は誰でもすぐに集められるけれど、「ああ、こりゃあ、エレガントな抽斗だなあ!」というケースはきわめて少ない。

問題は、そこなのです。はい。

抽斗は多いが、未整理でごじゃごじゃ、というパターンも多い。

いったい何に使う抽斗なのか、という問題はさておいても、である。

  

このことはどんな分野にも言えることだが、例えば、俳句。

むりくりの展開?

題詠をやらせると、「こいつ、化け物か」というお年寄りがいる。思考の瞬発力という点では、私と同年代の「俳句じょうず」や若い才気煥発な俳人くんたちのほうに分がありそうだが、実際のところ、こうした「化け物」的ご老人の足下にも及ばない感じ。

何が違うのかといえば、抽斗のエレガントさ、なのだ、きっと。

抽斗に入っているもののクオリティ、そして、何かが俳句へと形をむすぶ、その回路の豊富さ、その整理の良さ。すべてをひっくるめてエレガント。

わたくしもせいぜい精進します。でも、あと、少なくとも50年はかかるので、そのはるか以前に寿命が尽きる。

自分自身に「ご愁傷さま」と言ってあげたい夜。

2008/10/06

月の光

Claire de Lune

2008/10/05

エレキ三味線

『記録の百科事典・日本一編』(紀田順一郎・間羊太郎編・1971年)を読んでいたら、「エレキ三味線」という項目があった。

最も音のでかい三味線は、1929年(昭和4)6月、神原重次と石田一治によって製作された「電気三味線(咸弦)」で、皮のかわりに薄いベニヤ板を用い、内側の隅に電気の差し込みソケットをとりつけ、コードをアンプにつないだもの。さしずめエレキギターの日本版と思えばよいが、当時はアンプなどに良いものがなく、効果も思わしくなかったので、まもなくすたれた。

なんだか、すごい楽器だが、ほんとかなあ。

この「事典」、いろいろな日本一についての説明で埋まっているが、実用度はほとんどゼロ(1971年事典で日本一音のでかい楽器が「エレキ三味線」だったことを知って、何になる?)。ところが、読み物としては、けっこうハマる。

紀田順一郎の本には、ハズレがない。濃い内容でも、ゆるい内容でも(この『記録の百科事典』は典型的に「ゆるい」ほう)、どちらもそれなりに楽しめてしまう。

2008/10/04

三味線ブギウギ

猫髭さんキッパリ曰く、「琴とハープはジャズに合いません」。

そうかも。

でも、三味線とブギは合いますぜ。市丸さんの昔から。

2008/10/03

蝉がセミヌード? どこで笑えと?

滑稽俳句協会なるものが設立されたとか(↓)
http://www.47news.jp/CN/200809/CN2008092701000109.html

記事の冒頭、こうある。
「蝉殻をぬぎつつあればセミヌード」。この句にニヤリ、クスリとしたあなたはどうぞ入会を。

協会設立の趣旨はよろしいのでしょうし、私自身、俳句の滑稽味を大いに楽しむタイプ。他人様の為されることに水を差すつもりもない。

だが、この「蝉殻を」の句を滑稽と言い、これを滑稽俳句と呼ばれてしまうと、すごく困ってしまう。泣きたくなります。

俳句愛好者として、残念でならない。俳句の滑稽とは、こんなもんじゃない、もっともっとおもしろいものなのに、なあ、と。

知らない人がこの記事を読んだら、「俳句の滑稽って、この程度か」と思うだろう。それがくやしい。

記者が適当に挙げた句に過ぎないにしても、です。

2008/10/02

2008/10/01

ロージナ茶房

大井恒行「高屋窓秋とロージナ」(『現代俳句』2008年10月号)を読み、高屋窓秋や三橋敏雄が、国立駅南口のロージナ茶房をよく利用していたことを知った。ロージナ茶房なら30年以上前から知っている。若い頃はよく利用もした。

高屋窓秋や三橋敏雄は、私にとって「俳人」ではあっても、生身の人間のようには思えない。句とともに黒く印字された四つの漢字が、高屋窓秋であったり、三橋敏雄であったりする。

もちろん、彼らは人間である。喫茶店でお茶を飲んだりもしたのだろう。それでもやはり、私がよく知っているあの店のビニール張りの椅子に高屋窓秋や三橋敏雄が腰掛けていたと、そう想像しても、ほとんどピンと来ない。

「著者」「作家」は、私にとって不思議な存在だ。例えば、読者として尊敬や愛情をもって接した「著者」「作家」と実際に会う機会を得たとき、それを「うれしい」と思う人もきっといるだろうが、私の場合は、そうではないようだ。どうしていいかわからなくなる(実際、何度かそういう状態になったことがある)。挨拶くらいはできるが、それが精一杯になってしまう。

黒く印字された名前の持ち主が、肉体をもって、自分の目の前にいることの奇妙さから、なかなか抜け出すことができないのだ。これはまあ、幼児が、絵本のなかの出来事と現実の区別がつかないことと、すこし似ているかもしれない。