2016/09/30

■夢見・その後 西橋美保『うはの空』より

夢の話の続き。

このひとですこの眼で見ましたこの人が夢でわたしを殺したんです  西橋美保

眼で見た夢、殺されたわたしの証言。いろいろな転倒・裏返しが仕込まれていて、ゆめうつつ。


読み始めた西橋美保歌集『うはの空』(2016年8月/六花書林)。じわじわきます。愛読書になりそう。




2016/09/29

■夢見の直後

みんな夢なのにだんだん腹がたってくる  楢崎進弘

起き抜けで、さっき見た夢を思い出したら、夢だからといって納得できず、しだいに怒りがこみ上げてくる。ここは、やはり、ふとんの上に坐って、と解したい。

怒りの対象が夢で見たもの、ってのが可笑しい。

「だんだん」というのが可笑しい。

ふとんの上という状況が可笑しい。


掲句は『現代川柳の精鋭たち 28人集-21世紀へ』(北宋社/2000年7月)より。

2016/09/28

■AI萌え

人工を恥ぢて人工知能泣く  佐藤りえ

人の手が入っていること、みずからのそうした出自を嘆き、泣く、人工知能。

なんだか、きゅんとなる。

こういうの、萌え、って言うのでしょうか?(理解していない)


エレベーターに毛皮のをんな来てしづか  同

上等そうな香水の香を漂わせていそう。

こちらはきゅんとしない。ちょっとそわそわする。(いくつになっても煩悩はあります)


人工的な環境に暮らしているのだから、きわめてすんなりと、こうした感触の「俳句」が生まれ、きわめてすんなりと感興を味わう。


掲句は『俳句新空間』第6号(2016年9月15日)より。

2016/09/27

■睡蓮の意識 『鷹』2016年10月号の一句

『鷹』2016年10月号より。

睡蓮に日の差すやうに忘れけり  小川軽舟

睡蓮となんらかの意識と、相性がいいのは「睡」の字効果なのか。


ところで、こんな句もあって、

睡蓮に胸のあたりを切らるるよ  永田耕衣

「睡」よりも「醒」のイメージ。

「胸のあたり」は「意識」と言えなくもない。


それはそうと、忘れる、というのは不思議な行為で、というか、行為と言いきれないところがまず不思議で、失敗やら喪失やら(憶え損ねること、記憶が消え去ること)としか結びつかないことが、せつなくもあります。

(忘れたくないことは忘れ、忘れたいことはなかなか忘れられない)

睡蓮に日が差すと、色かたち、美しさが際立つようでいて、その瞬間、なにかが失われているのかもしれません。





2016/09/26

■突然ですが、That's The Way Of The World 祭り


















モーリス・ホワイト Maurice White 1941年12月19日 - 2016年2月3日

2016/09/25

■ニューエイジとボストンと『ヤギと男と男と壁と』

もうちょっとマシな邦題はなかったのか、いい映画なのに残念、というケースは多々あって、『ヤギと男と男と壁と The Men Who Stare at Goats』(2009年/グラント・ヘスロヴ監督)も、そう。

ジョージ・クルーニー 、 ユアン・マクレガー 、 ジェフ・ブリッジズという大好きな俳優陣、ケビン・スペイシーという大好きじゃないけど巧い俳優の共演。

ニューエイジ(ニュー・サイエンス)にハマってそのままどっかに行っちゃった人たち(映画ではヘリコプターでジョージ・クルーニーとジェフ・ブリッジズが)は、当時のアメリカにはたくさんいたのでしょう。

シニカルな戦争コメディ。なのですが、その冷笑の先が何かというと、単純ではなく、なおかつ心優しく楽観的。気持ちよくこんがらがった印象を残してくれる映画でした。

なお、冒頭に示されるように、実話が元。現実にこんなもの(超能力部隊)があったという、それこそがなによりのコメディ。


余談ですが、ボストンを「クラシカル・ロック」と呼んでいた。聴かなかったバンドだけど、ラスト近くに流れる「More Than a Feeling」はさすがに知っている。

それにしても、ボストンのこのヒット曲が40年前、ニューエイジはもちろんそれよりももっと前。ずいぶんとたくさんの時間が過ぎ去ったものです。




2016/09/24

■冒頭集:夢の場所

一九四三年に私はこう書き留めて置いた。「ニューヨークは、幼年期の夢が一堂に寄り集まったような魔法の場所がある。そこでは歳月を経たトーテム柱が唱いかつ語りかけ、奇妙なオブジェが不安気に凝固した表情で訪問客の方を窺い、また人間離れした優しさを持った動物たちが、前脚を人間の手のように合わせてこう祈っているように見える、選ばれた人のためにビーバーの宮殿を築き、海豹(あざらし)王国の案内人となり、あるいはその人に神秘的な抱擁を与えつつ、蛙や川蟬の言葉を教える特権を委ねて欲しい、と。ここに言うのは、時代遅れではあるが、奇妙にも有効な展示法のおかげで、仄暗がりの光のさす洞穴に入って崩れんばかりの過去の稀宝の山を前にしたような感動を与える、番外の魅力をも併せ持っている場所で、毎日十時から五時までの誰でも訪れることのできる、あのアメリカ自然史博物館の一隅である。そこはアラスカからブリティッシュ・コロンビアに至る太平洋北岸のイネディアン諸族の展示がなされている一階の広い部屋である」。
クロード・レヴィ=ストロース1975『仮面の道』(山口昌男・渡辺守章訳/1977年/新潮社)

2016/09/23

【再掲】【お知らせ】9月のくにたち句会

2016年925日(日)14:00 JR国立駅改札付近集合

句会場所:ロージナ茶房(予定)。

席題10題程度

句会後の飲食もよろしければどうぞ(会費アリ)


ご参加の方は、メール(tenki.saibara@gmail.com)、電話etcでご一報いただけると幸いです。

問い合わせ等も、上記メールまで。

■外階段:姫路



2016/09/22

■ギターケースをなんとかする作業

ギターケースにメーカーロゴがデカデカと書いてあるのがなんだかイヤで、ふつうならステッカーとかを貼るんだろうけれど、手元にないし、いかにもロックな(あるいはジャジーな?)貼りものもピンとこないし、千社札とかはぜったいに避けたい。

そこで、亞子さんにいただいた切手をスキャナーに並べる。


印刷して、糊で貼る。


とりあえず文字は隠れた。もっとたくさんペタペタ貼るといいのかな?

■外階段:神戸



2016/09/21

■矢を放つ 『セレネッラ』第9号の一句

『セレネッラ』第9号より。

流れゆく雲へ矢を向け菊人形  金子敦

菊人形の凛々しい横顔が見えるようです。

■某日日記:続ふわふわ


私たちは学ばない。シネコン駐車場で「『君の名は』渋滞」に遭ったことを忘れて、またもや。

『怒り』(22:55)に間に合わず、それではと、『君の名は』(23:05)を観る。

背景画が美しい。風景がテーマのひとつだから当然といえば当然なのですが。

恋愛に至る心理の過程がよくわかる。

プロット上の矛盾をいくつか感じますが、まあ、それは、この手の物語に付き物。おもしろく観ました(嫁はんも寝なかった。最初のほうがピンチだったらしいけれど)。

そんななか、たいへん残念なのが、音楽。

全体に音楽と場面の関係がベタ。それはいいとしても、垢抜けない歌が、何度も、それも重要な場面で流れるのは、かんべんしてくれ、という感じ。歌詞は(どんな内容であれ)台詞とぶつかるしね。使うとしてもエンドロールだけでいいでしょう。

それにしても篠さんの言うように(音楽のことも触れています)、ノスタルジーをくすぐる伝統的な要素が揃っている。ウケを狙って、きっちりウケた映画だなあ、と。終わったあとの客席の若者たちからは、「感動」が伝わってきました。それと、ふだん映画館に行かないような層まで動員しているからか、客席が食べ散らかしでいつになく汚かったのでした。



小津夜景さんの《空気モノ3日連続》のあと、さらなる浮遊感。

ひこうきの泳ぐ室内
http://yakeiozu.blogspot.jp/2016/09/blog-post_68.html

記事で紹介された動画「dwelling」は恍惚。


間違って押されたシャッター。

2016/09/20

■ 『静かな場所』に北大路翼

『静かな場所』第17号(2016年9月15日)・招待作品より。

ビーチボール外国人は背が高い  北大路翼

『静かな場所』で北大路翼句が読めると、誰が想像したでしょう。

田中裕明賞の為せる業。


2016/09/19

【冒頭集】温泉へ

湯本駅を降りて三枚橋を渡った。とりあえず対岸の箱根町立郷土資料館に展示してある『七湯(ななゆ)の枝折(しおり)』の模写図を見ておこうと思ったのである。文窓(ぶんそう)・弄花(ろうか)『七湯の枝折』全十巻。湯本、塔の沢、堂ヶ島、宮ノ下、底倉、木賀、蘆の湯の箱根七湯を絵詞風にまとめた江戸の箱根案内(文化八年、一八一一年)で、文窓が本文を書き、弄花が絵を描いた。文窓、弄花がどういう人物かは分かっていない。ただどちらかが医者か儒者だったのではないかと思う。種村季弘『日本漫遊記』(1989年/筑摩書房)

2016/09/18

■某日日記:ふわふわ

シネコンのレイトショー、『怒り』を観に出かけたら、駐車場が『君の名は』渋滞(ネットの事前情報でほぼ満席でござった)。あきらめて帰宅。

「『君の名は』っておもしろいの?」と嫁はん。

評判がいい。でも、アニメだし、恋愛モノみたいだし、嫁はんはきっと30分もせずに熟睡だろう(1000円ちょっと出して眠りに行くというのはぜんぜんムダでも贅沢でもないけど)。



ウラハイに【裏・真説温泉あんま芸者】句集の読み方 その6・さわる
http://hw02.blogspot.jp/2016/09/6.html

手元にある句集から適当に。

さわりまくって書いた記事。さわりまくっただけの記事。



小津夜景さんのブログ、空気モノ、3日連続で、ふわふわした良い気分になる。

初日 ※ジェーン・バーキン付き

2日目

3日目



週刊俳句・第491号は、澤vs街の3回目で編集長登場。

竹内宗一郎さんはいつもちょっと巫山戯ていて、好きなのですよ。

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/09/10_26.html

巫山戯た俳句というのは純然たる褒め言葉で、もちろん俳句的な巫山戯。あんばいは難しくて、《太刀魚を掲げて笑ふ銀歯かな》はやり過ぎだけど、

敬老日波をイメージしたダンス  竹内宗一郎

など、酷薄も加味され、かつ脱力感も伴う。



ギターの弦を張り替える。

ギターを手にするのも40年ぶり(今年1月)なら、弦を張るのも40年ぶり。

ペンチを持つと、心躍る。

ところが、はじめてみると悪戦苦闘。嫁はんに、弦を押さえといてもらったり、ペグを回してもらったりしながら、なんとか張り終えて、さて出来栄えはというと、笑っちゃうくらい、ひどい。





【公募】現代俳句アンソロジーを刊行いたします

ですってよ、奥さん。

タイトル(書名)も公募(こちらは年齢制限ナシ)……って、そこは編集者・著者の仕事だろ? とは思うが、刊行前に注目を集めようという意図でしょう。

2016/09/17

【冒頭集】目の看板

路地を曲がるたびに、眼医者の看板が出てこないか、とドキドキしながら歩いていた。近くの西武線の駅まで約一キロの距離を、母と弟と歩く。僕は、床屋のクルクル看板と眼医者の“目のマーク”の看板に異常な反応を示す子供であった。泉麻人カジュアルな自閉症』(1985年/ネスコ)


■いわゆるレトロフューチャーあるいはインデックスとしての俳句

近未来小説の紙魚光りけり  加藤静夫〔*1〕

看板の未来図褪せぬ草いきれ  榮猿丸〔*2〕

関心事の小部屋、というとりっぱすぎる、整理箱がいくつもアタマの中にあって、その側面に例えば「レトロフューチャー」と書いて積んでおくのはちょっと恥ずかしいので、上記のような俳句のほうが、まだしも。

句は、それ自体の内容よりもむしろ、端緒。夜店の籤の紐を引っ張るとなにかがくっついて現れるといったたぐいのものと捉えると、愉しい。

(インデックスだから、標準的な書体の印字とか、小さな手書き文字がいいのですよ。色紙に大仰な揮毫じゃあダメ)

他方、こうも言える。スイッチほどの小さな俳句が、よろしいです。ぱちんと押すと、もにょっとなにかが始まるような。


〔*1〕加藤静夫『中略』(2016年5月/ふらんす堂)
〔*2〕榮猿丸『点滅』(2013年/ふらんす堂)


2016/09/16

■猫に眉 『ことばの国の猫たち』の一句

猫の句は作らないと、いつかここに書いた。猫の句を読んで、いいな、面白いと思ったことがあまりない。どちらも個人的な事情だと思う。猫は親しく近すぎるので。

猫に眉描いて無職に陽が落ちる  板垣孝志

猫は自由で気まま。眉を描かれようが描かれまいが。

無職もまた自由気ままなのか。よくわからない。それでも日に一度陽は落ちる。《日にいちど入る日は沈み信天翁 三橋敏雄》というわけで。


掲句は『ことばの国の猫たち』(猫川柳アンソロジー/大本朱夏監修/2016年2月/あざみエージェント)より。

問い合わせ≫あざみエージェント・ウェブサイト



2016/09/15

【お知らせ】9月のくにたち句会

2016年925日(日)14:00 JR国立駅改札付近集合

句会場所:ロージナ茶房(予定)。高屋窓秋や三橋敏雄がかつて利用したロージナ茶房です。

席題10題程度

句会後の飲食もよろしければどうぞ(会費アリ)


ご参加の方は、メール(tenki.saibara@gmail.com)、電話etcでご一報いただけると幸いです。

問い合わせ等も、上記メールまで。



2016/09/14

■父の帰還 石部明の一句

『THANATOS 石部明 2/4』(2016年9月/小池正博・八上桐子)より。

鏡から花粉まみれの父かえる  石部明


鏡の国へと出奔していた父の帰還。異界のスーヴニールとして花粉は、きわめてあざやかなイメージ。


飯島章友による紹介記事



2016/09/13

【冒頭集】過去と未来

敬愚(robin d. gill)さん、フロリダ出身、『週刊俳句』への寄稿もある俳句愛好家/研究者の著作から。
南アメリカのアンデス山中に住むケチュア族は、一風変わった時間的感覚をもっている。それはわれわれにとって、まさに摩訶不思議なものなのだ。なにしろケチュア語では、未来は「前方」にあるのではなく「後方」にあり、過去も「後方」にではなく「前方」にあるというのだ。
ロビン・ギル誤訳天国 ことばのPLAYとMISPLAY』(1987年/白水社)

冒頭の数行で身を乗り出す。どういうことだ? なぜ私たちとは逆なのだろう? と興味が湧く。これをクイズと思って、答えを考えてみる時間をとるのがいいかもしれません。

1曲、かけます。いわゆるシンキング・タイム。



さて、答え。
彼らはこう説明する。予言者でないかぎり、未来は見えない。見えないということは視野から外れているのであり、つまり「後ろ」に潜んでいる。いっぽう過去のことは、あたかも目の前のものを見るように誰でも思い出すことができる。つまり「先」にある、というわけだ。
というわけでした。

なお、この本、この冒頭からは想像できない内容へと展開します。書名のとおり「誤訳」を扱う。実際の事例を扱う。

誤訳のない翻訳はない。それは著者ロビン・ギルも言っている。ただ、程度がある。あまりに悲惨・劣悪なものは、やはり問題視されるべきなのだ。


ちなみに、私が知っている「惨事」は(実際に読んではない。聞いた話)、文化人類学の英文和訳。「憑依」と訳すべき「possession」をすべて「所有」としてしまった例。どんなにシュールな和文なのか、想像がつく。というか、それで意味が通ると、なぜに思った? 訳者・編集者。

閑話休題。

ケチュア族・ケチュア語、なんとユニークな!

と驚きつつ、日本語にも、不思議なところがあるなあ、と。

「先(さき)」という語。「このさき」は未来。「さきに」は過去。摩訶不思議です。



【敬愚(robin d. gill)過去記事】

≫金玉の寂しさ Balls Gold & Blue 或いは子規居士の睾丸供養
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/07/blog-post_392.html

≫雛の日
http://hw02.blogspot.jp/2010/03/robin-d-gill.html


2016/09/12

■某日日記:グンジョーガクレヨンとか中野とか

八月某日。

くにたち句会、中野へ飛び出すの巻。場所が変わると、句が新鮮に見え、清記用紙からたくさんいただく。自分は、というと、そうも行かなくて、「ことごとく」の席題に、

ことごとく模様の違ふ秋の風 10key

もじりしかできなくなったら終わりだぞー。って誰に言ってる? 自分に言ってる。


九月某日。

BL俳句についてのコメント欄(こちらとかこちら)を眺めていて、俳句もまた、ふたつの問い、ふたつの検証に晒されるのだなあ、と。

A 社会的・道義的に不適切ではないのか?

B つまらなくないのか?

Bは忘れがちだけれど、こちらのほうがよほど過酷な検証。


九月某日。

小津夜景さんのブログ記事「あやとりを手放すとき」から、ふと、グンジョーガクレヨンのアルバムジャケットを思い出す。36年間をひとっ飛びに。



で、思い立って検索してみると、いまも活動中らしく、そのことにびっくり。36年間はひとつながり。


■蚯蚓を越えて

月曜日にふさわしい句を『豆句集みつまめ』その八粒目(2016年立夏号)より。

蚯蚓焼かれていても跨いで出社せよ  鈴木光影

アスファルトの横断歩道で干からびていく蚯蚓の死を乗り越えて労働に向かう。それがオトナの態度です。

「せよ」との命令の発信元は上司か妻か本人か。そこから嫌気や諦念を読み取ることもできますが、諦念もまた成熟の一作法なのであります。


『豆句集みつまめ』は豆サイズ(A6判)の同人誌。PDFが入手できます(≫こちら


2016/09/11

■顔真似

ジョン・マルコビッチ版「歴史的写真集」

南伸坊 本人の人々


あまりに違うふたつの顔真似。

和物の泥臭さ、正直、きらいではありません。


ところで、

顔入れて顔ずたずたや青芒  草間時彦

なにやってんだろう? このひと。

2016/09/10

■ロックな気持ち

空虚のなかに生きること、それは、革命、音楽、そして死の常なる潜在的現前を承認することなのだ。「一人の貧しい少年に、ロックンロール・バンドでプレイすること以外に何ができるだろう」(『ストリート・ファイティング・マン』ローリング・ストーンズ) 真の革命的音楽は、革命を歌う音楽ではなく、それを欠如として語る音楽だ。
ジャック・アタリ, 1977『音楽/貨幣/雑音』(金塚貞文訳・みすず書房)
この箇所まで読んで、当然のように、「ストリート・ファイティング・マン」を聴いてみようとする。レコード棚を探すのではなく、YouTubeで検索(なんと便利で安易な暮らし!)。



引用したロックっぽい文言をスマートに読解するよりも、ある種ロック的気分が醸されれば、(悲観でも皮肉でもなく)それで良しとする。

というわけだから、ふだんそれほど聴くわけでも思い入れがあるわけでもないローリング・ストーンズをもう1曲。1969年のハイドパーク。

【冒頭集】「実は、みんなはわれわれと違う言語を話しているんだ」

日独との戦争終結後の一九四五年、私は軍役から解放されて、ケンブリッジに戻った。大学の学期はすでに始まっており、多くの関連団体や集団が結成されていた。キール運河の砲兵連隊からケンブリッジ大学への旅はともかく奇妙なものだった。四年半離れていただけだったが、戦争の動勢の中で私はすべての大学の友人たちとの接触を失っていた。やがて、なじめぬ日々がだいぶ続いた頃、事情に迫られてではあったが、一九三〇年代の軍隊編成がいぜんとして生きていた戦争の最初の年に一緒に仕事をしていた男に会った。彼も軍隊から解放されたばかりだった。われわれは熱心に語りあったが、過去のことは話さなかった。われわれは自分たちを取り巻くこの新しい、奇異な世界にすっかり心を奪われていた。やがて、二人はまさに同時にこう言った。「実は、みんなはわれわれと違う言語を話しているんだ」。
レイモンド・ウィリアムズ1976『キイワード辞典(岡崎康一訳/晶文社/1980年)

装幀:平野甲賀

2016/09/08

■銀色

ジュラルミンケースの中はさざなみ  清水かおり〔*1〕

スプーンに少し残っている夜道  榊陽子〔*2〕

銀色の質感、金属の質感から、「さざなみ」へ、「夜道」へ。

両者とも、感興を引き起こすに充分な距離(前者は視覚的な繋がりが顕著なものの)。

ケースに収まるさざなみ、スプーンの上の数ミリリットルの夜道。

ポエジーへの経路とスピードが鮮やか。


すると、こんな句にも出会った。

からかさは英貨のまぶしさにひらく  宮﨑莉々香〔*3〕

英貨一枚と傘(からかさ)一張が縦に並ぶイメージ。英貨は銀色とは限らないが、「まぶしさ」には銀貨が似合います。



〔*1〕『超新撰21』(2011年1月/邑書林)

〔*2〕北田辺8月句会:川柳もと暗し
http://yoko575.blog.fc2.com/blog-entry-156.html

〔*3〕『円錐』第70号(2016年8月15日)

2016/09/07

■残骸

社会が壊れかけているので(なんでも社会のせいにするなよ!)、日本語が通じても通じなくても、結果はそんなに変わらない、むしろ通じないほうが好都合だったりする(ホントかよ)。

ぐびゃら岳じゅじゅべき壁にびゅびゅ挑む  川合大祐〔*1〕

うしろあびひうらにおいてくる瓢  田島健一〔*2〕


どちらの句も、意味了解性が薄れる/失われる一方で、口調・口吻として雄弁・多弁の勢いを得る。不思議なことではありますわな。

「岳」「壁」「瓢」といった漢字は非・意味へと辿りつけずに(表意文字だから当然)、そこだけブツとして屹立するかのようです。液状化した平仮名の連なりの中に残された建造物の残骸のごとく。


〔*1〕川合大祐句集『スロー・リバー』(2016年8月/あざみエージェント)

〔*2〕田島健一「あるいはねびめく」 週刊俳句・第487号
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/08/blog-post_91.html


■Michelle Shaprow

コリーヌ・ベイリー・レイもそうだけれど、この人も、小鳥のように歌う。



summertime♪ から始まる歌詞。気持ちのいい午後のひとときってな感じか。

2016/09/06

■豚と睾丸 俳句甲子園2016仄聞

俳句甲子園に登場した《利口な睾丸を揺さぶれど桜桃忌 古田聡子》という句。

◆福田若之 利口であること、およびその哀愁についての試論 第19回松山俳句甲子園全国大会の一句
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/08/19.html

こちらのコメント(福田若之)も参照


哀愁(福田若之)かぁ、哀愁ねぇ。じゃなくて、あえて、ブルージーに、ソウルフルに、ファンキーに、〔睾丸=サクランボ〕の相同にフォーカスして読みたい。

(私には「揺さぶれど」が謎のままだけれど)


ともかく、2016年の俳句甲子園は、豚と睾丸の大会であったようです。善き哉、善き哉。

■『三橋敏雄全句集』刊行のこと

『三橋敏雄全句集』(風の花冠文庫)刊行がSNSで話題。

問い合わせは↓
http://tategaminokai.sakura.ne.jp/hanakan/mituhashi.html


ところで、天金と三方金、世の中では三方金のほうが数がありそうに思うのですが、

かもめ来よ天金の書をひらくたび  三橋敏雄

が「天金」でなくてはならないのは、音数もありますが、やはり「天」の文字のもつ垂直性・上昇性と「かもめ」の照応。

めまいするような句ですね。

いまもむかしもこの句を三橋敏雄の「いちばん」に挙げます。


さて、今回の全句集、400部限定とも聞きます。早々に完売ということもありそうです。

2016/09/05

■黴の世に 『季刊芙蓉』第109号の一句

『季刊芙蓉』第109号(2016年9月1日)より。

黴の世に逢ひて別れて人古ぶ  照屋眞理子

中七の既存フレーズをはさむ「黴」と「人古ぶ」が物質的で、酷薄。

「老いる」だと、甘い叙情に流れてしまうところを「古ぶ」。「人」を潔くモノ扱いする口調が心地よい。


■1967年のジャイアント馬場

飯島章友氏に、ものすごい読解・吟味をいただく。
「四角くて丸い世界」「馬場正平」「熱帯夜」というキーワードから考えるに、上掲歌は、昭和42年8月14日に大阪球場特設リングで行われたジャイアント馬場vsジン・キニスキーのインターナショナル・ヘビー級選手権試合と思われます。
飯島章友「何度も反す八月の砂時計 2」
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/09/7-2.html

感謝感謝感謝。


【参考記事】
http://blogs.yahoo.co.jp/hk08300830/32591622.html




2016/09/04

■WESTBOUND 07 雲雀丘花屋敷



雲雀丘花屋敷は、嫁はんが東京に引っ越すまで、小学校低学年に通った学校がある場所。半世紀ぶりに行ってみたくなったと、梅田を歩いているとき急に口にした。

それはいい。ぜひ行こう。私も行ってみたい。

阪急宝塚線でおよそ30分。駅を降りてすぐに雲雀丘学園小学校。「あまり変わってない気がする」と嫁はん。

さらに歩くと川に出た。増水したときにその川で遊んでいて流されそうになったそうな。

建造物がいくら変わろうが、川筋はそれほど変わらない。それを頼りに記憶をたぐり、かつて住んでいた場所にたどり着いた。

家が建ち並んでいるが、どっぷりと郊外。のどかな光景と空気を味わって、梅田に戻り、帰途についた。

今回の旅のクライマックスが最後に残っていたわけだけれど、嫁はんの感慨はそれほどでもない。その場所はあまりにも変わってしまい、どんな気持ちを持っていいのかよくわからない模様。むしろ私が、なぜか、胸をいっぱいにしていた。

WESTBOUND この回で終わり)


2016/09/03

■WESTBOUND 06 鶴橋

大阪・鶴橋を東京・大久保のようなところと思うのは間違いで、深度が違う。

ディープ。





■俳句は中略

ポインセチア(中略)泣いてゐる女  加藤静夫

女が泣くのには、それなりの経緯や背景があるのだろう。そこは略す。

俳句は、たいてい、細かい事情を抜きにする。説明している暇はないので。

とすれば、この句、俳句らしい俳句。というか、メタ的要素のある句。

ポインセチアの鮮烈なイメージと後半のドラマを「(中略)」という変則でつないで飄逸。


掲句は加藤静夫『中略』(2016年5月/ふらんす堂)より。

2016/09/02

■WESTBOUND 05 なんば

なんばあたりを歩く。大阪が大阪を演じているような場所。






それにしても人が多い。東京よりも好景気なのでは? と思うほど、多い。

新世界からこのあたりまで来て、嫁はんは「大阪あたり」。ぐったりする。



■「ッガー」の威力

ハイデッガーという名前は、めちゃくちゃ強そう、と、かねがね思っておりました。

小津夜景 愛しい本の条件 * 03
http://yakeiozu.blogspot.jp/2016/08/03.html
そういえば、わたしは以前から『存在と時間』という本を読んでみたいと思っているのだけれど、ハイデッガーという署名がなんというか大仰すぎて、気恥ずかしくて、なかなか近づくことができない。

そうとう強そうなアーノルド・シュワルツェネッガーよりもさらに数段強そう。ハイデッガーは、私にとって世界一強そうな名前かもしれません。


顔も強そう。

2016/09/01

■WESTBOUND 04 新世界という世界

新世界。めまいするほどおもしろい。