2013/10/29

■日曜日のくにたち句会 7首

あすは晴れと信じて眠る朝起きて晴れていたならやはりうれしい

集合場所まちがえたので五分ほど遅れるという律儀なメール

都管理の緑地へ行けり吟行のあいだ俳句のことは忘れて

自転車を押して歩くか駐輪するか悩んだ末に押して歩いた

矢川とは流れの速さ矢の如しそれが由来と看板にあり

日々溜まる反故を短冊状に切り各自俳句を書くのが句会

鴨鍋は出汁を濃い目に「こっくりと」仕上げた妻に感謝するべき




参加の皆様、ありがとうございました。


2013/10/28

■伊勢


「伊勢」という二文字・二音があるだけで、情感が胸にひろがる。

  黒瓦波打つ伊勢の端午かな  内村恭子

  母在せば母にうるはし雪の伊勢  八田木枯

個人的な思い入れがあるわけではないのに、そうなる。その作用こそが歴史、といってしまえばそれまでなのだが、茫漠と豊かな歴史性(くわえて読み手によっては確かな光と感触を伴った地理性)が、句のなかに存する個別の経験、個別の気分と結びつくときに起こる俳句的快楽。


内村恭子『女神』2013/八田木枯『汗馬楽鈔』1988



2013/10/26

■握手 5句






『なんぢや』第18号(2012年8月)より転載。


榎本享さんが代表の同人誌『なんぢや』。ちょっと行儀よく、おとなしめ。私も少しは場の空気を読みます。そのアジャストもまた、自分では楽しいわけです。

■雨天決行

…というか、日曜日は大丈夫そう?

くにたち句会〔10月〕のお知らせ




2013/10/25

■一人称「わい」




「わい」という一人称を使ってみようと思うのですが、これがなかなか難しい。うまくはまるところがない(俳句では、永田耕衣の《柿の蔕みたいな字やろ俺(わい)の字や》が有名)。

ところで、掲句については…

《この句の屹立とは、読者のなかにあったはずのさまざまな根拠への参照を拒否するたたずまいのことだ。》
ずいぶん前(2007-10-22 19:24)の記事。

結局、何も言っていないのですが(すみません)、何も言わせない句が、いい句だということですね。

2013/10/24

■サツマイモの件

メール句会オクンチの兼題が「マン」「空を飛ぶもの」「自由題」だったので、3句とも〔空飛ぶマン〕で作ったが、まったくウケず。

でも、

  スーパーマンのシャツのたるみと薩摩芋

の「と薩摩芋」という箇所は、自分でかなり気に入っている。

なんか、ヘンなんじゃないか、というのがその理由。

句会(持ち寄りの句会)は試行・テスト・実験・モニタリング調査なので〔*〕、ふつうの句はなるべく出さないようにしている。「ふつうの句」をもう少し具体的に言えば、成功と失敗の具合を自分である程度見定められる句。


ところで、イナカから送ってきたサツマイモが、ふかして食べると、かなり美味しい。生協から届いたベニアズマと食べ比べると、どちらも美味だが、味や食感に微妙な差があるような気がする。ベニアズマはホクホク、 イナカのはムッチリ甘い。

とくべつサツマイモ好きではないのですが、サツマイモを食べているときの人間て、善良な感じがする。ような気がする。それもあって、朝食がふかしイモだったりするわけです。


〔*〕それでは一方、その場で作る句会は、というと、「楽屋裏」という感じ。ネタを皆でいろいろと吟味する(選句から合評へ)。いずれにしても句会は「舞台」ではない。句会に「読者」はいない。句会は「作者」が読み合う場所。句会を経て、捨てたり変えたりしたあと、句は読者へのお披露目となる。

2013/10/23

■傘と大陸

自分勝手に二句並べる(前からよくやる遊び、好きな遊び)。

  日傘ひらけばシベリアも面影も円  喜田進次

  ことにはるかに傘差し開くアジアかな  攝津幸彦


傘(日傘)と大陸は、昭和前期的ノルタルジー。

自分の中でこの連関とはいったいなんなのだろう? 例えば、ここか? と、桑原甲子雄『満州昭和十五年』をあらためてめくってみました。

すると、最後にあった。



けれども、私のアタマにあったのは、このイメージではない。空想の風景、空想のノスタルジー。ということで、あまりに予定どおりの結末。

2013/10/22

■週刊俳句は非インターネット的




インターネットにおける既存俳壇への「対抗意識」。これ、まったく「なかった」というわけではなくて、「週刊俳句」以前のBBS系俳句サイトのいくつかには、はっきりと「対抗意識」、反・既存俳壇、反・旧体制という雰囲気があったのではないでしょうか。

一方、週ハイ(週刊俳句)の「ネットの外」への作用については、おっしゃるとおり、というか、そう思っていただけるのは、当番(運営)の一人としてうれしいかぎりです。


週刊俳句は、つまり、もともと(そして現在も)「非インターネット的」です。

現代俳句協会青年部勉強会「俳人とインターネット」 レポート〔後篇〕

上記の記事にある次の発言。
上田 インターネット独自の評価ができるとか、「インターネットは外の世界(現実世界)の価値観に侵されないユートピアなんだ」という考えはルサンチマンに過ぎない。(…)

ルサンチマンはつまらない。そういう認識から週俳は始まっているので、「対抗意識」が希薄なのです。

ルサンチマンから出発したものは、よしんばそれがある種の成功を収めたとしても、ルサンチマンを抱く人(たち)自身の幸せ、溜飲下げetcにしかならず、他人を幸せにしない。

現実へのウラミ・ツラミなどなく(ただし、「もっとおもしろくなるんじゃないか」といった不満のようなものはあって)、始まったのが週刊俳句。だから、既存の秩序、俳句のレガシーとも良好な関係を築こうとして、ある程度それが成し得ているではなかろうかと。
小川軽舟が「インターネットと俳句の『場』」(『俳句年鑑2008年版』巻頭提言)において、「週刊俳句」を「俳句において出来上がった秩序とその外に生まれた新しい動きとの交差点のような「場」を指向しているのだろう」と捉えたとおり、週俳は、リアルとネットの結節点のような場所にある。/言い換えれば、週俳は、インターネット的ではない。リアルの価値を(良く言えば)尊重し、(悪く言えば)利用している(例:有力作家・有名作家への依頼 等)。匿名性を排除する方針(ハンドルネームによる寄稿は原則として認めず)から言っても、週俳は「非・インターネット」的だ。

週俳にとってインターネットは、そこにとどまるべき領分というわけではなくて、この記事(2009年12月)以降、実際、週俳は、ネットの外でいくつかの仕事をしている(いくつか書籍をつくったのがわかりやすい例)。

ネットをツールとしていかに効率的・効果的に使用するか、作用させるかが、週俳の課題。

なので、ふわ~とした雰囲気としてのネット観や、「ネット俳句」などというどこにも存在しないもの、とは遠く無縁なのが週俳なのですね。

2013/10/19

■再掲:くにたち句会〔10月〕のお知らせ

今月は早めのお知らせです。

矢川緑地を軽く散歩してからの句会にいたしましょうか。
http://kunimachi.jp/kunitachi-spot/3028/

なので、集合場所は、JR矢川駅(南武線)改札あたり。

集合時間は、2013年10月27日(日)14:00

っつうことで。

句会場所は決めていません。そのうち決めます。

句会後の飲食もよろしければご一緒に(会費アリ)。

はじめての方も、ひさしぶりの方も、ご常連さまも、ご遠慮なく。参加をお待ちしております。

tenki.saibara@gmail.com


2013/10/18

■めちゃちっちゃい


鰯雲若き女性は東京へ  後閑達雄

蓑虫の真つ正面はどちら側  金子敦

コスモスや裏手に男子更衣室  小早川忠義

2013/10/17

■触って選ぶ

イチジクは、触って柔らかいものを選ぶ。

イチジクはもいだら最後、追熟はしないので、完熟を見つけ、選ぶのがだいじ。

2013/10/16

■見た目で選ぶ

ともだちのところへ遊びに行くのに、おみやげのお菓子を見た目で選ぶ。


味は、知らん。

行き先:花の谷クリニック ≫http://hananotani.jp/

診てもらいに行ったのではありません。前に書いたイチジク狩りに、です。


2013/10/13

■寄せてみた

このあいだの金曜日、近恵さんの現代俳句新人賞のお祝いの会に行ってきました。

受賞作「ためらい」

とても楽しい一夜でした。

存じ上げない方もたくさんいらっしゃる集まりで、初めてご挨拶できたり、世間は意外と狭いことに驚いたり。良い機会に恵まれました。


で、近恵さんの受賞に寄せる一句を、週刊俳句・第338号に。

急遽掲載の「灰から灰へ」10句
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/10/10_13.html


ついでと言ってはなんですが、谷雄介氏らの「24時間耐久俳句マラソン」やら松岡修造氏やら、いろいろと「寄せて」います。


週俳・第338号では、他にも、「踏みごこち 玉田憲子句集『chalaza』の一句」「今週号の表紙 稲」。今週はずいぶんと仕事をした気分です。



2013/10/12

■ビール工場とか競馬場とか

24時間耐久俳句マラソンてなものが催されまして、



おいおい、競馬場、ピール工場の府中といえば、私のシマだ。挨拶もなしに勝手にこんなことをしてもらっちゃあ、嬉しいじゃないか(ここ笑うところです)、ということで、ビール工場見学+句会に参加、競馬場は見学だけ参加してきました。

  ビール工場麦をああしてこうなつて  10 key


競馬場に足を運んだのは初めて。気持ちのいいところでした。

M氏臥像。


ビール工場とか競馬場とか。中央フリーウェイ♪ かよ!

催しは現時点でまだ折り返し地点の手前。まだまだ続いております。

2013/10/10

■釘の続き

八田木枯さんの《釘と月光》について書いたのだけれど、

http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2013/10/blog-post.html

これ↓

  春の夜に釘たつぷりとこぼしけり  山田耕司(句集『大風呂敷』)

釘と月光、春の夜の釘は、趣向が違う。木枯さんの2句はやや比喩に重心がかかる(比喩と言い切れないところが魅力なのだが)、山田耕司さんの句は、ブツとコトで、質感を醸成する。

いずれも生き生きとしている。

かつて榮猿丸さんが「リアリティよりもアクチュアリティ」と言っていた。実に実に。

俳句はリアルである必要はないが、アクチュアルであってはほしい。

比喩や見立ては、よしんば成功してもそれだけでは賞味期限は短い。句会のその場で「うまいこと言うなあ」の賞賛で終わりがち。一方、ブツとコトを提示するだけでは、作者事情で終わりがち(読者にとっては、「そんなものを見たんですね、そんなことがあったんですね」で終わる)。

何がどうなれば、アクチュアルな句(それはまさしく賞味期限の長い句)になるかは難しいところですが、そこにある「調べ」、それが醸し出す「質感」というのが、ひとつ、ポイントになるのではないか、と。そして、その2つはもちんのこと無関係ではない。

さらにいえば、俳句は、モノの質感だけなく、時間の質感であったりもする。そこがおもしろいところであります。


2013/10/08

■いちじくを

狩りに。

http://www.pioneer-farm.jp/

行くプラン。

西洋いちじくには、いろいろな種類があって、それぞれかなり違う風味。この週末のプランに、いまからワクワクしています。

  無花果にパンツ一つの明るさ立つ  平畑静塔

そこまでは暖かくないだろうとは思いますが。

2013/10/07

■いじる相手

を間違えている。



高校生とか小中学生とかじゃなく、もっと違うところでしょう、いじるなら。


話は変わりますが、冷奴だと半丁も食べられないのに、湯豆腐だと、そうとう量が行ける。あれって、なんなんでしょうね。

2013/10/06

■俳句は俳句

俳句ってだけで、いいです。

アタマに何かつけたがる人がいます。前衛とか新興とか伝統とか現代とか自由律とか、(追記)憑依とか、そりゃまあ、便宜的に必要な場合もありますが(俳句史的に、あるいは批評の語として)、必要な場合は限られている。

自分から進んでアタマに何か乗っけようという魂胆が、よくわからない。禿を隠すカツラじゃあ、あるまいし。

ナントカ俳句などと、貧相で言い訳がましい言い方などしなくてよいです。

俳句は俳句です。

2013/10/04

■オスプレイにまつわる遊びの数々~川柳と俳句のあいだ

更新されたばかりのこの記事。

夢精するオスプレイ―滋野さちの川柳:週刊「川柳時評」
http://daenizumi.blogspot.jp/2013/10/blog-post.html

後半に、根源的なテーマ(母、時事性・社会性、思い、わかる/わからない)が散りばめられているのですが、それはそれとして、この記事に取り上げられた《着地するたび夢精するオスプレイ 滋野さち》という句に関して。

この句、俳句には登場しにくい句だと思います。ただし、それは、時事的・社会的だからというよりむしろ(たしかに俳句では時事的な句・社会的な句は評価されにくい、というか忌避されるのですが、それよりむしろ)、「オスプレイ」とオス(♂)の関連(音の上での関連、いわゆる掛ける、ダジャレる)の問題だと思います。

この手の関連付けとは、積極的に遠く距離を置く、つまり遠ざけるのが、俳句の習性という気がします。

オスプレイからオス(♂)への連想は、この機種がニュースに登場して以来、お茶の間で数限りなく繰り返されてきた連想にちがいありません。それを句で繰り返すのが悪い、というのではありません。ただ、俳句では、それはやらない。

この「それはやらない」という態度は、少なくとも俳句においては、とても重要なことだと思っているのです。

つまり、固守してゆくべき習性。

(このあたりは、川柳と俳句とをかなりはっきりと分け隔てるセンスかもしれません)

「俗」や「捨て去られてゆくもの」に乗っからないという意味ではなく、そのようなかたちで乗っかることはしない、という感じでしょうか。

うまく言えないのですが、オスプレイとオス(♂)では、どうにもこうにも遊べないのです、俳句の場合。というか、そこで遊んじゃあ、俳句のコクはまず出ない、という感じかも。


あ、オスプレイを俳句で詠み込むのがダメって話じゃあないですよ。為念。

2013/10/02

■釘と月光

あるとき、ふと思いついた、というか、ふと感ずるものがあったのだろうか。木枯さんは、月光と釘の取り合わせに。

月光がくる釘箱をたづさへて  八田木枯(『夜さり』2004年9月)

月光が釘ざらざらと吐き出しぬ  同(『鏡騒』2010年10月)

6年間の時間を隔てた句集に収められたこの2句のほかにも、、未発表の《月光+釘》句はいくつか存在した。というのは、ある句会の席で、、月と釘でつくろうとするのだが、なかなかうまく行かない、といったことを(もちろんのこと関西弁で)おっしゃっていたからです。『世さり』に収録した「釘箱」の句でこのネタを終わりにせず、繰り返しトライしていたということで、その成果が『鏡騒』の「吐き出し」句なのか、この句はまだ途中経過だったのか。

いずれにせよ執念ですね。

短い期間、かつ浅く、でしたが、木枯さんと会話を交わす機会を得て、ひとつ、思ったことは、俳句は、「もう詠み尽くされている」と「まだ詠まれていないことがあるはずだ」のせめぎあいを、内に抱えた人だったということ。

鉱脈と言い換えれば、「もう掘り尽くされている」と「まだ何か出てくる」のせめぎあい。

《釘と月光》は、木枯さんが掘り当てた鉱脈、あるいは鉱脈の予感だった。だから、ひつこく掘り尽くそうとされたたのだと思います。