2013/12/31

■戦後史

唐突ですが、タモリといえば、これです(いまだに私にとっては)。






日本の戦後を振り返りながら、年を越すのもよろしいかと思います。

みなさま、良いお年をお迎えください。

2013/12/30

■句会無事終了

JR国立駅

ぶらぶら

キャットフィッシュ

句会:席題(街、湿布、たっぷり、いきなり…他)

ぶらぶら

選句・合評

おつまみいろいろ、ワイン他いろいろ

蒸し牡蠣

牡蠣鍋

カヨノ氏、乱入

自然薯とごはん

談笑・大騒ぎ

散会

後片付け

あまちゃん音楽会(完全版)

鶴瓶の家族に乾杯(久慈市・小泉今日子)

就寝

憲武画伯+ランちゃん、予防注射のため再び来訪

掃除・片付け:テレビ画面にあまちゃん総集編  ←いまココ


2013/12/29

■インターネット関連で私的2013年回顧

1 「週刊俳句」1号も欠かさず1年間。

当番の一人としてやはりうれしい。


2 ツイッターには過去も未来もない。ただ現在があるのみ。

つまりモニター画面に見えているツイートがすべて。とはいえ、少しは遡ったりするのですが、それをやるとキリがない。たまたま目にした情報の欠片を、そのときの気分で吸収したりしなかったり、反応したりしなかったり。

ツイッターは一覧性や横の広がりという点が弱い。情報が立体化しない。「タイムライン」とはよく言ったものです。単線的に流れていく。しかも雑多なままで。だから 「たまたまのそのとき」と付き合うしかない。情報をぜんぶ取り込もうとするのはムダということがよくわかる。そういうツールです、ツイッターは。

こうした「ただの現在」性を補完するものとして「togetter」という機能もあります(いわゆるトゥギャり)。これはかなり便利なものです。話題とは無関係なツイートが目に飛び込んでくることもなく効率的に、過去の関連ツイートを流れとしてまとめて読める。

私も以前には、たまにトゥギャッたりしていました。けれどもこのところまったくやらなくなった。理由の一つは、ツイッター界隈でも「引用」「転載」に対して神経質な空気が漂い始めたこと。「togetter」に「引用」「転載」されることに抵抗感のある人がいるかもしれない。そう思ったとたん、わざわざトゥギャる気はなくなりました。私の他にもそういう人はいそうです。俳句関連の話題で、「トゥギャリ」をとんと見かけなくなりました。こうして、ツイッターはどんどん単線的に、雑多に、その場かぎりになっていくようです。


3 フェイスブックは、文字どおり「顔」。

たまに、こっちを見ている顔があって、そういうのは、だいたい、怖い。

べつに怖い顔をしているわけではないです。ある一定の意味で、怖い。ページをすぐに閉じる/切り替えることになります。

まだ始めたばかりで、しくみがよくわかっていないのだと思いますが、何かを読むという意味では、フェイスブックほど不向きなツールもないんじゃないでしょうか。つまり、読みたいもの(記事とまで行かない小さな情報も含め)にアクセスしにくい。というか、アクセスという手順自体、あまりない。

不思議なツールです。

きっと文字ではなく、写真が中心、スマホや携帯電話で写真を撮って、フェースブックにアップする、というのが主要なマナーなのだと思います。。 写メをやらない私などは、あまり使い道がないのかもしれません(もっぱらリンクをアップしています。URLコピペ。数秒で済みますし)。



というわけで、インターネットは日進月歩(棒読み)、いろいろと新しい局面が現れますが、最初に戻って「週刊俳句」。

どこかで、週俳はいつまで経ってもオールドスクールで行くのでは?と発言しましたが、実際、スタートしたスタイルでずっと変わらず、なのではないかと思います。

2013/12/27

再掲●くにたち句会(12月)のお知らせ

12月29日(日) 14:00 JR国立駅改札 集合

句会場所 キャットフィッシュ

席題10題程度。

句会後は拙宅で飲食(会費アリ)。忘年会ですな。

時期が時期ゆえ、都合のつかない方も多数かと思いますが。

■本日はホーギー・カーマイケル忌

Hoagy Carmichael(1899年11月22日 – 1981年12月27日)


2013/12/26

■俳句と教科書

週刊俳句に上田信治さんの時評「2013年の角川「俳句」から記事4つ「年鑑」から1つ」。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/12/852-2013-4-1.html

この後半、俳人協会の「俳句の取り上げ方に対する要請(俳句の季語および五七五定形の厳守)」(1999年)に触れた座談会のくだりで、『Iv Σitu(インサイトゥー)』第2号(2013年2月)でこの記事を読んだ当時に感じた「ひっかかり」を思い出したのでした。

(話はそれますが、「インサイトゥー」という誌名を聞くたびに、狩野英孝の「スタッフゥー、スタッフゥー」の言い方をしたくなるのは私だけ?)

座談会の途中で俳人協会側(藺草慶子氏)の説明を聞いたその部分は、信治さんのまとめを使わせていただきましょう。
1 要望書を文部省に送ったという投書が朝日新聞の「声」欄に送られたそうだが、それは間違い。文部省には 送っていない。

2 ある会社で非常に偏った教科書が作成されつつあるという話が伝わってきた(どういうものかは確認していない)。そのことから、今後の子供たちへの影響力を危惧し、小学校と中学校の教科書会社に要請書を送った。

3 じっさいに送った要請書の文言を今回確認するために、当時の委員長、西嶋あさ子さんに依頼したが、現時点では見つからなかった。
1と2はつまり、要望書の宛先が「文部省」ではなく「教科書会社」だったということ。政治家や関係省庁に団体・組織の利益のために働きかけるのを「ロビイング」と呼び、企業に対する場合は単に「圧力」と呼びます(「圧力団体」という語は古くから浸透しています)。

圧力という行為が(一般に)正当か不当かはさておき上にある説明は、〈ロビイングではなかった、関係企業に対する「要望」だったというもの。これで「ああ、なんだ、そういうことか」と合点がいったり解決した気になるのはちょっと奇妙な話です。行政・立法向けならダメで、私企業向けならオーケーということでもないでしょう。

「働きかけ」自体が問題なわけです。そこで、その「働きかけ」の内容ですが、3にあるように書面そのものは出てきませんから、細かいことはわからない。

(探したけれど見つからないってのは、一般的にはちょっととんでもない話ですが、時間も経っているし、これは本当なんでしょう。それに、わざわざ来てくれた藺草さんへの礼儀もありますから、座談会のその場でそれ以上追及することもない)

教科書会社は保管しているかもしれませんよ。教科書会社にはこの手の「要望」「要請」は山のように届くと想像しますが、それだからこそきちんと管理・保管している会社がありそうです。本当に現物が見たいなら、そちらに当たってみるのも一手です)

書面がない以上、どのような言い方だったか、文言が強硬かそうでないかはわかりません。座談会も上田信治さんも「書面」にある程度関心を向けているようですが、そこにはあまりこだわらなくていいのではないかという考え方もあります。例えば、やわらかい言い方、婉曲な要望だったら、「まあ、いいんじゃないか」、きつい言い方だったら「ひどい」ということにはならないでしょう。

要旨が問題であって、要旨はすでに判明している(類推できる材料は揃っている)。要旨は、こうです。〈「有季定型」以外の俳句(のようなもの)を多く取り上げた、偏った国語教科書を出そうとしている会社があると聞いた。それはやめていただきたい〉。これでおおむね間違っていないと思います。そこで「こうした要望ってどうなの?」ということが議論されているわけで、書面の「現物」は、あるに越したことはありませんが、なくてもできる議論です(すでに各所で議論されています)。

「偏った教科書」について座談会の藺草さんは、「私は見たわけではないのでわかりませんが、例えば、無季俳句しか取り上げられていない、あるいは(…略…)全部が 子どもの作品であるとか」と説明している(『インサイトゥー』前掲 p52)。こう聞くと、俳人協会でなくても、「この教科書、大丈夫かいな?」と心配になります。気持ちとして理解できます。

ただ、一社・一教科書くらいはそれでもいいのではないかと鷹揚に構えることもできそうなものです。教科書ってたくさんあるんでしょう? その中の一つです。

けれどもそうは行かない。上田信治さんが引いている岡田日郎氏(俳人協会副会長・当時)の「俳人協会賞や新人賞選考のとき、句集に一句でも無季があったら選考対象から外す。一句ぐらいはいいだろうと言ったら崩れていく。「清規」の言葉を具体的にいえば、そういうこと」に倣えば、一社でも許せば「崩れていく」ということでしょう。

こういうのって、まさに統治者・為政者・ 管理者っぽい。反抗分子は一匹も許さない。殲滅するという…。そのへんが反感を買うのかもしれません。

閑話休題。「偏った教科書」を心配するなら、その一社に向けて要望書を出せば済む話でもあります。そうではなく関係各社に向けたのは、一社が特定できなかったのか(噂レベルだったので)、一社だけに向けると「圧力」の色合いが増すという配慮なのか、そこは想像の域を出ません。いずれにせよ、ちょっと時間が経ちすぎている(1999年の話です)。

ただ、かなり根深い問題を含むもので、「俳句」と「俳句のようなもの」(正統や覇権をめぐる争いという様相も呈している)、偏りとは何をもって偏りとするか、さらには教科書の編集権という問題にまで広がります。私にはそのあたりを語る準備も能力もありませんので、ちょっと方向を換えましょう。

俳人には学校の先生が多いと聞きます。そうした教育の現場を知っている方々は、こうしたたぐいの要望、すなわち教科書に対して特定の団体が内容はどうであれ「要望」を伝えるということを、どのように考えていらっしゃるのでしょうか。

ざっくり言えば、外部からの(大袈裟に言えば)教科書を通した介入について、慎重であるべきとか、いや逆にどんどん要望を出すべきだとか。そのへんのお考えを聞いてみたいところです。

 ●

しかし、それにしても、まあ、この一連の出来事と議論につきまとう「古くからお馴染みの」感。これには吃驚もし、気持ちが萎えもします。

「正統」(カギ括弧付きです。為念)は自分たちであるとし、正統たる旧体制を守ろうとする勢力・党派(いわゆるエスタブリッシュメント)が(彼らにとっての)「逸脱」「異端」に対して攻撃的に行使する排他性、閉鎖性、教条主義、(信治さんも指摘の)フォビア。これとそっくりな事象を、私たちは何度も何度も見聞きしてきたわけで、歴史と政治のステレオタイプにずっぽりハマりすぎだよ、おとっつぁん、という感じです。

というわけで、私自身は、あまり関心はないのですよ。教育とか教科書とか正統の俳句とか。関心がないわりに長く書いてしまったけどね。



〔参考:『インサイトゥ』側から、橋本直さん @musashinohaoto のツイート〕





2013/12/25

■芋づる式にまとめて観た:中村義洋監督から多部未華子へ

発端は、堺雅人でした。銀行員や弁護士のTVシリーズで人気沸騰(前者は最終回だけ観ました。後者はなんだかんだで全部観た。見逃した回は、録画している人ん家に泊まったときに観た)。その堺雅人が『ゴールデンスランバー』という映画に出ていることを知り、借りて観たわけですが。

おもしろかった。ちょっと甘酸っぱい青春モノ。

原作は、伊坂幸太郎の同名小説(本屋大賞受賞作)だそうです。伊坂幸太郎という作家は名前は知っていましたが、読んだことはありません。「本屋大賞」はあまり信用していません(自分の指標にはしないという意味)。

伊坂幸太郎原作・中村義洋監督というコンビで映画が何本もあることを知り、借りて観てみることにしました(以下、観た順です)。

『ゴールデンスランバー』(2009年) 堺雅人主演

『アヒルと鴨のコインロッカー(2006年) 濱田岳、瑛太

『フィッシュストーリー』(2009年) 伊藤淳史ほか

『ポテチ』(2012年) 濱田岳主演


結論として、どれもおもしろかった。以下、箇条書きに。

1 『ポテチ』は低予算が惜しまれる。プロ野球のシーンは低予算では無理ですね。

2 伊坂幸太郎の小説は、映画から類推するに、わりあい上質な青春小説(ミステリー要素を含む)。十代のときこれらを読んだ/読んでいる人たちは、私よりだいぶ若い世代でしょう。今の言い方なら「エンタメ小説」? こういうのはたくさんあるのは楽しい読書生活だと思う(年寄りとして他人事のように言う)

3  浜田岳という俳優、いいですね。ほとんど観たことがなかった。

4  多部未華子。『フィッシュストーリー』に出ていたのですが、んんん、こんなことをいまさら言うのは恥ずかしいのですが、「も の す ご く い い」。


というわけで、 多部未華子が出ている映画を借りて観ることに。

『ルート225』(中村義洋監督/2005年) 藤野千夜の同名小説が原作

『夜のピクニック』(長澤雅彦監督/2006年) 恩田陸の同名小説(本屋大賞)が原作


結論。よかった。(いわゆる小並感)

多部未華子が若いうちに100本くらい映画を撮っておけばよかったのに!(むちゃくちゃを言う)


ところで、どれも小説が原作なんですね。上に挙げた6本すべて。丹念にストーリーが組み立てられたものを映画にする(映像化する)というのは、手堅いのかもしれませんが、映画側から発生する虚構にも期待したいところ。


なお、多部未華子について書き始めたら、すごく恥ずかしいことになるので、「いい」としか書かないでおくことにします。(もうじゅうぶんに恥ずかしい)


■本日はジェームズ・ブラウン忌

James Brown(1933年5月3日 - 2006年12月25日)

若い!(↓)


2013/12/24

■リニューアル

『麦』という俳句雑誌の表紙が新しくなりました。



リニューアル版のロゴタイプ(麦の字) は好みではないですが、イメージ一新。違う雑誌みたいになりました。表紙は大事です。

■俳句でいちばん大事なこと



悲しいって、よくないですよね。追い詰められるのはよけいに。


じっさいのところ、

結社や句会や季語や一物仕立てや二物衝撃や切れ字や句集や総合誌や無季や多行や自由律や芭蕉や新興俳句や前衛や伝統や写生やなんやらかんやら

すべて、どうでもいい



じゃあ、何がどうでもよくないか、俳句で何が大事かというと、

  野暮じゃないこと

です。

人それぞれでしょうけれど。

2013/12/23

■イベントとしての選句

『里』誌の「ハイクラブ」(佐藤文香の選句欄)が、この12月号で終わるそうです。

若い人が(結社主宰のような)「選句」を担当するということで、テストケースの意味合いもあったと思います。どんな結果をもたらしたか。この手のことはいつでも明示的ではなく、私などにはわかりません。ただ、この種の選句(という場、関係?)にとって1年間というのはやや短すぎ、少なくとも2年から5年のスパンが必要のような気もします(かたちを換えて続くそうですが)。

当欄(『里』2013年12月号)より、気ままに。

  パート2でも全力疾走のいなご  福田若之

いなごが走るのか?という質問は野暮なのだろう。

  行く秋のヒエログリフに鳥整列  石原ユキオ

  心臓や天体望遠鏡は冷ゆ  喪字男。
 

2013/12/20

■積み残しはないか?

週刊俳句も今年の発刊を残すところ2号となりました。

私自身は12月22日号と29日号向けに年末っぽい記事をすでに書いている。

一方、ウラハイ。こちらは、相子智恵さんの「月曜日の一句」、関悦史さんの「水曜日の一句」、樋口由紀子さんの「金曜日の川柳」と3本柱があって、そのあいだを、たまに暦に絡めたりして埋めていく。年末年始の留守のあいだの自動更新記事を溜めておく(一種年末進行ですな)。

ひとつ気にかかるのは、2009年から3年連続でやっていた「日本一早い回顧記事」。

週刊俳句2010年回顧(2009年12月31日)

週刊俳句2011年回顧(2010年12月30日)

週刊俳句2012年回顧(2011年12月29日)

つまりは「来年予測」でありまして、去年、ナシだったのは、ひとえにネタが切れたから。これを今年やるかどうか。バカ記事は大事よ、という内なる声が聞こえてくるが、ネタはあるのか? 悩ましい。


週刊俳句、ウラハイ、それからこのブログと、書いておきたかったものをぜんぶ書いたかというと、ぜんぜんそんなことはなくて(怠慢、オトナの事情等、理由はいろいろ)、積み残しは、もちろん、ずんぶんとあるですよ。セラヴィ。

2013/12/19

■はがきハイク:第8号

所属団体は3人以上だとNGな体質につき、現在、「はがきハイク」所属です。


といった戯言はさておき、第8号がぼちぼち届いているかと思います。

第7号は今年5月でしたので、7カ月ぶりです。

お送りしたくても住所がわからずお送りできていないというケースも。

「なんだ、それ? 見てやるから送れ」という方は、tenki.saibara@gmail.com まで送付先をお知らせください。


なお、【最近気になる人】は岡本夏生にすればよかった、と、ちょっと後悔(≫参考画像)。


創刊号は2010年7月。3年半で8号、ということは1年で2号少し。当初は年4回くらいがアタマにあったが、まあ、こんなペースかな、と。


2013/12/17

■本日はマルグリット・ユルスナル忌

本日はマルグリット・ユルスナル忌。

Marguerite Yourcenar 1903年6月8日 - 1987年12月17日

唯一の栄誉は役に立たないことだ。私を好きなものにしてごらんなさい、映写幕だろうと、良導体の金属だろうと。
(ユルスナル『火』p44 森開社 1974年 多田智満子訳)


2013/12/16

■訃報:ピーター・オトゥール

Peter O'Toole (1932年8月2日 - 2013年12月14日)

目が美しくキュート、というのが私のイメージ。



太田うさぎ「泥棒 ピーターとオードリー」20句
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2009/10/blog-post_18.html

2013/12/13

■酒3句 『なんぢや』第23号より

『なんぢや』第23号(2013年11月27日)より。

  どう酒を呑んでも旨し秋の暮  土岐光一

  酒飲んで夢のなかなる夜学かな  井関雅吉

  酔漢の声遠ざかる夜学かな  鈴木不意

同じ日、同じ場所で詠まれた3句なのかもしれません。

2013/12/11

■うがい・ユートピア・巻き尺

十二月某日。

洗面所のうがい用のコップにはいつもなみなみと水が。「どうして?」と妻に訊くと、「ピーちゃん(猫)がいつでも好きなときに水を飲めるように」だと(他にも何箇所か水飲み場がある)。私とピーがひとつコップを兼用していたことに、ちょっと驚いた。これからは、うがいのあと、水を張っておくようにしよう。


十二月某日。

談志曰く、「落語とは人間の業(ごう)の肯定」。宮藤官九郎の書くドラマもまた「肯定」が基礎にあって、クドカンと落語とは相性がいいようだ。

というのは、「タイガー&ドラゴン」全12話を無事見終えたのだった。

ある種、ユートピア。

すべての登場人物がのっけから、あるいは途中で、あるいは最終的に「良きもの」「善き人」としてストーリーに収まる。その意味でユートピア。

その際、彼らが大きく変わるのではない。いわゆる成長物語の要素は少ない。失敗と挫折がちりばめられている。それでもなお、受け入れられる。受容と肯定によって善となる。これは素晴らしいことだなあ。


十二月某日。

洲崎岬の「風の抄」という旅館の朝ごはん、晩ごはん、「セントシュバイン」という食べ物屋さんのピザとソーセージ。どれも美味。南房総、ナイス。


十二月某日。

週刊俳句・第346号に「コマ落としのように 柿本多映第一句集『夢谷』の一句」。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8.html


十二月某日。

部屋を片付けまくる。


2013/12/10

■汽車と狐

狐啼く笥の環に手をかけて  八田木枯

和簞笥の把手に長い汽笛あり  樋口由紀子


「汽笛」という語から船の汽笛か汽車の汽笛かを考える。この場合、汽車と解したい。

八田木枯『鏡騒』(ふらんす堂/2010年)
樋口由紀子『容顔』(詩遊社/1999年)

2013/12/09

■静から動へ

黒揚羽がずっととまっている鏡  樋口由紀子

黒揚羽ゆき過ぎしかば鏡騒  八田木枯


樋口由紀子『容顔』(詩遊社/1999年)
八田木枯『鏡騒』(ふらんす堂/2010年)

2013/12/05

■珠玉のバカ 榊陽子「鯖缶のバカ」10句

「バカバカしい」と、俳句に向かって言うとき、それは褒め言葉であります。

それは私だけかもしれませんが、私が言った場合、そうなのであって、他意はない。ですから、誤解のないように。

バカバカしい句は、生易しくはありません。例えば、よく言われるように、バカにはバカはできない。

そんな折、『川柳カード』第4号(2013年11月25日)、榊陽子「鯖缶のバカ」10句。珠玉のバカとでもいうべきナイスにバカバカしい句が見つかります。タイトルに「バカ」と入れてしまうと、おのずとハードルが上がるわけですし、バカと題された句群からバカ句を見つけてもねえ、という部分はあるのですが、10句すべて「鯖」あるいは「鯖缶」入りで、ひつこくバカをやろう、という気概が見える、なかなかの作品です。

匍匐する秋の鯖缶兵として   榊陽子

ひとつ選ぶとしたら、この句でしょうか。

あるいは、

鯖缶に夜の帳がおりません  同

も、じわじわ来るタイプ。

 

俳句には、すばらしくバカバカしい句(単にバカバカしい句ではなく)が稀少なのですが、かといって、川柳にたくさんあるかというと、管見の範囲では、そう多くないように思います。

川柳、俳句、分野にかかわらず、「すばらしくバカバカしい句」がもっともっと増えてほしいですね。


なお、「すばらしくバカバカしい句」という言い方はわかりにくいかもしれませんので、もうすこし説明すると、「貧相な知性」に縛られていない句。それは、言ってしまえば、きわめて知的に処理された句、ということになりますでしょうか。

「バカ」という語に、ひっかかり、というか、抵抗感のある人は、ノンセンス(ナンセンス)に近いもの、と、ざっくり捉えていただいてもいいと思います。

2013/12/04

■本日はフランク・ザッパ忌

ザッパ22歳。若い!




The Best Of Frank Zappa (Full Album) 

2013/12/02

■まとめて観る:吉田大八監督

桐島、部活やめるってよ(2012年)がえらく良かったので、吉田大八監督の他の作品を観てみよう、ということで、

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ(2007年)

クヒオ大佐(2009年)

パーマネント野ばら(2010年)

と3本たてつづけに、DVDを借りて、観ました。

どれもおもしろい。

「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」は、主演の佐藤江梨子をはじめ、女優陣が素晴らしい。「パーマネント野ばら」は、やはり女優陣がなかなか良いのです。「クヒオ大佐」は、主演の堺雅人がいい(テレビドラマを含め、登場人物をきちんと演じ分けられるのですね。上手)。

どれも元になる本(クヒオはノンフィクション)があり、物語の骨格がしっかりしている感じです。

で、 『パーマネント野ばら』(西原理恵子)、映画ではすんなり行くであろうラストの処理は、マンガだとどうなのだろう?と心配しつつ読んでみたのですが、あらま、きちんと出来ている。

クヒオ大佐という情けない結婚詐欺の話は、小沢信男『犯罪紳士録』で読んだことがあるような気がして確かめてみると、また別の詐欺師でした。でも、似ている。「こんな胡散臭いのに、なぜに引っかかる?」と呆れるところも共通。でも、詐欺被害、とくに結婚詐欺被害って、そんなものなのでしょうね。恋愛沙汰で利口にふるまえる人は、男女かかわらず、いない。みんなバカになる。バカになるから、いいんですよね。

あ、それと、クヒオも『犯罪紳士録』の詐欺師も、「アメリカ」が鍵になっているところも共通。

 

4作品の気に入った順をつける必要もないのだけれど、つけると、桐島=腑抜け>野ばら=クヒオ、というような感じか。

話の好みでいえば「腑抜け」が好きで、感心するのは「桐島」。「野ばら」「クヒオ」もずいぶんおもしろい、という感じで、どれもオススメ。


なお、現在は、『腑抜けども~』も、原作本を読んでみる気になっているところです。


2013/11/29

■小さい音楽

朗々と歌い上げるヴォーカルとは対照的な、いわば「小唄」的な魅力に溢れた歌がある。例えば、ライ・クーダーのヴォーカル。

音楽(ヴォーカルだけではなく音全体という意味)にも「小」を冠したくなる音楽がある。例えば、Tot Taylor と Mick Bass の Music for the Left Handed というアルバムは、「小」音楽という感じなのであります。





2013/11/26

■「今」のあかるさ 徳永政二フォト句集 3 『くりかえす』

『くりかえす』(2013年10月25日/あざみエージェント)は、徳永政二(川柳)と藤田めぐみ(写真)による「フォト句集」の第3弾。

  向こうにも今がいっぱいあるらしい  徳永政二

シンプルこのうえないこの句が心に残った。


問い合わせ・購入等は「あざみエージェント」のウェブサイトへ。
http://azamiagent.com/modules/myalbum/photo.php?lid=26&cid=1


2013/11/24

■白の官能w

「紅灯の巷」という言い方がありますように、性愛と「赤」は、よく結びつきます。けれども「白」もなかなかなのです。

  レズビアンバーの真白き曼珠沙華  北大路翼

ツイッターより。≫http://togetter.com/li/593396


こんなのも、あります。

  とつくりセーター白き成人映画かな  近恵

炎環新鋭叢書シリーズ5『きざし』(2010)より。
参考記事 
≫拙記事 http://tenki00.exblog.jp/15175961/
三宅やよいさんの記事


白とこの手のネタが組み合わさると、赤とはまた違った興趣。

2013/11/23

■10月から11月の5首

ここは日々の出来事を短歌で綴るサイトです。

ウソです。


テレビで見る窓用バキュームクリーナー見ているだけで買うに到らず

「強」に戻すウォッシュレットの水勢を誰かがきのう「中」にしたのを

こんなかんじでどお?とPDF添付「はがきハイク」の亞子氏のメール

コンビニの「まろやか6Pチーズ」などバカにしてたがあんがい旨い

七句選と言われて清記用紙にマルをつけたらなんと ぴったり七句

2013/11/22

■溶け込む

可笑しい。

≫溶け込む事に幸せを感じるんだ…中国のリウ・ボーリン氏の背景溶け込みっぷりが凄い(39枚)
http://alfalfalfa.com/archives/6949720.html

目新しくはないのだけれど、なんかね。


これ、廃墟化したデトロイト(↓↓↓)で、やってほしい。
http://blog.nakatanigo.net/ruins-of-detroit


2013/11/21

■純子て

誰だ?

…という。ふうに思わせたら、もう、こっちのものなわけです。

海峡を純子の耳が通過する  山田露結


勝手気ままで、いいかげんな句(というと作者は怒るかもしれませんが、褒めてます)が、世の中には、あったほうがいいです。リキ入りまくった句やら、上手に形の出来上がった句ばかりでは息苦しい。


この句、シュールというには演歌すぎる。これ、美点。

「泳ぎきる」ではなく「通過」なので、レーダーのまるい画面を「純子の耳」が点滅しながら過ぎていく景が浮かぶ。とすれば、「純子の耳」は軍事的な符牒かもしれません。


掲句は「カットアップ試作5句~その3」より。

2013/11/20

■本日はロバート・アルトマン忌


ロバート・アルトマン(Robert Altman 1925 - 2006)



■本日はジョルジョ・デ・キリコ忌

ジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico 1888 - 1978)。

  望の夜の迷ひ込むならキリコの絵  角谷昌子

掲句は角谷昌子句集『地下水脈』(2013年9月/角川書店)より。



2013/11/19

■家の中で何かの




狐啼く箪笥の環に手をかけて  八田木枯



キツネと同定されたわけではもちろんないのですが、ツイートと俳句のコンピ。



掲句は八田木枯句集『鏡騒』(2010年10月/ふらんす堂)より。

2013/11/18

再掲■11月のくにたち句会は…

…ナシということで。

(個人的な事情です)

12月以降は、また、ここに告知させていただきます。


2013/11/15

■今日は二の酉

東京だと、鷲神社とか花園神社とか。

  二の酉を紅絹一枚や蛇をんな  太田うさぎ

紅絹(もみ)は真赤な薄地の平絹。


ところで、むかしは初酉がもっぱら、一の酉なんて言い方は武田麟太郎『一の酉』(昭和10年。青空文庫で読めます)の影響で広まったもの、という指摘をどこかで読んだ記憶があります。

どこで読んだのかまったく憶えていないので確かめようがない。11月になると、そのことが気にかかってしかたがない。


ところで、大好きな掲句。

俳句は「粋」を忘れちゃあダメですね。

2013/11/14

■太郎のこと

異称の一部としてしばしば用いられる「太郎」。

  風が出る拝み太郎に月が出る  ふけとしこ〔*1〕

拝み太郎は蟷螂の異称。おおらかで土俗的な雰囲気が出る。蟷螂という言い方では出ない味。

  蘆咲くと坂東太郎油凪  橋本榮治〔*2〕

こちらも「利根川」では、「あぶらなぎ」のコッテリ感に負けてしまう。「坂東太郎」ならでは。

  濁流を土用太郎の主食とす  油布五線〔*3〕

土用太郎は土用の一日目。主食に対応した擬人が効果的。

ほかにも、河童の異称「川太郎(がたろ)」、「牛太郎(妓夫太郎)」(客引きや護衛をしながら夜鷹などについて歩く男。また、遊女屋で客引きをする若い男。:辞書)などたくさんあるのだろうが、俳句ではまだ見たことがない。


〔*1〕『ほたる通信Ⅱ』(2013年11月)より。
〔*2〕参照サイト≫http://taka.no.coocan.jp/a1/cgi-bin/haikukensaku.html
〔*3〕『油布五線句集』1981年/八幡船社

2013/11/12

■カメラと時計

20世紀に生まれたからには、好きなカメラ、好きな腕時計のひとつやふたつ、ないことには、人生の何割かを損すると思うのですが、それはそうではなくて人それぞれかもしれない。

  白牡丹ネガフイルムに黒く咲く  小林幹彦

  秒ごとに音する時計桜桃忌  同

フィルムを使うカメラも、秒針のある時計も、もうあまり見ない「過去」の「懐かしい」ものになってしまいました。どちらもいまはデジタルがもっぱら。

2句とも、そしてこの2句をワンセットにして、大好きです。

アナログカメラにはいつか戻りたいし、音はせずとも針の動く腕時計を愛用している(いま使っているのは主にみっつ。ひとつは自動巻き、ひとつは手巻き、それと乾電池)せいばかりではなく。

「きれいな風が吹いている句」です(すみません。誰にも通じない自分だけの言い方で)。


ところで、2句目。なぜ桜桃忌なのか。

「音」だから、オートー、桜桃。

もしそんな発想なら、うれしいかぎりですが、きっと違いますね。


掲句は『雷魚』第96号(2013年11月1日)より。

2013/11/10

■〈場所〉のテクスチャ 小津夜景「出アバラヤ記」

小津夜景さんの「出アバラヤ記」(第2回攝津幸彦記念賞・準賞受賞作・『豈』第55号掲載)を読んだ。

句の前の位置に付された散文は、詞書と称されているものの、ひと続きの物語になっている。始まりは、「ふみしだく歓喜にはいまだ遠いけれど、金星のかたむく土地はうるはしく盛つてゐる。」という一文。終わりは、「私はそこを離れ、それが思ひ出せない。」に始まる一節。読みごこちとしては、(作風や筆致、内容、散文部分の長さは異なるが)柴田千晶さんの『生家へ』(2012年10月・思潮社)に近いものを感じた。

50の句(賞の性格上こちらがメインのはず)は、物語を辿る際の道標、といってもあくまで非・明示的な謎含みの道標のようにも見える。

さて、この作品の大きな魅力は、「出アバラヤ記」(このネーミングそのものが飄逸)というタイトルに違わず、トポスにまつわる感触に溢れていることだ。

空間的な限定、そして時間的な浮遊(しばしば思い出と呼ばれるもの)、このふたつが一定のトーンのなかに織り込まれている。

この「出アバラヤ記」、とりわけ「べつに俳句だけが読む愉しみじゃないし」という人(例えば私)向きの読み物。

  雑音の白くなりゆく臓器かな  小津夜景



一読をオススメするでがんす。


『豈』第55号 web shop 邑書林

2013/11/09

■入れ替わる 渋川京子の2句

海鼠と〈私〉。虹と〈私〉。

  思わざる長さ海鼠のすべる喉  渋川京子

  冬の虹あれよあれよと紐解ける  同

たくさん並んだ句のなかで、この2句に目が止まり、愛した、その理由。というよりも、それは一瞬の出来事なので、むしろ根拠と言うべきかもしれない。愛する根拠について考えた。

それは「入れ替わる」から。互換のおもしろさだ。

1句目。「長さ」とはきっと「喉」の長さだろう(あるいは「海鼠」という意見もあろう)。それが「思わざる」ものだったという。

それでは、この「思わざる」は誰が「思わざる」なのか。というと、まあ、順当に読めば、「喉」の持ち主だ。

ところが、「海鼠」が「思わざる」とも読める。喉を滑っていく海鼠にとって、その喉は思いのほか長かった、というわけだ。

喉の持ち主と海鼠が、「思わざる」という行為を支点にして、入れ替わる。少なくとも、私には、どちらが行為の主体なのか判然としない(海鼠が「思う」わけがないという意見はとりあえず無視しておく)。判然としないので、ぐるぐると入れ替わる。

2句目。「あれよあれよ」と驚く/呆れるのは誰か? 順当な読みは、作中主体(句の書き手)ということになろうか。

ところが、「虹」が驚いて/呆れているようにも読める(そんな擬人法は無理があるし、つまらないという向きがあることを承知しつつ)。

このとき、書き手と対象(虹)が反転するように、入れ替わる。

 

俳句のなかでは、しばしば、主体(subject)は同定も定位もされない。

自明の前提として「主語(subject)は隠れている、主語が書き手である」とする読みの一方で、それを揺るがすようなことが起こる。

 

海鼠が私(書き手)を、虹が私(書き手)に行為を及ぼす。この反転・逆転、入れ替わり。これは、もう、おもしろいとしか言いようがないではありませんか。

2013/11/08

■某日日記:銃・散策・暴言

十月某日。

「あまロス」(私は重症ではないが)対策のため、「タイガー&ドラゴン」の「三枚起請」(2005年1月9日放映。シリーズ化される前の2時間の単発スペシャルドラマ)DVDを借りて観る。

効果覿面。

十月某日。

矢川緑地を吟行。矢川駅南口からのアプローチ、これが失敗で遠回り。だが、これまで歩いたことのない道(矢川の流れ沿いの小道)を経験できて、これはこれで良し。

ここは気持ちがいい。いっしょに歩いた人たちも「気持ちがいい」と。季節をかえて、また来たい。

句会後は鴨鍋その他。美味。

そして歓談、また歓談。ハヅキさんがセキエツさんをあまりに絶賛するので、「結婚すれば?」と暴言を吐く。

日曜日のくにたち句会 7首

十月某日。

『俳句』2013年11月号をめくる。週刊俳句・第340号の後記で、角川俳句賞のことに触れたなりゆき。

秋ゆふべ五句に絞つてくれないか  10key



十月某日。

『地獄でなぜ悪い』(園子温監督)を府中のレイトショウで。

誰も悪いと言ってない。

のはともかくとして、ハズレ。

園子温監督作品は、『愛のむきだし』『冷たい熱帯魚』がおもしろかったが、そうじゃない映画が多い。相性が悪い。

十月某日。

『そして父になる』(是枝裕和監督)を有楽町で。 とても良い。

十月某日。

『トランス』(ダニー・ボイル監督)を日比谷で。とても良い。

十月某日。

『Lock, Stock and Two Smoking Barrels』(ガイ・リッチー監督1998)DVDをレンタル。最高。



2013/11/07

■衝動買い

ノートを衝動買い。


104×140×22mm。メモ帳並みに小さく、書籍みたいに分厚い。

すでにノートも手帳もあるし、こんなにページがあっては、一生かかっても埋め切れない。それはじゅうじゅうわかっているのに、買ってしまう。まさに衝動買い。

2013/10/29

■日曜日のくにたち句会 7首

あすは晴れと信じて眠る朝起きて晴れていたならやはりうれしい

集合場所まちがえたので五分ほど遅れるという律儀なメール

都管理の緑地へ行けり吟行のあいだ俳句のことは忘れて

自転車を押して歩くか駐輪するか悩んだ末に押して歩いた

矢川とは流れの速さ矢の如しそれが由来と看板にあり

日々溜まる反故を短冊状に切り各自俳句を書くのが句会

鴨鍋は出汁を濃い目に「こっくりと」仕上げた妻に感謝するべき




参加の皆様、ありがとうございました。


2013/10/28

■伊勢


「伊勢」という二文字・二音があるだけで、情感が胸にひろがる。

  黒瓦波打つ伊勢の端午かな  内村恭子

  母在せば母にうるはし雪の伊勢  八田木枯

個人的な思い入れがあるわけではないのに、そうなる。その作用こそが歴史、といってしまえばそれまでなのだが、茫漠と豊かな歴史性(くわえて読み手によっては確かな光と感触を伴った地理性)が、句のなかに存する個別の経験、個別の気分と結びつくときに起こる俳句的快楽。


内村恭子『女神』2013/八田木枯『汗馬楽鈔』1988



2013/10/26

■握手 5句






『なんぢや』第18号(2012年8月)より転載。


榎本享さんが代表の同人誌『なんぢや』。ちょっと行儀よく、おとなしめ。私も少しは場の空気を読みます。そのアジャストもまた、自分では楽しいわけです。

■雨天決行

…というか、日曜日は大丈夫そう?

くにたち句会〔10月〕のお知らせ




2013/10/25

■一人称「わい」




「わい」という一人称を使ってみようと思うのですが、これがなかなか難しい。うまくはまるところがない(俳句では、永田耕衣の《柿の蔕みたいな字やろ俺(わい)の字や》が有名)。

ところで、掲句については…

《この句の屹立とは、読者のなかにあったはずのさまざまな根拠への参照を拒否するたたずまいのことだ。》
ずいぶん前(2007-10-22 19:24)の記事。

結局、何も言っていないのですが(すみません)、何も言わせない句が、いい句だということですね。

2013/10/24

■サツマイモの件

メール句会オクンチの兼題が「マン」「空を飛ぶもの」「自由題」だったので、3句とも〔空飛ぶマン〕で作ったが、まったくウケず。

でも、

  スーパーマンのシャツのたるみと薩摩芋

の「と薩摩芋」という箇所は、自分でかなり気に入っている。

なんか、ヘンなんじゃないか、というのがその理由。

句会(持ち寄りの句会)は試行・テスト・実験・モニタリング調査なので〔*〕、ふつうの句はなるべく出さないようにしている。「ふつうの句」をもう少し具体的に言えば、成功と失敗の具合を自分である程度見定められる句。


ところで、イナカから送ってきたサツマイモが、ふかして食べると、かなり美味しい。生協から届いたベニアズマと食べ比べると、どちらも美味だが、味や食感に微妙な差があるような気がする。ベニアズマはホクホク、 イナカのはムッチリ甘い。

とくべつサツマイモ好きではないのですが、サツマイモを食べているときの人間て、善良な感じがする。ような気がする。それもあって、朝食がふかしイモだったりするわけです。


〔*〕それでは一方、その場で作る句会は、というと、「楽屋裏」という感じ。ネタを皆でいろいろと吟味する(選句から合評へ)。いずれにしても句会は「舞台」ではない。句会に「読者」はいない。句会は「作者」が読み合う場所。句会を経て、捨てたり変えたりしたあと、句は読者へのお披露目となる。

2013/10/23

■傘と大陸

自分勝手に二句並べる(前からよくやる遊び、好きな遊び)。

  日傘ひらけばシベリアも面影も円  喜田進次

  ことにはるかに傘差し開くアジアかな  攝津幸彦


傘(日傘)と大陸は、昭和前期的ノルタルジー。

自分の中でこの連関とはいったいなんなのだろう? 例えば、ここか? と、桑原甲子雄『満州昭和十五年』をあらためてめくってみました。

すると、最後にあった。



けれども、私のアタマにあったのは、このイメージではない。空想の風景、空想のノスタルジー。ということで、あまりに予定どおりの結末。

2013/10/22

■週刊俳句は非インターネット的




インターネットにおける既存俳壇への「対抗意識」。これ、まったく「なかった」というわけではなくて、「週刊俳句」以前のBBS系俳句サイトのいくつかには、はっきりと「対抗意識」、反・既存俳壇、反・旧体制という雰囲気があったのではないでしょうか。

一方、週ハイ(週刊俳句)の「ネットの外」への作用については、おっしゃるとおり、というか、そう思っていただけるのは、当番(運営)の一人としてうれしいかぎりです。


週刊俳句は、つまり、もともと(そして現在も)「非インターネット的」です。

現代俳句協会青年部勉強会「俳人とインターネット」 レポート〔後篇〕

上記の記事にある次の発言。
上田 インターネット独自の評価ができるとか、「インターネットは外の世界(現実世界)の価値観に侵されないユートピアなんだ」という考えはルサンチマンに過ぎない。(…)

ルサンチマンはつまらない。そういう認識から週俳は始まっているので、「対抗意識」が希薄なのです。

ルサンチマンから出発したものは、よしんばそれがある種の成功を収めたとしても、ルサンチマンを抱く人(たち)自身の幸せ、溜飲下げetcにしかならず、他人を幸せにしない。

現実へのウラミ・ツラミなどなく(ただし、「もっとおもしろくなるんじゃないか」といった不満のようなものはあって)、始まったのが週刊俳句。だから、既存の秩序、俳句のレガシーとも良好な関係を築こうとして、ある程度それが成し得ているではなかろうかと。
小川軽舟が「インターネットと俳句の『場』」(『俳句年鑑2008年版』巻頭提言)において、「週刊俳句」を「俳句において出来上がった秩序とその外に生まれた新しい動きとの交差点のような「場」を指向しているのだろう」と捉えたとおり、週俳は、リアルとネットの結節点のような場所にある。/言い換えれば、週俳は、インターネット的ではない。リアルの価値を(良く言えば)尊重し、(悪く言えば)利用している(例:有力作家・有名作家への依頼 等)。匿名性を排除する方針(ハンドルネームによる寄稿は原則として認めず)から言っても、週俳は「非・インターネット」的だ。

週俳にとってインターネットは、そこにとどまるべき領分というわけではなくて、この記事(2009年12月)以降、実際、週俳は、ネットの外でいくつかの仕事をしている(いくつか書籍をつくったのがわかりやすい例)。

ネットをツールとしていかに効率的・効果的に使用するか、作用させるかが、週俳の課題。

なので、ふわ~とした雰囲気としてのネット観や、「ネット俳句」などというどこにも存在しないもの、とは遠く無縁なのが週俳なのですね。

2013/10/19

■再掲:くにたち句会〔10月〕のお知らせ

今月は早めのお知らせです。

矢川緑地を軽く散歩してからの句会にいたしましょうか。
http://kunimachi.jp/kunitachi-spot/3028/

なので、集合場所は、JR矢川駅(南武線)改札あたり。

集合時間は、2013年10月27日(日)14:00

っつうことで。

句会場所は決めていません。そのうち決めます。

句会後の飲食もよろしければご一緒に(会費アリ)。

はじめての方も、ひさしぶりの方も、ご常連さまも、ご遠慮なく。参加をお待ちしております。

tenki.saibara@gmail.com


2013/10/18

■めちゃちっちゃい


鰯雲若き女性は東京へ  後閑達雄

蓑虫の真つ正面はどちら側  金子敦

コスモスや裏手に男子更衣室  小早川忠義

2013/10/17

■触って選ぶ

イチジクは、触って柔らかいものを選ぶ。

イチジクはもいだら最後、追熟はしないので、完熟を見つけ、選ぶのがだいじ。

2013/10/16

■見た目で選ぶ

ともだちのところへ遊びに行くのに、おみやげのお菓子を見た目で選ぶ。


味は、知らん。

行き先:花の谷クリニック ≫http://hananotani.jp/

診てもらいに行ったのではありません。前に書いたイチジク狩りに、です。


2013/10/13

■寄せてみた

このあいだの金曜日、近恵さんの現代俳句新人賞のお祝いの会に行ってきました。

受賞作「ためらい」

とても楽しい一夜でした。

存じ上げない方もたくさんいらっしゃる集まりで、初めてご挨拶できたり、世間は意外と狭いことに驚いたり。良い機会に恵まれました。


で、近恵さんの受賞に寄せる一句を、週刊俳句・第338号に。

急遽掲載の「灰から灰へ」10句
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/10/10_13.html


ついでと言ってはなんですが、谷雄介氏らの「24時間耐久俳句マラソン」やら松岡修造氏やら、いろいろと「寄せて」います。


週俳・第338号では、他にも、「踏みごこち 玉田憲子句集『chalaza』の一句」「今週号の表紙 稲」。今週はずいぶんと仕事をした気分です。



2013/10/12

■ビール工場とか競馬場とか

24時間耐久俳句マラソンてなものが催されまして、



おいおい、競馬場、ピール工場の府中といえば、私のシマだ。挨拶もなしに勝手にこんなことをしてもらっちゃあ、嬉しいじゃないか(ここ笑うところです)、ということで、ビール工場見学+句会に参加、競馬場は見学だけ参加してきました。

  ビール工場麦をああしてこうなつて  10 key


競馬場に足を運んだのは初めて。気持ちのいいところでした。

M氏臥像。


ビール工場とか競馬場とか。中央フリーウェイ♪ かよ!

催しは現時点でまだ折り返し地点の手前。まだまだ続いております。

2013/10/10

■釘の続き

八田木枯さんの《釘と月光》について書いたのだけれど、

http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2013/10/blog-post.html

これ↓

  春の夜に釘たつぷりとこぼしけり  山田耕司(句集『大風呂敷』)

釘と月光、春の夜の釘は、趣向が違う。木枯さんの2句はやや比喩に重心がかかる(比喩と言い切れないところが魅力なのだが)、山田耕司さんの句は、ブツとコトで、質感を醸成する。

いずれも生き生きとしている。

かつて榮猿丸さんが「リアリティよりもアクチュアリティ」と言っていた。実に実に。

俳句はリアルである必要はないが、アクチュアルであってはほしい。

比喩や見立ては、よしんば成功してもそれだけでは賞味期限は短い。句会のその場で「うまいこと言うなあ」の賞賛で終わりがち。一方、ブツとコトを提示するだけでは、作者事情で終わりがち(読者にとっては、「そんなものを見たんですね、そんなことがあったんですね」で終わる)。

何がどうなれば、アクチュアルな句(それはまさしく賞味期限の長い句)になるかは難しいところですが、そこにある「調べ」、それが醸し出す「質感」というのが、ひとつ、ポイントになるのではないか、と。そして、その2つはもちんのこと無関係ではない。

さらにいえば、俳句は、モノの質感だけなく、時間の質感であったりもする。そこがおもしろいところであります。


2013/10/08

■いちじくを

狩りに。

http://www.pioneer-farm.jp/

行くプラン。

西洋いちじくには、いろいろな種類があって、それぞれかなり違う風味。この週末のプランに、いまからワクワクしています。

  無花果にパンツ一つの明るさ立つ  平畑静塔

そこまでは暖かくないだろうとは思いますが。

2013/10/07

■いじる相手

を間違えている。



高校生とか小中学生とかじゃなく、もっと違うところでしょう、いじるなら。


話は変わりますが、冷奴だと半丁も食べられないのに、湯豆腐だと、そうとう量が行ける。あれって、なんなんでしょうね。

2013/10/06

■俳句は俳句

俳句ってだけで、いいです。

アタマに何かつけたがる人がいます。前衛とか新興とか伝統とか現代とか自由律とか、(追記)憑依とか、そりゃまあ、便宜的に必要な場合もありますが(俳句史的に、あるいは批評の語として)、必要な場合は限られている。

自分から進んでアタマに何か乗っけようという魂胆が、よくわからない。禿を隠すカツラじゃあ、あるまいし。

ナントカ俳句などと、貧相で言い訳がましい言い方などしなくてよいです。

俳句は俳句です。

2013/10/04

■オスプレイにまつわる遊びの数々~川柳と俳句のあいだ

更新されたばかりのこの記事。

夢精するオスプレイ―滋野さちの川柳:週刊「川柳時評」
http://daenizumi.blogspot.jp/2013/10/blog-post.html

後半に、根源的なテーマ(母、時事性・社会性、思い、わかる/わからない)が散りばめられているのですが、それはそれとして、この記事に取り上げられた《着地するたび夢精するオスプレイ 滋野さち》という句に関して。

この句、俳句には登場しにくい句だと思います。ただし、それは、時事的・社会的だからというよりむしろ(たしかに俳句では時事的な句・社会的な句は評価されにくい、というか忌避されるのですが、それよりむしろ)、「オスプレイ」とオス(♂)の関連(音の上での関連、いわゆる掛ける、ダジャレる)の問題だと思います。

この手の関連付けとは、積極的に遠く距離を置く、つまり遠ざけるのが、俳句の習性という気がします。

オスプレイからオス(♂)への連想は、この機種がニュースに登場して以来、お茶の間で数限りなく繰り返されてきた連想にちがいありません。それを句で繰り返すのが悪い、というのではありません。ただ、俳句では、それはやらない。

この「それはやらない」という態度は、少なくとも俳句においては、とても重要なことだと思っているのです。

つまり、固守してゆくべき習性。

(このあたりは、川柳と俳句とをかなりはっきりと分け隔てるセンスかもしれません)

「俗」や「捨て去られてゆくもの」に乗っからないという意味ではなく、そのようなかたちで乗っかることはしない、という感じでしょうか。

うまく言えないのですが、オスプレイとオス(♂)では、どうにもこうにも遊べないのです、俳句の場合。というか、そこで遊んじゃあ、俳句のコクはまず出ない、という感じかも。


あ、オスプレイを俳句で詠み込むのがダメって話じゃあないですよ。為念。

2013/10/02

■釘と月光

あるとき、ふと思いついた、というか、ふと感ずるものがあったのだろうか。木枯さんは、月光と釘の取り合わせに。

月光がくる釘箱をたづさへて  八田木枯(『夜さり』2004年9月)

月光が釘ざらざらと吐き出しぬ  同(『鏡騒』2010年10月)

6年間の時間を隔てた句集に収められたこの2句のほかにも、、未発表の《月光+釘》句はいくつか存在した。というのは、ある句会の席で、、月と釘でつくろうとするのだが、なかなかうまく行かない、といったことを(もちろんのこと関西弁で)おっしゃっていたからです。『世さり』に収録した「釘箱」の句でこのネタを終わりにせず、繰り返しトライしていたということで、その成果が『鏡騒』の「吐き出し」句なのか、この句はまだ途中経過だったのか。

いずれにせよ執念ですね。

短い期間、かつ浅く、でしたが、木枯さんと会話を交わす機会を得て、ひとつ、思ったことは、俳句は、「もう詠み尽くされている」と「まだ詠まれていないことがあるはずだ」のせめぎあいを、内に抱えた人だったということ。

鉱脈と言い換えれば、「もう掘り尽くされている」と「まだ何か出てくる」のせめぎあい。

《釘と月光》は、木枯さんが掘り当てた鉱脈、あるいは鉱脈の予感だった。だから、ひつこく掘り尽くそうとされたたのだと思います。

2013/09/30

■句会後の夜

じゃがいもに、庭に生えてきた(というのは私視点、妻視点では、育てた)ローズマリーを散らして炒める。これがめっぽうおいしい。じゃがいもののほかにベーコンとかを入れてみたくもなるのですが(って言うと私が料理しているみたいだけれど、違う)、入れない。じゃがいもだけ。これがいい。

…と、この話とはまったく関係なく、これを食べたわけでもなく、日曜日の句会は無事終了。

この句会は、句会後に、コアな話ができるので(俳句関連ではありません、そうじゃない分野のコアな話ができるので)、大好きです。

いやはや(死語)、すごくコクのある話がたくさん聞けました。

皆様、お疲れ様でございました。

2013/09/27

■批判? 論争? 記憶にないんですよね

あのですね。

筑紫磐井さんの記事 【俳句時評】紙の時代

ここに、かなり唐突に、私の名前が2箇所に出てくるんですが…。
私も「俳句空間―豈weekly―」の終刊号で、ウエッブサイトはその時盛り上がっても何も残らない、消え去るのみだ、と書いたところ、「週刊俳句」のさいばら天気から批判を受けたのだが(…)
(「さいばら」と昔の俳号のままなのは、まあ、どうでもいい)

「異論」を唱えたことはあるような気がします。異論と批判が違うか同じかは別にして。

「インターネットは、残念ながら(あるいは喜ばしく?)、いつまでも残ってしまうものなのではないですか?」といったことは申し上げた気がします。

(例えば、自分でまるっきり忘れてしまったような書き込みに、google検索のついでに出会ってしまうことって、よくありますよね)

(あるいは、誰も長らく手を入れていない廃墟のようなウェブサイトが数限りなく残り、それがある日、思わぬ読者に出会うこともあります)

でも、これは「残る」の意味が筑紫さんと私で違う、ということのようです。「その時盛り上がっても」という書き方からすると、ね。でも、これは今になってみればの話。

当時は、たくさんの皆さんが「消える」「消える」とおっしゃっていて、それを眺めながら、「この方たちは、パソコンの画面から消えたら、その記事は消えてしまうとでも考えていらっしゃるのだろうか?」と、「それならラクだけれど、残っちゃうからいろんな問題が起こったりするんじゃないのかなあ」と。


で、もう一箇所は、次の、
それが、さいばら天気とウエッブサイトと雑誌の関係の論争をしたときから気になっていた点である。
こちらは、困ったことに、まったく記憶にありません。ボケボケの記憶力。

どのようなやりとりだったのか、この記事には、要約も、当該記事へのリンクもないので、たどりようも確かめようもありません。

何かの事情や顛末に言及するとき、最低限の要約が要りますね。あるいは、リンク(という便利な機能)。

なので、現時点では「論争なんてありましたっけ?」とだけ申し上げておきます。


ちなみに、今回の記事には無関係なのですが、わたし、「紙」が大好き。紙もインクも、もう、フェチシズムも込みで、たまらないくらいに好きです。

2013/09/23

■くにたち句会〔9月〕のお知らせ

2013年9月29日(日) 14:00 JR国立駅・改札を出たところあたり
句会場所:いつものキャットフィッシュ(予定)

よろしければ句会後の飲食も御一緒に(会費アリ)。


2013/09/21

■金原まさ子、菊地成孔

キャプチャーしといた。


金原まさ子さんと菊地成孔が並んだ歴史的瞬間。

2013/09/19

■福島忌?




《ふざけんな》《どす黒い》

これがノーマルな感覚、ふつうの反応だろうなあ。

2013/09/18

■バート・バカラック

「はじめて買ったレコードは?」という俳句関係にしては意表をついた質問をもらいましたが、これは、自分の小遣いで買ったという意味に解して、ディオンヌ・ワーウィック「恋よ、さようなら」(Dionne Warwick: I'll Never Fall In Love Again)です。


当時ずいぶん流行り、ラジオからしょっちゅう流れていました。400円のドーナツ盤(シングル盤)。LP盤が2000円前後で、高価な贅沢品でしたから、1枚買うにも悩み抜いて、です。

ロックよりも先、ビートルズより先に、バカラック。

バート・バカラックの音は、いまでも好きです。というか、以降の趣味を決定づけたというか。音楽の趣味だけではなく、、例えば、俳句もね。

バカラック・サウンドのような句を作ろう、というのは、いつも思ってきましたね(って、いかにも俳句関係っぽく)。





2013/09/13

■おもしろい

週刊俳句・第333号のトピックは、俳句甲子園特集。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/09/333201398.html

紹介されている句を眺めると、おもしろい句、ありますねえ。

東京家政学院高校2年の内田遼乃さんの10句「前髪ぱっつん症候群」も掲載。うまく連動した。

こちらがまたとてもおもしろい。8句目「陸でしか」はちょっとマトモなこと言い過ぎていて退屈ですが、それ以外はぜんぶおもしろいと言っていいくらい、おもしろい。

むちゃする俳句、というのは、とても貴重。というか好み。

2013/09/11

■東京五輪



落札」の2文字が、シブい。

ちなみに「大友君の予言」というのは、これ。
https://twitter.com/sivariyathomas/status/376454655544287232/photo/1



  七輪と五輪のちがひ秋刀魚焼く  10key

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2009/12/blog-post_6937.html

2013/09/08

■オクンチ:9の付く日の…

…メール句会「オクンチ」が、この9月9日(リアルに「おくんち」)で323回を数えます。

http://www3.ezbbs.net/03/0123/

この句会にはファクス時代もあって、それを合わせると、439回。単純計算で、146カ月余り、12年以上続いていることになります。

めでたい。

取りまとめの当番は、吾郎さん(第323回は逆から読んでも323回。回文吾郎さんにもぴったりの回ですな)、私、それと、何人かのメンバーが順繰りで担当しています。

 

ファクス時代も思い出深く(私が俳句を始めて約1年を経過した1998年9月19日に始まり、2002年3月19日まで続いた)、その期間に出会った(スペシャルな)句に触れた、次の記事をリンクしておきます。

彼はことばがわからない:ウラハイ 2008年7月23日


オンライン(ファクス・メールetc)の句会は、面と向かってやる(リアルの)句会とは違って、誰が投句しているかわからない。メンバーはだいたいは定まっていますが、いつ新しい人が登場するか予測がつかない。そこがおもしろいところです。

 

ちなみに、第1回(1998年9月19日)に私が投句したのは次の3句。

  栗の実のかたちした菓子栗の味

  空ばかり見てブースカが芋畑

  秋気澄む壁の恐竜ひだり向き

2句目は句集『けむり』にも入っていますし、1年目も現在も、作る句はあまり変わっていないともいえる(これは悲しむべきことなのか。いや、いいことか)。

ともかく、この頃は、俳句を作ったり読んだりするのがとても楽しかった。句は変わってなくても、やはり時間は経過しているわけで、きっと自分も変わっている。どう変わったかは、いろいろ。

俳句が楽しくなくなる、というのが、いちばんさびしいことなので、そうならないようにしないといけませんね。

2013/09/07

■巣鴨から大塚

某土曜日。って、今日なのですが。

巣鴨駅から染井墓地へ。周辺のお寺を含め著名人の墓多し(≫参考)。ぐるっと回って巣鴨地蔵通りに出て、ふたたび巣鴨駅近くへ。

例によって吟行の散歩部分だけ一緒させてもらいました。

皆さんは句会場へ。私はそこでお別れしまして、ほぼ山手線沿いに大塚駅までぶらぶらと。

巣鴨から大塚へは、かなり「下り」です。というか、染井のあたり、かなり高台です。江戸/東京が坂だらけなのはよく知られるところですが、それを体感してきました。

気持ちのいい散歩でした。明るいうちから句会なんかやってる場合じゃないです。いや、ほんと。


▲駒込あたりの、カッケー、アパート。

2013/09/01

■上京悲話




『鏡』第二号(2011/10/01発行)より転載。

私が『鏡』に参加したのは創刊号とこの第2号のみ。2号だけで抜けるというのは、いかにも身勝手でしたが。

俳句の下に短文・雑文を載せる、というのは『豆の木』も同じだったのですが、これが困る。だいたい何も思いつかない。ところが、あるとき、日記の断片(mixiとかに書き込んだもの)を並べれば、スペースが埋まることに気づいてからは、この方式をよくやる。いかにも緩いが、まあ、それはしかたないとあきらめた。

この10句が実際の「上京悲話」、すなわち自分が19歳のときの出来事や気分とどの程度重なり合っているのか。そこのところは適当。だいたいにして、その当時、ドンキホーテなんてなかったと思う。調べてみると、府中市に「ドン・キホーテ」1号店(甲州街道沿いのあの店が1号店か。ちょっと吃驚)ができたのが1989年。ほらやっぱり。

多摩市和田の仁さんところの栗のご相伴にあずかったのも、もちろん上京のずっとあと。

つまりこれは、上京と上京以後の長い長い時間についての14句ということです。

2013/08/31

■今日はライオネル・ハンプトン忌なので…

…スターダストを聴きます。


2013/08/29

■読まれること

とにかく読まれること。句にとって、句集にとって、(あるいはもっと広く、本にとって)それ以上の幸せはない。



2013/08/27

■あとはもう流星

カレーライスも蛸の炊いたんも、大好きです。同時に食べるわけではないのですが。

  秋の夜のカレーができるまで人類  四童(2002年)

  蛸を茹でそれから後はもう流星  同

カレーをつくった夜と蛸を茹でた日は、別の日なのだろうと、そんなことはどうでもいいじゃないかと言われそうなことを、思ってしまう。

人類が流星になってしまうのか、そういうことではないのか、それもどちらでもよくて、説明のできない(説明してもしかたのない)機序によって世界が成り立つこともあるのだということを、アタマではなくキモチで理解するには、この2句は、やはり並んでいないとダメなのであった。

2013/08/26

■急に秋めいて…

…きましたので、ブロッサム・ディアリーを聴きます。



空の感じは、こんな感じ(↓)。ぜんぜん違う感じの歌を、続けざまに聴くのも、よいものです。


2013/08/25

■女子(じょし)という語

「女子(じょし)」という語が今のような使われ方をしだしたのは、いつの頃なのだろう? そんなに昔ではないので…

  女子といふことばはすでに秋めいて  山口東人

2004年8月に詠まれたこの句、かなり素早い対応だったのではないかと。


…と、この句を挙げたからといって、「女子」という用語の文化的背景などに関心があるというわけではまったくなくて、むしろ、この語が使用される場面に遭遇すると、鼻で嗤ってしまいようになるのですが、それを公言すると、女子諸君に嫌悪されるので、言ってはいけません。


2013/08/21

■「冷蔵庫」句

むかしは氷を入れて使っていた冷蔵庫も、電気となっては、いわゆる「季感」は薄い(余談ですが、俳人さんはなぜか「季節感」と言わず「「季感」と言います。微妙な違いがあるのでしょうか。よくわかりません)。「冷蔵庫」は夏の季語ということになっていますが、まあ、そのへんはどうでもよろしい。季語がほしい読者は、他に季語が見当たらなければ「冷蔵庫」が季語と思えばいい、というくらいの話。

  冷蔵庫に入らうとする赤ん坊  阿部青鞋

  真白な大きな電気冷蔵庫  波多野爽波(1941年)

冷蔵庫の句は、このあたりから始まると見ていいのか。前者の「むむむ」感は尋常ではなく、後者の脱力は特筆に値する。 爽波はどうでもいいような句を山ほど作り、そのなかからいくつかの「素晴らしい〔どうでもよさ〕」が生まれた。

  元日の開くと灯る冷蔵庫  池田澄子

  冷蔵庫しめてプリンを揺らしけり  雪我狂流

電気冷蔵庫に欠かせない「開閉」の行為は、この2句でほとんどの可能性がカバーできている。

ここでちょっと趣を変えて、景としての美しさという点で、次の句が出色だ。

  遠浅にしばらく刺さる冷蔵庫  振り子『月天』(2003年)

どんな批評・鑑賞もムダグチになってしまうような句こそが、最大の快楽を生み出す。口ぽかーんと、この句を眺めている以外に為すべきことがない。

「冷蔵庫」の句は、個人的にひじょうに気になるので、このように自分の中の「冷蔵庫」句を並べて考えてみるわけですが、最近、また新たに見つけました。

  誰もゐぬ客間をとほり冷蔵庫  中嶋憲武 『蒐』第12号(2013年7月28日)

  もう寝やう凭れて熱き冷蔵庫  野口る理 スピカ(2013年8月1日)

どちらも、とてもいいですね。

2013/08/17

■くにたち句会(8月)のお知らせ

2013年8月25日(日) 14:00 JR国立駅改札付近集合
句会場:いつものキャットフィッシュ

よろしければ句会後の飲食も(会費アリ)

2013/08/09

■消息:麻雀3句を掲載していただきました

「blog 俳句空間 - 戦後俳句を読む」の「夏興帖」というコーナーに3句掲載していただきました。

http://sengohaiku.blogspot.jp/2013/08/natsukyocho4.html


寄稿依頼(募集?)が届き、麻雀の句が3句セットで手元にあったので、ちょうどよかったです。

(3句という句数が都合が良かった。麻雀の句10句はキツい。つくるほうも、きっと読むほうも)

麻雀の句はあまり見ない。なんでかね?と思っていました。今回の掲載は、自分で喜んでいます。

 ●

あと、個人的な楽しみというか遊びですが、字数を合わせました(今回は13文字)。このサイトの俳句掲載は字間均等なので、よくある均等割のようなボックス型にならない。そこで字数を同じにしてボックス型になるようにしてみた(自分の中だけの遊びのルール)。

前に掲載していただいた「東京タワー」10句。

http://shiika.sakura.ne.jp/works/may-25-2012/2012-05-23-8867.html

これは14文字で揃えたのでした。

2013/08/05

■続・西新井大師

句会場は、門前も門前、西新井大師山門の目の前にある清水屋。どこをどう見ても老舗。


この写真では、広さが伝わりません。70畳以上? 月天史上最大の句会場だったのではないでしょうか。

兼題2つと吟行句をつくりました。

たまには長いのをつくろうかと、ふとそんなことを思ったのは、このところ五七五定型について考えたり書いたりしたからかもしれません。で、短冊の長さが足りるかなあと思うくらい長いのをつくって、投句。何人かが面白がって、というか面白半分で点が入りました(こういう乱暴は、無点だと悲しさがつのります)。

帰宅してから数えてみると、31音。

短歌超え、ならず、です。

2013/08/04

■西新井大師

新井薬師は自宅からそれほど遠くない。西新井大師は、それとまったく違うので要注意。土曜日、月天の吟行句会で西新井大師の風鈴市へ。

大師前駅は、東武・西新井駅から大師線で一駅目。一駅だけの大師線です。

西新井大師の門前は、かなりいい感じです。こぢんまりとして、さびれているわけでも、さびれていないわけでもない。ちょうどその中間くらい。


カラオケ屋さんなんでしょうか。「えんか・スター」です。

「かどや」という甘味処が、いいかんじでした(≫画像)。あんみつを食す。こんど、冬に行くことがあったら今川焼きを、夏ならかきごおりを食べます。強い決意。 


この日のことは、週刊俳句・第328号の後記にも書きました。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/08/328_4.html

2013/08/03

■ピースフル




それはそれとして自動翻訳がつくりあげるカオスな世界。

2013/08/02

■火星ほか 『川柳木馬』第137号

同じ作風の人が集まって俳句同人誌をつくるパターンもあろうかと思う。それはそれでいいと思う。まったく違うのに、同じ同人というのも奇妙なことだから。

『川柳木馬』第137号(2013年夏)に並んだ同人諸氏は、それぞれ「別のこと」をしようとしているように見える。川柳は不案内でよくわからないから、それが『川柳木馬』の事情なのか川柳全般のことなのかはわからない。

俳句の同人誌では、「お一人様御一句」をいただきます、ということが、それほど社交辞令ではなく出来るが、みなが「別のこと」を志向している場合、私という読者と、波長のようなものが合えば、たくさんの句がしっくりくるし、 そうでない場合はそうでなくなる。

以下、気ままに何句か。

火星からこぼれた種か烈女たり  桑名知華子

三角や四角の涙雨しとど  同

普遍とは顎にたしかな噛みごたえ  内田万貴

十年も抱けば香りだけになる  同

しかられて今夜はにんにくのかたち  小野善江

ヴィンラディンではないか丘に立つ霧  西川富恵

日本書紀傍線部分から出火  同

玄関に満月がきて泣いている  同

付け睫毛草間弥生と瓜二つ  同

こうしては居れぬカレーを口いっぱい  畑山 弘

妖怪が探してまわる貸家札  濱田久子

絵葉書で届く姉さんの王国  清水かおり

いつまでと聞いてくる梱包の舌  同

石臼の重さ千年眠り込む  古谷恭一


『川柳木馬』は発行人・古谷恭一。A5判、本文24頁。編集室のメールアドレスとして、kaori-mokuba@apost.plala.or.jp の記載がある。

2013/08/01

■五七五は広い

五七五は、もっと広く解釈して、のびのびさせてあげたほうがいいのではないか、本来そういうもんだったし、という話を書きました(ウラハイ:俳句は「音」でできている?)。

その話題をもう少し。

拙作に、《燕むかしへ帰るチェ・ゲバラの忌》というのがあって、これは七五五。《燕むかしへ//帰るチェ・//ゲバラの忌》の七五五も、五七五定型に含めていいと考えています。

(「チェ・ゲバラ」は5音。「・」を1音に数えないと、とてもヘンなことになる。「・」を読まずに「チェゲバラ」と4音で、実際に声に出してみると、ヘンだとわかる)。


一方、上田信治さんが挙げている、《牛久のスーパーCGほどの美少女歩み来しかも白服・関悦史》も、破調とはいえ、「五七五」の範囲。

「歩み来」という4音に、「五七五」への意思が見える。このあたりは定型的な運動神経ともいえる。

この句にまで「五七五」を広げていいのかというと、それはよいのです。金子兜太の多くの句もまた、「五七五」がたどる一つのモードだったのですから。



なお、五八五については、私は不寛容なほうです(中八ではなく五八五)。

「中八はダメ」って教わったから、ではないです。そんなことを言う人は幸か不幸か、周りにいなかった(数年間在籍した「麦」はむしろ五八五に寛容だった気がする)。

なぜ不寛容かというと、五八五の句で、「いい韻律」と感じたことがないから。経験からする判断というだけです。 

参照/備忘録:「五八五」考察 
http://d.hatena.ne.jp/nande_kukai/20120219/1329678471


それと…
もし本当に「リズムが悪い」のであれば、五・七・五というごく初歩的で簡単なルールがこれほど守られないのは何故なのだろう。(兵頭全郎「中八考」
これは、意味を優先した作りになっているから、というのが大きな理由だと思っています。


2013/07/31

■あなたの見ているインターネットと私が見ているインターネットは、違う

当たり前すぎて忘れそうになるのだけれど、私が見ているインターネットとあなたが見ているインターネットは違うものだ。インターネットで何を見ているかは、全員がそれぞれ違う。

ある人にとってインターネットは遠い外国の情報がたくさんがあるところであり、またある人にとってインターネットは罵倒や憎悪に満ちた場所であり、またある人にとってインターネットは手軽な辞書・事典であり、またある人のインターネットには性器が溢れている。

(インターネットは、自分を映す鏡。おお、怖)

見ているものは、みんな違う。だから何かの折に「インターネットは……」と口にだすとき、それは常に「私が見ているインターネットは……」という意味を何パーセントか含んでいる(もちろんいちいち断りを入れる必要はないのですが)。ところが、どうもそれを忘れて語りがちのようなのです、私たちは。

(あなたが見ている世の中と私が見ている世の中は違う、というのと同じで、こんなことを言ってみてもしかたがない一方で、「違う」ということをまったく忘れてしまうと、これまたヘンなことになります)


ちなみに、『俳句』2013年8月号の座談会「超世代で語る俳句のスタンス」でも、インターネットの話題がちょこちょこ出ています。インターネット全般を語るような内容がとても多い。みなさん、よほどよくインターネットをご覧になっていて一般化できるほどに通暁していらっしゃる、ということは考えにくいので、上記のような誤解、つまり「みんながインターネットで同じものを見て、同じような体験をしている」という大きな誤解があるのかもしれません。



【過去記事】
2009年12月 現代俳句協会青年部勉強会「俳人とインターネット」 レポート

後篇より 「週刊俳句は、インターネット的ではない」

前篇より

2013/07/29

■消息:7月後半あたり

後衛の魅力 澤田和弥句集『革命前夜』を読む:「週刊俳句」第325号 2013年7月14日
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/07/blog-post_5979.html

ふたつの遠く離れた現実 好井由江句集『風の斑』の一句:「週刊俳句」第326号 2013年7月21日
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/07/blog-post_20.html

鴇田智哉インタビュー ボヤンの在り処:「週刊俳句」第327号 2013年7月28日
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/07/blog-post_8467.html


3週続けて「週俳の仕事した」感。

しかし、残っているもの、しかもかなりぶっといの、あるので、まだ心は安らがない。

2013/07/27

■こわいところを 宮本佳世乃句集『鳥飛ぶ仕組み』

「豆の木賞」という、「豆の木」の同人の互選で決まるイベントがある。20句作品を互いに評して賞を決める。私も数回参加した。2008年、宮本佳世乃さんの作品評で、こんなことを書いている。
感銘句に選んだ「三角巾の頂点は秋エヂンバラ」のほか、「ひまはりのこはいところを切り捨てる」(これは人気の集まりそうな句ですね)、(…以下略)
果たして、「ひまはり~」の句は、もっとも点数を集め、「豆の木の一句賞」を獲得。私は、自分の予想が当たったことをひとり喜んだ。

俳句を作る人たちの集団(結社や同人、もっと小さくは句会)には、選好の傾向が現れる。私は同人「豆の木」にそれほど長くいたわけではないが、「豆の木」好みの傾向をふんわりと把握していた。本格・大仰は好まれない。口語は比較的受け入れられやすい。意味了解性が高すぎてもダメ。わからなすぎてもキツい(このへんは俳句世間一般とほぼ同様)。あらためて、この句、

  ひまはりのこはいところを切り捨てる  宮本佳世乃

句集『鳥飛ぶ仕組み』にも入っているこの句、いいあんばいに「豆の木」好みだと思う。

で、その枠をとっぱらっても、面白い句ですよね。 わかるようなわからないような、〔わかる〕と〔わからない〕のあわい、明示と暗示のあわいで、うまい具合に成り立っている。なおかつ、読者にややこしい作業を強いることをしない。「ひまわりのこわいところって、どこなんだろうね?」と、句を繰り返していればよいだけ。してみると、これは、幼児にも愉しめる句かもしれない。前述のセリフを、母親から幼児に向けたものと考えても、そのまましっくり来る。

「豆の木」好みに、もうひとつ、イノセント(無垢)の要素を加えてもいいのかもしれません。

なお、この句については、増俳で三宅やよいさんが紹介していらっしゃいます

 ●

句集『鳥飛ぶ仕組み』から気ままに何句か。

  洗濯を終へて秋めくおばあさん

  パラフィン紙夏の名前を考へる

  いつまでも涙を流す鯨かな

かと思うと、

  ぼうたん崩る一本の針銜へ

  鷹わたる光を運ぶ鏡たち

といった清冽な句も。前者などは、故・八田木枯さんがこれを読んだら少なからず嫉妬したのではなかろうか(反論は大いに認める)。

2013/07/25

■サシャ・バロン・コーエン

サシャ・バロン・コーエン(1971~)はイギリスのコメディアン。コーエンが主演・脚本・製作の映画2本。

ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習(2006年)

ブルーノ(2009年)

それぞれコーエンがカザフスタン人のジャーナリスト、オーストリア出身のゲイのファッション評論家に扮する。といっても純然フィクションではなく、ノンフィクションの手法が基盤。コーエンが特定のキャラクターをまとって現実社会に出かけていき、映画の素材を集める。といっても純然ノンフィクションではなく、ドキュメントを素材に物語が組み立てられる。

などと堅苦しい言い方になってしまうが、2本とも「とんでもなくバカ、下品、ヒドい」としか言いようがない。それでいて、結果、「最高やね」。

出かける先々がムチャクチャなことになってしまう。笑える。いや、まったく笑えないほどヒドい部分も多々。

見る順番は挙げた順がオススメ(つまり「ボラット」から)。「ブルーノ」のラスト近くは笑いっぱなしで、ラストのラストは大笑い。映画を見ていて大笑いすることなどほとんどない私が、です。


ボラット・画像検索  ≫ブルーノ・画像検索

■『鏡』第九号

『鏡』第九号(2013年7月1日)。気ままに何句か。

  花散るは胸の四隅へ寄るやうに  羽田野 令

  黄泉比良坂駆け上がり来て今年竹  谷 雅子

  犀かたく右側面を見せてゐる  佐藤文香

  薔薇赤し問はれなければ答へざる  寺澤一雄

  性夢かと思へばこむらがへりかな  村井康司

2013/07/24

■本日はたこ八郎忌

本日はたこ八郎の命日。
たこ八郎観音 空も海も夏  西原天気

人名句集『チャーリーさん』(2005年)所収。近藤十四郎さんから散文を寄せてもらってもいる。
 たこ八郎と仕事をした。
 外波山文明や椿組の面々といっしょにアダルトのビデオに出てもらった。
 その後も幾度か、雑誌の付録のソノシートでゴジラの吐く炎に「あちあち」と言う声をお願いしたりなどした。
 いつも外波山さんが連れて来てくれる。たこちゃんは、自分では待ち合わせの場所と時間に来られない。
 大久保に部屋があるとのことだった。起きると定食屋に行って、お酒を飲んでしまいます。
 区役所ウラの「小茶」のように思うが、ごはん食べなきゃだめだよみたいなことを言ったら、
「ごはんを食べるとチンチンが立つからダメ」と言った。
 たこちゃんはお金を持っていない。なのでお酒を出すということは、おごるということなのでした。
 メイワクカケテアリガトウ。
(近藤十四郎「ひととしてたことして」)


2013/07/23

■現代俳句協会新人賞、決まる

現代俳句協会新人賞は、たしか資格が50歳未満。会員でなくても応募(30句)できる点がユニークか。今年の結果は、

http://www.gendaihaiku.gr.jp/news2.cgi?a=view&id=2012072001

近恵さんが受賞。岡田由季さんが佳作。存じ上げている方がお二人、栄誉を手にされました。おめでとうございます。

岡田由季さんは受賞を逃したかっこうですから、「おめでとう」ではないかもしれませんが、まあ、そこは、ね。

なお、お二人とも、結社「炎環」、同人「豆の木」です。


さて、近恵さんの受賞作「ためらい」は、上記サイトで拝読できます。タイトルの「ためらい」が近恵さんらしくないように思えるのは置いておいて、せっかくだから、ひどすぎる句を挙げておきましょう(ほかは素晴らしいという意味と解していただいてさしつかえない)。

  耳かきが鼓膜に触れて秋の暮  近恵

あんた、いったいなにやってんの? ダメだよ、危ないよ。

なんともまあ、審査員の皆さんがあとで困るような句、責任を問われるような句、現代俳句協会の存在意義を問われるような句ですね。


ともかく、あらためて、おめでとうございます。


2013/07/20

■前向きに

気の滅入ることがすぐそこまで来ていることが確定的なので、こういうときこそ前向きに。



望んでも手に入らないことばかりなんだけど?

けれども吉田美奈子は、やっぱり、すごくいい。とりわけ2:30の箇所。

ちなみにもともとは、これ(Niteflyteがオリジナル



2013/07/19

■馬車

句を2つ並べる遊び。

  それよりも深夜南瓜に逢ふのです  佐山哲郎〔1〕

  かぼちゃですから発車できません  樋口由紀子〔2〕


〔1〕佐山哲郎句集『じたん』(2001年/西田書店)
〔2〕川柳同人誌『MANO』第18号(2013年7月1日)

川柳をジャンルではなくエコールとする石田柊馬説を、私もとりたい。

2013/07/18

■暗澹たる気持ちに

タイガース二軍の守備といい…



東京選挙区の情勢といい…



暗澹たる気持ちになりますよ、これは。

2013/07/17

■棒立つ句

『里』2013年7月号より。

  玉葱のやうな男や質店の前  瀬戸正洋

  瓶のなか蝶とぶすごく大きな瓶  上田信治

  ペーパーバック・ライターのすててこ素敵  なかやまなな

前後左右との関係を断って、棒立ちのような句。

2013/07/15

■澤田和弥「一魁の肉」から『革命前夜』へ

@rockets_yamada さんのツイートのおかげで、澤田和弥氏の落選展2008作品「一塊の肉」を再読できた。深謝多謝。

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2008/10/blog-post_8267.html

コメント欄が興味深い。私もコメントしている。このときの感想と、先日、週刊俳句に書いた「後衛の魅力 澤田和弥句集『革命前夜』の一句」 とがほぼ連続しているのは、進歩がないのか一貫性があるのか(せっかくだから後者と思っておくことにする)。

「一魁の肉」50句中、

  修司忌の廃墟が僕の胎内に  澤田和弥

は寺山修司の名台詞「おかあさん、もう一度ボクを妊娠してください」が下敷きか。今回の句集に入っていない。惜しい気がする。

  水番の叔父と女体を語り尽くす 同

も句集には入っていないと思う。この句に「叔父」が登場していることに、そしてこの叔父が「ぼくの伯父さん」的な叔父であることに、少々驚いた。私にとっては不思議な符合。

 ●

ひとつ、週俳の記事には書き忘れたのだけれど、この句集、読んでいて、「だれだれの句に似ている」という感じはもたなかった。これがいちばんかも、ですね。

せっかくの俳句、せっかくの句集で、誰かの句の雰囲気だったり、何かのラインだったりするなんて、つまらないから。

2013/07/12

■浮間・赤羽

浮間舟渡の浮間公園を歩き、埼京線を2駅戻って赤羽の公民館で句会。集合時間に遅れたので、ひとりちょっと迷いながらゆっくり歩く。迷ったおかげで荒川沿いの公団住宅(ダンチストにはちょっと垂涎では?)やらも見られた。浮間公園はひろびろとしてきれいだけれど人工そのもの。コクはない。

句会後の飲みは、赤羽の一番街シルクロードにある「とんぼ」。優良店。すぐ近くのおでん屋「丸健水産」が有名店らしいけれど、大勢は無理ということで。



赤羽から高円寺まで走るバスがおもしろそうなので、近氏、yuki氏(例によって二次会に合流)と3名で乗り込む。到着。終電までまだ時間があるので(週刊俳句は気になるが、自分の当番ではない)、どこかで飲もうということになり、近氏なじみのうどん屋「さぬきや」。ここがまた優良店。手打ちうどんが美味。

 

7月6日はサラダ記念日であることを知り、一句作る。

  サラダ記念日こころが病んでいくやうな  10key

2013/07/11

■SNSの「おともだち」

ヘースブックでAさんから「友達申請」が来る。

お名前(アルファベット)に心当たりがない。

けれども、自分のよく知っている人たちがたくさん、Aさんの「友達」として名を連ねている。

「Aさんて、どんな人なの?」と、知り合いのひとりに訊いてみる。

知り合い「それがね、よくわからないんです」

え!w

ヘースブック、フリーダム!!!




2013/07/10

■良夜かな……ん? カンカン照りorz


夏に秋の句を寄稿する・寄稿させるのはよくあることのようです。

去年(あるいはもっと前)の秋に作った句を出せば、問題はない。作った句は、ある程度期間、寝かせたほうがいいですしね。

と、句の整理がすこぶる悪い私が言う。

 ●

一方、秋に夏の句を作る・作らせることに何の痛痒も感じない人が、「季題が…」「季感が…」と、したり顔で言ったりすることもあるようで、これはそうとうイイカゲン。

いえ、イイカゲンが悪いというのではありません。イイカゲンさを自覚してしゃべるべき、ということなのです。

 ●

で、だ。結社誌/同人誌の、あの、きっちり2~3ヶ月遅れの感じ(4月の句を4月に投句して掲載が6月とかになる、あのパターン)はどうなのかというと、それはまた別問題ですが、投句で成り立っているのだから、あれしかないのでしょう。同人間・会員間の回覧の役割を果たすものですし。

ただ、それで、「外の人にも読んでほしい」という高望みは、ちょっと虫が良すぎるかも、ですね。


2013/07/09

■応仁の乱



  応仁の乱も半ばに仮縫いへ  小池正博

  応仁の乱と言ひ張り毛虫焼く  佐山哲郎

小池正博は川柳、佐山哲郎は俳句。

前者は「詩」、後者は「俳」、という対照もできるでしょうが、私にはどちらも「俳」、に見える。

 

出自を無視すれば(現実には無視できないが、あえて)、そして「俳句」というジャンルにもっと度量があったなら(言い換えれば、もっとイイカゲンで融通無碍で自由であるなら)、「現代川柳」を、大きく俳句と呼んでしまっていいと、これは、俳句側からの身勝手な言い分であることはじゅうじゅう承知の上で、また川柳の人は「とんでもない!」と怒るだろうなあとは思いつつも、思う。


参考≫小池正博「柳俳交流史序説」

2013/07/08

■富士山へ

富士山が話題です。山開きは先だっての7月1日。例の、ほら、世界遺産とかで。

日の出を見るなどのスペシャリティがあれば別ですが、ただ登っても「運動になる」程度かも、です(登ったことのない私が言っている)。

その富士山まで行かなくても、東京にたくさんの富士山があることは意外に知られていないようです(≫参考:都内の富士塚)。

それほどたくさんの富士山に行ったわけではない私がオススメするのは、品川富士。海が近く展望が気持ちいいです。

  品川の富士もくぢらもいまむかし  10key 句集『けむり』より

富士山が「文化」遺産なら、全国の富士講が「うちも」「うちも」と名乗り出て、おかしくない、こともないか。


2013/07/07

■今月7月のくにたち句会は7月21日(日)

いつもは最終日曜を原則にやっておりますが、今月7月は、7月21日(日)とさせていただきます。

日程がころころ変わって申し訳ありません


7月21日(日) 14:00 JR国立駅改札から南口へ出た付近
句会場所:いつものキャットフィッシュ
席題10題程度。

よろしければ句会後の飲食も(会費アリ)



2013/07/06

■花かつお×花かつお



はつなつの男がつかむ花かつお  斉田仁

天井から降ってきたのは花かつお  樋口由紀子


斉田仁句集『異熟』(2013年2月20日/西田書店)、『MANO』第18号(2013年7月1日)より。

並べると、最高ですな。


2013/07/05

■ジャンルの価値?

承前:(笑)という編集処理

編集処理としての(笑)の話をしましたが、これは、上田信治「時評というもの 筑紫磐井『21世紀俳句時評』をめぐって」(週刊俳句・第323号)の本線ではありません。この記事に書かれているのは…

1. 時評とは反応である。

2. 時評(評論全体?)の主体は、ジャンルの価値である。

3. 否定(選別)が批評の主流だった時代もあったが、筑紫磐井氏は「肯定」の手法を選んだ。

4. 筆者(上田信治さん)は、価値を代弁して書くことはできない。反応はするけど。

ざっと、こんなところです。


時評の主体、言い換えれば、時評の書き手が何を拠り所とするか。そこは微妙なのですが、突き詰めていけば、ジャンルの価値、俳句の価値としか言いようがないのかもしれません。美しい結論だし。

けれども、これ、使い方によっては、危ないところがあります。大正義になってしまう。

下世話な例示ですが、例えば、仮に、私が、無季・自由律撲滅運動の片棒を担ぐ人だとしたら、「なぜダメなの?」との問いには、「俳句というジャンルの価値を損ねるから」と答えておくでしょう。

時評を書くことは、さらに広く批評することは、俳句の価値を代弁することなのだ、という認識が、覚悟であり、自制に働くぶんにはもちろんいいのですが、思い込みや党派的言説の後ろ盾になってしまう危険性だってあるわけです。

しかるに……
はじめに、当欄について「「時評」を僭称」と書いたのは、自分にはジャンルの「価値」を代表して書くようなことはできない、と思ったからなのですが。

では、当欄は通りすがりの人間の代弁者として、それ、へんじゃないすか、とか、そういうことを主に言って、あれこれ「反応」していきたいと、考える次第です。
こうした上田信治さんのスタンスはきわめて健全な姿勢ではないかと思うのであります。


2013/07/04

■ヘースブック、その後のその後

承前:ヘースブック、その後

まだ使っています。「ノート」という機能を日録(備忘録)、ネタ帳として。後者は、ここに書いておいてから、このブログや週俳、あるいは別媒体の記事にするというもの。この「ノート」がネタ帳としていいのは保存・編集ができること、クローズド設定なので、世界に向かって発信しちゃうこともない。そんならSNSを使わずにPCのハードディスクに溜めておけばいい、という意見もありましょうが、数人の目に触れるということで軽い義務感が生まれ何かとネタをメモにしておく気になります。ブログとかもそうですが、こういう「場」がないと、何も書かなくなる(書かなくてもいいという意見は置くとして)。

「友達」申請はしていません。この人、申請してくれないのかなと、ひそかに待っているところも若干あり、田舎駅のプラットフォームで素敵な人に声を掛けられるのを待っている女子中学生の気分も、なかなかにコク深く味わっています。自分から申請しないのは、シャイだからと解釈してくれる人がいて、ありがたい。実のところは、備忘録・ネタ帳なので、他人様に関係を「申請」するようなものではないという判断です。



使ってみると、「怖えぇよ、その顔」というプロフィール写真がランダムに現れるところが、まずもって、怖い。

巷間いわれるように、「充実しちゃってる、ミーのライフ」な情報がずらずら並びまくるということは、あまりないです。ノマド・ワーカー(大笑) が自己啓発セミナーや異業種交流会で人脈広げまくってます、てな御報告もない。これはまあ、年齢も年齢だし、俳句関係ということもあり、「タイムライン」の色合いは枯淡とまでは行きませんが、地味めです。

想像するに、若者が学校関係・仕事関係の人間関係をここに持ち込むとなると、地獄の様相を呈することもあるのではないかと……。俳句の付き合いは、実社会ほどは生臭くないので、良いですね。



承認してないひとから承認ありがとうございますってメッセージきたから承認していないのでお礼にはおよびませんって返信していいかな; 石原ユキオ (@yukioi)July 4, 2013

これはいいんでしょうね。


あとね、ずらっと表示されてる広告がうさん臭いの、FBは。— ホメスウィートホメ (@rockets_yamada) July 4, 2013

はい。例えば、これ(↓)なんか、アウトなんじゃないの?というくらい、あやしい。

2013/07/03

■肯定

もうこれで行くしかないから、これで行く。これでいいんだ、という。

「肯定」というか、前に向かって進んでいくよ、いろいろあるけどね、といった態度が、やはりいいと思います。

Earth, Wind & Fire - Thats the Way of the World


Negicco - 圧倒的なスタイル

2013/07/01

■(笑)という編集処理

座談のこのくだり。

上田信治「時評というもの 筑紫磐井『21世紀俳句時評』をめぐって」(週刊俳句・第323号)にも取り上げられています。

(笑)という箇所がキモのようで、これがあるからこそ、ここが「燦然と輝いて」(上田信治)見える。

これがただ「この方は「これから俳人」という感じですね」だけなら、そのまま受け流す箇所でしょう。あるいは、「この方は「これから(が期待される)俳人」という感じですね」と、省略を補って読むことも、(前後の文脈をある程度無視すれば)できなくはないのですが、(笑)があると、そうは読めない。


ところで、この(笑)、対談記事、座談記事にはお馴染みで、そうとうに古くからごくごく一般的に用いられる。これがないとニュアンスが間違って伝わることもあり、なくてはならない編集処理ともいえる。どんな表情でセリフを吐いたか等、文字だけではどうしても伝わり切らないので。

例えば、過去、週俳に掲載された「『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』総括座談会(3)」には、(笑)が19回登場します。
あらかじめ相談の余地を作っておいたわけです。相談の余地があるということは、編集部の介入する余地もあるということで(笑)、場合によっては若干の相談や調整があった、というかんじです。
 この(笑)は、「介入」の語のもつ機微を支えているわけで、ここに(笑)が入らないと、ちょっと感じの悪いセリフ、すごいことを言っていることになってしまう(なくても、雰囲気を察し理解してくれる読者はいますが)。

どの(笑)にもすべて機能があるとはいいませんが(それほど必要ではなく手が滑って(笑)を入れてしまうこともある)、わりあい大事な道具なのですね。


そこで、はじめの(笑)ですが、この一発で、発話者の、さらにいえばその場に蔓延する「したり顔」のようなものが如実に伝わる結果になってしまった(全体の流れとは無関係に、というのが怖ろしいところです)。

ああいう場(俳句総合誌!の合評!)では、どうしても「したり顔」が出やすい状況でしょうけれど、これは他人事ではない。他人の句を評するとき、誰もが陥りやすい。 自戒を込めて、というやつです。


なお、インターネットのコメントでも、(笑)というのをよく見かけます。掲示板ではお年寄りほど、これをよく使うという傾向が見えたものですから、wwwなども使ってみたりしますが、これはこれで難しい。雑誌の縦組では使えませんし。

それでは、と、

  この方は「これから俳人」という感じですね(*^▽^*)

顔文字を使ってみると、愛嬌があっていいのですが、縦組ではやはり無理です。


というわけで、これからも雑誌記事から(笑)がなくなることはなさそうです。


(つづく)


【余談】
合評、そして上田信治さんの記事にある、

  白梅と思ふ拙き木と思ふ  生駒大祐

からは、どうしても、

  咲くまでの梅を不思議な木と思ふ  正木浩一

を思い出す。だから、悪い(類想とか)というのではまったくなく。

見ようとしているものが違うかもしれないが(あるいは近いかもしれない)、視線のありように共通したものを感じる。

個人的には、「拙き」よりも「不思議な」を採るし、調べも後者がメロー感やビート感で優ると思う。(いや、ここはやはり「思ふ」でしょう? という茶々、許す)

2013/06/30

■ヘースブック、その後

プロフィールに、現住所と出身地を書き込もうとしても、書き込めない。操作がむずかしい。「アンティグア・バーブーダ出身」などと(例:ミクシィのプロフィール)書き込むわけではない。ふつうに府中市と書き込もうとして、反映されない。

「友達になってください」と言えない。であるから、到来する申請に向かってクリックするだけ。ところが、存じ上げない方からもたまに申請が来たりして、困ってしまう。どんな接点があるのか伝えてもらえれば、喜んで「はい」なのだが、それがないとなると、どう対処していいかわからず、当方、フリーズしたまま。

クローズドの備忘録としては、ミクシィより使いやすそうです。でも、じつは、こういうことをするためにあるんじゃないのかも、です。


2013/06/27

■トニー谷主義 tony-tanisme

ライブ映像は、貴重。



ソロバン、むちゃくちゃ巧い!

過去ログ:トニー谷主義宣言

2013/06/26

■庭仕事 それから『異熟』のこと

某日、昼過ぎ、斉田仁さん宅へ。ずいぶん前から預かっているパネル(『異熟』出版祝賀のとき使ったもの)を届ける。

立ち話で「草取りがたいへんでねぇ」との仁さん。

仁さん家の家庭菜園はりっぱで、夏に入った今の時期、若干草ぼうぼう気味ではあるのだろうが、いかにも美味しそうな野菜・果実が実りそう。

  春夕焼までのヘッセの庭仕事   斉田仁『異熟』


帰途のクルマの中でyuki氏曰く、「酔っ払ってる仁さんしか見たことがないので、昼間の仁さんは新鮮」。


【追記】
句集『異熟』のあとがきを読むと、幾人かが選句を手伝ったとあり、そこに私の名も入っているが、それはちょっと違っていて、たしかに句集制作前に、仁さんの句をごまんと読ませていただき、チェックを入れて返したが、それが今回の『異熟』に役立ったということはない。どなたかの尽力でこの句集は為った。

当時、この件で仁さんに申し上げたかったのは2点。

「仁さん、自分でやらなきゃダメですよ。責任として」

「仁さん、なんで他人にやらせるんですか? 選句って、句集をつくるときいちばん美味しい醍醐味じゃないですか」