2009/07/31

ハイマとtwitter

ハイクマシーンのサイトは、いま流行りの twitter だったのですね。

2009/07/30

The Chicken

吉良常と名づけし鶏は孤独らし  穴井太

Jaco Pastorius- Soul Intro- The Chicken
http://www.youtube.com/watch?v=RJfiYdQcQtc

2009/07/29

日産GTRvs弾丸列車

クルマと新幹線、どっちが早いか。

スタートが能登半島の千里浜渚ハイウェイ、ゴールが房総・鋸山という設定がなんともしぶい。イギリスBBCのクルマ番組Top Gearのこの番組、日本紀行として観ても楽しい。

URL http://www.youtube.com/watch?v=4OCm8eBvEPU&feature=PlayList&p=B056077CE06A46CA&index=0

動画は4で完結。2以降は適当にたどってください。

 

よくは知らないが、このGTRの凄いところは、たった(!)1000万円程度で時速300キロ以上を実現してしまうところらしい。しかも、直線よりカーブ、ワインディングで高性能を発揮する。日本人、やるなあ、という、よくある「ものづくり大国」的物言いに与するつもりはないけれど、やはり凄いことは凄い。

新幹線も同様。「弾丸列車」は戦前からの構想で、それが1964年、東海道新幹線として実現したもの。伝統的に日本の鉄道技術が素晴らしいことは、あまり話題にのぼることはないが(ダイヤ時刻どおりの運行ばかりが取り上げられる。これだって凄いことなのだが)、なかなかのものだったようです。

 

2009/07/22

くにたち句会7月のお知らせ

10題程度の席題句会です。いわゆる「悪魔のように句を捻り、悪魔のように飲んで喰う」句会

7月26日(日)

●第1集合……昼ご飯からいっしょするパターン
 12:00 JR国立駅南口集合
      →タイ料理1000円ランチバイキング バーンキラオ

●第2集合(句会場へ直接 14:00 ロージナ茶房・地階

(profileページに連絡先があります)

二人羽織

2009/07/19

消息 比喩をめぐって

週刊俳句・第117号(2009-7-19)に、高柳克弘さんとのダイアローグ「比喩をめぐって【前編】全開イナバウアー:小学生俳句の問題と課題」が掲載されています。

来週の【後編】は、こしのゆみこ句集「コイツァンの猫」をめぐって激突。乞う御期待。

 ●

ウラハイ=裏「週刊俳句」に〔ネット拾読〕1000円と信じていたのに1750円だった高速料金を書きました。

2009/07/18

ジョー・ライト監督「プライドと偏見」

(レンタルDVD)2005年・イギリス

ジェーン・オースティン『高慢と偏見』(Pride and Prejudice)は、残念ながら読んでいない。サマセット・モームの「世界十大小説」に入っているにもかかわらず。モームは好きであるにもかかわらず。

ヒロインが、なんだかんだあった末に玉の輿に乗る、というのがこの話の骨子。周辺エピソードも含め、「玉の輿」映画といっていい(原作も「玉の輿」小説なのだろう)。

18世紀のイギリス。登場人物はジェントリ=大地主階級(そういえば世界史の授業で、こんなの出てきました)。当時のイギリスでは女性に相続権がなく、金持ちに生まれても、裕福な人生を送れるとは限らない。どんな男と結婚するかで、暮らし向きが決まる。だから必死である。必死の素は裕福に暮らしたいという物質的欲望だから、現金な話なのだが、そのなかで現金じゃない、つまりガツガツしない女性が、最後は、いちばんの玉の輿に乗れる、という物語の王道。

ヒロイン(キーラ・ナイトレイ。パイレーツ・オヴ・カリビアンの人です)の家庭はジェントリの最下層。おっかさんが品なくて笑える。妹たちは無教育・無教養。最下層とはいえ、大地主階級。いくらなんでも、これはなあ、とは思うが、このへん容赦なく脂っこく描いているところがおもしろい(おそらく原作がそうなのだろう)。

で、そんな逆境にもめげないヒロインは、何が何でも結婚したいわけじゃないのに、とんでもない大金持ちの御曹司(ジェントリの上層)の心を射止めてしまう。そのへんがいかにも「お話」なわけだが、美貌という条件を忘れてはいけない。

女は顔。男は財力。

すがすがしいほどきっちり割り切れている。

映画はきちんと出来ている。まずもって絵がきれい。イギリスの田園って、行ったことないけど、こんなにきれいなんですねえ。ストーリーは冒頭で(というよりタイトルですでに)結末が読めるタイプのもので、そのわりにダレないのは、全体がよく整理されてもいるのだろう。

で、星は、2つ。

まずまずよく出来た映画であることはわかるが、この手の話は、映画が終わったとき、「で?」と、どうしても冷淡な反応になってしまう。筋がどう転ぼうが興味がないのだから、しかたがない。

ひとつ、貴族ではなくジェントリでも、上は、こんなに凄い金持ちなの?と、御曹司の邸宅を観て吃驚。貴族だと、どうなっちゃうんだろう。




 

2009/07/17

世界はYouTubeで出来てるわけじゃない

たしかに便利なんですが。


ところで、赤字だったんですね。

米グーグル傘下のユーチューブ、近い将来黒字化へ=CEO 
2009年 07月 17日 11:32 JS © Thomson Reuters

未踏・その後

高柳克弘句集『未踏』の青春詠について「つまらない」と書き、どこがどうつまらないかも少し書いた(いわゆる光熱費)。このネガティブな見解について、なんとまあ、御本人も、ある意味「同意」ということで(このケースでの「わが意を得たり」って、そういう意味ですね)

あはは、おもしろいパターンですねえ。

けなし方がうまかったのか、けなされ方がじょうずなのか。両方ということにしておこう。

ところで、句集を読んで、おもしろかった部分を書くのはいいとして、つまらないと思ったことまで、ブログに書きたくなったのは、もちろんのことこの句集がよほど楽しかったからなのだ。そこは繰り返し言っとかないと。

2009/07/16

いいときは短い

句会というのは、長く続いても、いい時期というか最盛期、まあ、これは自分にとって「すごくおもしろい時期」ということですが、それほど長くはない。長く続くバンドも、光り輝く期間は短い。それと同じ。

中山宙虫さんのブログで連載されている「おじさん履歴書」の第12回と第13回は、宙虫さんが東京に出かけ句会を初体験するという回。
http://musinandanikki.at.webry.info/200907/article_14.html
http://musinandanikki.at.webry.info/200907/article_15.html

このとき私も一緒させてもらっている(もう7年も経つんですねえ)。それまでインターネットの掲示板で知り合いだった宙虫さんとリアルに初めてお会いしたのだ。この記事で宙虫さんが「今でも、この日の句会のことを最高の句会だと思っている。」と書いているのを読んで、とても嬉しかったが、自分のこととして振り返ってみても、当時の、あのあたりの句会は「最高」のひとつだったです。

でも「最高」は長くは続かない。同じようなメンツ、同じような場所であっても。

自分が変わっていくからなのか、句会が変わっていくのか。そのへんはよくわからない。

けれども「最高の句会」の経験が、そのあと長く俳句を身近にさせるというところがある(宙虫さんも、そんなことを書いている)。

 

基本、句会はおもしろいものなのだ。「ひゃあ!」と驚く句(語の連なり)が生起するのを、目のあたりにするおもしろさ。これは他の遊びにはない。

だから、持ち寄りというスタイルは、私にとっては「句会」ではなく「選句会」。それはそれで意味があるが、句会の興奮・興趣とはちょっと違う。二の足を踏んでしまうところがある。ふだん句をつくらないほうなので余計です。句会は句を作る場所というアタマ。

このところは月に1回か2回ペースの句会、やはり自分にとっては貴重な数時間ざんす。

2009/07/15

たなばた

近恵氏は、七夕より棚ぼたのほうがお好きとのことです。

同じく。「棚ぼた」は好きな言葉ベストスリーに入る。で、時期的にどうなのかということはあるんですが、七夕って、7月7日なんですね、東京とか。他も、そお?

関西、というか田舎では8月7日でしたよ。こっちでしょう。

   七夕や秋を定むるはじめの夜  松尾芭蕉

この句が7月じゃあ、サマになりません。

ジュリアン・シュナーベル監督「潜水服は蝶の夢を見る」

(レンタルDVD)2007年、フランス。

『バスキア』の監督なんですね。



脳血管障害で倒れ左目のまぶたしか動かなくなったELLE誌編集長(実話が原作)。見えるし聞こえるが、自分からメッセージを発することができない(ロックトイン・シンドローム=閉じ込め症候群)。

重いテーマで陰鬱な映画にならないのは、絵の美しさ。絵のテンポ。音楽のよろしさ(特にトム・ウェイツ)。

ひりひりします。

星、3つ半。

 

ちなみに映画全般、

  「わっ」や「わー」がある

  ひりひりする

  滲みる

私の基準はこの3つくらいです(語彙・説明能力がなくて、すみません)。これが有るか無いか。

ただしこれはある程度きちんと出来ている場合の話。どうにもこうにもな映画もたくさんありますね、世の中には。


字幕はないけど、PC上でぜんぶ観られますね ≫YouTube


ただごと

上田信治「ただごとについて」の3回シリーズが、週刊俳句第116号で完結。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2009/07/blog-post_2660.html

尋常ではない(つまり、ただごとではない)おもしろさ!

最後の1行にある「ただごと者」は、自分のアタマのなかでは「タダゴティスト」と翻訳して読みましたですがね。ええ。

2009/07/14

そして20号を

帰ってきたのでした。

2009/07/13

佃島

クリックすると大きくなります


盆踊りを見に行ったのでした。
佃島盆踊りは、あの世の匂いがします。
すぐそばの大川もまた。
その向こうの東京の灯もまた。

今日は迎え火。

ゴンちゃん!

ちょっと遅いけど、ウラハイの「ペンギン侍」週刊俳句の「そんな日」
おなじみのかまちよしろうさんの
連載第1回の4コマ、静岡の知り合いが送ってくれた。

2009/07/12

消息 2009年7月中旬

ウラハイに「〔ネット拾読〕フエキ糊とアラビア糊それぞれの語感」を書きました。
http://hw02.blogspot.com/2009/07/blog-post_12.html

じつは本文よりタイトルを考えるのに時間をかけていたりします。

2009/07/11

サンデー

中嶋憲武さんの「日曜のサンデー」(週刊俳句・第115号)、ああ、いいですねえ。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2009/07/blog-post_4307.html

3行目でハマり、あとは気持ちよく、時間が流れる。掌編くらいの短さなのに、時間はゆったりと、けれども表情や空気は軽やかに変化していくわけです。いいですねえ。

シリーズ化を期待。ヒノコさんとぼくは固定で。

月曜とマンデー
火曜からチューズデー
水曜へウェンズデー
木曜ならサーズデー
金曜がフライデー
土曜でもサタデー

無意味だ。

2009/07/09

いわゆる光熱費 高柳克弘句集『未踏』

29歳、新進気鋭の俳人、高柳克弘第一句集『未踏』(ふらんす堂・2008年6月)をとても楽しく読んだ。「楽しく」という部分が不遜(いまどきで言えば「上から目線」)に聞こえるなら、それは誤解。いい句集はすべて「楽しい」ものだ。句集によって、またページによって、いくつかの賛辞の要素(感銘とか刺激とか不思議とか涙とか…)は存するものの、きほん楽しい。それらを引っくるめて楽しい。で、なかでも大好きになったのが、この句。

  梟や生きゐて嵩む電気代  高柳克弘

嵩むよなあ、電気代。生きているかぎり。

話を脱線させる。むかし学生の頃、友人と「ガス自殺」に話題が及び、「どのくらいガス代がかかるんだろう?」ということになった。「きっと、すごい」。爆発でもしようものなら桁違いに、ガス代が嵩む。「請求はやはり来るんだろうなあ」…。友人たちも私も四畳半か六畳の下宿住まいだった。不謹慎ではあるが切実だったのだ。その際の「ガス代」が。

さて掲句。

ゆるい達観が、心にゆるく響く。気持ちよく響く。「りっぱな達観」は、そりゃりっぱだけれど、心動かされないところがある。読むこっちがりっぱでないせいもあるが、「りっぱ」を志向した時点でそれはもう達観じゃないでしょ、というところもある。

電気代に着目した、ぜんぜんりっぱじゃない、どころか、ちょっと情けなさの漂う、いいふうに解釈すれば、のほほんとして飄逸なセリフは、素晴らしいことからはるかに遠いという意味で素晴らしい(ここは俳句のもつ倒錯・逆転のアドバンテージでしょう)。

ところが、こうしたフレーズが生起したとき、問題となるのは、季語の部分。取り合わせなどというと、イヤな話題になるが、この句は取り合わせになっているから、しかたない。ここで、句の成否が決まる。読者が気持ちよくなれるかどうかは、季語にもかかってくる。代替を提示して何かを論じるのは趣味が悪い。それはわかった上であえて、この部分について言えば、季語の選択がなかなかむずかしい。

例えば寒暖にまつわる季語など最悪だ。「涼しさや生きゐて嵩む電気代」…クーラーかよっw

時節や行事の季語もそれに類する興醒めを招く。それならブツ(例えば草花)はどうか。これも存外むずかしい。アウトドア系はなんだかわからない句になりそうだ。で、インドア系。うまく収まる気もするが、この句の「ゆるい達観」に自愛が出てしまいそうだ。つまり、部屋にいる作者が、季語部分(花瓶の花とか)を視線をくれながらの達観という構図が生まれてしまい、ちょっといやったらしい。ここは微妙なところだが、季語というのは、作者の位置や視線を規定する側面がある(それを無視して、乱暴に二物をぶつける流派もあるが)。

そこで「梟」。

このあんばいは抜群だと思った。部屋に梟を飼っている、などとは言わないが、梟の視線を感じるではありませんか。「生きゐる」人と「嵩む電気代」を大哲のような眼差しで見つめる梟の存在を、眼差しの存在をたしかに感じる。梟の、反・文化的また超越的な眼差しの中に置かれることで、このりっぱすぎない達観・感慨は、通俗に堕することなく、高踏に自惚れることなく、気持ちよくのほほんとこちらの気持ちに響いてくる。

 

句集『未踏』には、なにもわざわざ掲句(梟や~)を挙げなくてもよかろうに、という佳句、もっとみんなが誉めてくれるような佳句が数多い。けれども、それらをここで挙げることは、これから読まれる方のために避けるべきと思い、避ける。

2003年から2008年へと編年で並べられた句群のもっぱら前半には、いわゆる「青春詠」も目に付く。「序」で小川軽舟氏の挙げる「木犀や同棲二年目の畳」、山口優夢氏が「世界と彼の間に 『未踏』を読む」の冒頭に掲げる「蕪煮てあした逢ふひといまはるか」などがそれにあたる。「卒業は明日シャンプーを泡立たす」といったモロの句もある。

こうした「青春の詩」が私にとってどうなのかといえば、おもしろいとは思わない。それにはいくつかの理由がある。「木犀や同棲二年目の畳」では、句の中の〈私〉と作者の〈私〉の問題(イコールをデフォルトとする俳句の決め事:それってどーなの?)から、なんだか視点が定まらず、読者を安易にくすぐるようで、「巧いが、嫌い」なタイプの句だし、「蕪煮てあした逢ふひといまはるか」の甘さは、どの年齢の私も(つまり昔も今も)拒絶する甘さだ(いらんこと考えずに蕪を煮ることに集中せよ!)。

この句集のなかの「青春」ぽい句が全般に楽しくない(もちろん私にとってという話)のは、しかし、そのような枝葉の問題ではない。ひとつには「青春」という物語と〈私〉という物語、そのふたつの類型が、俳句では、どう巧く作られようが、否、うまく作れば作るほど、安定的にクロスしてしまい、物語をさらに強固に定着させる方向にしか向かわないことにある。

それは作者の高柳克弘が「未踏」に込めたチャレンジングな精神とは相反する。「形式の可能性を攻め続ける」(あとがき)ことと裏腹に、伝統的な叙情の鋳型(「青春」やら「私」やら)からは、手触りのよい良質のコモディティしか生まれない(それでも大したものなのだが)。

もうひとつには、青春というもの、それにまつわる叙情やらなにやらを引っくるめて、作者にとっても読者にとってもすでに「過去」である、ということだ。作者はそのことに充分に意識的だろう(句の並びに編年を採用した意味は、この句集の場合、大きい)。一方、読者についていえば、作者の青春を微笑ましく眺めてくれる読者もまた少なくないこと、つまり、「克弘くんの20代の思い出のヒトコマねっ、きゃっ」と好感をもって受け止める女性ファンも数多、とは承知しつつ、言いたくなる。それって、ぜんぜん「未踏」じゃないよね?

  ことごとく未踏なりけり冬の星  高柳克弘

読者は、過ぎ去ったものよりも、伝統として豊かに用意された入れ物に形よく収まった叙情よりも、あるいは詠まれた/読まれたとたんに安定化してしまう「今」よりも、この作者があえて気負ってみせる「未踏」へと、連れていってくれることを望んでいる。

ある種の読み物を前にしたときの期待は、どれも共通している。…Take me with you あるいは M'Amenez-y (私をそこに連れてって)。「未踏」という第一句集の作者に、言いたいことは、(ながなが書いたが)告げたいこと は、このひとことに尽きるざんす。

 

「未踏」という志に関しては、この句集に、いわゆる冒険が希薄と感じる読者が多いと想像する。たしかに、そうかもしれない。だが、冒険・チャレンジは人それぞれ、作者それぞれである。

未知の場所へと読者を連れていくのに、いくつかの道、方法がある。例えば、オカルト的に乱暴に…。あるいはシュールなドラッグ効果をもってして…。この作者はそれらを採択しない。採るのは、タネも仕掛けもある手品。その訓練され洗練された指遣いは、冒険的・チャレンジングな印象を伴わないものだ。

それにしてもこの「未踏」というタイトル、いつか私たちが目にすることのできる第二句集以降の句群をも、はっきりと照射することになる。なんと思いきった書名なのだろう。そんなこと言っちゃっていいの?と心配したくなるほどの。

でも、言っちゃっていいのだ。だって、この作者に覚悟があるからこそ、なのだから。


付記:2009-7-10 13:00
この句集を読んですぐのタイミングで、mixiに書いた感想も付記しておく。

後半の老成ぶった(と言っていいのだろうか)句が、とってもキュート。

≫過去記事:蛆の花
http://sevendays-a-week.blogspot.com/2009/05/blog-post_25.html

2009/07/08

「不思議惑星キン・ザ・ザ」

(レンタルDVD)1986年・ソ連

あはは。ヘンテコリンのひとこと。

チープなアートワーク、全体を覆い尽くすバカバカしさ。ディストピア(反ユートピア)物の常として、つまりは諷刺コメディなのですが、ソ連がとっくに終わっちゃってるせいか、諷刺が「効いている」という感じはほとんどない。

ゆるいと、疲れないし、そこそこ楽しい、という、奇妙だが頻繁な結果に。

星、2つ半。

ちょっと不思議なのは1986年よりもっと古い映画の感触があること。音楽なんて1950年代っぽいぞ。

2009/07/06

クール


空間を冷やしてゐたり冷蔵庫  齋藤朝比古

「元日の開くと灯る冷蔵庫」(池田澄子)というくらいだから、閉まっているとき、中は真っ暗闇。たしか野口裕さんがそれを確かめるために実験をし(冷蔵庫の中にカメラを入れタイマーを仕掛けた)、実際、真っ暗だったという。

空間を冷やしていることは、開けたときわかるが、本筋、つまり冷蔵庫が本気で冷やしているのは、トビラが閉まっているあいだである。何も見えない暗闇を、その冷えを、この句はみごとに言い切った。なんとも限定的な、四角い空間。それこそクールな口調で、ただ単に。そこが可笑しい。

『豆の木』第13号(2009年4月)より

齋藤朝比古10句作品「特撮」には、表題作「特撮の糸見えて冬あたたかし」、「鶏頭のふつと和室の匂ひかな」「右中間ひろびろ雁の渡りけり」「雪もよひ家のかたちに薬包紙」など、佳句がたくさん。

2009/07/05

名前はまだ



「塵風」を覗き込んでる……ようには見えんか。

6月23日、草むらで鳴いていたところを強制保護。そのときはガリガリのやせっぽちでしたが、いまはプクプクに。

塵風ざんす

写真に撮ってみた。


ただ、それだけ。

塵風 創刊

斉田仁さんをトップに仰ぐ同人誌(なんだろうか、これ)、2009年6月30日発行。西田書店。800円+税。

このあいだ出たとたんに、もう残部僅少、らしい。私の手許にも一部しかありません。

表紙には俳句雑誌とありますが、前半は、外部からの寄稿が並ぶ。

メンツ、豪華(以下、すべて敬称略)。

まず表紙。鬼海弘雄の写真に、北村宗介の書で「塵風」の文字。
※本来なら、このおふたりの値段だけで何号も作れちゃいますね。

特集は「無頼」。

●烏鷺坊(佐山哲郎) 20句・雀荘は「劉邦」居酒屋は「安吾」
●古井戸秀夫 歌舞伎の無頼 生き過ぎたりや二十三、八幡ひけは取るまい
●つげ忠男 シェーン、カムバック これでもう〝アバヨ〟にするとヤツは言い
●宮岡蓮二 無頼二人 特攻サブとリュウ
●長谷川裕 柏原和男の一句について
●山羊タダシ 瞼
●三宅政吉 岡田兆功 荒涼とエロス
●石澤治信 不意討ちの衝撃 ポン・ジュノ映画と無頼
●久保隆 「無頼」映画・断想 『仁義の墓場』を中心に
●斉田仁 きままな忠治

とまあ、目次を並べたが…

 男臭い!
 
なんか男子校のキタナイ部室の匂いがしますよ、これw

それも1970年代から、時間が止まってるような…。つまり、いまどきの「俳句雑誌」にはまずあり得ない雑誌です。


で、俳句も載ってます。私も、出せと言われて、なんだかわからないまま20句。

  これもあのデュシャンの泉かぢかめり  天気

俳句は同人十句選が充実。20句/10句作品では、ざっと見たところ、笠井亞子が充実。

  焚火から離れて薄くなりゆけり  烏鷺坊

  ヒヤシンス高尾太夫が言いそうな  桃児

  落椿返せば水のこぼれけり  亞子

  ああ明日は週刊新潮菫咲く  吾郎

  父の忌の沖におほきな鯨来る  苑を

  淋しくないか公民館の爪楊枝  東人

  大き蛾の夜がひたひたしてゐたり  振り子

  会うたかもしれぬ雨月の劇場で  村田篠  

というわけで残部僅少ですが、お問い合わせは塵風メール(yutenji50@gmail.com)あるいは西田書店へ。

2009/07/04

事情のまったくわからない句


  牡鹿のほうにころがる銀の蓋  こしのゆみこ

事情がまったくわからない句は、しばしば魅力的だ。

意味のわからない、いわゆるシュールな句も、事情は、よくわかったりする。例えば、ここでこうわかりにくくしたいのだな、とか、こう舞台をつくって、こうドラマやりましたね、とか。

掲句。牡鹿は「おじか」だと字足らずで不思議な韻律(私は「おじかの」の後に一拍置いて読んだ。おじかの/●/ほうにころがる/ぎんのふた)。けれども、そこが事情不明なのではない。全体が不明。言い方を換えれば、この句に前後左右がない。前後とは経過、あるいは語の出自、余韻。左右とは比較(広義の比較)可能なテクスト。

俳句の歴史からも地平からも隔絶したかのような孤立。べつだん感興も湧かないこの句は、感興とも無縁という意味でさらに、なんだかわからず、したがって、とてもいい。素晴らしく面白いのだ。

『豆の木』第13号(2009年4月)より

2009/07/03

イ・チャンドン監督「シークレット・サンシャイン」

(レンタルDVD)2007年韓国。

小さな男の子を連れて元夫の故郷・密陽(シークレット・サンシャイン)に引っ越してきたピアノ教師。親切な自動車整備工場主の助けもあって、ピアノ教室を開くが、ある日、息子が誘拐され、まもなく遺体で見つかる。このあたりまでのプロットの加速度(ゆったりした導入から急展開へ)がみごと。

事件モノかと思いきや、話の本筋はここからだ。「なぜ、私だけがこんな不幸な目に? この世に神はいないのか」と嘆く母親が、どうしたことかキリスト教に入信。「魂の救済」をもとめて熱心な帰依が始まる。ところが、ひょんなことから…といった具合に、ほんと、話の展開に予断を許さない。

ところが(なんべん逆接「ところが」を使うのか!)、この映画の核心は、そうしたプロット展開のみごとさとは別のところにある。ああ、これをなんといえばいいのか、根源的な問いかけ(運命って? 神って? 精神って?)を柱として持ちながら、物語のひとつひとつの要素は、いかにも情けなく通俗的で人間臭い。誘拐の遠因がつまらない見栄だったり、神への復讐が単なる万引きだったり。でもね、人間って、そういうつまらないこと、やりますよね。その意味で(どの意味だ?)、この映画、とことん深い。

星3つ半、いや4つ? そのへん、どうでもいいや。

ともかくスイングに腰が入っている。本気で振っている。


イ・チャンドン監督作品の「オアシス」と、この「シークレット・サンシャイン」、2本を観ただけでモノを言うのですが(それだけでわかることがあるからしかたがない)、韓国映画は、日本映画なんかとはまったく違う地点、違う次元を走っていますね。ま、イ・チャンドン監督が特別なのかもしれませんが、オトナとコドモです。

2009/07/02

イ・チャンドン監督「オアシス」

(レンタルDVD)2002年韓国。

3度目の刑務所暮らしから出てきた、ちょっと知恵遅れの青年(29歳)。交通事故で死なせた男性(直近の服役がこの過失致死)の遺族を訪ねると、そこに重度脳性麻痺の若い女性。そんな彼と彼女の恋物語であるらしいこの映画、正直言って、ああ、エラい映画、借りちゃったなあ、と。

ところが、です。なんてきちんと腰の入った映画なのだろう。なんて気持ちのいい映画なのだろう。

彼女が取り残された部屋を飛ぶ白い鳩が、手鏡から反射する光に変わり…この時点で、もう、「あ、これはいい映画だな」とわかる。

重いっす。そりゃ、知恵遅れと脳性麻痺だもの。でも、ひりひりします。ふわっともします。

例えば、車椅子から、ヒロインがみずからの夢想へと立ち上がる瞬間の美しいこと、せつないこと。あの冒頭の鳩と鏡の光のメタモルフォシスですね。

主演女優のムン・ソリは、この映画でえらい評判になったそうだ。主演男優ソル・ギョングも素晴らしく上手。でも、なんといっても、監督がよろしいです。イ・チャンドンは信用できる監督という確信を持ちました。

星3つ半。んんん、思いきって4つ?

ちなみに、主人公のふたりが「あっち側」の人間で、私たちがいわゆる「健常者」という「こっち側」から観て、どうのこうの、という話ではない。そういう、観客の叙情や偽善に寄りかかったところがない。その部分で、このイ・チャンドン監督は「信用が置ける」ということなのですね。

「私」が社会から疎外された存在ではない、と、誰が言えるか。社会は、世界は、荒涼たる砂漠である(ここ、ちょっと笑うとこ)。私の「オアシス」って何なのだろうなあ。

消息 2009年7月 初旬

結社誌『鷹』2009年7月号(45周年記念号)に座談会記事。山下知津子さん、星野高士さん、鷹主宰・小川軽舟さんとおしゃべりさせていただいた内容が記事になっています。

なぜ私のようなゴミが、俳壇の名だたる作家にまじったのか。とても不思議に思われるでしょうが’(私も思います)、それはつまり週刊俳句/インターネットがらみということですから、いつも書いたりしゃべったりしていることを(新鮮味はなくとも)しゃべりました。この話題で同じことをくりかえすのも、読者が違うのだから、まあ、いいだろう、と割り切ることにしました。

さて、座談会はもうずいぶん前のことになりますが、3氏とも素敵な方で、それだけでも、蛮勇を奮って「鷹」編集部まで出かけてよかった、というものです。山下知津子さんは、昨年一年間、『俳句』の鼎談を読み、背筋がすっと伸びた感じ、毅然たる発言に注目していましたが、お会いすると、抱いていたイメージどおりの方でした。