2013/08/31

■今日はライオネル・ハンプトン忌なので…

…スターダストを聴きます。


2013/08/29

■読まれること

とにかく読まれること。句にとって、句集にとって、(あるいはもっと広く、本にとって)それ以上の幸せはない。



2013/08/27

■あとはもう流星

カレーライスも蛸の炊いたんも、大好きです。同時に食べるわけではないのですが。

  秋の夜のカレーができるまで人類  四童(2002年)

  蛸を茹でそれから後はもう流星  同

カレーをつくった夜と蛸を茹でた日は、別の日なのだろうと、そんなことはどうでもいいじゃないかと言われそうなことを、思ってしまう。

人類が流星になってしまうのか、そういうことではないのか、それもどちらでもよくて、説明のできない(説明してもしかたのない)機序によって世界が成り立つこともあるのだということを、アタマではなくキモチで理解するには、この2句は、やはり並んでいないとダメなのであった。

2013/08/26

■急に秋めいて…

…きましたので、ブロッサム・ディアリーを聴きます。



空の感じは、こんな感じ(↓)。ぜんぜん違う感じの歌を、続けざまに聴くのも、よいものです。


2013/08/25

■女子(じょし)という語

「女子(じょし)」という語が今のような使われ方をしだしたのは、いつの頃なのだろう? そんなに昔ではないので…

  女子といふことばはすでに秋めいて  山口東人

2004年8月に詠まれたこの句、かなり素早い対応だったのではないかと。


…と、この句を挙げたからといって、「女子」という用語の文化的背景などに関心があるというわけではまったくなくて、むしろ、この語が使用される場面に遭遇すると、鼻で嗤ってしまいようになるのですが、それを公言すると、女子諸君に嫌悪されるので、言ってはいけません。


2013/08/21

■「冷蔵庫」句

むかしは氷を入れて使っていた冷蔵庫も、電気となっては、いわゆる「季感」は薄い(余談ですが、俳人さんはなぜか「季節感」と言わず「「季感」と言います。微妙な違いがあるのでしょうか。よくわかりません)。「冷蔵庫」は夏の季語ということになっていますが、まあ、そのへんはどうでもよろしい。季語がほしい読者は、他に季語が見当たらなければ「冷蔵庫」が季語と思えばいい、というくらいの話。

  冷蔵庫に入らうとする赤ん坊  阿部青鞋

  真白な大きな電気冷蔵庫  波多野爽波(1941年)

冷蔵庫の句は、このあたりから始まると見ていいのか。前者の「むむむ」感は尋常ではなく、後者の脱力は特筆に値する。 爽波はどうでもいいような句を山ほど作り、そのなかからいくつかの「素晴らしい〔どうでもよさ〕」が生まれた。

  元日の開くと灯る冷蔵庫  池田澄子

  冷蔵庫しめてプリンを揺らしけり  雪我狂流

電気冷蔵庫に欠かせない「開閉」の行為は、この2句でほとんどの可能性がカバーできている。

ここでちょっと趣を変えて、景としての美しさという点で、次の句が出色だ。

  遠浅にしばらく刺さる冷蔵庫  振り子『月天』(2003年)

どんな批評・鑑賞もムダグチになってしまうような句こそが、最大の快楽を生み出す。口ぽかーんと、この句を眺めている以外に為すべきことがない。

「冷蔵庫」の句は、個人的にひじょうに気になるので、このように自分の中の「冷蔵庫」句を並べて考えてみるわけですが、最近、また新たに見つけました。

  誰もゐぬ客間をとほり冷蔵庫  中嶋憲武 『蒐』第12号(2013年7月28日)

  もう寝やう凭れて熱き冷蔵庫  野口る理 スピカ(2013年8月1日)

どちらも、とてもいいですね。

2013/08/17

■くにたち句会(8月)のお知らせ

2013年8月25日(日) 14:00 JR国立駅改札付近集合
句会場:いつものキャットフィッシュ

よろしければ句会後の飲食も(会費アリ)

2013/08/09

■消息:麻雀3句を掲載していただきました

「blog 俳句空間 - 戦後俳句を読む」の「夏興帖」というコーナーに3句掲載していただきました。

http://sengohaiku.blogspot.jp/2013/08/natsukyocho4.html


寄稿依頼(募集?)が届き、麻雀の句が3句セットで手元にあったので、ちょうどよかったです。

(3句という句数が都合が良かった。麻雀の句10句はキツい。つくるほうも、きっと読むほうも)

麻雀の句はあまり見ない。なんでかね?と思っていました。今回の掲載は、自分で喜んでいます。

 ●

あと、個人的な楽しみというか遊びですが、字数を合わせました(今回は13文字)。このサイトの俳句掲載は字間均等なので、よくある均等割のようなボックス型にならない。そこで字数を同じにしてボックス型になるようにしてみた(自分の中だけの遊びのルール)。

前に掲載していただいた「東京タワー」10句。

http://shiika.sakura.ne.jp/works/may-25-2012/2012-05-23-8867.html

これは14文字で揃えたのでした。

2013/08/05

■続・西新井大師

句会場は、門前も門前、西新井大師山門の目の前にある清水屋。どこをどう見ても老舗。


この写真では、広さが伝わりません。70畳以上? 月天史上最大の句会場だったのではないでしょうか。

兼題2つと吟行句をつくりました。

たまには長いのをつくろうかと、ふとそんなことを思ったのは、このところ五七五定型について考えたり書いたりしたからかもしれません。で、短冊の長さが足りるかなあと思うくらい長いのをつくって、投句。何人かが面白がって、というか面白半分で点が入りました(こういう乱暴は、無点だと悲しさがつのります)。

帰宅してから数えてみると、31音。

短歌超え、ならず、です。

2013/08/04

■西新井大師

新井薬師は自宅からそれほど遠くない。西新井大師は、それとまったく違うので要注意。土曜日、月天の吟行句会で西新井大師の風鈴市へ。

大師前駅は、東武・西新井駅から大師線で一駅目。一駅だけの大師線です。

西新井大師の門前は、かなりいい感じです。こぢんまりとして、さびれているわけでも、さびれていないわけでもない。ちょうどその中間くらい。


カラオケ屋さんなんでしょうか。「えんか・スター」です。

「かどや」という甘味処が、いいかんじでした(≫画像)。あんみつを食す。こんど、冬に行くことがあったら今川焼きを、夏ならかきごおりを食べます。強い決意。 


この日のことは、週刊俳句・第328号の後記にも書きました。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/08/328_4.html

2013/08/03

■ピースフル




それはそれとして自動翻訳がつくりあげるカオスな世界。

2013/08/02

■火星ほか 『川柳木馬』第137号

同じ作風の人が集まって俳句同人誌をつくるパターンもあろうかと思う。それはそれでいいと思う。まったく違うのに、同じ同人というのも奇妙なことだから。

『川柳木馬』第137号(2013年夏)に並んだ同人諸氏は、それぞれ「別のこと」をしようとしているように見える。川柳は不案内でよくわからないから、それが『川柳木馬』の事情なのか川柳全般のことなのかはわからない。

俳句の同人誌では、「お一人様御一句」をいただきます、ということが、それほど社交辞令ではなく出来るが、みなが「別のこと」を志向している場合、私という読者と、波長のようなものが合えば、たくさんの句がしっくりくるし、 そうでない場合はそうでなくなる。

以下、気ままに何句か。

火星からこぼれた種か烈女たり  桑名知華子

三角や四角の涙雨しとど  同

普遍とは顎にたしかな噛みごたえ  内田万貴

十年も抱けば香りだけになる  同

しかられて今夜はにんにくのかたち  小野善江

ヴィンラディンではないか丘に立つ霧  西川富恵

日本書紀傍線部分から出火  同

玄関に満月がきて泣いている  同

付け睫毛草間弥生と瓜二つ  同

こうしては居れぬカレーを口いっぱい  畑山 弘

妖怪が探してまわる貸家札  濱田久子

絵葉書で届く姉さんの王国  清水かおり

いつまでと聞いてくる梱包の舌  同

石臼の重さ千年眠り込む  古谷恭一


『川柳木馬』は発行人・古谷恭一。A5判、本文24頁。編集室のメールアドレスとして、kaori-mokuba@apost.plala.or.jp の記載がある。

2013/08/01

■五七五は広い

五七五は、もっと広く解釈して、のびのびさせてあげたほうがいいのではないか、本来そういうもんだったし、という話を書きました(ウラハイ:俳句は「音」でできている?)。

その話題をもう少し。

拙作に、《燕むかしへ帰るチェ・ゲバラの忌》というのがあって、これは七五五。《燕むかしへ//帰るチェ・//ゲバラの忌》の七五五も、五七五定型に含めていいと考えています。

(「チェ・ゲバラ」は5音。「・」を1音に数えないと、とてもヘンなことになる。「・」を読まずに「チェゲバラ」と4音で、実際に声に出してみると、ヘンだとわかる)。


一方、上田信治さんが挙げている、《牛久のスーパーCGほどの美少女歩み来しかも白服・関悦史》も、破調とはいえ、「五七五」の範囲。

「歩み来」という4音に、「五七五」への意思が見える。このあたりは定型的な運動神経ともいえる。

この句にまで「五七五」を広げていいのかというと、それはよいのです。金子兜太の多くの句もまた、「五七五」がたどる一つのモードだったのですから。



なお、五八五については、私は不寛容なほうです(中八ではなく五八五)。

「中八はダメ」って教わったから、ではないです。そんなことを言う人は幸か不幸か、周りにいなかった(数年間在籍した「麦」はむしろ五八五に寛容だった気がする)。

なぜ不寛容かというと、五八五の句で、「いい韻律」と感じたことがないから。経験からする判断というだけです。 

参照/備忘録:「五八五」考察 
http://d.hatena.ne.jp/nande_kukai/20120219/1329678471


それと…
もし本当に「リズムが悪い」のであれば、五・七・五というごく初歩的で簡単なルールがこれほど守られないのは何故なのだろう。(兵頭全郎「中八考」
これは、意味を優先した作りになっているから、というのが大きな理由だと思っています。