2016/11/30

■置き炬燵 『翔臨』第87号の一句

『翔臨』第87号(2016年10月31日)より。

考へてみる三脚の置き炬燵  小笠原 京

可能なのか。三角形の天板、というのはナシ。可能なら、どんな仕組み、どんな状態なのか。もちろん、人がほっこり坐っている図として、想像したい。

この考えごとは、ぞんがい愉しい。


2016/11/29

■はやいめざめ

旅先では、枕が違うこともあるのか、早く目が醒める。


2016/11/28

■某日日記:牡蠣の夜



某日。句会。席題5題(山、葉巻、ます=音、抗菌)+句会場所のロージナ茶房嘱目。

  硝子器に葉巻ぎつしりカストロ逝く 10key

  寒林へ増田明美化する女

  数へ日のプリンに天地ありにけり


句会後、焼き牡蠣→剝き身で牡蠣鍋→雑炊。



某日。週刊俳句・第501号、寄稿+更新当番。

すべてオッケー 瀬戸正洋『へらへらと生まれ胃薬風邪薬』を読む

瀬戸さんの俳句は、独特のコクがあって、読むとほっとします。

後記

知人女性と話した直後に書いたせいか、なんだかガーリーな口調。シュークリームがどうしたこうしたって、なんだ、これ?

言い訳しておくと、小さいとき、病気になるとシュークリームを食べさせてもらえた過去の出来事がが大きく影響しているんだと思う。

ウエストのシュークリームはでかい。348kcalはゴハン2杯くらい。怖い。

2016/11/27

■街の暮らし 

裏町に鬱金の月の低くあり  小川軽舟

後の月花屋に野辺の匂ひして  同


ちょっと出かけた先に、月が出ていたり、花屋があったりする暮らしの気持ちよさ。


掲句は『鷹』2016年12月号より。


2016/11/26

■おでん

おでんの季節ですね。


それはそうと、句を引いてただけるのはありがたいことです。



こういうふうに横組になると、ぜんぜん俳句に見えないところが、すごい。


そういえば、「西原天気」という宛名を見た郵便配達の人が「天気予報関係の会社なんですか?」と、玄関先で立ち話的に。

住所が西原町なので、西原町の天気を予報する会社(表札には会社名もある)と思ったのだろう。どんだけ的を絞った事業なんだ!?

俳号には見えない。検索したら、日本のどこかの西原町の天気ばかり出てくる(はず)。それが狙いではあるけれど。

閑話休題、前掲句の出所は、こちら。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2015/04/10_39.html


2016/11/25

■冒頭集:相棒

友達が欲しかった。いや、単に友達という言葉ではいいつくせない相棒が欲しかった。
阿佐田哲也「シュウシャインの周坊」
『阿佐田哲也麻雀小説自選集』(双葉社・1975年3月)


古書に残った署名。忘れて過ごしたが、
いまになって、心にしみる。
署名・サイン本に興味のない自分だが、
これは特別の例外。

2016/11/24

■週俳500号を個人的に記念する・その4 自薦記事・補遺 句集について書くことの苦しさ


週刊俳句・第500号に自薦記事をあげた。


対談・座談に絞ったわけですが、ここでは「句集を読む」に関連して、すこし。


句集を読むのは愉しい。しかし、それについて何かを書くのはとても苦しい。大きな負荷を感じる。

週俳には、たくさんの「句集を読む」記事を寄稿した。どのくらいか自分でわからないくらい数多く。けれども、ほとんどは「✕✕句集の一句」というスタイル。これなら比較的書きやすい。自分のハードルが下がる。

一方、1冊まるごとをレビューした記事はとても少ない。

そのなかから、3つ、あげておきます。

虫・石・星〔断章風に〕 喜田進次句集『進次』を読む

後衛の魅力 澤田和弥句集『革命前夜』を読む

榮猿丸句集『点滅』のオフビート感

3冊のうち2冊の作家はすでに鬼籍。おひとり(喜田進次)は、書いた時点ですでにこの世におられなかった(『進次』は遺句集)。知遇はなく、それまでお名前も存じ上げなかった。


句集1冊をとりあげるのは、どんなかたちちであれ(上の3記事はぞれぞれ違うスタイルです)、私のとってたいへんな作業です。時間がかかるという意味ではありません。気持ちの負荷。

これを何十回もやってたら、死ぬな、と思うくらい。

いや、だからといって、気をつかっていただく必要はありません。とくに句集の作者諸氏に、気をつかっていただくとしたら、申し訳ない。負荷を感じるのは、私が勝手に、ということですから。

そして、ここが不思議なのですが、こんなに苦しいのに、自分からすすんで書いている。書きたいから書いている。依頼を受けたときも(もっぱら紙媒体)、同じです。発端が依頼でも、受けた以上、書きたいから書く。書きたいことを書く。


句集について何かを書くことは、「紹介」だと思っています。レビューを読んだ人が興味を持ってくれるように書きたい。

「批評」なんて考えたことはない。たまに、批評の要素が含まれるかもしれませんが(批評を見出す人がいるかもしれませんが)、本人は批評をやる気がない。

自分に批評ができるなんて思っていない。

これは一句を取り上げるときも、一冊を取り上げるときも、同様。


ただ、句集評・句集紹介のパターンにそって俳句的言説のクリシェを並べる、というのだけは避けたいと思いつつ、やってる。


頼まれてもいないのに、書く。週俳では、すべて、そうです。

たいそうなことが書けるわけでもない。自分の記事にあまり意味はない(「句集を読む」でいえば、紹介程度)。有意義なこと・刺激的なことを巧みに書ける人は、そのへんに(多くはないが確実に)いる。

なのに、書く。

これは不思議なことですよ。じつに。




■壁

いただいた絵葉書などを壁にピンしている。




えらくワールドワイドな一画も。


2016/11/23

■ウラハイ自薦記事:補遺 SSTの句が好物なのです

承前≫http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2016/11/5002.html

SST関連のウラハイ記事を自薦したのですが、少し付け加えると、関悦史さんの句でも、「引用の置きもの」をつくろうとしたのです。ところが、関さんの句って、それぞれが引用元/参照をもっているようなつくりなので、どうにも難しい。むりやりやったとしても冗長・重複・お門違いに陥る。で、違うパターンにしたわけです。


ところで、私、SSTの人たちの句が好きなのですよ。作風は三者三様。ぜんぜん違う。でも、3人とも、好きなんですね。

 鴇田智哉の句=《作曲》的

 榮猿丸の句=《演奏》的

 関悦史の句=《批評》的

…という区別を、私なりに、いま思いついたのですが、偶然とはいえ(SST結成がそもそも偶然と聞いている)、このようにまったく違う。おもしろいユニットです。

で、3人の句とも、ほかにあまりない。ここは重要。


最近、あまり活動はないようですが、活動なんてどうでもいいんじゃないですかね。この組み合わせが重要なので。


■思い出せない

道にさざんかが咲いているのを見て、嫁はんが唱い始めた。

「さざんかさざんか♪…ほにゃららら」

早くも歌詞が続かない。思い出せない。私も同様。

「アヒルだ、アヒルだ♪」

アヒル? それはきっと違うなあ。

「踊ろうか、踊ろうよ♪」

なんかむちゃくちゃ。狂気を孕んだ世界だ。

正しくはどういう歌詞か。それにはあまり興味がないから、アヒルが踊るってことで、オッケー。





2016/11/22

■週俳500号を個人的に記念する・その3 みなさんの記事を楽しんだ


週刊俳句・第500号ではたくさんの人のいろいろな記事をたのしく拝読。

1 ああ、こんな記事あったなあ、というなつかしさ

とりわけ、岡野泰輔さんの記事にあったコレ。

〔サバービア俳句・番外編〕SUBURBIA SAMPLER for Haiku Weekly

俳句を始めるはるか以前の友人との会話は(BBSかメールだけど)、自分がリラックスして楽しげなのが、いま読んでもよくわかる。

2 あらためて週俳がどんな存在なのかが腑に落ちた

荻原裕幸さんの「空気のようなものとして読者に送り続けてくれる」「混沌を、混沌のまま抱えて、決して明確な輪郭を与えようとはしない」といった表現、田島健一さんの「誰もが自分だけの俳句を抱えながら、予定調和に抗して固有の俳句を書くための努力」といった把握など、【週俳500号に寄せて】のコーナーのいたるところに含蓄を見出だせる。

なかでも、「ああ、そういうことだったのだ」と納得したのは、トオイダイスケさんによる次の一文。
そこに何かを築き上げるためでなく、どこかに行こうとする誰にとっても寄ることができる場所
週俳をスタートさせ、続けてきた、その根本のところには、コレがあったのだ、と。自分のなかのふわっとした企図やスタンスを、これまでになかったかたちで喩えてもらっている。

「築かない」のは読者だけではない。週俳も、そこになにかを築いたりしない。言い方を換えれば、毎週更地になって別の建造物が建つ。誰にとっても中継地点であること。それが週俳のめざすところなのですね、きっと。

2016/11/21

■週俳500号を個人的に記念する・その2 ウラハイ自薦記事



第500号に本誌の自薦記事について書きましたが、ウラハイから自薦記事をあげるとしたら、本誌の「SSTまるごとプロデュース号」(第199号 2011年2月13日)の連動記事3本。

引用の置きもの 宮川淳+鴇田智哉
http://hw02.blogspot.jp/2011/02/blog-post_14.html

ツイートでたどる セキエツ氏の天使的日常
http://hw02.blogspot.jp/2011/02/blog-post_15.html

引用の置きもの ジャン・ボードリヤール+榮猿丸
http://hw02.blogspot.jp/2011/02/blog-post_17.html


宮川淳の書名『引用の織物』にひっかけて「引用の置きもの」。もっとも、この言い方はロラン・バルトほか批評関連で広く用いられる比喩/用語。

「置きもの」という語は、自分で気に入っている。俳句って、イコン(宗教性のないイコン)のようなもの、置きものようなもの、と考えているので。


なお、「ウラハイ」の前身は、「あかるい俳句」という名の1か月間の試用運転。これを憶えている人はいないと思うけれど(私も忘れていた)。

前夜祭≫http://hw02.blogspot.jp/2008/06/blog-post_29.html




2016/11/20

■週俳500号を個人的に記念する・その1 スタートの頃

500はやはり区切りなわけで、2000回を超す(!)「アタック25」には遠く及ばないとしても、ね。

≫週刊俳句・第500号
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/11/50020161120.html

運営のひとりとして、発案者として、ちょっとお話をします(初めての内容ではないと思うけど)。


1 そもそもの始まり

俳句ウェブマガジンを思いついたのは、創刊の半年くらい前。アイデアの発端は、夜中近く中央線下りの電車の中。なにかのイベントか句会の帰りだったのだろう。田島健一さんが「俳句のポータルサイトができないかなあ」てなことを口にした。

ポータル、って今はあまり言わなくなりましたね。Yahooの俳句特化版みたいなイメージだったのでしょうか。当時はブログ全盛で、トラックバックで俳句にまつわる見解・意見を交換していた。といっても少人数。そこに田島さんも含まれていた。

ポータル? んんん、それはダメだろうなあ。おもしろくなさそう。そんな感想を言った。

で、ひとりになったとき、雑誌形式ならおもしろいかも、と。

そのアイデアを頭の中で具体化するのに時間も手間もかからなかったけれど、ちょっとした事情から半年ほどアイデアを寝かせ(角川俳句賞の選考で私の作品がひっかかり、私の名前が悪目立ちした。そのほとぼりが冷めるのを待った)、2007年春、創刊準備号、創刊号をつくったわけです。

当初ひとりで始めたのは、複数になると時間がかかるから、という理由。

ひとりだと打ち合わせやすり合わせの時間はゼロ。とりあえず始めてみれば、運営を手伝ってくれる人が見つかるだろうと思っていました。ひとりでずっと続ける気はなかった。実際、創刊当時、「俳誌を読む」を分担してくれた五十嵐秀彦さん、上田信治さんと合同で始まったようなものです。


2 こんなに長く続くと思っていたか?

…という質問には、「思っていなかった」と答えるパターンが多い。挨拶として、ね。

でも、答えは、

「続くと思ってた」

です。理由は、続くように設計したから。


3 紙vsインターネット

はじめの頃は、こういう不毛の対立が、俳句世間には目立った。今でもあると思いますが、当時は、いまよりさらに、ネットがどうの、従来の紙媒体がどうの、という捉え方が優勢でした。

週俳をその対立の脈絡で考える向きも多かったようです。俳句総合誌を、冷静にレビューした記事を載せていたことも、あるにはあるのだろうけれど、それよりももっと感情的・非理知的なものです。

《紙》側にはラッダイト的な嫌悪・恐怖があり、また、「程度の低い」「わけのわからない」「顔の見えない」インターネット俳句への蔑視があるのでしょう。一方、《ネット》側には、新技術への興味のほか、アンシャン・レジームな権威への対抗心のようなものもあるかもしれない。

けれども、週俳は、そのどちらにも与しない。というか、そんな対立にまったく興味がない。紙とかネットとか、どうでもいい。そういうスタンス。

インターネットの技術的・コスト的メリット(コストは広義)を利用し、紙(リアル)の権威や信用も利用する。これは現在も変わっていない気がします。


(つづく・その1と書いた以上、それはやはり)

【オマケ 01】
トップ写真の最初は第75号。意外に遅い。どこかで拾った写真だったけれど、それはやはりまずいということで自分や読者の撮った写真を使うようになった。その最初が第79号。


【オマケ 02】
2007年、音楽業界はどんなだったのだろうと、こんな記事が。
http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20071227/1005785/

ディストリビューションに関して画期だった模様。週俳スタートにむりやり結びつけたい。

2016/11/19

【お知らせ】11月のくにたち句会

2016年1127日(日)14:00 JR国立駅改札付近集合

句会場所:ロージナ茶房(予定)。

席題10題程度

句会後の飲食もよろしければどうぞ(会費アリ)


ご参加の方は、メール(tenki.saibara@gmail.com)、電話etcでご一報いただけると幸いです。

問い合わせ等も、上記メールまで。

■フライヤーづくりを手伝う。それが夫婦の仁義ってものなのです

嫁はんが来年3月にまたピアノデュオのコンサートをやるというので、チラシ(フライヤー)の原稿づくりを手伝う。

(以下、世界一早い告知)

モーツァルト 四手のためのピアノソナタ ニ長調
Mozart: Sonate in D für Klavier zu vier Händen KV 381

サン=サーンス 動物の謝肉祭
Saint-Saëns: Le Carnaval des Animaux

シャブリエ 道化の行進
Chabrier: Cortege Burlesque

ラフマニノフ ヴォカリーズ
Rachmaninoff: Vocalise, Op.34 No.14

ラフマニノフ 組曲 第2番
Rakhmaninov: Suite No.2 Op.17

ビゼー カルメン幻想曲(アンダーソン編曲)
Bizet: Carmen Fantasy(arr. G. Anderson)

2017年3月17日(金)開場18:30 開演19:00

杉並公会堂小ホール 荻窪駅(JR中央線・東京メトロ丸ノ内線)北口より徒歩7分


【付録】嫁はんのコンサートで好きなエピソード・ベスト3

弦が切れた。本番中。しかもこれまで二回

吾郎さんに演奏中の背筋を褒められた

楽屋で靴箱を開けたら下駄が出てきた


2016/11/18

■冒頭集:唾を吐く

先日、精神科救急の当直をしていたら、中年の女性患者に唾を吐きかけられた。小匙に一杯ぐらいの量の唾液が、わたしの額を直撃した。油断していたので避けそこねたのである。
春日武彦『無意味なものと不気味なもの』(2007年/文藝春秋)

2016/11/17

■レナード・コーエンも亡くなっていたのだ

嗚呼。

Leonard Cohen 1934年9月21日 - 2016年11月7日

いちばん好きなアルバムはフィル・スペクター制作のDeath of a Ladies' Man(1977年)。その1曲目、True Love Leaves No Traces、それからとりわけ大好きな Iodine (ヨードチンキ)。






こっちが本線なので、初期のも貼っておく。

■『オルガン』第6号の座談会 補遺

このあいだ出た第7号の話じゃないです。在庫整理的に。

承前≫http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2016/08/6_18.html

1 聞き手、多すぎ

金子兜太を囲んで、といった趣旨ですが、座談会よりもインタビュー色が強いので、聞き手は絞ったほうがよかったかもしれません。何人かで一緒に行くのはいいんです。お茶飲んでただけの人がいてもいいし、編集時に、「いなかった体(てい)」にしちゃう手もある。

2 編集していいんですよ

ちょっと話があっちゃこっちゃ感。

しゃべったそのままが座談記事・インタビュー記事になると思っている人はいないだろうけれど、実際には、想像以上に手が入る。削る、言い換える(作文的整理)、発話の順序を変える、ふたつに割る、ひとつにまとめるetcの作業を経て、流れができ、そうやってはじめて「自然に」語っているように読める。

もっとも、これ、わりあいたいへんですから、ある程度、でいいですけどね。それに、整理し過ぎると、ライブ感が損なわれる。そのへんのあんばいは難しい。


以上のようなことも思いましたよ、読者として無責任に。





2016/11/16

■カーティス・メイフィールド=クラゲ説

とりわけワウペダルのときがそうなのですが、カーティス・メイフィールドのギターはクラゲのよう。そこが大好きで(季語「水母」も好き)、ゆったりと要素を繰り返していく「ストーン・ジャンキー」などは、ああ、クラゲ、ストーンド状態のクラゲ、ジャンキーのクラゲだなあ、と、気分が落ち着きます(法には触れていません)。


カーティス・メイフィールドのギターとクラゲが結びつくのは、誰かがそう言っているのを読んだせいなのか、勝手に自分でそう思うのか、もういまではわかりません。それもまたクラゲ状態。

もっとメロディアスな曲でも、ギターだけはクラゲ、という演奏が多々あって(ライブを観てきたように言っていますが、ユーチューブです)、カーティス・メイフィールドは、私にとって、青よりももうちょっと暗い色(darker than blue)のクラゲなのです。

ちなみに、メイフィールドは初夏の季語。

2016/11/15

■糸が出ること、鉄瓶たること 『オルガン』第7号の一句

茸から糸でて南部鉄瓶か  生駒大祐

それはちがうと思う。


掲句、このところの生駒大祐調とは別路線と思いますが、《汝》とか《恋》含みの、サナトリウムの文学青年みたいな句(体型・体重とぜんぜん合ってないよー)よりも、こっちのほうが好ましい。

私がキノコ好きすぎってのも、あるんだけどね、じつは。

『オルガン』第7号(2016年11月6日)より。


2016/11/14

■追悼レオン・ラッセル

レオン・ラッセルが亡くなった。

2曲、貼ります。

1曲目は、おそらくあまりレオン・ラッセルぽくないデュエット曲。

Leon & Mary Russell - Rainbow In Your Eyes


思い出深いのは、マーク・ベノとの共作。Asylum Choir II。2曲目はそこから1曲。

Leon Russell & Marc Benno - Intro to Rita & Straight Brother



私(たち)の世代のロック・スターが、これからどんどん鬼籍に入るのでしょう。縁起でもないけど、それは自然の摂理。

■外階段:northbound 2016年初冬


2016/11/10

■アーバンでソウルな2016年日本

星野源が、(ものすごく大雑把な括りだけれど)アーバンソウルな音を茶の間にひろめた功績は大きい。

ちょっと凝った音も、ふらっと立ち寄るYouTubeで見つかります。

例えばだけれど。






踊るにしても、ミディアムテンポがよろしいです。年をとると、ね。

2016/11/09

■小津夜景『フラワーズ・カンフー』がとてもいい



小津夜景『フラワーズ・カンフー』(略して『フラカン』)の「いいな」と思うところ、その1。

たのしく好き勝手。

自分がやりたいように好き勝手に、たのしくつくった感じが伝わってくる。

「たのしく」つくるのはわりあい容易。句集をつくる人は誰でもたいてい、たのしくつくる。

ところが、「好き勝手に」つくるのは、意外にむずかしい。

なぜなら、「好き勝手」を邪魔する要素が、そのへんにたくさん転がっているから。

例えば、句集には体裁パターンがある。それに乗っからないのが、「好き勝手」の第一歩なのですが、その一歩が踏み出せない句集はとても多い(その気の有無は別にして)。

あるいは俳句プロパー(俳句エスタブリッシュメント)が読んだらどう思うだろうか、といった懸念、すなわち「評価」に関する心配。こうした凡俗の懸念・心配を振り払って「好き勝手に」つくる。

言い換えれば、なにものにも縛られずに遊ぶ。そこがとても高貴。

句集というのは(なんでもそうかもしれません)、作品が高貴である必要はないけれど、態度は高貴でなくちゃあ、ね。


『フラカン』の良いところ、その2。

ユニーク。

これは貴重。

好みや見識は読者によってさまざま。こういう句はダメ、こういう本はダメという人もいるでしょう(逆もいる)。でも、好き嫌いのその前に、「ほかにあるか、ないか」。これがだいじ。

ユニークな句集は、じつはとても少ない。

例えば、製本所がものすごい乱丁をやらかして、5冊くらいの句集がぐじゃぐじゃに合体して200頁の句集に仕上がっても、違和感なく読めるのではないか、と思うくらい、似通ったところで「俳句をしている」句集が多い。

あるいは、テキスト段階で、何冊かの句集から数十句ずつ抜き出してシャッフルしても、そのまま読めちゃうんじゃないの? というくらい同じようなのノリの句集が多い。

そんななか、「なにはともあれユニーク」という句集は貴重。


『フラカン』の良いところ、その3。

タイトル。

フラワーズ・カンフー、って、これはもう、句集のタイトルとして、抜群でしょう。

ご自分の仕事から「カンフー」。それを冠するに「フラワーズ」。

ところで、タイトル考案に際しては、ある一句に使った語を句集タイトルにするのがほとんど。それをしない場合、句集のもつムードをタイトルに代理させる手があるが、『フラワーズ・カンフー』は、それにもあたらない。

ムードを表すなら、もっとポエティックな語の選択になるはず。〈庭〉とか〈彷徨〉とか〈ここにあらざるもの〉とか〈変容〉などが鍵語・鍵概念になろうか。ところが、そのあたりからみごとに道を逸れて、フラワーズ・カンフー。

カッコいいよ、このタイトル。

(終わり)


と、これで終わったら、内容に触れないことになりますが、いずれ、『週刊俳句』かどこかに書きたいと思っています。

すでにレビューや紹介文がネット上にあります。それを読んで興味をもった人は、買ってみるといいです。価格も2,000円と正常値の範囲内ですし。

著者自身によるメニュー紹介と購入アクセス先
http://yakeiozu.blogspot.jp/2016/10/blog-post_23.html

■マンガで読む久生十蘭

久生十蘭をマンガで読ませる河井克夫『久生十蘭漫画集 予言・姦』。予想以上におもしろく読めた。こういうの、アリ、ですね。


で、余談。帯文の「日本の想像力に戦け。」はちょっとハードル上げすぎ。惹句とは、そういうものだけれど、そこまで奇想・意表で読ませる物語でもない。帯文の「適温」というのは難しいものです。

もっとも手に取る人の個人差は大きい。帯文は、あんまりがんばりすぎないかんじが好み。




2016/11/08

■「中に書き込み、割れあり。」

拙句集『けむり』@amazon、さっき見た中古。



「中に書き込み、割れあり。」とある。

どんなことが「書き込」んであるのか。見たい衝動にかられる一方、見るのが怖い。

「割れ」にも興味津々。造本的にやがて割れるであろうことは承知の上。どんなふうに割れているのか、見たい。

いずれにしても、読んでくれたということだから、うれしい。


しかし、いくらなんでも高すぎる。破れてるわ、書き込みはあるわ、のわりに高すぎる。値段は刻々と変わっていくようだけれど。


一方、こんなものもあって。


「使用感も無い」というところが、作者としては、なんとも悲しいですよね。


■かつて文士は 『円錐』第71号の一句

『円錐』第71号(2016年10月30日)より。

春を待つ反故を背後にまるめ投げ  山田耕司

かつての文士の景色。パソコンでモノを書く今ではもうなくなった。背中や蓬髪や、なんならフケまで見えてきそうな、俳句の不思議、勝手な(かつ貧困な)想像力の不思議。

2016/11/07

■『はがきハイク』第15号のことなど

『街』のイヴェントで、おみやげをもらいました(↓下写真)。気遣いのある結社です、いますぐ入会しましょう(宣伝で恩を返した)。


まだ開けていないけれど、楽しそうです。消しゴムを彫って、なにやらつくるみたいです。なんなら「はがきハイク」もつくっちゃいましょうか。

って、ちがうちがう。デザイン担当は亞子姐さんです、あくまで。

というわけで、業界最小最軽量の俳誌『はがきハイク』第15号。

でけたでー。

各所へと勝手に送りつけるなか、送り漏れも多々あろうかと存じます。「送られてこないぞ、送れ」という方は tenki.saibara@gmail.com まで、その旨、お知らせください。

2016/11/06

■にはとり 『里』2016年11月号の一句

『里』2016年11月号より。

秋の山までにはとりを連れし人  堀下翔


かわいい。

「にはとり」好きにはたまらない一句。


■週俳について集まって相談することも何年かに一回くらいはあるです

某日。若者ふたり+篠さん+私で、『週刊俳句』の今後および第500号(11月20日)、4月の10周年オフ会etcについて謀議(日本語、まちがってないよな)。



という流れ。

若手ふたりの対談動画は、第500号に載せるので、ご期待ください。


で、そこから洩れた話題(つまりオフレコ。なのですが、ここで書いてしまうのでオフレコにならない)。

1 I駒D祐氏の言う「技法」には、たぶんに神秘的な部分がある。アルゴリズムに棲まう幽霊、的な。

2 F田W之氏=ネイティヴィズム。グローカル(globallocal)と解していましたが(globalはカタカナ書きの「セカイ」)、まだ離れてもいないのに、望郷が過ぎる。密航船にでも乗せて、どこかにほっぽり出したい気分になりました。

と、ここまでなんだかわからないメモになってしまっているので、ちょっと具体的な物件を。

3 週刊俳句でやった結社・同人対決(9月は「澤」vs「街」)。次回企画で、《ふらここvs群青》という、なんだか身体のどこかがむずむずするような組み合わせ案が浮上。

4 結社・同人対決に「オルガン」の案も出たが、5人というのがどうにも収まりが悪い。レストランに行って、「4人席なら空いてるけど、5人だから空くまで待つ」的な。誰かひとり、クビになってから、考えることに。

ほかにも、たくさんありましたが、忘れた。

2016/11/05

■句集の序文がいかにバカげていて読者に迷惑か

…について、以前、ウラハイに書いたのですが。

http://hw02.blogspot.jp/2016/07/4.html

映画に喩えるよりも、小説本のほうがわかりやすい。

小説が始まる前に、どんな作家か、この話のどこが見せ場か、そんなことを滔々と、巻頭で語られたら、どうします?

げんなりしますよね。その本、捨てたくなりますよね。

(実際は捨てたりはしなくて、序文は飛ばして、無視して、話を読み始めるわけですが)

というわけで、序文、要らない。


なお、著者自身が書く手は、ある。ネタバレに気をつけながら(つまり、集中から句を引いたりせず)、読者への挨拶として。


なお、鴇田智哉『こゑふたつ』(2005年)の序文(今井杏太郎)は、上記に該当せず。


すばらしい。

「黙って静かに」は、句集に序文に寄せまくるエラい人たち(結社主宰etc)が肝に銘じるべき、かな?(かわいく首をかしげるポーズで終わる)

2016/11/04

■スラップスティックに過剰 久保田紺の一句

寒くなってまいりましたね。なのに、こんな話題でなんですが。

ホームランバーの当たりがとまらない  久保田紺

ホームランバーと聞いて、姿かたちまでは思い出せなくても、籤付きのアイスクリンであることはわかる世代です。

で、調べてみると。

http://bonkura-oyaji.blog.so-net.ne.jp/2009-09-12

ああ、これこれ。銀紙に赤・青の印字というのがこの手のアイスの定石デザインのような気もして、で、この手のアイスがたいそう好きでした。美味しそうでしょ? この包み紙。

さて、掲句。

当たればもう一本なのだから嬉しいのですが、「とまらない」となると、これはもう、当たったとか嬉しいとかいう話ではなく、なにかとんでもないことが起こっている。

食べたら、当たり。もう一本。食べたら、また当たり。もう一本。食べたら、また当たり。もう一本。食べたら、また当たり。もう一本……もう、笑うしかない。

これは例えば、『ぼくの伯父さん』(ジャック・タチ監督/1958年)、ビニールホース工場で、ホースが絶え間なく出てくる、あの可笑しさに似ているかもしれません。


久保田紺句集『大阪のかたち』(2015年5月/川柳カード叢書)より。


過去記事≫アフロとかポニーテールとかテンガロンハットとか
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2015/10/blog-post_25.html

2016/11/03

■外階段:神奈川区青木町あたり

日曜日に結社「街」のイヴェントに参加したあと、駅近くのホテルで一泊。翌日「街」同人の方々と散歩。地元のゆげさんが青木町(元の神奈川宿に近く旧跡が多い)を案内してくださる。

途中、歴史的遺物よりもむしろ外階段に目が行ってしまう。

幅40cmくらい? こんなに狭い外階段はめずらしい

ゆげさん推奨物件「さくら旅館」。脇に回転外階段

地階の存在を匂わすかのような扉と窓

2016/11/02

■世界は、否、我が家はゲットーか?

1月にギターを購入。のんびり続けております。

過日、嫁はんに電子ピアノ(ステージピアノという分野があるらしい)を買わせるという目論見はいちおう成功。


でね、10月初旬に初めて合わせました。

夫婦ふたりで演奏! うひゃあ、おぞましい!

そんなことを言うものではありません。老後のたのしみは、いくつあってもいい。

ダニー・ハサウェーの The Ghetto。2コードの繰り返しです。ベースがないので、ギターでベースラインとコードを半々。ついで、数日前に2度目。このときはブルース進行。月2回ペースというのは頻度低すぎにも思えるかもしれませんが、先は長い。

エレピ購入を大いに渋っていた嫁はんですが、居間に置いたコレで、本業のほうの練習をしたりして、「テレビ見ながら出来るのがイイネ!」などとのたまっております。

2016/11/01

■困った席題に出くわしたときの対処法

結社『街』のイヴェントで横浜まで出かけ、「俳句相撲」という団体戦の句競べ(ルール等、詳しく知りたい人は『街』の人に訊いてください)に参加。ひとりずつに席題が割り振られて、句をつくり、選を競うのですが、「その題だけはイヤだ」と思っていると、それに当たってしまうのが世の常でござんして、私に与えられた題は「ハロウィーン」。

つくったことがないし、つくる気ゼロ、これからも一生つくることがないと思っていた題でつくらねばならないときの気持ちって、わかりますか?

(くそったれ。世界よ終わりやがれ)

でも、つくるしかない。「ハロウィーン? それではみなさま、さようなら」と帰るわけにもいかんでしょう? 

というわけで作句にとりかかったのですが、どう対処するかに、ふたつの方法がある。

1 わけのわからん句をつくる

2 すっと身をかわす

どうでもいいという作句態度は同じですが、出来上がる句はずいぶんと違ったものになる。

「1」はつまり、「ハロウィン菅井きん」でもなんでもいいから、前のめりに失敗する。

けれども、こういう席で前のめりに倒れると重傷を負う、というのが相場です。顔じゅう血だらけ。

だから、「2」を選んで、

  ハロウィンの電車に乗ればすぐ寝息 10key

こういう句なら、得るものはないけれど、傷は浅い。


ところで、なぜ、「ハロウィーン」で句をつくる気がないのか?

興味がないから

じつにシンプルです。いつもどおりシンプル。きわめて単純に暮らしております。