2020/12/30

■年末

年末恒例。ランちゃん(♀三毛)の予防注射に、憲武画伯、来訪。


今年のおみやげは豆源。美味美味。謝々謝々。



なお「おとぼけ豆」に関して、どこがおとぼけなのか? 凝視してのち口に運んでみても、わからんかった。

とりあえず、ラヴ&ピース!

2020/12/29

■亀のゆくえ

男根と弾痕大根は亀戸だと思ふ  瀬戸正洋

こうしたパワフルなことば遊びがあるかと思うと、

狸罠夕日汚れてゐたりけり  同

ぎょっとするような肌理と温度をもったワンダフルに美しい句もありますし、あるいは、離れた箇所に置かれた2句、

饂飩にもカレーライスにも茸  同

松茸も毒茸も同じ茸だと思ふ  同

このキノコらに、共通する論理・理念・接近・把握があるような、ないような、そうしたバリエーションに富む愉しみ方のできる句集『亀の失踪』について、『ブルウマリン』に寄稿させていただいた関係から、手元に残部些少あります。ご興味のある方は、tenki.saibara@gmail.com までご連絡ください。郵送させていただきます。


2020/12/28

■家庭内音楽

こんなご時世なので、音楽も、大規模なライブは無理。しぼんでいく心配をしている人もいるんだろうけど(実際行き詰まるビジネスもある)、YouTubeではホームコンサート的な小規模なパフォーマンスが目立つようになった。

NPR Musicというチャンネルを見つけてしまい、そこには毎日聴いても聴ききれないほどの、その手のコンテンツがある。ざっと見た顔ぶれは知らない人がほとんどなのだけど(私が知らないという話)、世の中には、こんなにもたくさんのナイスな音楽があって、こんなにもたくさんの人が歌ったり奏でたりしてるんだなあ、といまさらのように。

NPR Musicは、Wikipedia(翻訳)によれば「2007年11月に設立された米国の民間および公的資金による非営利会員メディア組織であるNational Public Radioのプロジェクトであり、公共のラジオ音楽番組と音楽発見のためのオリジナルの編集コンテンツを提供」だそうで、ずいぶんと歴史がある。音楽好きの人には大昔から周知・承知なのかもしれない。

ともかく、家で、書斎で(書斎がなくても、デスクで)、楽しめることは、まだまだたくさんあるということを、みんなで理解する一年だったのかもしれませんね、この2010年、新型コロナ・イヤーは。

2020/12/22

■切れか否かでふたとおり生じてしまう読み・後篇

 ≫承前

切れているのか切れていないのか、かたちのうえでは判別できないケースについて話していたのですが、後篇は自分の句を例に。

ともだちが帰つてこない冷蔵庫  10key「灰から灰へ」2013年10月13日

《~こない》と《冷蔵庫》のあいだに切れを読むか、ひとつづきで読むか。ふたとおりがあって、どちらとも決められない。

週刊俳句に載せた句なので、句評がいくつかあります。そこでは切れているか否かで読みが分かれています。

津髙里永子さんには、切って読んでただいています(≫こちら)。

柴田千晶さんは、切れているような切れていないような、中間の読み(≫こちら)。ホラーな連想/妄想。句評に読み応えがあります。

そして、鈴木茂雄さんは、切らずに読んでいらっしゃいます(≫こちら)。

作者として(自句自解になっちゃいますね)、これをつくったときのことを思い出すと、宮本佳世乃《ともだちの流れてこないプールかな》がまずあって、そのもじり。ナルニア国物語の簞笥が頭にあったので、鈴木茂雄さんの句評はそのへんの作句の端緒をお見通しというわけです。

とまあ、作者は「取り合わせ」で作ったわけではないのですが、もちろんそんな意図は読みに無関係。だいじなことは、上に挙げた読みがいずれも面白いこと。句が曖昧さをまとうことで、読み手の愛情を呼び寄せたようです。

でね、俳句において不確定は、今回の切れに限らずついてまわる。それを表現としての瑕疵・不完全ととる向きもありましょうが、そこはそれ、例のあれ、読者に向かって《開かれている》(opera aperta)ととるほうが、きっと私たちは幸せです。なんでもかんでも楽観のほうへとむりやり持っていくのも問題といえば問題でしょうが、この手のものは、曖昧さでもって他人を傷つけることも、まあ、ない。読み手に任せるという、まわりまわって、それが結論かい? といったことで話をまとめていいでしょうか?(誰に訊いてる?)

ま、ともかく、ラヴ&ピース!


2020/12/14

■詰め合わせ

ともだちからコンピのCD-ROM(いろんな曲の詰め合わせ)をもらうのは愉しくて、知らない曲、はじめて聴く曲が流れてくるだけで気分が上がる。

きょう気に入ったのは、これ。


デヴェンドラ・バンハートってらしい。メロディーや歌唱の感じが過去の何かにとてもよく似ているんだけど(既知感)、思い出せない、わからない。この人の他のも聴いてみたんだけど、ちょっと違うかんじ。この曲、このトラックがいいのだってことですよ。

2020/12/08

■予約って心理的ハードルがとても高い

『ミセス・ノイズィ』とか、観たい映画はいろいろあるんだけど、「予約」して観るというのが習性になっていないので、「予約」が心理的にかなり高いハードルになる。…ってことが今回のコロナでわかった。予約かあ、まあいいか、となっちゃう。

未見の『子猫をお願い』(2001年)も、今月映画館でかかるんだけど、DVD買っちゃった。

もう1枚、ペ・ドゥナ(ファンなのです)で『ほえる犬は噛まない』(2000年)。ポン・ジュノ監督でいちばん好きな映画。DVDで持っとくのもいいかな、と。えらく安かったので。



2020/12/06

■切れか否かでふたとおり生じてしまう読み・interlude

承前≫http://sevendays-a-week.blogspot.com/2020/12/blog-post_4.html

東京タワーが雑煮になったりするのか?

という問題はたしかにあります。

きっと、なりません。でも、起こり得ないことが起こるのが俳句、というか文学全般なわけですから、わたしたち的にも日本政府的にも科学会議的にもなんら問題はない。

実際に起こること、実際には起こらないこと、どちらも俳句では起こります。

実際に起こることしか起こらないのであれば、その実際を見ればいいわけで、不要とは言いませんが、例えば、どんなに的確に〈描写〉された句も、「見に行けばいいんじゃないの?」「実際に見たほうがおもしろいでしょ?」といった残酷な反応に晒されることを承知しておかねばなりません。

もちろん、起こらないようなことが起こりさえすればいいってものではなく、非現実・幻想の度合いと句の魅力はまた別問題です。

結論的には、俳句はナンデモアリ、ということでしょうか。

ラヴ&ピース!

2020/12/04

■切れか否かでふたとおり生じてしまう読み・前篇

この年末年始は全世界的に旅行や帰省を避けるだろうから、全国的に御節料理がたくさん売れそうだね、などと、自分ん家とは無縁の話を、今朝、嫁はんとしたのですが。

東京タワー雑煮となるまでの時間  瀬戸正洋『亀の失踪』

この句ね、俳句ではよく起こることなんだけれど、東京タワーと雑煮のあいだを切れと読むか、省略と読むか(助詞その他の省略)で、句が変わってくる。

切れと読めば、東京タワーがあって(窓の外でも頭の中でもどこでもいい)、そこで散文的な脈絡はいったん断絶して、《(餅が)雑煮となるまでの時間》というフレーズが上五と照応する。

省略と読めば、《東京タワー》が《雑煮となるまでの時間》という一句一章。事態としては異常で、かなり無理のある読み筋とする向きも多いでしょうが、俳句は(散文的に)よくわかることを目的とするものではないので、こちらの読みもナシというわけではない。

どっちで読むのがおもしろいか(広義の「おもしろい」です。為念。いちいちめんどう。私が「おもしろい」と書くときは「笑える」という意味ではないです。そういうときは「可笑しい」と書く)。

どちらの読みも同時に響く、景としてオーヴァーラップする、というのもアリ、とすれば、俳句を読むとき、たいていは読者(少なくとも私)の中でコレが起こっている。で、このとき、作者の意図なんてものはいっさい関係ないので、勝手にオーヴァーラップさせて、あるいは耳でブレンドして、愉しむわけです。

(つづく)


■事情急変

仔猫を預かっているという話をしました(≫こちら)。飼い主が決まっていて、引き渡すまで一時的にウチにいる。はずだったのが、「飼えなくなった」と言われて、え! どうしよう? と言ってるうちに、すっかりウチの子に。