2019/06/28

■Tokyo Whale 『豆の木』第23号より

とっくにおわかりでしょう。このところ、『豆の木』第23号をぶらぶら逍遥しているわけです。

ラヴ&ピース!(位置が新しい)

首都閑散梅雨のくじらは海たたく  中嶋憲武

東京と沖の鯨は、雨でつながっている。静かな街路と巨大な尾が海面をたたく大音響(ついでに派手な水しぶき)とが、滋味豊かに対照。

でね。

なんだかね。閑散を通り越して、もうすでに人間が死に絶えたかのような一種神話的な光景(二分割画面で同時に映し出されたかのような対照的な光景)。


2019/06/26

■羽抜鶏にまつわるラディカルな問い 『豆の木』第23号より

羽抜鶏夜より昼の眠たくて  齋藤朝比古

夜更かししているからだろう、とか、昼寝という季語が隠れているとか、いろいろなことはあるのだけれど、昼の倦怠・懈怠は、よく伝わる。それは「夜よりも」という比較(論理)もあるにはあるけれど、「羽抜鶏」という季語(俳句的/大きく括れば詩的な作用)による。

ところで、このような読者側の快楽は、俳句というムードにまずは浸って読む、俳句という枠組みを認めて受け止めるという手順が必要だったりするわけですが(もちろん手順抜きに味わう/味わえる、のでもかまわない)、これを作品と読者の弛緩した関係、俳句の国での安住と、いくぶんネガティブに解するのか、弛緩・安住こそを、俳句(を読むこと)の始まりであり到達であるとするかは、人によるという以上に根本的な問題だったりするのかもしれません。こうと態度を決めるのではなく、揺れる、ぶれる、ということを含め。

繰り返される話題ですが、俳句的虚構の扱い。

羽抜鶏なんて、私の子供の頃の、ドいなかの農家の庭ならまだしも、あるいは、養鶏場でもいいのですが(それは興醒めでしょう)、ともかく、いまどきなかなかお目にかかれる
ものでもない。雪渓やら赤富士(ともに夏の季語)といった観光的季語よりもむしろ見る能わずな事象かもしれません。けれども、一定頻度で句に現れる。それだけ使い勝手がいいともいえるし、強力な季語ともいえそう。そのことをどう捉えるかという問題でもあるんですよね、上に書いたことは。

蛇足ですが、これは、見たことのないものを詠むな、といった愚鈍な「体験主義」とはまったく別の問題として、ね。

とりあえず、ラヴ&ピース!

掲句は『豆の木』第23号(2019年6月1日)より。

2019/06/22

■夏の景色



イギリスに行ったわけでもないのですが。

「パッケージ買い」と言うと、別の意味になってしまいそう。いわゆる「ジャケ買い」です。中身を知らず、外装で買ってしまった。

チョコレートは、いただきもの。見た目で、もう、盛り上がってしまいます。食べてみると、美味。知らなかったのですが、モンロワールは神戸・岡本が本店で、東京にもいくつか店舗があるんですね。

2019/06/21

■海と皮膚 『豆の木』第23号より

寒卵海の近くに肌がある  楠本奇蹄

皮膚と冬の海の照応ということで、《水枕ガバリと寒い海がある 西東三鬼》を思い出したりもする。

小さな固体(=卵)と大きな液体(=海)の対照がまずあって、そこに肌が寄り添う。三鬼句よりも複雑な構造。

海を近くするという人間側の感覚ではなく、海から距離が出発するという軽い転倒もあって、さらに念入りな構造。

掲句は『豆の木』第23号(2019年6月1日)より。

2019/06/20

■ライブ無事終了

あいにくの雨となりましたが、ライブ無事終了。

動画:27分26秒
https://youtu.be/qrhJ7jUCv4w

充分な準備とは行きませんでしたが、泣いても笑っても当日はやってくる。「ともかく楽しもう」と臨み、結果、リラックスした音になったと思います(観客の皆さんが温かかった)。

考えてみれば、この年齢になって、バンドなんかやって、好きな音楽を鳴らし、おまけにライブに出られるなんて、願ってもない幸せ。ということで、いろいろなことに感謝することにします。

2019/06/19

■尖鋭とポップ 『豆の木』第23号より

こしのゆみこの俳句は、ときとして尖鋭的に前のめりでありながら、全体には、いい意味の弛緩、キュートさを失わないところが魅力。奇妙な喩えだけれど、張りつめた脚の筋肉と強靭な膝とは裏腹に、膕(ひかがみ)の柔らかさが見えるところ。そんななかから、ポップな、というのは、多くの人に素直に愛されるような句が生まれる。

小鳥来るための額を空けておく  こしのゆみこ

野遊びのくるぶし鈴の音させて  同

句会での戯れに「どこに出しても恥ずかしくない句」などと申すのですが、この2句あたりは、どこに行っても愛されそう。

でも、そんなばっかじゃ本人が照れるのだろう。10句作品の掉尾は、これ。

きょお!きょお!水のしたたりやまぬ音  同

これにしたって、出るとこに出れば、大いにウケるであろう句。

25年前、『豆の木』創立当時は若手、今は中堅かベテランの作家こしのゆみこの今後ますますの充実を楽しみにしている読者の一人なんですよ、私は。

掲句はいずれも『豆の木』第23号(2019年6月1日)より。

こしのゆみこ作の猫オブジェが変わらず『豆の木』の表紙を飾る

【お知らせ】6月のくにたち句会

2019年6月30日(日)14:00 JR国立駅改札付近集合

句会場所:ロージナ茶房(予定)

席題10題程度

初参加の方は、メール tenki.saibara@gmail.com電話etcでご一報いただけると幸いです。問い合わせ等も、このメールまで。

2019/06/18

■夜の洗濯 『豆の木』第23号より

『豆の木』第23号(2019年6月1日)より。

夜濯や別の地球にゐるごとし  柏柳明子

昨日の記事と直喩という点で同じなのは偶然です。

さて、「夜濯(よすすぎ)」という季語、本来は、夜、涼しくなってからの洗濯、昼間に汗した衣服をその夜に洗うといったことから夏の季語。曲亭馬琴編『俳諧歳時記栞草』には見当たらないので、新しい季語かもしれないですね。

電気洗濯機がもっぱらになった現在、夜の洗濯は、昼間は勉学やら遊びで忙しい学生が下宿で夜更けに洗濯機を回し、近所から叱られる、というイメージ(あくまでイメージ)。やはり手で洗う洗濯が、この季語に似つかわしい。

掲句。やはり洗濯機よりも手。欲を言えば、外での洗濯。

もうひとつの地球というネタはSFでしか見ないけれど、別世界というのではなく(気分はそうかもしれない)、わざわざ地球と言ったことで、なんだか、地球の表面(総表面積は約1億平方キロ!)にぺたっと貼り付いた衣服や少量の水を想像させる。きっと、夜の地球のしずけさ、あるいは遠い喧騒とはまた別の地球の音が聞こえている。

2019/06/16

■喩を愉しむ 『豆の木』第23号より

『豆の木』第23号(2019年6月1日)より。

中指を滝のごとくに摑まるる  大石雄鬼

指は墓になったり〔*〕滝になったり、たいへんです(この「たいへん」は多義的)。

中指が滝のようかというと、そうでもないような、そうなような。

滝を摑むことができるかどうかというと、できないような、できるような。

二重の親和・違和、二重の納得と不思議があって、滋味深い。

俳句世間・俳句業界には、直喩に慎重な、あるいは直喩を嫌う、あるいは軽んじる傾向があって、杓子定規に教科書的に俳句を扱うなら、それも得策。けれども、「よくわかる」で終わる比喩は、直喩であろうと暗喩であろうと換喩であろうと、それはそこまでのことなわけで、直喩かどうかが問題なんじゃない気がする。滋味が出るのは、そのむこう、つまり、「わかる」と「わからない」のあわいのような箇所。

大石雄鬼は、そうした〈わかる/わからない〉の識閾にある微妙な痛点・快楽点をつく句が多い。直喩に限って、今回、『豆の木』第23号所収の「目玉」10句と拾遺的な「二〇一八年作品」から拾えるだけでも、掲句のほか、

牡蠣殻はつも怒つてゐるごとし

菜の花をまさぐるやうに夜が明ける

五月雨の肋のやうに街覆ふ

ハンカチを明りのやうに男干す

夕菅や根つこのごとき子を抱けり

とぎ汁の津波のごとき盛夏かな

など、かなりの数・かなりの頻度。

1句目はわかりやすさに堕した感はあるものの、2句目は光や映像とともに微細な音まで聞こえてきそう。


〔*〕《秋風やひとさし指は誰の墓・寺山修司》

2019/06/09

■さまざまなこと思い出す梅雨入りかな

週刊俳句で追想的な記事2本。

路上の鴉
天野伸子馬の目』の一句……西原天気 ≫読む

中嶋憲武✕西原天気音楽千夜一夜
〔追悼〕ドクター・ジョン「スタッカリー」 ≫読む

2019/06/03

■意匠がだいじ

菓子に意匠はだいじ。外装も、そのものも。

ときどき、とてもキュートなのを見つけて、うれしくなる。

このお干菓子は賜り物。口に入れてみたら、やっぱり甘すぎて、こんなに小さいのに、3回に分けて食べることになりそう。



2019/06/02

■ミシェル・セール逝く

昨日、6月1日、ミシェル・セール(1930-2019)が亡くなったそうだ。

〔過去記事〕