2020/06/29

■ダウン・バイ・ザ・リバーサイド

ひさしぶりの吟行はJR武蔵小金井駅から南へ。午前中の雨が上がって分厚い雲からときどき日の差すなか、野川に出て、草ぼうぼうなリアル川辺を下り、武蔵野公園から野川公園へ。

途中、天牛もいた。100分ほどの散歩。


2020/06/23

■冷奴 太田うさぎ『また明日』より

句や句集について語るはずなのに、自分のことばかり言ってるのは駄文、読む価値の薄いレビュー(≫参照:読まなくていい記事を冒頭数行で見分ける方法)。

というわけで、冷奴の薬味。好きなベスト5を、以前挙げたかもしれませんが、

1 ミョウガ
2 白胡麻(あるいは金胡麻)+七味唐辛子(俳人仲田陽子氏推奨の京都長文屋中辛)
3 おかか
4 大葉
5 おろし生姜

ほかになかったっけ?

さて。

夕方が町に来てをり冷奴  太田うさぎ

夕暮ではなく〈夕方〉。街ではなく〈町〉。池袋でも新潟でも北九州でもなく〈町〉。

冷奴はどこで食べるのだろう?

都心の料亭ではない。自宅でもいいけど、自宅近くの個人店がしっくりくる。

薬味は? それはどうでもいい。

夕方は豆腐屋の喇叭も合うが、冷奴と調理を指定してあるので、冷奴に食べようと思って買う豆腐、というのでは、まわりくどい。

なぜ冷奴か? という問いはラディカル。俳句において最も説明が困難、かつ最重要、かつ俳句が最もアドバテージを発揮する部分。

いろいろあるわけですが、この句を読んで、むしょうに冷奴が食べたくなった。それが冷奴の理由かな?

ラヴ&ピース!


太田うさぎ句集『また明日』2020年6月/左右社

2020/06/20

■茄子チョコ

むかしこっちに出てきた頃、定食屋さんで焼き茄子を頼んだら、油で炒めたのが出てきて、え? なにこれ。違うでしょ? わお、異文化体験?

というわけで、昨日は、畑でとれた茄子で、焼き茄子をつくりました。ほんとの焼き茄子です。

焼き網を使わずオーブンでひっくり返しひっくり返し。焼き上がったら、あっちっちあっちっちと指で皮をむく。冷蔵庫に入れておいて、食べるとき、出汁でおひたしにしてもいいのだけれど、今回その手間は省いて、生姜とお醤油でいただきました。美味。

コロナのせいでもないようなあるような、なんだか、食べ物を作りだしたりして、嫁はんは微苦笑をもって眺めている模様。

茄子では飽き足らず、カカオと干しベリーを買ってあるので、果実チョコを作るつもりなのは、我ながら、完全にトチクルッてる。

2020/06/17

■野菜ってね、とれたてが一番なんですよ。鮮度、大事。

我が家の隣の隣が保育園。その裏が区画借りの家庭菜園。近いのが一番。ちょっと距離があると、絶対続かない。


メインでやってるのは嫁はん。私は手伝い。でも、早起きは私なので、朝の水やりは私が担当。

ドシロウト2名なので、なんだかわからん畑ですが、それでも種は苗は伸びてきて、実を付ける。大自然と神様に感謝、ですな。



2020/06/15

■太田うさぎ句集『また明日』から漏れた2句


きょうは太田うさぎ句集『また明日』に収録されていない句についての話。

句集に漏れる句が出てくるのは当たり前で、ふだん句集を読むとき、そんなことは意識せずに読む。けれども、この作者とはこれまで句会を共にする機会を得てきたし、週俳編集の『俳コレ』で拝読しているという経緯もあって、「あ、あれが入ってない、入れなかったんだぁ」とか、ね。

そりゃあもう、入れなかった句は膨大にあるんだろうけど、私が気に留めたのはこのふたつ。

エリックのばかばかばかと桜降る  太田うさぎ

二の酉を紅絹一枚や蛇をんな  同

前者・エリッ句(って勝手に略す)は『俳コレ』には収録。取り上げられることが多く、ちょっとした有名句。この作者のメインの作風からは少し外れて、いわゆる暴れた句と言っていいかもしれません。

後者・蛇女(紅絹は「もみ」。為念の註)は、ウェブサイト「増殖する俳句歳時記」で土肥あき子氏が紹介。俳誌『雷魚』で発表された句。

どちらの句も私は好き。でも、だからといって、今回の第一句集に「入れるべきだった」とかというのではありません。

句集を編むとき、一定の雰囲気、一定の気分で句を揃える(いやそうじゃなくこれまでの句作から良いのを選ぶ、いわばベスト盤という考え方もありますが)。基調音を決める、読者の読みの導線を確保する、作者の特質がうまく伝わるような選択と集中、ゾーニングを施す。

一方、作風の「幅」が出るよう、主線ではない句も入れていく、ということもする(しない人もいるだろうけど)。

その意味で、前者・エリッ句は、作風のひとつの「極」を示し(極北?)、「幅」に寄与する句ではあろうけれど、外す手は大いにある。「あ、やっぱり漏れるよね」というこちら側の勝手な同意・首肯を促すものではあります。

一方、後者・蛇女は、一読者として、ちょっと残念な気もしている。というのは、この句の路線というのは、この作者の大きな特質・美点だと、私は思っているので。

伝統的かつ猥雑な素材を粋に処理する手技は、句集収録の《なまはげのふぐりの揺れてゐるならむ》と同系。この路線って、他の作家があまり思い浮かばない(閒村俊一とかかな? 仕上がりの感じは少し違うけど)。粋な素材を粋に詠むのは、久保田万太郎を筆頭にまあまあ多くいらっしゃる。でも、猥雑を粋に、というのは、ね。

この一句の有無で、句集の印象ががらっと変わるとは思いませんが、『また明日』は、私が思い描いていた作者・太田うさぎ像よりも少し若くて、カタギな感じ。「うさぎ姐さん」観(作風キャラクターですよ、あくまで。社会的人格じゃなくて)が薄い。

句集って、でも、それだから、つまり自分が思っていた作者像・作風とは違った面を見せてくれるから面白いんですけどね。

それとね、「増殖する俳句歳時記」できちんと後世に残っていくんだから、実はそれほど残念じゃない。ほら、レコードでも、アルバムには入っていないけど人気曲ってあるじゃないですか。そういう句になっていく(少なくとも私の中では)と思います。

ラヴ&ピース!


2020/06/14

■読まなくていい記事を冒頭数行で見分ける方法

読まなくていい記事、つまらない記事を、最初の数行で見分ける方法があります。おもに文芸記事だけど。例外はあるけど。

編集部からコレコレこういうことについて書けと依頼があった。と、こんなふうに始まる記事は、読み進めなくていいです(この書き出し、わりあい多いですよ。自分もたくさんじゃないけど、やっちゃったことがあるような気がする)。

書きたいわけじゃない、依頼があったから書くけどさ、と宣言しているわけですから、おもしろい記事にはならない。

ある企画があって(あるいはレギュラーな記事があって)、そのテーマに適切な執筆者に依頼するというのが、編集の理想ですが、そうならないときもある。

最近、内田樹がいかにもいやいややる気なく引き受けた書評が話題になった(≫こちら参考)。ネームバリューとか、引き受けてくれ易さとか、そういうので執筆者が決まることが、残念ながら多々あるようです。

この書評(読んでないけど)も、参考になりますね。テーマと関係あるようなないような個人的な事柄から文章が始まるのも、危ない。これは最初の数行ではわからない場合もあるので、困りものです。

記事って(記事に限らず、音楽とか料理とか、なんでもかな?)、モチベーションがだいじ。

本人が「しかたないから」と書いたもの、やったことに、付き合うのは、だいたい時間のムダになります。

本人がほんとにやりたいこと(少々出来栄えがまずくとも)に付き合う。そのほうがこちらも実り多き人生になる(と信じてる)。

ラヴ&ピース!

2020/06/12

■猫と夜汽車 太田うさぎ『また明日』より

太田うさぎ句集『また明日』(2020年5月)を愉しく通読。このブログに、週刊俳句に、何度か取り上げるだろうと思うが、まずは、この一句。

恋猫に夜汽車の匂ひありにけり  太田うさぎ

なぜそんな匂いがするかというと、路地裏にいたから。

《路地裏を夜汽車と思ふ金魚かな 攝津幸彦》が感じよくさりげなく下敷きになっている。洒落てる。

(ついでに、路地をさまようとき、金魚がいたら、大きな瞳でじっと見つめるはず。猫は金魚とか無視できないタチだから。もちろんこれはこの句には書いてない)

で、そんなようなことを別にしても、恋猫は、じっさい、夜の闇をまとって/引きずって帰ってくるんですよ。

昨今は「猫は家で飼え、外には出すな」がマナーになっているが(ついでに去勢手術・避妊手術が必須)、以前、外にも出して飼っていたことがある。去勢していない雄猫は、さかりがつくと何日も帰ってこない。もう帰ってこないなと思った頃に、頬をげっそりさせて帰ってくる。どんだけがんばるねん!

きっと夜を徹して恋をもとめ、雌をもとめ、雄と争い、どこかで寝てどこかで餌を獲得して、何日も愛の旅をつづけたわけで、かなり愛おしくなる。ねぎらいたくなる(きっと強い雄に連戦連敗で、恋は成就しなかったにちがいなく、それだとよけいに愛おしい)。「おかえり」と抱きしめた。

そのとき、夜汽車の匂いがした記憶は、私にはないが、してもおかしくない。


というわけで、先行テクストをかろやかに遊びつつ、実感・実景もともなう。いいですね。






2020/06/10

■こんどのターコイズブルー

承前≫http://sevendays-a-week.blogspot.com/2020/05/blog-post_19.html

新しいブルー。LAMYのターコイズブルーは、思っていた以上にターコイズな色合い。


気に入りました。

ラヴ&ピース!

2020/06/09

【句集をつくる】第24回 続・掉尾の一句

 承前≫http://sevendays-a-week.blogspot.com/2020/06/22_5.html

前回が面白かったので、もうちょっと、句集最後の句について。

ちなみに、拙句集『人名句集チャーリーさん』(2005年1月)の最後の句は、

霊長類ジミー大西なる隘路  10key

さて。

拾っていきますよ。

ゆと揺れて鹿歩み出るゆふまぐれ  生駒大祐

『水界園丁』(2019年6月)。んんん、雰囲気雰囲気。鹿のこの句集での出現頻度は確かめていないけど、深く印象に残る。のは、最後が鹿だからか。

白藤や此の世を続く水の音  岡田一実

『記憶における沼とその他の在処』(2018年8月)。水音と白い藤の花の組み合わせが清らか。「を」がいいですね。助詞をめぐっては、この作者の別の句を材料に、文法と修辞、用例と表現刷新をまぜこぜにしたような議論もありましたが、俳句(と限らず表現)は、なんでもアリ。誤用・誤字・造語を含め(評価とは別に)。ま、この「を」は順当な用法ですが。

投函のたびにポストに光入る  山口優夢

『残像』(2011年7月)。話題作・問題作として知られる無季。俳句全体・俳句業界全体へのスタンスというか覚悟みたいなものがうっすら感じられる。

鶴眠るころか蠟燭より泪  鳥居真里子

『月の茗荷』(2008年3月)。鶴と蠟燭という素材からだろう。八田木枯を思う。木枯さんがこの句を見ていたら特選に選んだろうなあ、と、勝手に、不遜にも、想像。いずれにせよ、素晴らしい。美しく、湿度があるのに、句の立ち姿が毅然。

綺語(きぎよ)生れよ水銀灯の手くらがり  高山れおな

第一句集『ウルトラ』(1998年10月)。季節の順に章が並び、最終章は「雑」。その最後の句。綺語は〈真実に反して言葉を飾りたてること〉〈美しく飾った言葉〉と辞書にある。

列車来ぬおのが照らせる雪衝きつつ  栄猿丸

『点滅』(2013年12月)。言われるところのこの作者のトリヴィアリズムとはまた違ったある種本格を感じさせる句が締め。

朝が来るまた菫から始めます  広瀬ちえみ

川柳からもひとつ。『雨曜日』(2020年5月)は出たばかりの句集。メージをめくり終える最後にまたもう一度、始める。清々しい掉尾。

俳句思えば霞に暮れて朧月  池田澄子

『拝復』(2011年7月)。五里霧中など慣用句でなく、霞と朧。同様の心情を譬えるにしても。なお、帯の自選には《俳句思えば徐々に豪雨の吊忍》が挙がっている。


ほかにも挙げたい句集がたくさんあるが、このへんで。

手元の句集を、新旧含め(あまり古いものは除いた。句集を編むという意図が今とはずいぶんと違うような気がしたので)、再度ぱらぱらめくる作業は愉しかった。

こう並べたものを見て、私同様に愉しんでくれる人が、きっといるよね?

ラヴ&ピース!

2020/06/05

【句集をつくる】第23回 掉尾の一句 

以前、句集の最初の句について話しました。

こちら≫http://sevendays-a-week.blogspot.com/2016/08/16.html

今回は最後の句について。

一句目ほどではないが、最後もだいじ。とはいえ、これは読者にとって、よりもむしろ、作者/著者がこだわる部分という気がする(編年体だと無頓着な人もいそうですが)。

ちなみに、拙句集『けむり』では、

空に雲ありしは春の名もなき日 10key

ぼぉっとしたかんじ、おとなしく、あかるくめでたいかんじを狙いました。歌仙の36句目(挙句)みたいなかんじ。

さて。

手元にある句集から、拾ってみます。

永き日の椅子ありあまる中にをり  安里琉太

『式日』(2020年2月)。所在なく、〈作者〉にフォーカスして(にをり)終わる。

梟や息の終わりのきれいな詩  田島健一

『ただならぬぽ』(2017年1月)。美しい句にあふれたこの句集のなかでもひときわ美しい句。「詩」で締めた点、句集全体を俯瞰、あるいは自己言及っぽくもあります。

この丘の見ゆる限りの春惜しむ  太田うさぎ

出たばかりの『また明日』(2020年5月)から。開放感+哀感。視界を広げて終わる。映画っぽい。

猫去って曖昧な闇残したり  笠井亞子

『東京雪柳』(2008年4月)。消えて、残る。ふわっと句集を了える。

やわらかいかまきりのうまれたばかり  福田若之

『自生地』(2017年8月)。ビルドゥングスロマン的第一句集のラスト。最初に戻るかんじ。自己言及的でもあります。

デレクおやすみキンミズヒキもルリチシャも  金原まさ子

第3句集『遊戯(ゆげ)の家』(2010年10月)。デレクはデレク・ジャーマン(これ、「ガーデン」の章の最後の句なので)。耽美かつ愛に溢れる掉尾。

手をつなぎながらにはぐれ初夜(そや)の雁  八田木枯

第3句集『あらくれし日月(じつげつ)の鈔』(1995年11月)。艶かしくも哀感。

眠き夢なり月見草まで這ふ夢なり  山田耕司

『大風呂敷』(2010年1月)。ある種古典的芳香をもって、一巻すべて夢であることよ的な締め。


んんん、キリがない。続篇やろうかな。

ラヴ&ピース!

2020/06/04

■錆びている

鷹鳩と化し缶切りが錆びている  萩野明子

缶切りはどの家にもひとつはあって、けれども、最近は缶切りなしで開く缶詰が多い。めったに使わず抽斗か何かの中に仕舞われたまま、気がつくと、刃が錆びている、ということはよくある。

故事・古典由来の季語と卑近な/日常的な話題がよくバランスした句。

掲句は『棒』第7号(2020年4月)より。


2020/06/03

【句集をつくる】第22回 セルフカヴァー


ある人と類句の話をしていて(このご時世ですから対面ではありません)、自句のなかのそっくりな句という話題になりました。句会で一人の人から似た句が出てくるくらいなら愛嬌ですが、句集の中に、となると、ちょっとね、というところがあります。

〈自句のなかの類句〉にはいくつかの層というかカテゴリーがあって。

1 同じ句が句集の中に入っちゃってる

単なるミス。そっくりどころではない。なさそうで、あります。何度か見たことがある。並べ替えたり差し替えたりしているうちに、起こってしまう事故。他人事じゃない。エクセル利用して確かめたりしましたよ。前の句集のときは。

2 同工異曲

得意のアプローチや処理法が繰り返し用いられる。誰にもありがち。ポジティブな効果として、味わいにバラエティを生む一方、この四文字熟語のネガティブな側面、すなわち、材料は違っても「やりくち」は同じ、という印象が生まれれば、それはやはり読む側も退屈する。

これ、句集に限らず、ふだんの作句でも、〈自己模倣〉が分厚い壁になるケースがありますね。でもこれはまあ、ある程度、作風を確立している人の悩みでしょう。私の場合は、いまだに自分の作句の傾向とかわからずにその場その場、そのときぞのときで作っているので、この悩みは少ない。

以上は、句集づくりの際の留意点ですが、同じような句をわざとこしらえる、というケースもあります。人によっては避ける、そんなことはしない、のでしょうが、私は自分の句をいじるのが(既発表であってもさらにいじるのが)好きなので、わりあいやります。

セルフカバー(カタカナ英語)です。

いま思いついたところでは、「走れ変態」(2014年7月)という連作に、

夏ゆふべドンキホーテで鞭を買ふ 10key

というのがありまして、これをいじって/もじって、

歳晩のドンキホーテで餅を買ふ 10key

どちらも句集に入れるとしたら(こんなの入れるんかい!というツッコミ/お叱りには、はい、いいかげんなのをどんどん入れちゃいます、と答える)、ページを考えないといけません。いまのところ、季節が違うし、テーマも違うので、近くには置けません。次の見開きの同じ位置とかがいいかもしれません。

なお、この句は、これ以前に、

秋深しドンキホーテで紐を買ふ 10key

というのがあって(上京悲話・2011年10月『鏡』第2号)、いろんなものを買っている。


話題をもうひとつ。以前につくったのが(どこかに出しているかも)、

青蚊帳によこたふ父といふ鈍器 10key

青蚊帳にたゆたふ乳といふ鈍器 10key

パロディっぽい。同ページに並べるよりも、連作の前半と後半とか、視界内でちょっと離すのがよさそうです。


んんん、こんなことを書いていると、句集をつくりたくなっちゃいますね。




2020/06/02

■出来事としての蛇

『街』第143号(2020年6月)より。

蛇入れし袋と言へり動きけり  今井聖

わわっ、だか、おぅ、だか、ひぇえ、だか、ともかくその瞬間の心の反応が見えるような句の作り。終止形の畳み掛けが認知の連続(聞く→見る)と呼応して、効果的。

蛇の胴体は句に出てこない。その点では、こんな句も最近。

蛇見しと両手大きく広げけり  守屋明俊『象潟食堂』(2019年11月)

蛇はそれ自体が出来事みたいになるんですよね。