2020/06/15

■太田うさぎ句集『また明日』から漏れた2句


きょうは太田うさぎ句集『また明日』に収録されていない句についての話。

句集に漏れる句が出てくるのは当たり前で、ふだん句集を読むとき、そんなことは意識せずに読む。けれども、この作者とはこれまで句会を共にする機会を得てきたし、週俳編集の『俳コレ』で拝読しているという経緯もあって、「あ、あれが入ってない、入れなかったんだぁ」とか、ね。

そりゃあもう、入れなかった句は膨大にあるんだろうけど、私が気に留めたのはこのふたつ。

エリックのばかばかばかと桜降る  太田うさぎ

二の酉を紅絹一枚や蛇をんな  同

前者・エリッ句(って勝手に略す)は『俳コレ』には収録。取り上げられることが多く、ちょっとした有名句。この作者のメインの作風からは少し外れて、いわゆる暴れた句と言っていいかもしれません。

後者・蛇女(紅絹は「もみ」。為念の註)は、ウェブサイト「増殖する俳句歳時記」で土肥あき子氏が紹介。俳誌『雷魚』で発表された句。

どちらの句も私は好き。でも、だからといって、今回の第一句集に「入れるべきだった」とかというのではありません。

句集を編むとき、一定の雰囲気、一定の気分で句を揃える(いやそうじゃなくこれまでの句作から良いのを選ぶ、いわばベスト盤という考え方もありますが)。基調音を決める、読者の読みの導線を確保する、作者の特質がうまく伝わるような選択と集中、ゾーニングを施す。

一方、作風の「幅」が出るよう、主線ではない句も入れていく、ということもする(しない人もいるだろうけど)。

その意味で、前者・エリッ句は、作風のひとつの「極」を示し(極北?)、「幅」に寄与する句ではあろうけれど、外す手は大いにある。「あ、やっぱり漏れるよね」というこちら側の勝手な同意・首肯を促すものではあります。

一方、後者・蛇女は、一読者として、ちょっと残念な気もしている。というのは、この句の路線というのは、この作者の大きな特質・美点だと、私は思っているので。

伝統的かつ猥雑な素材を粋に処理する手技は、句集収録の《なまはげのふぐりの揺れてゐるならむ》と同系。この路線って、他の作家があまり思い浮かばない(閒村俊一とかかな? 仕上がりの感じは少し違うけど)。粋な素材を粋に詠むのは、久保田万太郎を筆頭にまあまあ多くいらっしゃる。でも、猥雑を粋に、というのは、ね。

この一句の有無で、句集の印象ががらっと変わるとは思いませんが、『また明日』は、私が思い描いていた作者・太田うさぎ像よりも少し若くて、カタギな感じ。「うさぎ姐さん」観(作風キャラクターですよ、あくまで。社会的人格じゃなくて)が薄い。

句集って、でも、それだから、つまり自分が思っていた作者像・作風とは違った面を見せてくれるから面白いんですけどね。

それとね、「増殖する俳句歳時記」できちんと後世に残っていくんだから、実はそれほど残念じゃない。ほら、レコードでも、アルバムには入っていないけど人気曲ってあるじゃないですか。そういう句になっていく(少なくとも私の中では)と思います。

ラヴ&ピース!


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