2017/08/31

■俳句賞・予備選の「闇」

野口る理さんが俳句の「賞」を取り上げた連載「ほどける冠」意外な結末を迎えたわけですが、途中(8月13日)、神野紗希さんが、さらっと、すごいことを言ってます。



http://spica819.main.jp/tsukuru/20587.html

いくつか要点があって、

1 予備選は編集部も関わるんですね。当然といえば当然ですが。

2 《~みたいな句が入ってると取れない(予備選を通せない)から気をつけて》って、それ、言っちゃうんだ!

後者には、ちょっとびっくりした。オフィシャルじゃなく、応募者個人に、選考基準(っていうほど大袈裟なものじゃありませんが)を、たまたまなのか、わざわざ「これ言っとかなくちゃ」なのかは不明ですが、また、編集部じゃなくて編集者個人ですが。



予備選の過程は、ふつう、公開されない。いわばブラックボックス。どんな作品が合格したかは誌上でわかりますが、どんな作品が落ちたかはわからない(もちろんそこをすべて公開するなんて物理的にムリ)。

ところが、落選展です。

週刊俳句が毎年催している「角川俳句賞」落選展で、予備選を落ちた作品のごくごく一部を読めるようになった。予備選を通過した作品と比較対照できるようになったわけです。これは大きい。ブラックボックスの真っ暗闇だった中身にほんの少し光が当たったわけです。

かすかに見えたものから、何を思うかは人それぞれです。自分の次回応募作の参考にする人もいれば、自分の俳句観との一致・相違を思う人もいる。いずれにせよ、落選展の意義のひとつは、予備選のかすかなる/朦朧たる可視化。これって、存外大きいことなんですよね。

ラヴ&ピース!

2017/08/30

■八月某日某句会

某日、くにたち句会、無事終了。

最初は人数が少なめだったので変則袋回し。

作句一句目は「鬼」の席題で、

  すこやかに三鬼忌を過ぎ夏を過ぎ 10key

時間が経過しすぎ(3~4か月)なので、夏を春に換えて、どこかに残そうと思います。

二句目以降は流れに乗って30句ほど。

途中、若者2名が句会とは知らずに来訪。来たからには作りなさい、というわけで、人数が増える。

句会後の
賜り物のワイン(佳人のたまふ「ラベル買いです。ステキでしょ」)と昨日のカレーを使ったドリア
フィジーリ
賜り物のワッフル




句会後の歓談中、床に置いた私のリュックの上にピーちゃんが坐っていた。すると、ジャーっという音。あらあらあら、おしっこ。ドアが締め切られていて(私たち夫婦の不注意)二階のトイレに行けなかったせい。ちょうど洗いたいと思っていたところなので、句会後、手洗い+洗濯機。とてもきれいになる。型崩れもないようで、さすがTUMI。ピーちゃん、サンキュー。


yuki氏、その日は6時起きで朝練(伴奏の準備)、シャワー、ガッコへ出かけるという強行スケジュール。伴奏をたくさんして、帰宅して、買い物に行って、句会で食べるもの作ってと、忙しく立ち働き(感謝)。

かつ、いつもどおりガンガン呑んで、はじめて訪れた若者(yuki耐性がない)の膝の上にむりやり坐る(こういうの凌辱って言うんでしょ、業界では)等、大暴れ。やがて、眠いのか酔っ払っているのか(きっと両方)、からだがクタっとなったかと思うと、寝室に直行・熟睡。

深夜の散会まで、缶ビールを手始めに、日本酒4合瓶2本、ワイン4本。少人数でこれだけの量。

みなさま、お疲れ様でした。次回はちょっと異例で最終土曜日の予定。

ラヴ&ピース!

2017/08/29

■まちがいを許せないはずがない




こんなアンケートがあったので、「許せる」に投票。

まちがいを「許せない」という選択は、自分にとってあり得ないので、とうぜん「許せる」。許容できる。

(バリバリの一般論です)

だって、誰もがなんらかにまちがうよ。

まちがいとまちがいじゃないものが混じり合った世界に、私たちは暮らしている。

ラブ&ピース!


なお、まちがいをまちがいと認めない態度については、NG。まちがいを指摘されると、攻め込まれているような気になるのでしょうか。「×××××」「それ、ちがいますよ」「え? そうだろうか。まちがいとは言い切れない。なんたらかんたら」「でも、まちがいはまちがいですから」「ぷぎゃー!」。こういうの、この世で何がしたいのかさっぱりわからない。

2017/08/28

■福田きゅんの句集『自生地』落掌

あのね、率直に言って、「自生地」という書名に決めたって聞いたときは、ピンとこなかったし、少し前、amazonにアップされた書影を見たときは、だいじょうぶかと思った(あまりにチャレンジングな帯デザインだし)。

で、昨夜、落掌。

中身より先に本の造りをいろいろと眺めたのです。本文レイアウトはもちろん、目次やあとがき、奥付の処理とか、それはもういろいろ。デザインだけじゃありません。手にどう収まるかとか、ページがどうめくれるかとか。指でなでまわしたりもしました。

おもしろい。

いい。

意識や気持ちの行き届いた造りです。担当編集さん、ナイス。

私は、本の意匠については保守主義なほう、伝統重視、機能が書物の美を促す派。『自生地』のそれは保守・伝統の部類ではないのですが、それでも、ナイスと思った。



帯の惹句を書店員さんたちでまとめたのは良いアイデア。ほかに例を知らない。

表紙の基調色は、amazonで見る書影よりもニュアンスのあるベージュ(個人的な趣味で言えばもっとニュアンスが欲しいけど。質感も含め)。



中身については、まだ途中までしか読んでいないので、またあらためて。

でも、ひとつ。

冒頭の1ページで、ちょっとぐっと来た。

こういう仕掛け方があったんだなーと。



ほかにないような句集ってことは、いろいろな面、いろいろな要素をもって確実で、この『自生地』の成功がほぼ見えた。

中身をこれから読み進めて、私がよい読者になれるかどうか、内容(句群)が私にフィットするか、それらは趣味嗜好やらの偶然に過ぎないから、それほど重大でもない。

ユニークであること。「本」として「書物」として、ほかとは違うこと。

句集はそれを軽視しすぎ、ちがう人の別の句集とページが混ざってもわからないような句集、多すぎ、と再三表明してきた。

『自生地』は、ハードウェア、ソフトウェア両面で、ほかと違う顔をしている。

福田くん、担当編集さん、ナイス!



2017/08/27

■これを外階段とは呼ばない


某日、友人夫婦の行きつけの焼肉屋、荻窪「やま元」で会食。最初にとったネギサラダから最後のハラミまですべて美味。

※写真は友人宅からの帰り道、天沼陸橋への石段。

■もうすぐ句会



句会のたびにまず思うのは「作れるのか?」。これ、ウソでも演出でもなく思う。「ひょっとして一句も作れないんじゃないの?」

だから、一句目を短冊に書いたとき、ちょっとほっとする。

柄にもなくかわいらしいことを言ってるみたいだけれど、こういう心持ちだから、まだ俳句/句会を続けていられるのかもしれませんよ。

ラブ&ピース!

2017/08/26

■ジェンダーなドラマ

『俳句』誌の「男のドラマ・女のドラマ」は、そのコーナー名からして、すごい。

ジェンダーフリー(gender neutrality)が社会テーマとして浮上している昨今、なんとも蒙昧というか、昔の一般週刊誌の埋め草的に下世話というか。

もっとも、俳句総合誌がコア読者を「70代以上・俳句歴が浅い」と設定する以上、こういう、悪い意味で「昭和」な企画もしかたがないのかも。

……と思っていたら、2017年8月号に榮猿丸さん。書き手が異性の物語を取り上げるコーナーとばかり思っていたのは間違いだった模様。同性もアリなんですね。

ナイス。

さらに9月号の小津夜景さんの引用句と文章が素晴らしい。「男のドラマ、女のドラマ」という、どうしようもなくくだらない枠組みに、乗っかるでもなく、乗っからないでもなく、絶妙なスタンス。「男のドラマ」「女のドラマ」といったくだらない枠組みを、こんなふうに無効化する手があったのですね。 

ナイス。

立ち読み、超オススメ。


2017/08/25

■黄色いほうも

昨日の記事に Lack of Afro のブルーの動画を貼ったら、黄色いのも、どうしても貼りたくなった。



ゲストで歌っているジュリエット・アッシュビーについての情報は少ない(私が知らないだけで有名?)。ロンドン郊外の生まれで、エイミー・ワインハウスと親交があった。YouTubeで聴くとレゲエ/スカっぽい曲が多い。この黄色いのは違うけど、とても魅力的な歌唱。

中嶋憲武画伯とやっている音楽千夜一夜に、と、ちょっと思ったけど、情報が少なすぎて、音楽そのものについて語ることになっちゃうのでNG。あれはネタ寄りの扱いだから。

ラブ&ピース!


2017/08/24

■作家アンソロジーに必要なもの

作家アンソロジーの編者/編集にもとめられるもの、というより、私がもとめるもの。

1 見識

最低限でいいんですよね、これは。

2 俯瞰

どうしたって遠近法になるけど、そこにどのくらい俯瞰を盛り込めるか(そこはセンスと覚悟と努力)。遠近法だけなら、結社内とか身内でやってればいい話。

3 誠意

公正はどだいムリ。編者が個人/個人の集まりである以上、個人の判断にゆだねられる。どう選んでも、いろいろ言われる。文句はつきます。そこでだいじなのが誠意。

誠意って具体的にこれこれこういうものって言えないんだけど、かなりだいじ。どんな本も、これがないとね。あ、そうそう、人も、誠意のない人は信用できないでしょ?

なお、「誠意を見せる」など、卑俗な用法と、ここに書いたことは無縁。誠意は見せるものじゃなくて、備わっているかいないか、といったたぐいのもの。


あ、そうそう、忘れるとこだった。最後にいちばんだいじなもの。

4 愛





2017/08/23

■抱き合うこと 『オルガン』第10号より

どこで切れるのかによって、見えるもの、伝わるものが変わってくる句というのがあって、

名のもとに滝ふたり抱き合う構成  田島健一

これもそう。

  名のもとに滝///ふたり抱き合う構成

なら、人がふたりで抱き合っている図。

  名のもとに///滝ふたり抱き合う構成

滝をひとりふたりと数えるかどうかは別にして、私はこちらで読みたい。

「構成」の語(構図ではないんですよね。通例からちょっとずつずらす手法)とのバランスで、滝が抱き合っているくらいのほうがいい。

けれども、ここで「名のもとに」が障る。雄滝雌滝が連想されて、説明っぽい。ううん、悩ましい。

ともあれ、じゅうぶんなワンダーと興趣ある質感を備えた句。

掲句は『オルガン』第10号(2017年8月8日)より。


2017/08/21

■人名って?

福田くんへのインタビューのあと、逆に質問される。私にとっての人名とは何か?

A 俳句における人名

地名みたいなものかも。山や川には固有名があったりするし。

そのものを詠んだり背景だったり、頌/賦(ode)だったり挨拶だったり。


B 菅井きんの歌前田吟の歌における人名

もっぱらナンセンス化のための道具。


C サイト「毎日が忌日」をつくった理由

忌日俳句には消極的・懐疑的。「ナントカ忌って持ってくるだけでムード出しちゃって、それでいいの?」と思う。千を超える忌日(アーノルド・シュワルツェネッガー忌とかレフ・トロツキー忌とか)を並べることで、既存の頻出忌日を相対化・稀釈。

私「忌日俳句が好きなんだろうと勘違いされるんだけど、逆」
福田「それはまた捩れてますね」


【関連】ウラハイ:人名俳句タグ

2017/08/20

■福田デー

某日、福田若之くん、来訪。

ギター(ストラトキャスター)を持って遊びに来たんだけど、ついでにインタビュー動画をつくっちまえということで。

福田若之第一句集『自生地』刊行直前インタビュー
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2017/08/blog-post_19.html

晩ごはんはお好み焼き(大好物だそうで、この選択は正解)。

で、福田くんの何が素晴らしいかって、ゴハンの前に手を合わせて「いただきます」をするとこ。




2017/08/19

■誰に向けて書くのか

何かを書くとき、私の場合、想定する読者はひとり。

シノギは別にして、きほん、ひとりに向けて書きます/つくります。

例えばこのブログ記事は、確実に読んでくれているはずのひとり。

(ふたり以上が読んでくれているという確証が得られないという事情もある)



例えば俳句は、自分ひとりに向けて。

「自分」は(物理的に)最初の読者でありますから。

享楽的で自由気ままな、すなわち信頼できる読者であるように、日々努めております。


ただし、句が人の目に触れるとき、連作などの発表時は、不特定の読者諸氏へと想定が切り替わる。この段階は、「書く」ではなく、編集。


俳句をつくる人と編集する人が、べつべつの役割と心持ちをもって同居していることになりますね(俳人は誰もがそうなのだと思います)。

■はや土曜となりたる前田吟の歌

ある日吉高由里子ほほえむCMと法人番号指定通知書  10key

渚まゆみのことが突然話題になる電波が降つてきたかのやうに 同

私性とか前田吟とかうどんとか短歌柳俳ややこしきもの  同


2017/08/18

■鰹のこと 『円錐』第74号より

一日が映画のやうでなく鰹  宮﨑莉々花

映画のような一日なんて、なかなかない(まだ、ないぞ、これだけの期間、生きてきて)。

句の帰着/展開先は「鰹」。どうしようもなく身も蓋もなく、鰹。

鰹のたたきでも食べてんだろうか。鰹は、どう調理しようが、あまり映画的ではない。


しらっと大胆に季語を置いた句は、かなり好みです。鰹も好きです。とくに戻り鰹。

掲句は『円錐』第74号(2017年8月10日)より。

■八月某日のトロワコント

1 一週間以上先の、ある日時にその件は電話で話しましょう、というアポイントがメールで成立。この悠長な、というか懐の深い感じ、わりあい好き。

2 森林太郎(もり・りんたろう)を一瞬「しんりん・たろう」と読んでしまった自分がなさけない、舌を噛み切りたい。

3 自撮りに挑戦。


2017/08/17

■山椒魚、あるいは濡れる話

ポケットはいつも山椒魚だった  榊陽子〔*〕

これはそうとう奇妙なポケット、かなりイヤなポケット。

山椒魚は夏の季語、ってことよりも、こんな句を思いましたよ。

ペダル踏む夜は濡れた服のようだ  近藤十四郎(1999年5月)


〔*〕出典
http://yoko575.blog.fc2.com/blog-entry-203.html

2017/08/16

■俳句の賞はぜったい必要、かつ関心ゼロ。

野口る理さんの連載「ほどける冠」クロイワくんの回が予想に反して(というと叱られるか?)おもしろかったので、このへんで、私が俳句の賞全般に関心ゼロである理由(前掲の記事を読んでる時点でゼロとは言えないんだけどね)を書いておいたほうがいいと思った。

以下、深慮なく、気ままに。

まず、誤解する人がいるといけないので、言っておくと、俳句の賞は、俳句にとって、俳句世間にとって必要なものです。

なんか、関心ゼロと言うと、賞全般を否定しているみたいに曲解する人がいるかもしれないが、ぜんぜん否定しない。必要なもの。でも、自分には関心がない。

そういうことって世の中にはいっぱいあるでしょう? 俳句関連では「結社」もそうかな? 自分とはいまも将来も無縁。たいして興味もない。でも否定なんてぜんぜんしない。結社も必要なもの。

で、賞の話。

関心・無関心にはふたつの局面があって、A:参加・応募、B:外から見て。

ひとつめのA。

応募/参加したことはある。結社の作品賞とか、豆の木賞とか、角川俳句賞(2回)。だいぶむかしにその手のものに出すのはやめていると思う(忘れていたら、ごめん)。理由は、個別にいろいろあるけれど、句集を出したことが大きい。

とくにオープンな賞(俳句総合誌etc)には、広く評価を問う、認められれば嬉しい(若者が最近よく使う承認欲求)、自作をまとめる楽しさ、まとめて読んでもらえる嬉しさなどの動機があるようなのですが、句集を出したら、そのへんのことは解決してしまった感。

自分の句集が「認められた」とは思わないけれど(人それぞれ好いてくれたりそうでなかったりのはず。それは受賞作も落選作も同じ)、俳句をやってて、あの時点(『けむり』は2011年)まででこんな俳句を作っていて、ああいうかたちにまとめました、ということで、気持ちが済んじゃった。

それと、承認欲求というのは、あまりよくわからなくて、世間に自分の存在を認められたい、ということかな? もしそうなら、そんなもん知ったことか、なわけです。この年齢になるまで、げんに喰ってきて、けっして多くはないだいじな人(たち)をだいじにしているつもりだし、まあまあだいじにしてもらっている。それ以外の「世間」はどうでもいい。

自分がつくる俳句に関しては、もっとどうでもよくて、まあ、おもしろがってくれている人もきっといるはず。

そう考えていくと、「承認欲求」というのは、若者のものかもしれませんね。この年齢になると、承認されなくてもされても、げんに死なずに、ここで暮らしている。しかも、たのしく。

話が長くなってまずいのですが、《どうでもよくない人たち》だけを見て、暮らしたい、俳句をやりたい、というのが、正直な心境で、《どうでもいい人たち》は、ほんと、どうでもいい、ということで、これはかなり「いけないこと」を言っています。

B。これがだいじかな。

参加せず外から見ても賞には関心がない、その理由は、(これもっぱらオープンな賞についてですが)、賞の結果が示す「良き俳句/おもしろい俳句」と、自分が思うそれが、そうとうに乖離していること。これは受賞作がダメということではなくて、自分の読みたいものを見つけるのに、賞が寄与してくれないということかもしれない。

つまり、どんな俳句が読みたいかという読者(=私)の欲求から、かなり遠く離れたところに数々の俳句賞がある、という感じ。

山口優夢が前掲連載で、《「その賞を取っていると読むに値する」と思ってもらえる》とうフレーズを口にしているが、自分の中でその指針が揺らいで崩れきってしまった。

付言すれば、高柳克弘が同連載で、《賞はいわゆる「市場」との関係性が濃くて、文学の評価基準としては明らかにおかしいような軸もしばしば入り込んできます。》と指摘する事柄も、私の無関心には関係がない。市場におもねること、政治が介入することはあたりまえ。それだから私の関心が遠のいたのではない。

それに、(これを言ったら話にならないけれど)もともと、俳句のAとB、句集AとB、どちらがいいか、といった問いの立て方に興味がない。どっちもいい、どっちもダメってことだって多々あるわけで、それでいい。

例えば、去年2016年に読んだ句集では岡野泰輔『なめらかな世界の肉』がほんとよかった。それと、例えば、このあいだ亡くなった金原まさ子さんの句集『カルナヴァル』、どっちがいい? と訊かれても、どっちもいい、どっちも好きと答えるしかない。その2つの句集に優劣を付けることに、いったいどんな意味がある? ないよね。そう考えると、どれがいちばんいいかを決める「賞」への興味はなくなっていくのでした。


AとBを総合すると(ちょっと飛躍があるよ)、俳句世間のマジョリティと親密であることは、自分が暮らすこと、俳句を愉しむことのささいな条件でさえありえない。まったくもって不要。これは年々思いが深くなった。

俳句の賞には、俳句世間的マジョリティのさまざまな部面(おもにニーズ)を集約したようなところがある。作風の潮流。承認欲求の受け皿。《読まれる》機会創出。サロンへの話題提供。

でも、それらは、自分にとって不要。であれば、関心も興味もなくなる。


で、もう一度、念のために言っておくと、私にはどうでもよくても、どうでもよくない人たちがたくさんいる以上、賞は必要です、ぜったい。

(もう1回くらい、軽く続くかも)

2017/08/15

■脚のこと 『オルガン』第10号より

空耳ならぬ空目という語が定着しつつある。老眼と老人ボケによる空目が私には増えてきたみたいで、

  虹が脚をつかひ隣にをりにけり

おっ、カッコいい句、と思って、よく見たら、

蚊が脚をつかひ隣にをりにけり  宮本佳世乃

だった。

ファンタジーじゃなくてリアルをいきいきと描いた句であったわけで、でも、私は、虹も蚊も、どちらも愛し、どちらとも共にある。蚊取線香を炊くか炊かないかの違いはあるけれど。


(締めをちょっと凝ってみたが、大失敗こいた模様)


掲句は『オルガン』第10号(2017年8月8日)より。

【参考】相子智恵 月曜日の一句
http://hw02.blogspot.jp/2017/08/blog-post_14.html

2017/08/14

■不穏

見た目、ボロボロなんですが、どうやら稼働中。

ひとつだけ闇を見せて、そこがとても不穏。

画像をクリックすると大きくなります

2017/08/13

■かもめ 紀野恵『白猫倶楽部』より

小振りなるこどものかもめ私より少しくものを知らないだけの 紀野恵

その人と子かもめしかいない世界。

掲歌は『白猫倶楽部』(2017年7月/書肆侃侃房)より。

【お知らせ】8月のくにたち句会

2017年8月27日(日)14:00 JR国立駅改札付近集合

句会場所:ロージナ茶房(予定)。

席題10題程度

初参加の方は、メールtenki.saibara@gmail.com)、電話etcでご一報いただけると幸いです。

問い合わせ等も、上記メールまで。

2017/08/12

■某日、山口優夢の胃におさまった鴨のパテ

小津夜景さんのおみやげを、その日。

2017/08/11

■精がつきますかね?

賜り物の猪ソーセージ。



みなさま、暑い日がまだまだ続きます。くれぐれもご自愛ください。

■非情なる前田吟の歌

オルガンを踏みつつ浜に来てしまふ耳には前田吟なる響き  10key

とことはに植木等のごとくあれ金魚たゆたふ東京メトロ  同

幾日も過ぎてさらなる日々の過ぐ野際陽子の死んだあの日を 同


2017/08/10

■ヘンな句を引かれてしまふ残暑かな






≫カーのおはなし。:ozu yakei flowers' kung-fu
http://yakeiozu.blogspot.jp/2017/08/blog-post_9.html

もちろんのこと、どの句も喜んでおります。感謝感謝であります。

〔原典〕
1 『増補版人名句集チャーリーさん』
2 『けむり』(2011年10月25日)
  ※初めて作った句を代表句にするのもよいかも。
3 「るびふる」http://hw02.blogspot.jp/2017/03/blog-post_25.html



2017/08/09

■某日:稲荷・下北沢・鐵砲洲

1 ××稲荷とかいってお稲荷さんのヴァリエーションがたくさんあるが、単なるお稲荷さんよりも美味しかったためしがない。単なるお稲荷さん偉大。

2 テレ東『下北沢ダイハード』が面白い。第3話は一幕劇をテレビドラマにしたような作り。

3 鐵砲洲から隅田川へ出る。左に中央大橋、右に佃大橋。川ラヴァー、橋ラヴァーには鉄板スポット。小雨のなか、傘をさしての散歩もまたオツ。

2017/08/08

■プチな万年筆

近所の文房具屋さんに白のサインペンを買いに行ったら、いいのがなかった。何も買わずに店を出るのはしのびなくて、ライトグリーンの簡易万年筆を購う。

ちっこい。

pilot petit 1。200円(税別)はうれしい。


2017/08/07

■瀬戸正洋の語尾 『里』第173号より

句の語尾はたいせつ。大きく意味を担うのではないけれど、たいせつ。

ワルツよりタンゴ雷が落ちた  瀬戸正洋

昼顔や遊動円木が折れた  同

過去形語尾のおもしろさ。

掲句は『里』第173号(2017年8月号)瀬戸正洋さんの7句より。ほかに、

鈴蘭やホテルに喫茶室はある  同



2017/08/06

■冒頭集:挨拶

柳本 でもあれもあそこにたっただんかいでおわったとおもって
はじめるためにおじぎしたしゅんかん、
おわったんですよ
もうあとは後始末というか。
安福 はじまったらおわりますもんね
(安福望×柳本々々『きょうごめん行けないんだ』2017年4月1日/食パンとペン)

■某日、祝婚

アヤカさんのウェディングパーティーへ。

1 シンジさんとジャケットがお揃いだった。

2 イコマくんがファンキーな眼鏡をかけていた。

3 アヤカ母とお話しているとき、アヤカ母が新郎友人たちに「アヤカの母です」と挨拶した流れで、「父です」と名乗りそうになった。

2017/08/05

■出会う読者はひとりでいい


句が読者を待ち、出会う。その数は、ひとりでいい。

ゴキブリは1匹見つけたら、何十匹何百匹いるって言うじゃないですか(ヘンな喩え)。だから、ひとり、あるいは数名でいい。

数を倚むと、だいじな人を逃すかもしれません(ヘンな喩えに走りそうなところを自制した)。

■句は何を待っているのか?

野口る理さんの現在進行中の連載「ほどける冠」は、俳句の賞に関する話題で、「なんでまたこんなややこしくて微妙なテーマを?」とおせっかいながら思ってしまうわけですが、だからこそ面白くなりそうな予感もあります(どうなるんだろうね?)。

なお、私自身は俳句の賞全般に興味関心がほとんどゼロ。自分が応募することはおろか(過去に応募・参加したことはある)、他人の受賞や落選にも関心がなく、つまり賞自体に関心がない〔*〕。知り合いが受賞すれば「おめでとう」は言いますが、それだけ。理由は、機会があれば書くかもしれませんが、当面、この記事には関係がないから、話を進めるね。

で、テーマとは別に、2017年8月5日の記事チャーリー・ブラウンの巻き毛に幸せな雪〉という句について「んなに×をつけられている中、谷雄介さんだけが◎をしてくれていた」とある。

へぇ、×? この句はよく憶えている。私は好きで、ウラハイで引用した。

http://hw02.blogspot.jp/2014/01/blog-post_14.html

柳本々々さんも、この句を大々的に取り上げている。

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/09/blog-post_16.html


何が言いたいのかというと、人それぞれ、好みや見解が違うのだなあということはもちろんなのですが、そう焦って◯とか×をつける必要はない、ということ。

句は、◯×をもらうために生まれてきたわけでも、◯×のプラカードが上がるのを待っているのでもなく(とはいえ、そういう側面もある。判断や評価はだいじ)、読者を待っているのではないか、ということ。

句は、あわてずさわがず、読者を待っていればいいんだ。

そう考えると、つくるこちらとしても気が楽だし、じぶんのつくった句のことがかわいくなってきませんか?(子離れができない親というのではなく、「いい人が見つかればいいね」とやさしく見守る態度)。


〔*〕週刊俳句で賞を企画したときは、どうするんだろう(過去、週刊俳句賞の名で賞イベントをやった)。そのときは、他の人に担当してもらいます。

2017/08/04

■鍵穴その他 『里』第173号の喪字男

もつたいないほどの勃起や夏の雲  喪字男

勃起は神様からの授かりもの・賜りもの。失われつつあるいまはじめてそれがわかる(喪字男さんのことじゃないよ。為念)。


鍵穴を覆ふががんぼそれごと挿す  同

ががんぼの大きさが「覆ふ」によって的確に示され、「それごと」に確かな気分。全体に省略が効いて、ムダがない。


『里』第173号(2017年8月号)、喪字男さんの7句より。ほかに、

短夜をもつと短くする薬  同

なんだろう?


2017/08/03

■いま書くものは、いま以外に書けるわけがないのだから

「いましか書けないものを」などという空疎なフレーズを信じてはいけない、踊らされるなよ、ということかな? 短く言うと。

福田若之:いましか書けないもの

短く言ったり単純化したりしちゃいけないんだろうけど(だから、福田若之は937文字も費やした)、いま=かけがえがない=いまの直前・いまの直後・昨日・明日と代替不可能、ならば、何を書いても「いましか書けない」(いま書くものを昨日書けるわけがない;論理的に。明日書けるわけがない;もう書いてる)ものである、ということでもありましょう。


一方、今回の記事を歴史的に推理すると、若くして俳句を始め、「俳句甲子園」なる高校生イベントに参加した福田若之は、冒頭のような俳句クリシェ・文芸クリシェ・教育クリシェに、べったりとまとわりつかれて過ごしたはず。そら、いやにもなるし、警告も発したくなる(推理ですよ、類推ですよ)。くわえて、というか、だから、というか、彼の属した開成高校俳句チームが終始拒否してきたのが「高校生らしい俳句」なわけで、今回の記事は、そんな歴史的背景があると思うのですよ。

■外階段:恋ヶ窪あたり

東京西郊には「窪」の付く地名が多い。《さやうなら笑窪荻窪とろゝそば 攝津幸彦》の荻窪もそうだし、多喜窪通り、芋窪街道なんてのも、うちの近くを走る。

恋ヶ窪は「恋」入りで、ちょっと俳句にしたくなる地名じゃないですか?

(写真は窪とはまったく無関係なのですが)


2017/08/02

■思い病・思い信仰

思い病・思い信仰の蔓延は、俳句だけではなく川柳も同じ事情の模様。

http://senryusuplex.seesaa.net/article/452295459.html


あなた(作者)の「思い」なんぞに、わたし(読者)はなんの興味もない。

そのことを、何度も繰り返し伝えていかないと、思い病・思い信仰はなくならないのでしょう。

そもそも、なんでまた、自分(作者)の思いに他人(読者)が興味があるなんて思うのか。これはそうとうに不思議です。

追記:
なお、佳人のみなさまに置かれましては、「思い」を、川柳・俳句ではなくリアルに伝えていただければ幸甚に存じます(おっさんは要らんぞ)。

2017/08/01

■終電のこころもち 『街』第126号より

終電の吊り広告の青田かな  今井聖

俳人協会的には無季の句、大丈夫なんですか。聖さん、理事でしょう?

ってつまらない戯言は置いといて、終電の都会・夜と青田の田園・昼の対照があざやか。終電は、帰宅の列車。遠い場所へ意識がうつろう、その心理的な対照も伝わる。

掲句は『街』第126号(2017年8月1日)より。