2012/09/30

もうひとつの解題 俳風昆虫記〔夏〕のこと

週刊俳句・第284号に、

俳風昆虫記〔夏の思ひ出篇〕99句
Fabulous Insect Adventure; summer souvenir
 
を載せてもらっています。

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/09/99.html


この記事は、その「もうひとつの解題」、あるいは「ウラ解題」

 

俳風昆虫記は、当初、掲載サイト・掲載誌を広く募集してみたのだが(≫拙ブログ「俳句、載せてください」)、どこからも声はかからず(作句信条まで用意したのにぃ)、最後の頼みの綱、「週刊俳句」運営担当諸氏に「どうか、ウラででも」と泣きながら懇願、諾否を問うたところ、賛成票2名(過半数)で諾の決定。「オモテでやりなさい」と寛大な措置をいただき、このたびの掲載となった。


まずは、スピカさんに感謝。「虫の生活」が土台になっている。解題にも書いたが、99句のうち30句は、ウェブサイト「スピカ」で連載させてもらった「虫の生活」の再録(若干の改稿アリ)。31日間の連載だったから1句を落とした。

句集『けむり』からも18句を再録した。また、「はがきハイク」等からも若干(こちらは、どれが再録でどれが新作か本人も把握できていない。なにぶんにも前後不覚で暮らしているにつき)。

【偽・俳コレplus】とする手も考えたが(99句という句数)、そのアイデアは途中で捨てた。「俳コレ」本体、また純正「俳コレplus」の生駒大祐氏は、関連付けられても迷惑だろう、ということで。

解説が付いているのは【偽・俳コレplus】案の残滓。近恵さんには、某句会後の酒席においてその場のノリで頼み、快く引き受けていただいた。多謝。

ところが私と来たら、無理な頼みをしておきながら、いつまで経っても稿を固めない。最後まで句のサシカエをやっている。軽微な変更を施す。順序を変える。
この99句の最終形が、この稿を書き上げる締め切りの一日前に届くという鬼の所業。(近恵・解説)
じつはそのあとにも、さらに一句、さしかえた。
難しい言葉もないし、難しいことも言わない。(近恵・同)
俳句で難しい語はふだんから使わないけれど、今回は、ラテン語っぽい語(post cotus)なんぞが入っちゃったりしている。がんばっちゃっているのだ。

 

夏季の「虫」にまつわる句を並べ、いじくっていて、わかったことは、きっと秋の虫で99句もの句数は、きっとつらかろう、ということだ。じつは秋の虫でも制作に取りかかっているが、ヴァリエーションの点で、夏は秋に勝る。「虫」というと秋、というのが俳句の習わしだが、秋季で虫にまつわる句をまとめようとすると、数が行かない。鳴いてばかりいることになってしまう。考えてみれば、「昆虫」といえば、秋ではなく、夏、なのでありました。

 

ところで、いま、小学生向けの雑誌やノートの表紙に、昆虫が使われることはまずないそうだ。理由は、見るだけで嫌悪感を催す子どもが増えたから。悲しいことです。



2012/09/28

【再掲】くにたち句会 9月のお知らせ

2012年9月30日(日)

14:00 JR国立駅南口集合

句会場所:いつものキャットフィッシュ (予定)

席題10題程度。よろしければ句会後の飲食も(会費アリ)。

ご常連様も、久しぶりの方も、初めての方も、よろしくどうぞ。

子規

子規って、ほんと、いいやつ、って感じですよね。


ところで、スピカは、毎日更新を続ける、がんばってる俳句系ウェブマガジンです。
『子規に学ぶ俳句365日』の時にも、こういったボケぶり(まぁ無知ぶりですね)を披露して、西原天気さんととあるやりとりがありました。そっちの話はその後の天気さんとのやりとりが少し笑えるので、いずれ天気さんか私がブログに載せ・・・るかもです。
http://spica819.main.jp/yomu/8197.html

2点ほど異議、というか補足。

まず、「少し笑える」とあるが、ちがう。むちゃくちゃ笑える、だ。

もうひとつ。私は、絶対にブログに書いたりしない。江渡華子さんの名誉のために。


2012/09/27

あらま、お茶

目の前にあるおーいお茶に、

《桜色美しすぎて散りゆく身 兵庫県尼崎市・12歳・中野なつ美》

12歳の彼女の身に何があったのだろう?


《しゃぼん玉合格したと伝えます 兵庫県加西市・12歳・繁田将貴》

これ、たぶん合格してませんね。俳句における「しゃぼん玉」効果。


「おーいお茶」というお茶、あまり買ったことがなかったのですが、こんなに楽しめるとは! 知りませんでした。不覚。

2012/09/26

木枯さんの写真

八田木枯さんが亡くなって半年と一週間が過ぎた。

短いあいだだけれど句会をご一緒させていただくなど思い出はある。でもそれをどこかに書く気には、なかなかならない。だって、もったいないから。思い出は独り占めしておきたいじゃないですか。

いまもいろいろな思いがあるのだけれど、それを書くのは難しい。

 ひとつ、私にとってうれしいのは、 木枯さんの追悼記事などで目にする肖像写真、あれが自分の撮った写真であることだ。


晩紅塾のときだったか(私は数回しか参加していない)、2008年6月3日、夜の8時だから句会のあとだったのだろう。カバンにカメラがあったので、なんの気なしに撮らせてもらった(おそらく着物姿が渋かったからだと思う)。2~3回しかシャッターを押さなかったが、すごく良いお顔に撮れている。偶然とは恐ろしいものです。

木枯さんの優しさや飄逸、また威厳(といってもけっして人を圧することのないたぐいの)、そんないろいろな魅力が、あの写真の顔にあらわれている。

自分で撮っておきながら、こんなことを言うのはなんだが、これは私の腕前ではなく(写真技術的にはダメダメです)、偶然が生み出したものなのだから臆面はない。

帰宅してからモノトーン処理のパターンもつくり(人の顔の写真って、カラーだけじゃなくモノトーンも欲しい) 、次にお会いしたとき差し上げた。紙焼きだけだったかCD-ROMも付けたか。それは忘れた。

木枯さんも気に入ってくれたようで、「雑誌で写真が要るときは、これ、渡しといたらええな」と笑っておられた。そのうち私が知らぬまに、あの写真はいろいろな誌面に掲載されたようだ。そんな用途があるなら、バックの壁などももう少し考えればよかったが、なにしろ、あのときは、ほんの数十秒ほどでシャッターを切っただけだったのだ。


俳句雑誌や出版物、あるいはウェブ上で、木枯さんのあの写真を、これからも何度か目にするだろう。そこのところは、みなさんも私も変わらない。けれども、私だけは、写真を見るたびに、木枯さんと向かい合ったあのときのことを思い出すことができる。

そして、これからさき、あの写真は長く残るだろう。私と俳句との関わりは長くてあと数十年。それから先は何も残らない。痕跡は、ウェブ上の恥ずかしいログとして残り、あるいはいくつかの印刷物としても若干残るだろうが、私という存在は残らない。ところが、あの写真は、これからも俳句史に残っていくのだ。

写真一枚。あのとき偶然、私にもらたらされた写真が、自分にとって、なんだかとてもスペシャルなものになった。木枯さんのこと、自分にとって貴重な出会いや思い出が、「自分だけのもの」でありつづけるための記念碑のような(もちろん自分にとって、というだけの話)存在なのだ。


ええっと、つまり、「いいでしょ? うふふ」という話です。ごめん。

2012/09/25

Ebony and Ivory

二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり  金子兜太(*)

汗かく白人深夜のテレビ通販に  神野紗希(**)



(*)暗緑地誌 1972 (**)光まみれの蜂 2012



2012/09/24

柱の燃ゆる

同じく柱が燃えるにしても、

いつせいに柱の燃ゆる都かな  三橋敏雄 (まぼろしの鱶 1966)

焼藷屋柱燃やしてゐたりけり  大石雄鬼 (だぶだぶの服 2012)

大違い。


どちらがいいとか悪いとか、好きとか嫌いとか、そういう話ではないです。


ところで、焼藷屋の句は、どう解せばいいのか。焼藷屋の屋台を思い出してみるに、たしかに柱がある(ないタイプももちろんある)。柱は経年の営業から焦げてもいそうだ。しかし、それを「燃やして」というか? この句の景は、ごくごくありふれた現実の景なのか(「燃やす」は誇張であり文彩)、それとも単に小火なのか。あるいはシュールな事件なのか。あるいはこれが屋台でないとしたら?

答えを出そうってんじゃあ、ありません。俳句はなぞなぞではないので。

でも、謎を残す句は気になります。


大石さんの『だぶだぶの服』(ときどき「だぼだぼの服」と覚え間違えそうになる)は、素晴らしく「おもろい」句集(と幾度となく宣言している)。謎がいたるところにあって飽きない。もちろん巧い描写の句も(息抜きの如くに)存する。

この脈絡で難を言えば(こういうのも言っておくほうがいい)、謎が謎だとわかりやすく示され過ぎる点。誰でも読めば何がしかのワンダーを手にするが、誰もが通り過ぎるけど「わたしだけのワンダー」といった仕掛け・風味は、ちょい足りない気が、いまはしてる。

ま、そのへんも含め、また別の機会に(週刊俳句とかウラハイとかココとか)。それにまた、いろいろな人がこの句集を取り上げるでしょう(半面、批評という側面で手を出しにくいところはある。いわゆる一筋縄じゃ行かないところがある)。


大石雄鬼句集『だぶだぶの服』 ふらんす堂オンラインショップ


パイナポー

大石雄鬼さんの句集『だぶだぶの服』がたいへんな面白さで、そのことはどこにも書かず、ここにも書かず、独り占めしておきたい気分でもあったのですが、そうもできなくて、こうやって書いているわけですが。


愛の巣のパイナップルが立つてをり  大石雄鬼

すでに知っている句も集中にいくつかあって、この句もそのひとつ。

この句、憶えている人・知っている人は少ないかもしれませんが、週刊俳句で、川柳作家と俳人の競詠企画に寄稿してもらったなかの一句。柳人は、なかはられいこさん。

競詠は、こちら。まだ画像ではなく横組。週俳の草創期ですねえ。

で、この読後の感想などを遠藤治さんと私で語り合った記事が、これ(↓)。

第16号・柳×俳 7×7 「二秒後の空と犬」「裸で寝る」を読む(上):週刊俳句 第17号 2007年8月19日
第16号・柳×俳 7×7 「二秒後の空と犬」「裸で寝る」を読む(下):同 第18号 2007年8月26日


大石さんの作品については(下)のほうで語り合っています。

なつかしい。当時も、パイナップルの句がお気に入りだったのですね。私も遠藤さんも。


『だぶだぶの服』については、まだもっと、どこかで書くと思います。今日のところは、パイナップルの思い出だけ。


【追記】
大石さんの話題で言うのもなんですが、この競泳、 なかはられいこさんの7句、いまさらながら、むちゃくちゃにおもいろいですね。読むドラッグに近いわ。

2012/09/23

消息 ブルースなど

ウラハイに「おんつぼ43 B.B.King」を書きました。
http://hw02.blogspot.jp/2012/09/43-bbking.html

ちなみに過去記事
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2009/11/3bb.html


週刊俳句・第283号に「ひかり 林昭太郎句集『あまねく』の一句」を書きました。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/09/blog-post_5441.html

2012/09/22

俳句とは

俳句は、

1に「愛嬌」
2に「いいかげん」
34がなくて
5が「ずらし」

…というのは(他にもいくつか要件はあるにしても)、俳句を読むときの、単に好みというに過ぎないのですが、存外本気です。

愛嬌は、T田T哉さんは「茶目っ気」という語をあてていらっしゃるそうです。同じことを指している。

「いいかげん」とは、「まあまあ、そんなにがんばりなさんな」という部分と、加減の悪い句よりも加減の良い句のほうが、そりゃあいい、ということ。
 
「ずらし」は、何かをずらす、としか言いようがなく、ひょっとしたら伝わりにくい。作り手のスタンスとしての「かわし」につながり、あるいは「傾(かぶ)き」にもつながる。


愛嬌のない句はたいてい不遜。いいかげんなところのない句は暑苦しい。ずらし・かわしのない句はどこか痛々しい。


最初にも言ったように、単に好みの問題です。

自分で作るときも、自分の好みに沿うように作ろうとしますが、そこはまあ、なかなか、ね。意に沿ったものを作るというのは、俳句に限らず、なかなかタイヘンなことです。

2012/09/21

大石さん句集


大石さんは、おもしろい句をつくる。


ほら、すごくおもしろい。


その大石さんの第一句集が近々出るの報。


お茶目である。

2012/09/20

ベンチーズその後

ベンチでのんびり過ごすベンチ愛好会・ベンチーズのことを、スピカ「虫の生活」で書きました(≫こちら 7月31日)。

その後、ベンチ愛好者が続々集まり…という話ではないのです。数件、入会希望はありましたが、いまだ活動実績はナシ。私自身は、ひとりベンチラヴァーとして、ちょくちょくのんびりしています。

何の話かというと、映画「おおかみこどもの雨と雪」(未見)の一シーン。


これね、くにたちの白十字というケーキ屋さん兼喫茶店の玄関が、映画のなかで写真並みに忠実に再現されている。この手前にあるベンチこそが私が長年愛用しているベンチなのですよ。

どうですか? びっくりしました?(別にびっくりはしないか)

絵だと、えらく美しい場所のようですが、現実は、それほどでもない。でも、まあ、気持ちのいい場所ではあるのです。

何がいいって、ロケーションはまあそれとして、まんなかに出っ張りとかが、ほら、ない、でしょう? 最近は、何処に行っても、ベンチに「ホームレスが眠るの防止」用の出っ張りがある。あれほどイヤなものはない。くにたちの、ここのベンチには、アレがないのです。

というわけで、ベンチ愛好生活を続けます。

2012/09/19

媚態

『里』2012年5月号、上田信治「成分表76」より。
自分は、女性歌手の若々しくたっぷりと媚態をふくんだ歌を聴くと、ありがたく涙ぐましいような気持ちになる。ロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」とか。
涙ぐましいかどうかは別にして、ロネッツのかわいさったら、ない、わけで、再三取り上げているのですが、またもや貼ってしまう。



ついでにリンク(旧ブログ)も(≫ロニー・スペクター

閑話休題。「成分表76」の終盤には、こうあります。
ロネッツを聴くと、ロネッツになりたい、と思う。電車の好きな子供が、新幹線になりたいとか言う、あれだ。
ここは、ごめん、わからない。つうか、自分は、なりたいと思わない、ということなのですが、大事なのは、ここからです。

「成分表76」では川島彷徨子《夏蜜柑の種子あつむれば薄緑》を掲げてのち、
では、写生とは、薄緑のみかんの種になりたいような気持ちになることか、と思ったりします。
なるほど。この写生観は興味深い。しかしながら、残念にも、その「なりたい」の気持ちがわからない自分は、次のように解釈することにします。

「たっぷりと媚態をふくん」で自分に歌いかけてくるもの(世界のさまざまな一部)に魅了される、その契機を書き留めようとする行為、それが自分にとっての俳句なのかなあ、と。

この夏蜜柑の種は、ほんと、かわいい。

世界は、ロニー・スペクターの微笑みやら夏蜜柑の種やら、私(たち)を魅了せずにはおかないもので満ちている。ありがたや、ありがたや。そのことに毎日気づいていたいものです。

2012/09/18

ステップをゆずる

例えば、こういうの。
何ものでもない人、何ものももたぬ人は通過し、道をゆずる。何らかの力、あらゆる力を前にし、何ものかを前にし、あらゆる決定とか限定とかを前にし、踊る女は、舞踊は、道をゆずる。ステップとはステップにゆずることである。こうして運動が生じる。こうして優美さが生じる。優美さは何ものでもない、それはステップをゆずることにすぎない。
(ミッシェル・セール「アルバのバレー」 『生成 概念をこえる試み』 及川馥訳 法政大学出版会・1983 p78)
難しく考えないで、そら、ステップを譲らないとなると、足がぶつかるわ、人の足は踏むわ踏まれるわで、どうにもこうにも、だわなあ、と、くらいに解せば、とても為になる。

優美とは、状態ではなく、行為のあり方のようでもあるのですね。

2012/09/17

アレサ

これは貴重。よくぞ残っていたものです。



長い長いキャリアのなかでも絶頂期。それもきちんとライブの歌と演奏の音が入った映像。

2012/09/16

イメージの強度

カミキリムシの声は字で書くと「キイキイ」と、それほど不思議のない軋むような音ですが、実際、かなり独特の感じがあります。あれはなんなんだろうなあ、と、思いが残る声。

天牛を鳴かすや黄泉の誰のこゑ
  堀本裕樹

なるほど、そうでしたか。黄泉。カミキリムシに「黄泉」という別の世の、不特定の「人」を結びつけて、読後も句の残響が長らく残るような句です。

この句の収められているのは句集『熊野曼陀羅』(2012年9月/文學の森)。302句は、明確に「連作・熊野」とはいえないようですが、ゆるやかに連作的ではあります。

全体に、イメージの《強度 intensity》が求められています。

(いやらしく=エッチに、英語も併記。「イメージの」と来ればわかるとは思いますが、「強さ」というのは人によっていろいろな意味に受け取るようなので)

《イメージの強度》とは、例えば《ニュアンス》や《あえか》とは逆、といえばわかりやすいでしょうか。《強度》が備わると、句はドラマチックになりがちで、実際、ドラマチックに仕上がった句が多く、それらがいわば真骨頂であり見せ場になっています。例えば、

向日葵の首立てとほす豪雨かな  同

ただの雨ではなく「豪雨」。しかも「とほす」。《強度》志向の好例。

で、例えば、

飛魚よつぎつぎ難破船越えよ  同

好きな句です。これも鮮烈な《イメージ》、《強度》のあるイメージですが、目の前に見た光景ではなく、目の前で見たい光景です(「越えよ」の措辞からすれば、です)。

こうした《思いの中のイメージ》とでもいうべきアプローチも、この句集の特徴でしょう。これ、実際に作者が目にしたのか想像したのか、という問題ではなく。そういう「楽屋裏の真相」的な話ではなく、読んで受け取ることとして、です。

(「見たい」とは、想像・想望とは少し違います。それは「希求」ということであり、だからこそ、イメージに《強度》が備わります)

(熊野といえば、谷口智行さんを思い出しますが、イメージの成り立ちという意味で対照的かもしれません。ざっくり言えば、熊野イメージとの遠近。また句のたたずまいの点で、堀本裕樹さん=詩、谷口智行さん=俳、という感じ)


作中主体=作者が、句の中に登場する、さらに言えば、作者が光景(自然、事象、熊野…)に感応するという作りの句が多いのも特徴です。

以上の2つの要素……1 《希求されるイメージ・志向される強度》、2 そのなかで《感応する作中主体=作者》……によって、はっきりと特徴づけれる句集であり、作家だ思いました。

また、《ことば》のハンドリングといった分野に力が注がれるより、むしろ、語や措辞は《イメージ》のために供されるもの、といった位置関係です。このあたりは俳句全般にとって微妙で重要な問題なのですが、簡単にいえば、《イメージ》の愉悦か、《ことば》の愉悦か。二分法ではなく両極。

一例を挙げれば、「路地に干す血潮のごとき唐辛子」(同)などは、《イメージ》の愉悦を求める読者には強く訴えても、《ことば》の愉悦を重んじる読者には「直截すぎる直喩」でしょう(総じて、喩・措辞は直線的な作風です)。

いずれにせよ、『熊野曼陀羅』は、《イメージ》を志向するとの覚悟がはっきり見え、句群のポジション・作者のポジションが明確です。一定の意思・一定の狙いをもって俳句をつくるという部分が、作者にとって最重要。句が、句集が発表されれば、あとは読者のマターです。


ほか、気ままに何句か。

身を暮光つらぬくや鳴く田螺あり  同

はらわたに飼ひ殺したる目高かな  同

しろがねの蛇りんりんと穴に入る  同




2012/09/15

おろおろ2句

体重計に針のおろおろする秋暑  杉山久子

働かぬ蟻のおろおろ来りけり  西村麒麟

ともに『俳句』2010年11月号より。

部屋を片づけていて古い雑誌が出てきた、と思うかもしれませんが、違います。俳誌や句集から俳句を書き留めていたノートが出てきたのです。部屋の片づけ、というところは当たっています。

この1年くらい体重を気にしながらの暮らしなので、体重計の「おろおろ」、よくわかる、というか、毎晩のように見ています。針じゃなくて、7セグの数字だけど、このデジタル表示も「おろおろ」するのです。「おろおろおろおろっ」とちょっと素早く、ですが。

で、働くか働かないか。事情が許せば、好きなほうを選ぶのがいいです。怠けるのが好きな人は怠ける。でも、怠けるのが嫌い、働くのが大好き、という人も、世の中には多い。そういう人は、誰に憚ることなく、めいっぱい働くのがいいです。そうして、怠け者も幸せに暮らせるくらいの成果をあげてもらう。これで万事うまく収まるのです。

って、何言ってんだろう?

俳句の話だったんだよ。

2012/09/13

鴇田智哉「丘にゐた」15句、その市場性

一句目が

壜ならばすんなり秋が来てくれる  鴇田智哉(以下同)

こう「すんなり」入っていくところなど、新聞読者という広い層がきちんと意識されているなあ、と感心しました。

鴇田智哉さんの「丘にゐた」15句(朝日新聞 2012-9-11 夕刊)の話です。

「その夕刊、入手できなかった」という人も、こちらとかで全部読めます(便利です、インターネット)。

さて、2句目《水面ふたつ越えて高きにのぼりけり》は文語体。俳句プロパーの人は「高きに登る」を季語として捉えるけれど、ふだん俳句に接していない人も「高いところに」という一般的な意味で読んで、まったくもってだいじょぶな作りになっています。この2句で、広い読者層の「つかみ」はオッケー。なおかつ俳句プロパーにも「おお、どうなるんだ? この15句は」と期待させる雰囲気があります。

15句はバラエティ豊かです。《巣が蜘蛛のまはりへと波打つてゆく》《鶏頭が茎の真上に出てをりぬ》といったところは、俳句伝統が積み重ねてきた技法の集積(レガシーってやつですな)の上にきちんと乗っかった作り。「新聞読者」。朝日の夕刊の場合、300万人。これがきちんと意識されていると最初に言ったのは「伝統」部分も、今回の展示に含まれているから、というところが大きい。つまり、チャレンジングではない部分、俳句の歴史的集積とも仲良く手をつなぐぜ、という部分。それも含めた、15句のバランスの良さです。

ついでに言えば、《顔のあるところを秋の蚊に喰はる》は、伝統との折り合いよろしく、かつ21世紀的オシャレネス(いま造った造語)をも備えています。

バラエティ豊かとは、つまり、俳句をふだん読んでいない人に向かって、いろいろな手がかりが用意されている、ということです。この場合。

バランスがよいぶん、この15句、「鴇田成分」〔*1〕の含有量はそれほど多くない(まあ、鴇田さんのオールドファンからすると「並」の出来かな、と、ちょっと軽口・冗談です)。これはつまり、純度を少し犠牲にしても300万読者が優先的に意識されたのだろうと想像しています。


さて、ところで、《水澄みて自分のやうな人に会ふ》のような句は、どうでしょう? 水と来て、この中下だと、いやでもナルシスの神話を想起してしまうので、「ダメだろう! これは」と叫んでしまいますが、ちょっと冷静に考えてみれば、300万読者向けには、こういう直接的な連想を誘う句があってもいいのかな、と。そんなところまで計算に入っている! それほどまで、この15句は周到なのかもしれない、と思わされてしまいます。

この句の前に置かれた《ひとかげと九月の丘で入れかはる》は、モチーフ的には同様にやや直接的・明示的ですが、「丘」という設定がなんだか不思議さを残します。

このあたりについては、
…といった迫力のある分析もありますが、しかし、まあ、この手の俳句上の「実験」は、少し時間をゆったりとって見守るという態度も大切かな、と思っています。自己とか他者とかはもともと理屈っぽい世界なので、その分野の語彙と文法で評してしまうと、句の成り立ちが底割れして、そうなるとつまらなく見えてきたりします。


ともかく、全体には心地良い15句だし、「おっ」と思ってくれる、センスのいいシロウトさん(不遜な言い方w 私もどっぷり俳句プロパーなのかなあ)がたくさんいるのではないでしょうか。「俳句の人は、おもしろいところへ手を伸ばしているぞ」と。

 ●

「丘にゐた」はポップを狙った15句。喩えていえば、ふだん実験的なことをやっている暗いバンド(でも音楽の伝統を知っているし技術もあるミュージシャン)が、ちょっと聴きやすく調整したポップなチューンを、ラジオ・テレビの大メディアを通して伝える、という感じか。

いちばん残念なことは、俳句には、大きなマーケットがない。そのことだ。ここが音楽と違う。記事タイトルをせっかく「市場性」としたのに、わお! なんてこったい! という残念さです。

ほんと残念だけど、でも、数に倚むことはない。ポップは数じゃない。質なのです。「丘にゐて」15句には、愛と敬意を込めて「2012年型俳句ポップ」と名づけました。



〔*1〕
では、その「鴇田成分」とは? これにしっかりと答えるのは、まあ無理です。この場では、ほのめかしのような書き方になりますが、例えば、鴇田さんの俳句について加藤かな文さんが「ジェンガ」の喩えを使って提示した次のような把握。
その古い言葉の塔の重心を測りつつ、言葉の木片を次々と抜いていく。向こうの景色は透いて見えるのに、それでも塔は崩れない。(『俳句年鑑2009年版』)
これなどはかかり言い得て妙だと思います。

私が思うに、今回の15句のなかで《鴇田成分》の含有量が多いのは《目を使ふやうに蜻蛉を使ふなり》かなあ、と。

〔補記〕

朝日新聞やその他の大新聞に俳句欄があるのは知っている。今回は鴇田さんの作品だったが、ふだんからたくさんの人がそこで発表しているはずです。広い読者層に「俳句」が届く契機はたくさんあるということです。しかしながら、ふだん俳句にあまり接していない人が読んで、俳句にまつわる予見を固定化するような作品もきっと多いと想像します。「俳句と聞いて抱くイメージがますます凝り固まる。それだとつまらない。契機は多くても、契機を生かす作品は滅多にないのだと思います。

2012/09/12

滝の一滴

はじめにことわっておきますが、類想とか、まちがっても剽窃とかの話題ではありません。俳句というのは、類似・相同の2句が共に並び立つ可能性のある分野。可能性というのは、起こり得るという意味、そして肯定的に句の共存可能性、この2つの意味で。

さて、堀本裕樹句集『熊野曼陀羅』(2012年9月15日/文學の森)を読んでいたら、

  那智の滝われ一滴のしづくなり  堀本裕樹

すぐに思い出すのが、

  一滴の我一瀑を落ちにけり  相子智恵

これは『新撰21』(2010年10月/邑書林)。句が言いたいことは、似ている、というか同じだと思う。

お二人の作風は(おそらく)ずいぶん違います。それでも、このように隣り合うような2句が生まれてくるのが興味深い。生年は堀本氏が1974年、相子氏が1976年。同年代ですが、それが関係しているのか無関係なのか、よくわかりません。

ざっくりいえば、「われ」と「自然」の合一、と同時に「われ」の微小化という作用は、俳句においてしばしば起こることのようです。

野暮なことを言えば、技巧的な成功という意味では、後者のほうに分がある。とはいえ、前者の「なり」語尾の生硬さ、また「一滴」と「しづく」の重複は、傷とばかりは言えず、このへんの口調が作家性、堀本裕樹さんの作風を成り立たせているとも考えられるわけです。

ついでにいえば、この2句にある自然観・「われ」観、その表現、自分の趣味・好みの外にあるので(なんだかカッコよすぎるじゃないですか。愛嬌がない)、それほどこだわるつもりはないのですが、最初に言ったように、全体として大きく異なる作風のお二人なのに、この部分(自然と「われ」)では共通の根っこ、共通の参照(広い意味での参照)が見て取れる、というところに興味を引かれたのです。

で、その共通部分というのは、俳句というものの大きな幹の一部を成しているものかもしれません。


突然、一般的なことを言いますが、句は「点」を読むようなものです。句集はそれが「線」になる、複数の句集を読んでいくと、「面」に出会うことがある。なにかを《読むこと》は、おもしろいですね。

ついでに言えば、私たちは、俳句以外のものも読んでいるのですから、「面」が立体化する契機はつねにあるわけです。


で、話を戻せば、上に取り上げたような「われ⇔自然」観は、ヒンドゥ的とも言えるようなのですが、このへんを詳しく書くのは荷が重い。そのうち書けるかも、と、自分で楽しみにしておきます。


せっかくなので句集『熊野曼陀羅』について、近いうちにどこかに(このブログか週刊俳句)書きたいと思います。

2012/09/11

吹き替え口調

海外の映画・ドラマの日本語吹き替えというのは、「そんな日本語をしゃべる人はどこにもいない!」という独特の口調なわけです。例えば「なんてこった!」。実際にはまだ聞いたことがない。

私自身は海外のTVドラマはほとんど観ないし(というか皆無?)、映画も映画館かレンタルDVDで観るので日本語吹き替えをふだん耳にすることがないのですが、「吹き替え口調」を目で読めるところがあるのです。それは、スポーツ記事。海外の選手のインタビューの翻訳。これが「吹き替え口調」を字にした、という世界。

サッカーキング(http://www.soccer-king.jp/)というサイト。例えば、こんな感じ。
マイケル・オーウェン。ストークとの契約成立に。
「今日、新しい学校に息子と娘を連れて行ってね、その時に子供たちに言ったんだ。『今日はパパも含めた全員が、新しい学校に入るみたいなものだよ!』ってね。新しい人との出会いがたくさんあったし、そう感じたんだ。前にも経験があるけど、全員に挨拶をするには少し時間がかかる。でも僕はそれを楽しみにしているんだ」
http://www.soccer-king.jp/news/world/eng/20120907/70015.html
「(…)新しい学校に入るみたいなものだよ!』ってね」って…。

こういう「ってね」は、まずふだん聞かない。言う人がいたら、会ってみたい。

もうひとつ。“悪童”バートン。知らない選手。
「俺の中のチンパンジーが出てきてしまった。まったく自分自身に失望したよ。でも、理性が保てる状態ではなかったんだ。我々には降格の可能性があったし、相手はリーグ優勝が懸かっていた。それに、俺はQPRのキャプテンだったんだ」
http://www.soccer-king.jp/news/world/fra/20120911/70699.html
ま、こんな調子なわけです。

ところが、本日、ワールドカップ予選。対イラク戦直後のザッケローニ監督。これがですねえ、いつもと調子が違うのです。
「相手の出方がどうであれ、うちのサッカーができれば心配はないと思っていたんですけれども。相手は全員引いて守ってくるようなやり方で、若くて走力があって、コンディションがいいメンバーというのを出したわけですけれども。通常のスタメン組が出てきていれば、ああいった貢献というか仕事はできなかったのではないかと思います」
http://www.soccer-king.jp/news/japan/national/20120911/70553.html
わっ、59歳仕様!

いつもの吹き替え調じゃない。いつもと違うぶん、妙にコナレない感じもあって、コクが深いです。

ちなみに、香川くんがイギリスでのインタビューに日本語で答えて、通訳が英語に直して、それが記事になって、その記事が日本で、日本語になる、というややこしいパターンも出てきました。これはもう、「日本人が吹き替え口調でしゃべる」というコントとしか思えない事態が文字によって展開されましたですよ。
マンチェスター・Uの日本代表MF香川真司が、イギリス紙『ガーディアン』のインタビューに答えた。20日のエヴァートン戦で果たした念願のプレミアリーグデビューを、以下のように振り返っている。

「夢がついに叶ったよ。憧れのプレミアリーグでプレーしたんだ。試合には負けてしまったけど、もっとトレーニングを積んで、クラブに全力を捧げるよ。チー ムメートとも、もっとコミュニケーションをとりたい。そうすれば素晴らしい成果が自然についてくるって、確信しているんだ」と、プレミアデビューの感想を 語った香川。

 当日の心境を、「開幕戦の日は重大な1日だった。だけど、まったく緊張はしなかったよ。何度かいい場面はあったけど、ゴールにつながらなければあまり意 味はない。練習の感じから僕はベンチスタートだと思っていた。だけど僕の考えとは逆に、90分間フルにプレーさせてもらえたんだ」と明かした。

 さらに、次戦に向けて、「第2節のフルアム戦はすぐだ。愛するホームでの試合だよ。C大阪やドルトムント、日本代表でも経験しているけど、ホームゲーム の雰囲気や環境以上にクラブの力になってくれるものはないよ。このホームアドバンテージのほかに、僕が求めるものは何もない。あとは試合に勝つだけさ」と 語り、本拠地での初勝利を約束している。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120825-00000312-soccerk-socc
神戸出身の香川くんが「あとは試合に勝つだけさ」と締めくくるという…。

香川くんがプレミアリーグで活躍すれば、こういう記事にたくさんお目にかかれるはずです。活躍を期待しないわけにはいきません。

2012/09/10

某日日記 京急その他

八月某日。

広渡敬雄さんが角川俳句賞受賞の報。その翌日に届いた『沖』を、なんだろう?とめくると、広渡さんが週俳がらみで上田信治さんの100句(超新撰21)と『けむり』を取り上げてくださっている。このタイミング。悦ばしき偶然。

受賞のお祝い、そして句集紹介記事への感謝をハガキに書き、投函(一石二鳥のハガキ、という言い方は日本語として、ちょっとおかしい)。

yuki 氏も広渡さんにお目にかかったことがあるはずと思い、受賞のことを話題にする。「ほら、週俳のオフ会とかで…。いつもニコニコしている…」と説明すると、「ああ、あの?」と、わかるから、すごい。広渡さん・イコール・ニコニコ、なんだなあ。

九月某日。

週刊俳句・第280号に(って、ぜんぜん某日じゃないんだけど)、「るふらんくん」の10句と井口吾郎 さんの「沢庵自慢」10句。ロボットと人名回文句というユニークな(つまり変態的な)セット。当初、るふらんくんだけで行くはずが、思いがけず吾郎さんから入稿。じゃあ、セットだろう、と。これも偶然がもたらした愉快。

この号には、「郷愁 小池康生句集『旧の渚』の一句」を書きました。(≫読む)

九月某日。

週刊俳句・第281号に(って、ぜんぜん某日じゃないんだけど)、「真説温泉あんま芸者 第10回 引用のマナー 法や規則の以前に」を」を書きました。(≫読む)

(もうお気づきでしょうが、「消息」も兼ねています)

ついでにお伝えすると、ウラハイに、
「俳誌拝読 『静かな場所』No.9(2012年9月15日)」を書いています。(≫こちら) じつは、この記事に載せた写真、自分でちょっと気に入っています。

九月某日。

掲載場所を募集したものの(≫俳句、載せてください)、みごとにどこからも声がかからなかった「俳風昆虫記〔夏〕」。企画として、おもしろいと思ったんだけどなあ。

週刊俳句に相談しようかと迷っているうちに、いくにちか過ぎ、夏は過ぎ。

それでも、自分でいじくっているのは好きなので(昔のプラモデルみたいな感覚)、100句あまりを紙に並べて、小一時間。

九月某日。

新宿伊勢丹で「ホレンディッシェ・カカオシュトゥーベ」という絶対に憶えられない名前の店のバウムクーヘンを買い、それをおみやげに某所へ。

で、京急って、東京西郊に住んでいると、あんまり使うことがないのだが、プラットフォームのベンチに坐って、この電車をじっくり見ていると、どんどんかわいくなってくる。ファンが多いの、わかるわ。

九月某日。

神田・西田書店に、自分の句集『けむり』の在庫がどれくらいか確かめがてら(もし邪魔になっていたら引き取るつもりで)立ち寄る。某俳人2名様も偶然そこに。数十分のよもやま話が愉しい(ちょこっと重要な話もあったりする)。

で、『けむり』は、思っていたよりも在庫が少ないことがわかり、自宅にあるぶんを大事にしようと思ったことでした。


2012/09/07

な、なんと、実例が

8月21日の記事で、
俳句甲子園というのは、上記の「おとなげない」をはじめとする《安全に語る語り方》というのが確かにあって(これが問題だと思うのですが)、それから逸れたことを言うと、しばしばヒステリックな反駁に遭う。
…と書いたところ…

匿名さんのコメント

まさに実例が、当のその記事に飛び込んでくるとは!

可笑しすぎる。

(スパム判定でbloggerに削除されてしまう可能性があるので、見るなら今のうちです)


俳句甲子園の関係者の方なんでしょうか。

この記事が「非難」? ヒステリックなだけでなく、日本語を読めていない、という痛々しさです。


2012/09/06

観くらべ 第19番 死

予約したDVDをTSUTAYAが2本ずつ郵送で送ってくれるサービス。その2本に勝ち負けを付けるという、ヘンテコリンなシリーズの第19弾。送られてくる2本は、自分が予約していることにはいるのですが、組み合わせには偶然の要素が大きい。にもかかわらず、2本の映画に共通項が見出だせる不思議。というか、世の中のもの、どんな2つにもなんらかの共通項があるということか。ともかく、今回の2本は、ドイツ、ヨーロッパとアジア(イスラム)、死、と、いくつものの共通項があるですよ。

ミュンヘン スティーブン・スピルバーグ監督/2005年

そして、私たちは愛に帰る ファティ・アキン監督/2007年

「ミュンヘン」は1972年のミュンヘン五輪で起きたパレスチナ・ゲリラによるイスラエル選手殺害事件。その報復にイスラエル諜報機関モサドが秘密暗殺チームを組織、ヨーロッパ各地で暗殺を遂行していくというスパイもののような政治もののような。

緊迫感もあり、登場人物の魅力もあり。とりわけマチュー・アマルリック(「潜水服は蝶の夢を見る」の人ね)の一家。フランスの田舎で暮らしながら闇社会の情報に通じているという一家は「白猫・黒猫」(エミール・クストリッツァ)を思い出したりして、コク深。ただ、ラストに救いはない。殺人・謀殺に救いはないといいうメッセージなのか(単純に受け取れば)。

邦題が最悪な「そして、私たちは愛に帰る」(英題「The Edge of Heaven」)は、ブレーメンとイスタンブールを舞台に3組の親子のすれ違い(いくつかの意味のすれ違い)を描く。監督のファティ・アキンは「太陽に恋して」「ソウル・キッチン」が素晴らしかった(というか大好きな)監督。

ストーリー上の重要なポイントになる「死」が、なんともあっけないのは、「ミュンヘン」と大違い。「ミュンヘン」はテロであり謀殺ですからね。しかし/だからこそ、「そして~」の「死」はリアルで無常観溢れる。

どうもファティ・アキンのことを、私はかなり好きらしく、どの画面も、その展開も、じわっと来る。勝敗は「そして、私たちは愛に帰る」の勝ち。

でもね、映画で何を見せるのかという点で、この2本の映画は、じつは比べるのに無理がある。言い換えれば、映画で何を見たいのかという観客の態度にも関わる。

ちなみに、wikipediaによれば「そして、私たちは愛に帰る」は映画館大賞「映画館スタッフが選ぶ、2008年に最もスクリーンで輝いた映画」第85位、とある。えらく低いな。その年のランキングを見て(≫こちら)、ふにゃっと力が抜けた。

観てないのももちろんたくさんありますが、「ぐるりのこと。」(第2位)は好きな映画だから、まあいいとして(それにしても2位か!)、「おくりびと」(第3位)! 「崖の上のポニョ」(第10位)! ほかいろいろキリがありません。このへんと比べて10倍から100倍は良いです、「そして、私たちは愛に帰る」は。



2012/09/05

観くらべ 第18番 対戦

予約したDVDをTSUTAYAが2本ずつ郵送で送ってくれるサービス。その2本に勝ち負けを付けるという、ヘンテコリンなシリーズの第18弾です。

ボビー・フィッシャーを探して スティーブン・ザイリアン監督/1993年

ガールファイト カリン・クサマ監督/2000年

「ボビー・フィッシャーを探して」はチェスの天才少年の話。実話をベースに素晴らしい才能、素晴らしい人格を描くのが、アメリカ人は好きですね。で、だいたいはそこそこの出来栄えになるってのはやはりアメリカ映画の地力でしょうか。考えてみれば、実際に素晴らしく生きた人をモデルにしながら、ダメな映画を作ってたんじゃあ、リアルな冒瀆になってしまうわけで、そのへんは覚悟したうえで映画化するのでしょう。

チェスの世界は知らないのですが、対戦シーンの見せ方がスペクタクル。公園の賭けチェスの強者(ローレンス・フィッシュバーン)なども含め、実話にしては「ほんとに? まあ脚色だろうな」という、物語的な材料が揃ってもいて、飽きません。

「ガールファイト」は、17歳の女子高生がボクシングにのめり込んでいく話。主役のミシェル・ロドリゲス目当てに借りた映画。



そう、あの「マチェーテ」 (2010)のミシェル・ロドリゲス。「ガールファイト」はデビュー作らしく、二十歳そこそこ。「マチェーテ」のような眼福シーンを期待すると、ちょっと物足りない。

映画自体は、意外にマジメで(というと悪いか。でもいかにも企画モノっぽい設定でしょ?)、感じのいい映画。


そこで勝敗ですが、「ガールファイト」は、恋人との試合になってしまうという展開は、ちょっと無理があるかなあ、と。「ボビー・フィッシャーを探して」の辛勝。どちらも、観て損、という感じはありません。よく出来ていて、楽しめます。

2012/09/02

消息 なんぢや他

●『なんぢや』第18号(2012年8月27日)に「握手」5句

榎本享(えのもと・みち)さんが発行人の同人誌に、5句+短文、寄稿させていただいています。


●週刊俳句・第280号に「郷愁 小池康生句集『旧の渚』の一句」を書きました。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/09/blog-post_2.html


2012/09/01

目黒川から西郷山へ

いわゆる吟行です。

中目黒駅から目黒川沿いに、目的地は西郷山。


病葉っすか?

目黒川沿いは、おしゃれな店が建ち並び、入る機会はこのさきも訪れそうにありませんが、「ほおほお」と眺めながら歩くのは気持ちがいい。


しかし、いつからこうなっちゃったんでしょう?

道を入ると、青葉台ほか住宅街。お金持ち!といった邸が多い。


雨がぱらついたと思ったら、晴れて、そうなると蒸す。残暑厳しい土曜日です。

  ぼた餅のやうだこのあたりの残暑  10key

西郷山は、丘といったほうがいいのかもしれませんが、上まで登れば、そこはやはり山頂で、ビルが見下ろせたりするのです。

  山頂がまんまる九月一日の  10key