2019/04/28

■句集を読む

週刊俳句に毎週1本以上、句集レビューを書くという目標を課して、3回は続いた。

命長ければ 雪我狂流『春の海鼠』を読む ≫読む

薔薇と軍艦 金丸和代『半裸の木』を読む ≫読む

壺 橋本薫『青花帖』の一句 ≫読む

俳句って、がんばるもんじゃないけど、いちおうがんばる。

来週も書ければ、ラヴ&ピース!

2019/04/26

■そんなこんなで

『川柳ねじまき』第5号(2019年1月)より。

こんな日があって井村屋あずきバーがある  なかはられいこ

どんな日なのか、人にはわからない。具体的な事情が、という意味で、わからない。けれども、それを伝えることがいいとも思えない。その人(作者)にとっての「こんな日」は、あるのだ。あると言うのだから、あるのだ。

雷電の錦絵なんといふ九月  佐藤りえ『景色』2018年11月

どんな九月だったのか、人にはわからない。ずいぶんと違う句のように見えるが、共通する気分があるような気がする。

うまく言えないけれど、ああ、そんな日を、そんな九月を、(どんな日だか、どんな九月だか知らないけれど)、誰かは、その人(作者)は過ごしているのだなあ、と、私(読者)は、具体という近さとは別に、遠くから、しかし親しく、人を、他人を感じる。それは、かなり気持ちよく、ラヴ&ピース!な事柄なのですよ。


2019/04/25

■冒頭集:夢山

 甲斐の国に夢山という名の山がある。
 紅葉の紅と松の緑と、影と光と霞と雲と、とりどりの彩が渾然一体となり、山だか夢だか、真に朦朧模糊として、仰ぐ者見る者は、一様に夢夢(くらくら)と彼岸を感得し、分け入る者歩く者は、ただ眩眩(くらくら)とするうちに、生き乍ら隈路(くまじ)に誘(いざな)われたが如き心持ちになる。昼尚昏き闇こそないが、其処此処の現世(うつしよ)と幽世(かくりよ)の境が蕩けていて、故に夢山と呼ぶのである。
(京極夏彦「白蔵主」:『巷説百物語』1995) ※ルビは適宜省略。



2019/04/23

■夜空のこと 『鏡』第31号より

啓蟄の窓は夜空を繰り返し  佐藤文香

啓蟄(今年は3月6日)は「冬籠りの虫が這い出る」(広辞苑)の意だから、俳句に使われると、視線は下/地面に行きがちなのだけれど、この句は、窓や夜空。啓蟄と合わさることで、夜空がなまめかしく有機的な肌合いをもっていますよね。

ラヴ&ピース!

掲句は『鏡』第31号(2019年4月)より。

2019/04/22

■はがきハイク・第20号

もうすぐお手元に届きます。業界最小最軽量の俳誌『はがきハイク』第20号。

『はがきハイク』はこちらから勝手に送りつける御挨拶のようなもの。送り先の漏れは多々。届かないときは、「おい、こら、来てない。送れ」とゆってください。

tenki.saibara@gmail.com

見たことがない、興味がちょっとある、という方も、ご遠慮なく、同じメールアドレスへどうぞ。お送りいたします。

【お願い】
はがき「全面」の写真、画像キャプチャー等を、ネット上に載せるのはご遠慮くださいますようお願い申し上げます。



2019/04/21

■かまちよしろうさんの古希イベント

某日、漫画家かまちよしろう・俳人かまちんの古希祝いのイベント(@大森)へ。

前半はトークショー。谷岡ヤスジのアシスタントしてた時代の話など、たいそうおもしろかった。後半は歌と演奏。



なお、かまちんさんのペンギン侍(未完!)はウラハイの黄金コンテンツ(≫こちら)。

俳句作品は、こちら。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2011/10/20_7470.html



大井さち子 はなれたりくっついたりして

2019/04/20

【お知らせ】4月のくにたち句会

2019年4月28日(日)14:00 JR国立駅改札付近集合

句会場所:ロージナ茶房(予定)

席題10題程度

初参加の方は、メール tenki.saibara@gmail.com電話etcでご一報いただけると幸いです。問い合わせ等も、このメールまで。

2019/04/18

■溶ける

昨日、ツイッターで、これ

https://twitter.com/SH1BUYAMELTDOWN/status/1118370912124981249

を見て、即座にアカウントをフォローした。

https://twitter.com/SH1BUYAMELTDOWN

渋谷でメルトダウンしちゃった人々を撮影。可笑しいような哀しいようなコレクション。

今和次郎・考現学の系譜といえなくもないし、小林泰彦イラスト・ルポの末世ヴァージョンといえなくもない。

2019/04/17

■連句誌『みしみし』拝読

連句誌『みしみし』創刊号(2019年4月)は冒頭、2巻の歌仙を掲載。編集人・三島ゆかりによる「評釈」も付いて、ここがなかなか良質な読者サービス。発句《溜め池に立つや大波春嵐 由良》については、
俳人であれば、切れ一箇所というセオリーでまず「溜め池に大波立つや春嵐」とすると思うが、「溜め池に立つや」で何が立ったのだと読者に思わせつつ、一気に「大波」「春嵐」と畳みかけたことにより、「大波」のインパクトが強くより印象的になっている。
といったぐあい。

連衆(歌人、柳人、俳人)の作品も併載。結果、多分野のフュージョン的誌面となり、これもうれしい。

A5判、本文66頁。頒価1,000円。連絡先≫こちら

ラヴ&ピース!


2019/04/11

■冒頭集:木曜日

ロンドンのサフロン・パークという郊外は、ロンドンで日が没する方に、夕日の光を受けた雲も同様に赤く、きれぎれになって広がっていた。そこの建物は皆、真っ赤な煉瓦でできていて、建物が空に描く輪郭はおよそ奇妙なものであり、この郊外の平面図も決してまともなものではなかった。ここを設計した土建屋は空想家で、芸術にもいくらか関心を持ち、建物の様式をエリザベス時代風といったり、アン時代ふうといったりして、エリザベスとアンを同じ一人の英国の女王と思っているらしかった。(…)
G・K・チェスタトン『木曜の男』1908(吉田健一訳/1956年/創元社)


2019/04/03

■外階段:某日某所

どこで撮ったかも忘れた。はんぶん気を失いつつ暮らしております。


2019/04/01

■ぐづぐづ 『なんぢや』第44号の一句

ぐづぐづの昼のうすらひ波なせり  鈴木不意

こんな場合、「ぐづぐづの」は、名詞をひとつ飛ばして「うすらひ」にかかるのだろうけれど(意味からして)、同時に「昼」が「ぐづぐづ」のようにも響く。ひとつの名詞にかかって意味を鮮明にする必要は、かならずしもないのだから(実用文じゃないから)。

名詞ふたつのどちらにかかるかは、形式上の規定ではなく、意味によることがもっぱら。むかしむかし《無口であった父のきんたま》という中下の句を投句したとき、「息子の知らない一面もあるよ」という感想/指摘をいただいた。その人は、「きんたま」が無口であったか饒舌であったかは、うかがいしれない、と言いたかったのだろう。私としては、〈無口な父〉と書いたつまりだったので、その人の読み方/捉え方には少々驚いたが、じっさい、どこにかかるかは(両方にかかることも含め)、確定し得ないことが多い(繰り返すが、実用文じゃないので)。

閑話休題。昼やら薄氷の「ぐづぐづ」感が、この句のなかでたゆたい、「波なせり」がその揺れをしっかりと増幅する。くわえて、語尾「なせり」の格調のようなものにも、私は大いに惹かれるのであります。

掲句は『なんぢや』第44号(2019年3月10日)より。