2013/01/31

怪獣の夜

ウラハイに「ゴジラ」のコンピレーション

  春ともしゴジラの跨ぐ家々に  10 key(大昔の作)

私の怪獣初体験はテレビで観た「マリンコング」というゴジラのバッタモンのような怪獣。夢に見るくらい恐ろしかったが、いま見ると、



どこが怖いんだ? 愛嬌たっぷりじゃないか!と思うわけですが、そのときは5歳だったわけで。


最初に観たゴジラ映画は7歳のときの「キングコング対ゴジラ」。日米決戦てわけです。当時の映画館は2本立てが一般的で、記憶はあやふやだけれど、美空ひばり主演の股旅物だったような気がします。調べてみると、これ(≫こちら)かもしれません。制作年が違うので、別のときだったかもしれません。さすがにはっきりとは憶えちゃいません。

昭和すなあ。

2013/01/30

新月幻視派

井口吾郎さんの回文俳句の傑作は数多いが、例えば、

  巷では新月幻視派で田町  吾郎

うん。いいですね。

と、なんで、唐突にこんなことを言い出すかというと、300号を超えた週刊俳句から、気ままにレコメンドをやっていこうと思ったわけです。

本日は、週刊俳句・第10号(2007年7月1日)掲載の回文特集。

まず、2007年まで作からの100句。

井口吾郎回文俳句100句

併せての記事は、

言葉の腔腸類 ……羽田野令
黒桃先生特殊講義「水泡と縄」の巻

黒桃先生の講義はちょっと長いのですが、たいへん雰囲気があります。

で、私も書いています。

吾郎回文100句選を終えて


第10号と早い時期に、回文を特集するなんて(第11号では宮崎ニ健さんの回文を特集)、なかなか傾(かぶ)いていましたね、週俳は。

2013/01/29

Fade

Yo La Tengo の新譜 Fade。何枚聞いても、新譜を聞くたびにますます好きになっていくバンド。

2013/01/28

極楽=句会浄土

某日曜日(って昨日なのですが)、待ち合わせる→友人の庭師と偶然会う→ぶらぶら歩く→コーヒーを飲みながら俳句をつくる→読む→しゃべる→蒸し牡蠣→鮟鱇鍋。

こんな極楽、バチが当たります。堕落する一方です。人間のクズになります。


ところで、その句会で私がいただいた句の最長は、

  アニメーションキャラクターの根付海鼠の寸胴瓶屹立たり

合評のとき、「あの、これ、アニキャラと略しちゃダメですか?」との質問には、「ダメです!」と断言しておきました。

念の為に言っておくと、ノーマルな句も数多く、ノーマルな選句もしています。

わたし、句会で「とてもヘンな句」を見つけると、あとさき考えず、とりあえず採ります。合評のとき、どう褒めていいのか、たいへん困るのですが(たいてい、しどろもどろになる)、いただいておかないと、あとで後悔するかもしれないと思い、採ります。これは私の業(ごう)のようなものです。

これからは感想(句評)を求められても、言い繕おうとせず、「とてもヘンだから、いただきました」とだけ答えておくことにします。



あ、上に挙げた、わけのわからなく長ったらしい句の作者は、生駒大佑くんです。



牡蠣は私の故郷(のすぐ近く)から取り寄せました。
http://koueimarusuisan.ocnk.net/

このサイトは「店長日記」などもあって、 なかなかほんわかムード。この冬、実際に足を運んだのですが、いい店です。

近いうちに、また取り寄せようかな、と。

2013/01/27

裏=「創刊の頃」

週刊俳句・第300号に「創刊の頃」という回顧記事みたいなものを書いたのですが、その拾遺というか余話。



週俳は最初、上田信治さんと2人で運営していたと、いつの頃からか思っていたが、初期のバックナバーをめくってみると、信治さんによる「後記」は第10号が最初。創刊準備号から主要執筆者ではあったのですが、この第10号あたりから本格的に運営に加わっているということですね、きっと。

この手のことに万事、物忘れがひどいのですが、信治さんはまだ健忘症が始まっていないらいしく、そういえば、「自分が加わったのは…」といったセリフを聞いたような気がする。

とりあえず、私ひとりで始めたのは、いま思い出すと、意識的で、つまり、「ひとりなら始めやすい」という狙いからだった。そういえば。

この喩えが合っているのかどうか知らないが、ローギアで発進して、しかるのちギアを上げ、ゆくゆくはオートドライヴモード、というのがアタマにあったのだ。
  


当初(号数が一桁の頃)は、俳句総合誌のレビューが大きな割合を占めている。『俳句』『俳句界』、そして当時はまだ廃刊となっていなかった『俳句研究』、この3誌を、五十嵐秀彦さん、上田信治さん、私で、順繰りにレビューした。

それに加え、俳句総合誌へのちょっと変わった切り口を自分で考えた。

俳句積載量 4誌比較:第2号

図書館カバレッジ 8誌比較:第3号

数える、という小学生でもできる作業からつくった記事。ヘタに考えるより、数字がモノを言ってくれる、ということがあるものだ。

思えば、この頃は、いちおう、いろいろとアイデアを考え、それを実行に移していた。



紙の雑誌(俳句雑誌)とウェブマガジン(例えば週刊俳句)という対照を、リアル対インターネットといった図式で捉える向きも多かった(今でも多いかもしれない)。

まあ、それは事実ではあるんだけれど、私は、リアルに人間だしね(肉体を持たないサイバーな存在だったら面白いし、カッコいいんだれど、そうじゃない)。

私以外の運営も、いわゆる「文系」ばかりで、なぜかほぼ阪神タイガースファンで固められている。したがって、インターネットに詳しいわけでも、夢を抱いているわけでもない。

つまり、週俳は、インターネットだぜい!と叫んでいない。

まあ、10年前なら叫んでもいいのですが、いまやモンゴルの砂漠やアフリカの奥地でさえインターネットにつながる時代です。そこで叫んでもしかたがないですわな。

(ところが、いまだに、特に紙の俳句雑誌では、10年前と変わらぬ言説が繰り返されていて、さすがに萎えますよね。ダメ映画に登場するハッカーが、暗い部屋の中で顔が見えず、キーボードをカチャカチャやっている、あの噴飯物の通俗イメージに浸りきって、「ネット」を語っていたり、しない?)

週俳はたしかにウェブなんですが、一方で、紙での仕事を残しています。そこは案外注目していいところかもしれません。。

『虚子に学ぶ俳句365日』(≫こちら

『子規に学ぶ俳句365日』(≫こちら

『俳コレ』(≫こちら

これからも紙の仕事を残していくんじゃないでしょうか(先のことはよくわからんけど)。



(つづく、かも)

2013/01/25

コンビニのおでんておいしいの?

食べたことがないから、わからない。

さてと、この記事(≫こちら)が発端なんでしょう、《コンビニのおでん句論争》がいまだにぶすぶすと、ツイッターあたりでくすぶっていて、あの句集には、他にいい句があるのに、コンビニ句ばかりをわいわいがやがややられたんじゃあ、作者も句集も浮かばれないなあ、と、ちょっと思う。 まあ、それも、神野紗希さんのセルフ・プロデュースの想定内なのだろうけれど。

そこで。
コンビニのおでんが好きで星きれい  神野紗希

(こんなんで喜んでんじゃねえよ。
ほんとちょろい爺ィどもだなあ。
星なんか見えるわけないだろが。
ド田舎じゃあるまいし)  (黒い神野紗希)


この「黒い神野紗希」(もちろんのこと、私の想像の産物)が、個人的には捨て難いなあ、好きだなあ、と。

御本人は不本意かもしれませんが。


「この物語はフィクションであり、登場する団体・人物などの名称はすべて架空のものです」



2013/01/24

観くらべ 第22番 ノスタルジア

予約したDVDをTSUTAYAが2本ずつ郵送で送ってくれるサービス。その2本に勝ち負けを付けるという、ヘンテコリンなシリーズの第22弾。

クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲(原恵一監督/2001年)

ミッドナイト・イン・パリ(ウディ・アレン監督/2011年)

いやあ、偶然とは恐ろしいもので、こんな2本が共通のテーマだったとは! 借りて吃驚、観て吃驚でした。

「クレヨン~」は名作の誉れ高く、いまだに映画評論家・映画好きの口吻にのぼるので、一度、観てみようか、と。私は、「クレヨンしんちゃん」という漫画もアニメもまったくの未見。

「ミッドナイト~」は、興行成績でウディ・アレンの生涯最高を叩きだした、と聞いて意外な気がする。 「アニー・ホール」とか、巨大ヒット映画のように思っていたので。


「クレヨン~」は、オトナたちを「昭和の匂い」で懐旧病に陥らせるという陰謀に立ち向かうしんちゃん一家、というアニメ映画。こういう筋書きには乗っていけないし、細部のギャグ(?)にもさすがに反応できない。ただ、ウケるだろうなあ、とは思います。スラプスティックなシーン、ウンコやお尻がらみのギャグには、妻が小学生に戻ったかのように笑っておりましたしね。

「ミッドナイト~」は、ネタバレを避けて、筋には触れません。

ところどころむず痒い箇所はあるのですが(ウディ・アレンの宿痾のごときスノビズムetc)、オーウェン・ウィルソン好きとしては、充分に楽しく、洒落てもいます。


それと、エイドリアン・ブロディ(最近、日本のテレビCMに出てますね)のダリ役が、ちょっと見どころ(ほかは、ハマっているように見えないキャスティングも多い)。

というわけで、ミッドナイト・イン・パリの勝ち。


いまさらですが、懐旧とは、病。

というか、この「クレヨン~」をいま、名作名作と語るのも、一種、懐旧病っぽい感じがなきにしもあらず。ノスタルジーを拒否しながら、きわめてノスタルジックに「家族」を捉えている、この映画、どちらかというと、嫌いな映画、かもしれません。



2013/01/23

はっくしょん

人名句といっていいのかどうか…。

  ゆうむくんなんどと呼ばれはつくしよん  嵯峨根鈴子

あの、ゆうむくん(優夢君)を知らない人が読んでも、「はっくしょん」をいきいきと感じることができます。

  ひらがなの秋のてふてふ松本てふこ  同

こちらはフルネーム。

『らん』第60号(2013年1月10日)より。

2013/01/22

観くらべ 第21番 ラスト数分

予約したDVDをTSUTAYAが2本ずつ郵送で送ってくれるサービス。その2本に勝ち負けを付けるという、ヘンテコリンなシリーズの第21弾。

ポエトリー アグネスの詩(イ・チャンドン監督/2010年)

アベンジャーズ(ジョス・ウィードン監督/2012年)

いくらなんでも「観くらべ」に無理がありすぎる、という2本。

「ポエトリー アグネスの詩(うた)」は、孫の男の子とふたり暮らしの66歳の女性が主人公。あるとき「詩」の教室に通いはじめ、孫が起こした事件に関わり、そして…という、生真面目なストーリーを、途中、それほどの起伏・アクセントもなく描き、「うん、悪くない。やっぱりイ・チャンドンはいいな」てな感じで、こちらも淡々と筋を追う。
 
ところが、ラストの数分(のうちのある一瞬)で、観ているこちらは、どどっと持っていかれてしまう。こんなに急に、最後の最後で胸をかき乱され、涙までしてしまう映画は、あまりない。

ラストのアイデア一発で持っていくのとは違い、伏線が巧みで、ていねいに流れをつくっているからこそのラスト。

「アベンジャーズ」は、アイアンマン、マイティー・ソー(北欧神話の雷神トール)、キャプテン・アメリカ、超人ハルクといったアメコミ(マーベル・コミック)のヒーローが大同団結して地球の危機を救うという、正月興行そのものの内容。

たわいないといえば、たわいないが、悪くはない。充分に愉しい。スペクタクル的な満足感も得られる。

この手の映画のラスト数分は、クールダウン効果、めでたしめでたし感、「次がありそう」的余韻などが求められるのだろう。そのへんもよく出来ている。


で、こんな2本に勝敗をつけてどうする?という話ですが、 ポエトリー アグネスの詩の勝ち。

どっちも「凄い」のですが、「アベンジャーズ」の凄さは、このさきも定期的に味わえそう(もろアメリカ的なエンタメ映画は、このところどんどん盛り上がってますし)。一方、イ・チャンドンの「凄さ」は、イ・チャンドンでしか観られない気がします。




余談ですが、詩を習い始める主人公の「感じ」は、俳句愛好者には馴染みのある「感じ」です。例えば、上の写真、吟行みたいでしょう?

俳句好きの方には、また別の楽しみ方のある映画です。

2013/01/21

続 「つづきもの」の愉しみ

週刊俳句・第300号の【週俳12月の俳句を読む】というコーナーから、次の3記事。

山田耕司 「前衛」・<ものがたり>・「寸止め」 ≫読む

竹岡一郎 綺麗なニート ≫読む

柴田千晶 あかひげ薬局と冬の金魚 ≫読む

共通するのは、藤井雪兎さんの「十年前」という作品から多くの句を引いているところ。

理由はそれぞれなのでしょうけれど、目を引きました。

以前、このブログで、「つづきもの」の愉しみという記事を書き、俳句の連作の難しさに触れましたが、複数の句を引いて論じる人が多かったというのは、「十年前」10句が「連作」として成功していることのひとつの証明かもしれません。

そおゆう目で、もう一度、「十年前」10句を読み返してみようと思います。

くにたち句会 1月 のお知らせ

2013年1月27日(日) 14:00

JR国立駅、改札から南口へ出たあたりに集合。
(最近、国立駅の構造が変わり、改札がひとつに。そこから南にも北にも行けるようになっています。ああ、びっくりした)

句会場:いつものキャットフィッシュ

席題10題程度。

よろしければ句会後の飲食もご一緒に(会費アリ)。

2013/01/20

これは便利! デジタル版『俳句年鑑』

『俳句年鑑』に住所録以外の用途があるなんて、上田信治さんの記事「【週刊俳句時評75】闘われているらしい」を読んで、初めて知りました。


(「初めて」というのは少しウソです。ごめんなさい)

ま、それはともかくとして、あれだけの個人情報(電話番号まで載ってます)があの値段、というのは、個人情報保護法施行以降のわが国においては、もう信じられないくらいありがたい刊行物だと思いますよ。

句集を出した人が贈呈先リストをつくるときなど、重宝このうえない。その意味では、『俳句年鑑』こそ他の諸々の刊行物にさきがけてデジタル化するべきです。エクセル・ファイルの有料ダウンロード(役所関係の資料に多いパターン)でもいいです。

生年、所属結社、主宰かどうか、などのタグ情報が振ってあれば、一発でソーティングできますし、住所・氏名のタックシールへの出力機能まで付いているというイタレリツクセリも期待したい。

そうであれば、例えばこれから句集を出す俳人諸氏にとって、どれだけ便利なことか!

いかがでしょう? デジタルコンテンツ事業部なんていう部署が、今は、どの大手出版社にもあります。 まずやるべきことは、「俳句年鑑=俳人住所録」のデジタル化である、と声を大にして申し上げたいのであります。



(すでにデジタル版があったら、不明を詫びねばなりません)

2013/01/18

句のなかの語だけ取り出してうんぬんしてもしかたなくて、やはり句で考えないと

カタカナ語やその略語(例:コンビニエンスストアとコンビニ)の俳句での使用について、少し前にツイッターで話題になっていた。

カタカナ語やその略語そのものだけを取り出して、うんぬんするのはあまり意味がなくて、せめてそれが用いられた句についての言及がないとね、という話なのですが、ちょっと別の角度から。

文語体

口語体

このうち文語体は、俳句では、古語という分野と密接に語られることが多い。例えば「なりにけり」があれば文語体俳句、「寒き」「寒し」もそう。「寒い」なら口語体、というようなざっくりな把握。でも、じつは…

文語体=書き言葉

口語体=話し言葉

…というのが基本なわけで、とすると、

コンビニエンスストア=文語体(の範囲にある)

コンビニ=口語体

ここで思い至るのは、関悦史さんの句集『六十億本の回転する曲がつた棒』には、カタカナ略語が少ないという件。

これは、この句集が「書き言葉」で出来ているからです。

徹頭徹尾と言っていいと思います。この句集(さらには関悦史さんの俳句)は「書かれた」句によって出来ている。モチーフによらず、そこが徹底されている。例えば、《蠟製のパスタ立ち昇りフォーク宙に凍つ》。素材はカジュアルで「口語」的な世界に属する事柄も、「文語」的に設える。そこに、あの「異化」という作用が、きわめて俳句的に立ち上がる。それは句集冒頭の《女子五人根性焼きの手に氷菓》も同様。

《ケアマネージャーとの相談の横祖母脱水》 は、「ケアマネ」と略語を用いれば17音には近づきますが、それはしない。「くだけて口語的な部位を持つこと」への拒否=句が「書かれること」への強い意識/無意識が、作品群の感触の重要なところを決定づけている気がします。

 

一方、カタカナ語の話題の発端になった、神野紗希さんの《コンビニのおでんが好きで星きれい》は、「コンビニエンスストアのおでん」といった書き言葉を選ばない。カジュアルで「口語」的な世界とそのまま親和するという、これはこれで一種の覚悟です。

ところで、この句(きっと有名句、神野紗希さんの代表句のひとつ)について、個人的な感想、というか捉え方に、ちょっとした紆余曲折というか、ややこしいところがある。

この句、コンビニエンスストア協会(そんなものがあるのかどうか知らないが)のポスターのコピライト案として提示され、もしも私が検討会議の席にいたら、(他案との比較もあるが)そうとう強く「おお!」と思い、推すだろう。「イイネ!」であります。

ところが、これが俳句として提示されたら、「ああ、なるほど」という程度。良い・悪い、好き・嫌いでいえば、後者の感想を強く持つ。もともと「広告コピーのような句」にほとんど関心がないのです。

(個人的には、コンビニに足を運ぶことはほとんどないしね。私が暮らす世界にはコビニエンスストアもコンビニも存在しないも同然)

しかし、少しして、高山れおなさんの次の指摘(把握)を読んで、感想が変わった。
だが本当に重要なのは、この句が全体としてコンビニのCMみたような、類型的幸福像のトレースになっていることだろう。俳句の類型性とコマーシャリズムの類型性のハイブリッドとしての類型性を打ち出している(…)
「日めくり詩歌 八十八番」 
つまり、この句は、「商業」的な現代にありがちな「類型」を、あえてなぞり、いわば「出来合い」の広告文句を、そこにポンと置いたような句と解するべきなのだ。一種のレディメイド。

そう考えれば(すなわちメタな視点を導入すれば)、モーダルでスタイリッシュ(ここ少し笑いをとりに行ってます)、 俳句の可能性のひとつを実現した句ともいえます。

この句を「素」で読んで、良いとか悪いとか言ってもしかたがない、ということですね。

(一方、「素」で読んで良いなんていうのは、どうかと思う、という感想は残る)

 

俳句に、新語を、カタカナ語を使用することの是非について、なんて話題にはまったく興味がないのですが、そのことをきっかけに、ちょっと別のことを考えてましたですよ。






2013/01/16

300

週刊俳句は、もうすぐ第300号。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/

9の付く日のメール句会・オクンチも、次回が第300回。
http://www3.ezbbs.net/03/0123/


続く、ということは、存外たいせつなのかも。

2013/01/15

日々断片 画伯来訪ほか

2013年1月14日、積雪。

中嶋憲武画伯が、愛猫ラン嬢(三毛猫)とともに来訪。「玄関に掛かっている絵、いいですネ」と、画伯自身の絵を誉めそやす、お約束のご冗談。

ラン嬢の美しさに気品が備わり始めた。

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機械製図萌え。


2013/01/14

続・句会の作法

承前

小池さんの記事「俳句の句会と川柳の句会」には、俳人・池田澄子さんのセリフも引用されています。要約すれば、自分で自信のある句は句会に持っていかない、句会はテストの場、といった捉え方です。

句会は「舞台」「本番」ではなくリハーサル、あるいはジャム・セッション、試技と捉える俳人・俳句愛好者は多いと思います。本番の舞台は、俳誌や句集なのです。

別の角度からいえば、自分の句を自分でどう評価するかは難しいので、句会での反応をその参考にするという人は、多い。

ただし、その参考のしかたは、単純ではありませんし、人によって幅があるでしょう。互選の点数があまり参考にならないことは、多くの俳句作者が知っています(それでも、点数が、特に俳句を始めてすぐの頃は励みにはなります)。句会での反応のどの部分を参考にするかは人によって場合によってさまざまです(この「さまざま」という部分が句会のおもしろさのひとつでしょう)。

例えば、(いつか仁平勝さんが俳句総合誌に書いていましたが)合評での意見が参考になって、句が変わることもあります。「季語がダメ」という意見から季語を変えてみる、誰かの推敲案を採用するなど。

川柳では、選から洩れた句は潔くすべて捨てる。これが原則といいます。俳句では、結社の主宰の選から漏れた句について同様の処理をする人は多いかもしれませんが、互選の句会では、そうじゃないケースもありそうです。逆に、選を(多く)集めた句を残すかというと、そうでもない。そうした反応は「参考」にはするが、決定的ではない、というのが一般的ではないでしょうか。

ある句会、そこは持ち寄りとその場の席題で20句ほどを出句するのですが、そのとき、たまたま一句を除いてすべて開きました(俳句の句会では点数が入ることを「開(あ)く」といいます。選が入った句は作者が名乗りを挙げるので、名が明かさせる。それで「開く」というのでしょう)。

開かなかったのは《さくらんばう深夜のところどころ雨》という句で、この句は、一昨年にまとめた句集『けむり』に収録しました。そのときの句会で開いた19句は収録していません。選の入った句をすべて捨て、入らなかった句を残したという、いわば「わがまま」を楽しんだわけです。

この《さくらんばう》の句を句集の読者がどう読むかはわかりませんが、句集に入れると決めれば入れたらいい。せっかくの句集です。それに費用はぜんぶ自分持ちの自費出版ですから、誰に気を使う必要がありましょう。100パーセント好き勝手にすればいいと思う。ただ、句会で、わがままや好き勝手はいけません。みなで集まる意味がない。

句会はコンビネーション、チームプレイ。俳誌や句集への発表は、わがまま放題、スタンドプレイ。これがいいのではなかろうかと。

2013/01/12

句会の作法

川柳の句会と俳句の句会では、方式がずいぶん違う。話には聞いていたが、昨年の一月に、川柳方式の句会を、旅館の一室で知人ばかりというプライヴェートな感じで初体験して、なるほど違うわ、と。

俳句の句会と川柳の句会:週刊「川柳時評」2013年1月11日

小池正博さんのこの記事にも書かれていますが、俳句の句会ではごく一般的な互選というものが、川柳の句会には、きほん、ない。互選がないから合評もない。川柳では、一題に一人の選者が設けられ、その人の選がすべて。

記事中、「(…)川柳に批評が発展しないのは、ふだんの句会で句を読む修練ができていないことに原因がある」とする小池さんの把握について、いまひとつ首肯できないのは、互選のある句会を数多く経験している俳句愛好者が「句を読む修練ができて」いるとは思えず、互選や合評を基盤に「批評が発展」しているとも思えないからですが、まあ、これは個人的な印象というだけ。

例えば、俳句の句会では、「選」に加えて「選評」が要求されるケースも多い。このことで、なんだかなあ、という事態も起きたりする。「選評しにくい句だから、選ばなかった」というセリフを以前、実際に聞いたことがあり、え? なんじゃそりゃ、と。一種の本末転倒。

「なんだかわからないけど、選んだよ」 という選句がないと、句会は痩せ細っていきます。

選評しやすい句への選評とは、選評パターン、鑑賞プロトコルに乗っかるということで、それは批評的な行為とは違う。習わしに従って、句会のルーティンを繰り返しているに過ぎないわけです。

選評しやすい句を選好する選句も、また、自分の中の習わしを句会で繰り返しているだけということになり、あまり「発展」はない。

ただ、そんな退屈な繰り返しの部分がいかに大きくとも、互選・合評という句会のスタイルは、参加者にとってとてもおもしろく、もし、俳句の句会で一切「互選・合評ナシ」ということになったら、自分はどうするか。おそらく句会には行かなくなるでしょう。

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上記、小池さんの記事に、古舘曹人著『句会入門』の紹介があります。孫引きになりますが、古舘の「句会作法十三か条」は…
「句会は十人以下で」「多彩なメンバーで」「句会は月二回」「句会は三時間」「投句は十句」「吟行が最上」「句会は選句の場」「互選の点数は優劣に無関係」「討論は結論を求めない」「ノン・リーダーで」「句会は自立の場」などである。
なるほど。参考になる。

(結社の句会は、この作法の念頭にはないようです)

「月二回」は、俳句のことを忘れてしまわない、俳句を身近にできる、かつ、俳句に飽きてしまわない、ちょうどいい頻度、という感じでしょうか。この部分は、自分も実現できている感じです(このところ月に1.5~2回というペースで句会に出ています)。

頻度に限らず、自分が出席している句会は、ほかの要素もだいたい満たしているようです。句会を「自立の場」にできるような成熟したメンバーにも恵まれ、ありがたいことです。

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上掲の「句会作法」においては、「自立」と「討論に結論を求めない」の2つが互いに関連する。

句会では、ポイントや論点はこうだよね、これこれこういう別の読み方、スタンスがあるよね、と問題呈示が大事。結論を出す必要はない、というか、出さないほうがいい。各自が問題を家に持って帰って、そこで結論を出すなり、将来、結論を得るなりすればいいことなのですね。「答えの面倒までは、句会は見ないよ。各自、勝手にせい」ということで、これには自立が必須。

私は結社に属していないし、出席する句会にはいろいろな結社・流派の人がいるので、そこで「結論」を出そうとしても不毛に終わる。自分とは別の見方があることを、句会で知ることこそが大事で、そこのところのシロクロを、句会の場でつけることはないのです。

(つづく、かも)

2013/01/10

観くらべ 第20番 ホモセクシュアルvs探偵

予約したDVDをTSUTAYAが2本ずつ郵送で送ってくれるサービス。その2本に勝ち負けを付けるという、ヘンテコリンなシリーズの第20弾。

リプリー アンソニー・ミンゲラ監督/1999年

ハメット ヴィム・ヴェンダース監督/1982年


「リプリー」 は、途中、「あれ? これ、前に観たような筋書きだなあ」と思い始め、「なあんだ、『太陽がいっぱい』のリメイクか」と。しかし、リメイクにしては違うところも多くて、もやもやしながら観終えた。調べてみると、「太陽がいっぱい」と原作が同じ、ということで、リメイクということではないらいしい。こちらのほうが「太陽~」よりも原作に忠実だそうだ。

主人公のリプリー青年(マット・デイモン)がホモセクシュアルである点も原作に忠実らしく、これを含め、「太陽が~」よりも、エスタブリッシュメントへの憧憬や成り上がり志向が切実。アラン・ドロンだと、〈何も持っていない〉感、〈何者でもない〉感はどうしても希薄。これだけの色男だから、成功パターンはいくつもあるでしょう、きっと、という感じです。その点、マット・デイモンは、〈チャンスに恵まれなければそのまま埋もれてしまう感〉、横溢。憧れの対象へと擦り寄っていく(肉体的にも)感じは、なかなか迫力がありました。

「ハメット」は、 ヴィム・ヴェンダースがコッポラに呼ばれて撮った探偵もの。ハードボイルド小説の祖、ダシール・ハメットは実際に探偵として働いた経験があり、映画は、このリアルに基づく。このあいだまで探偵をしていた探偵小説作家ハメットが、事件に巻き込まれていくというストーリー。

ヴェンダースが難渋しながら撮り終えた映画らしく、このときの苦い経験を元に、「ことの次第」が作られたそうだ。事件が起こることで物語が駆動していくタイプの映画(探偵映画はまさにそう)が、ヴェンダースは嫌だったのか?(じゃあ、なぜ引き受けた?)

こうした事情からすると、「ハメット」は失敗作になっても不思議はない(いやいやながら撮ったわけだからね。興行は振るわなかったそうだ)。

ところが、これが、素晴らしい映画なのですよ。倦怠感がほどよくまぶされ、中国娘人身売買からポルノフィルムでの強請りといった、いかにもな話を、主人公のハメットが「ね? いかにも、でしょ?」と皮肉に告げているようなメタな感触が備わってます。

なおかつ、それでもってエンターテイメント的要素が損なわれることもなく、かつての探偵物を観ているような愉しさがある。そんでもって、抑制がかえって粋でオシャレ。この映画、たいそう気に入りました。

というわけで、この勝負、ハメットの勝ち。


ハメットの小説は若い頃、わりあい読みました。当時(今でも、か)、チャンドラーの人気が高く、それも読んだけど、ちょっと反抗するように「ハメットのほうが渋い」てな軽薄な感じで、読んでいた記憶があります。でも、この分野、それほどハマることはなく、 だから、ロス・マクドナルドは読んだ記憶がない。

でも、また読みたくなりましたよ、ハメットとか、このあたりの古典を。



2013/01/09

春隣

わけあって中嶋憲武画伯の絵を玄関に飾っている。タイトルは「春隣」。数か月前から飾りつづけ、ようやく、季節がこの絵に追いつこうとしている。

まだまだ寒いけれどね。


ところで、読みは、はるどなり、はるとなり、人によって違うようです。私は濁音便の前者。この歌も濁音です。

2013/01/03

2012/2013

巨大なイオン(ジャスコ)がロードサイドに鎮座まします。その隣にはこれまた巨大なホームセンターとかがあって、道の向こうの、さらに比較にならないくらい巨大な製鉄所の敷地に煙突が何本もそびえる「日本のどこか」、自分の生まれ育ったところはそこから程近く、したがってそこら一帯がどう変化しようとも、圧倒的に懐かしい。

商業集積というのか、スーパーマーケットと同じ建物に数多のテナントが入っていて、この頃は正月一日だからといって休んでなどいず、人がごった返す。帰省中のちょっとした買い物でそこを歩くとき、買い物は口実に過ぎず、日本的風景を観光している、ということなのですよ。そう、巨大ジャスコで。

妻が店内の告知を見つけ「ペーとパー子が余興に来る」と私に告げる。林家ペーとパー子? 哀しいほどに似つかわしい。で、催事スペースの舞台に立っていたのは関西の夫婦漫才。妻の勘違いだったが、大同小異。で、たこ焼きを買い食い。おいしい! 東京のどこかしらで売っているたこ焼きとは大違いで、これが文化であります、伝統であります。

そこから海岸沿いの国道へ。夕暮の少し前の瀬戸内海はそれはそれは美しく、イザナギ・イザナミの建国からこっち、ずっとこのように鏡面に毛羽が立つような海であったのかなあと。

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数日間(つまり帰省の間は)PC環境になく、自分ん家に戻って週刊俳句を開き、2012年回顧を読むと、前記事で、あまり仕事をしなかったと書いたのは間違いで、充分仕事をしているではないか、自分。

例えば、〔句集を読む〕喜田進次句集『進次』。これはなんだか自分自身思い出深い。《池禎章さんの俳句》やら、油布五線句集『蘚苔類』といったちょっと古い句集の紹介。あるいは、ダやローグ形式の「奥村晃作同好会」。これくらい書けば充分。

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というわけで、ここを覗いてくださる方々には、旧年中のご愛顧に深く感謝いたしますと同時に、本年もよろしくお願いいたします。