2013/01/14

続・句会の作法

承前

小池さんの記事「俳句の句会と川柳の句会」には、俳人・池田澄子さんのセリフも引用されています。要約すれば、自分で自信のある句は句会に持っていかない、句会はテストの場、といった捉え方です。

句会は「舞台」「本番」ではなくリハーサル、あるいはジャム・セッション、試技と捉える俳人・俳句愛好者は多いと思います。本番の舞台は、俳誌や句集なのです。

別の角度からいえば、自分の句を自分でどう評価するかは難しいので、句会での反応をその参考にするという人は、多い。

ただし、その参考のしかたは、単純ではありませんし、人によって幅があるでしょう。互選の点数があまり参考にならないことは、多くの俳句作者が知っています(それでも、点数が、特に俳句を始めてすぐの頃は励みにはなります)。句会での反応のどの部分を参考にするかは人によって場合によってさまざまです(この「さまざま」という部分が句会のおもしろさのひとつでしょう)。

例えば、(いつか仁平勝さんが俳句総合誌に書いていましたが)合評での意見が参考になって、句が変わることもあります。「季語がダメ」という意見から季語を変えてみる、誰かの推敲案を採用するなど。

川柳では、選から洩れた句は潔くすべて捨てる。これが原則といいます。俳句では、結社の主宰の選から漏れた句について同様の処理をする人は多いかもしれませんが、互選の句会では、そうじゃないケースもありそうです。逆に、選を(多く)集めた句を残すかというと、そうでもない。そうした反応は「参考」にはするが、決定的ではない、というのが一般的ではないでしょうか。

ある句会、そこは持ち寄りとその場の席題で20句ほどを出句するのですが、そのとき、たまたま一句を除いてすべて開きました(俳句の句会では点数が入ることを「開(あ)く」といいます。選が入った句は作者が名乗りを挙げるので、名が明かさせる。それで「開く」というのでしょう)。

開かなかったのは《さくらんばう深夜のところどころ雨》という句で、この句は、一昨年にまとめた句集『けむり』に収録しました。そのときの句会で開いた19句は収録していません。選の入った句をすべて捨て、入らなかった句を残したという、いわば「わがまま」を楽しんだわけです。

この《さくらんばう》の句を句集の読者がどう読むかはわかりませんが、句集に入れると決めれば入れたらいい。せっかくの句集です。それに費用はぜんぶ自分持ちの自費出版ですから、誰に気を使う必要がありましょう。100パーセント好き勝手にすればいいと思う。ただ、句会で、わがままや好き勝手はいけません。みなで集まる意味がない。

句会はコンビネーション、チームプレイ。俳誌や句集への発表は、わがまま放題、スタンドプレイ。これがいいのではなかろうかと。

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