2017/12/30

■ことば 『ぶるうまりん』第35号より

ことばは落葉ことばは枯葉うつくしい  土江香子

ことば(言葉)はたしかに「葉」です、いまさらながら。

(「ことのは」という情緒過多な言い方は好きではないけれど)

ことばという「葉」の、若葉ではなく、緑の盛る葉でもなく、紅葉でも照葉でもなく、「落葉」「枯葉」である様態、それが「うつくしい」。なんだかわかる気がする。過程を経てきたもの(と理屈をつけると無粋だけれど)へのまなざし。

掲句は『ぶるうまりん』第35号(2017年12月19日)より。


「ことば」が「うつくしい」といいですね。このさきずっと。たまに、で、いいから。

ラヴ&ピース!

2017/12/29

■金閣 『奎』第4号より

金閣寺六十年をずつと火事  小池康生

三島由紀夫『金閣寺』の発表は1956年(昭和31年)。以来、ずっと火事。

燃えている金閣寺と燃えていない金閣寺。私たちには二通りの金閣寺が存在するわけです(足を運べば、燃えていない金閣寺が見られるはず)。こういうことって多いですよね。世の中には。

異なる何層かの属性をもつ事物が、たくさんある。コンテクストはたいていの場合、複数なわけで。

京寒し金閣薪にくべてなほ  中村安伸


掲句はそれぞれ、『奎』第4号(2017年12月)、中村安伸句集『虎の夜食』(2017年2月/邑書林)より。

■チクワその他

週刊俳句・第557号に「抱擁」5句を寄稿しています。ご笑覧ください。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2017/12/55720171224.html



チクワは使い勝手が悪い。というか、あまり食べませんよね。いったい何のためにあるのだろう? と一瞬考えて、次の瞬間、おでん種のなかでチクワはかなり上位クラスに好き、ということに気づいた。

それから、もうひとつ思い出した。粕汁のチクワも、いい。

というわけで、きのうyuki氏がつくった粕汁が美味。

おでんと粕汁のためにだけ、チクワは存在する。これはそうとう粋でオシャレな事実。

2017/12/27

2017/12/26

■よくわかる川柳

現代川柳、あるいは今の川柳といえば、総じて「ぶっとんだ」印象があるが、それがメインストリームかと言えば、そうではないらしく、飯島章友氏による引用を見ると、

≫聖夜とクリスマス:川柳スープレックス
http://senryusuplex.seesaa.net/article/455781369.html

ぶっとんでない川柳、意味のよくわかる川柳が並ぶ。

しかし、これでは、陳腐の見本市。

門外漢の私よりも、柳人のみなさんのほうが大きな溜め息をついておられるのではないか、と、おせっかいに。

わかりやすさと陳腐が直結するわけではない(為念)。わかりやすさを実現しながら、陳腐を免れるという点では、俳句のほうに分があるかな?(というと、川柳の人が怒りそう)

ラヴ&ピース!

2017/12/25

■好きに暮らす


お茶漬けは、昨日のゴハンにお茶を濃い目に。おかずは自分で焼いた卵焼きと塩昆布。それを至福の食事として、今年も暮らしてきたわけですが、これは、それが好きだからというに過ぎない。たいした意味はありません。

 春蜜柑そうしてたくてそうしてます  佐藤智子

ラヴ&ピース!

2017/12/24

■今年もあと少しですね

中嶋憲武さんと週刊俳句でやっている「音楽千夜一夜」も、今年はいよいよあと2回。

第31回 アーサ・キット「サンタ・ベイビー」

なお、クリスマスだからと言って、ウチでは、櫛と時計の鎖をプレゼントし合うこともないし、ケーキを食べることもない。パーティーもない。

ふたりとも無関心。

あ、シュトーレンは食べます。20日頃から少しずつ。

2017/12/22

■菓子袋 『セレネッラ』第14号より

『セレネッラ』第14号(2017年12月20日)より。

からつぽの菓子袋飛ぶ枯野かな  金子敦

スウィーツ俳人とも呼ばれる作者。枯野に飛ばすのも、ただの袋ではダメなのだ。菓子袋じゃないとダメなのだ。

業(ごう)を感じた。


2017/12/21

■冒頭集:サマセット

 ウィーリー・チャンドランはある日父親にこう尋ねた。「僕のミドル・ネームは、なんでサマセットっていうの? その名前を知ったとたん、学校のみんながからかうんだ」
 父親は難しい顔で答えた。「偉大なイギリスの作家の名前から取ったんだ。家に何冊か本があるだろう」
「でも、読んだことはないよ。そんなに好きな作家だったの?」
「どうかな。わけを話すから、自分で考えなさい」
 それからウィーリー・チャンドランの父親は物語を語りはじめた。そして長きにわたって語りつづけた。ウィリーが成長するにつれ、物語は形を変えた。多くのことがつけ加えられ、ウィリーがインドを離れてイギリスに行くころまでには、物語はおおよそ次のようなものとなっていた。
V.S.ナイポール『ある放浪者の半生』2001(斎藤兆史訳/岩波書店/2002年)


2017/12/20

■冒頭集:錯誤と創造性

 錯誤、勘違い、へま、失策、間違い、誤解、思い違い、とり違い、曲解、過ち、誤算、誤謬、ポカ、しくじり、失態、ドジ、錯乱、不条理、まやかし、幻想、妄想、幻覚、無分別、幻視、駄洒落、駄弁、世迷い言、迷論……。
 こうした言葉は、原則的には、科学と正反対なものである。
 しかし、当然のことだが、研究者も時には間違うこともある。それなのに科学の歴史や教育はずっと長いあいだ、科学者のおかす間違いをぜんぜん問題にしてこなかった。教科書では研究の成果は示されるが、それがどんなふうにして獲得されたかまでは伝えない。歴史物語は模範的な成功や成果や天才のことばかり語り、誤謬という、このちょっと胸のむかつく副産物にはまったく触れないか、触れることがあるとしても長いピンセットの先でつつくくらいだった。
ジャン=ピエール・ランタン『われ思う、故に、われ間違う 錯誤と創造性』1994(丸岡高弘訳/産業図書/1996年)

2017/12/18

■オーロラの家 『俳句新空間』第8号より

オーロラの家たくさんの鍵を持つ  小野裕三

「持つ」の効果だろうか、この家、開放的な感じがする。寒冷地で開放的なはずはないが、イメージ、ね。

開ける鍵(比喩としての鍵)がたくさんあって、内部/秘密へと到達可能。

「オーロラの家」という省略の効いた語句のロマンチックな印象も相俟って。


掲句は『俳句新空間』第8号(2017年12月10日)内の企画「世界名勝俳句選集」より。

2017/12/16

■冒頭集:チェスタトン

《昇る太陽》という名のその宿屋は、「沈みゆく太陽」といったほうがしっくり似合う外観をしていた。この宿屋は、狭い三角形の庭に立っていたが、庭は緑色よりも灰色が強く、崩れ落ちた生垣が、メランコリックな河芦とまじりあい、屋根も腰掛もともに潰れた暗く湿っぽい四阿があり、薄汚れた、水の出ない泉のほとりには、雨風に色あせた水の精の像が立っていた。G・K・チェスタトン『詩人と狂人達』(福田恆存訳/国書刊行会/1976年)

なんだかこなれない翻訳(ビッグネームなのに!)。だけど、情景描写が終わって物語が動き出すと、すんなり話に入っていけますよー、みなさん。

ラヴ&ピース!

2017/12/15

■12月のくにたち句会のお知らせ

2017年12月30日(土)14:00 JR国立駅改札付近集合

句会場所:ロージナ茶房(予定)。

席題10題程度

最後の日曜日が恒例ですが、今月は変則です。

初参加の方は、メールtenki.saibara@gmail.com)、電話etcでご一報いただけると幸いです。問い合わせ等も、このメールまで。

2017/12/14

■似ていなくもない

某日曜日。友人夫婦、来訪。

yuki氏(私の現在の嫁はんです)へのクリスマスプレゼントは奈良美智のポストカードブック。彼らにとって、yuki氏は奈良美智キャラのイメージなそうな。似ていなくもない。


2017/12/12

■わかったふうな選評・鑑賞が行き交う句会、じつは不毛

昨日の記事は、あながち冗談ではなくて、本気。

「わかったふうに選評する・鑑賞する」という行為は句会レベルから俳人・俳句愛好者に浸透しています。句会だからそれでいいのですが、なんだかなあ、といった事態も招きます。

ある句会で、ある句を採らなかった理由を訊ねられて、「おもしろいと思ったのですが、選評をもとめられたら、うまく言えそうになかったので」と答えた人がいました。これ、一度ならず遭遇しています。

採った理由がうまく言えないから採らない? はぁ? なんじゃそりゃ。

これはもう、本末転倒も甚だしいのですが、異常行動と解されているフシはない。

かくして、ある人々のあいだでは(けっして少なくない人々のあいだでは)、わからない句、どこがおもしろいのか説明しにくい句は、「選」から外され、わかる句、いいところ・気に入った理由が説明しやすい句が選ばれることになる。

選評は、句によっては「好き」のひとことでいいと、本気で思っています。あるいは「ヘン」のひとこと

ある句に魅力を感じたとき、まずはパクリとゴクリとその句をからだに入れて、快楽することが第一で、同時にほぼすべて。

だから、うまく選評を言おうなんて考える必要はまったくないのですよ。

(わかる句・いいところを指摘しやすい句で、魅力的な句もあります。為念)

なお、選句は、あたりまえですが選がほぼすべて。どんな句を選ぶかが大事。



いろいろわかったふうな解釈・鑑賞が行き交う句会が「良い句会」とされる向きがありますが、経験上、選評や鑑賞の長い句会は、クリシェをえんえんと繰り返す人がいる句会です。「わかる句」の称揚のしかたについては、プロトコルがもう出来上がっていて(その手のプロトコルは簡単に身につきます)、句会経験の多い中堅・ベテランの多くはそれに乗っかって滔々と話す。これ、じつはぜんぜん生産的ではないです。初心者には有益と思うかもしれませんが、俳句世間の慣習を覚えるにすぎず、クリシェの積み重ねを鑑賞・批評と思い込まされるにすぎません。。

(批評は批評で真剣に取り組めばいいです。悩んだり葛藤しつつ。草の根批評運動は不要。カジュアルに、批評ごっこ=クリシェの合成物を繰り返しても無為。鑑賞の「類想」が量産されるに過ぎません)



そこで、これです。

http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2017/12/blog-post_10.html

わかる、うまく説明できる。それって、たいして重要じゃないです。

Don't think. Feel !


「わかる・わからない」についてはもうすこしダラダラ続きます。きっと。

2017/12/11

■わかるとか理解するとか解釈するとか、いったんやめてみたらどうですかね?

『ストップ・メイキング・センス』の監督ジョナサン・デミが亡くなったそうです(2017年4月26日・73歳。旧聞に属する)。

この映画、見どころは数限りないのですが(ギター1本とラジカセのドラム音で歌うオープニングアクトから、もう)、Burning Down The Houseを貼っておきます。

2017/12/10

■私の彼はわからない いわゆる難解句の周辺



蛭子能収に『私の彼は意味がない』という名タイトルの著作があることはさておいて、ある種の俳句が「わからない」という話。

ツイッターでちょっとやりとりがあったわけで、誰か togetter にまとめてくれるとありがたいんだけれど、それはそれとして、この件、7月にもちょっと触れたんですよね。

「わからない」というコメントはよく耳にするんですが、なにがわからないのかがわからない場合が多くて、ただ「わからない」とだけ言ってるなら、無視するのがいいと思います。なにがわからないのかがわからないと、話が展開しない。

これって、「わからない」のなかに「どこがおもしろいのかわからない」「どこがいいのかわからない」という低評価の言い換えが含まれているので、ややこしくなる。

それを除外すると、解釈できない、なに言ってるのかわからない、意味がわからない系の「わからない」になるわけですが、これにもいろいろな成分・いろいろな層がある。これを腑分けするのは、すこしは生産的かもしれないです。

ただ、なかには、この単語、知らない、わからない、というのもあって、それには「辞書引けや、ボケ」としか言いようがない。

それも除外すると、いわゆる難解句に対する俳人、一般俳句愛好家の態度としての「わからない」が残る。

俳句は、韻文とか詩とか言われながらも、たぶんに《散文的》に意味を摑もうとすることが多い。句の側も、《散文的》に意味が通った句が多い。圧倒的に多い。「発見」とか「共感」とかといったある種緩くて甘い鍵語で語られる句もそれに含まれます。機知の句も同様。

それらに対して、散文的には意味が通らない。省略や倒置や比喩や、そういうものを考慮しても、意味が通らない。そういう句、たしかにあります(意味が通るのが俳句とも、通らないのが俳句とも、私は思ってない。為念)。

ここで言っておかないといけないのは、わかる句が良いとか悪いとか、わからない句が良いとかってことを言いたいのではないってことです。

私の関心はそこじゃなくて、《わかる・わからない》と《良い・悪い》が読者のなかでどのように関連しているのか、ということです。

(つづく)

2017/12/09

■生プリン、焼きプリン、蒸しプリン。そのなかから蒸しプリンが選ばれたことの重要性

『蒸しプリン会議2017秋冬』をつくっていて、表紙のメンバーの並びと、本文の並びが違っていることは途中で気づいた。

表紙を直せばいい話だけれど、「間違っているほうがいいんじゃないか。あれ?と思ってくれる人がいるほうがいい。気がつかない人は気がつかないけれど、気がついた人にはその《あれ?》あるいは《あ、やっちゃってる》が一種のオマケになるんじゃないか」と思い、そのままにした。

良い子はマネしちゃダメだけど、一般に制作物では間違いを放置しないんだろうけど、《間違い》はサービス、私からあなたへの贈り物だったりもするわけです。


なお、この冊子、ポートレートと6名の作者名とを照合する箇所もない。誰が誰だか、知らない人には皆目わからない。そこから、素敵な間違い・素敵な人違いが起こることも期待している。

ラヴ&ピース!


2017/12/08

■鳥類と人類

『鏡』第26号(2017年12月1日)より。

人類の上を鳥類秋の暮  八田夕刈

大きな景。秋の空気の澄みきった感じ、夕暮の空のひかりにも、よく合う。

この句で思い出したのが、

夕焼や千年後には鳥の国  青本柚紀

俳句甲子園(2013年)の最優秀句。この句、ツイッターで初めて読んだとき、「千年後じゃなくて今でも鳥の国だよな」と思ったのですが(切れてはいても上五に夕焼とあるのでね)、そのあとすぐ、人間はもういないことが含意されているわけで、そこがこの句の眼目、っつうことで納得したわけです。

はじめの句に戻ると、人類が人類になったとき、棲処は地表。「木から降りたサル」だったわけです。鳥とも、樹上のサルとも棲み分けはできていた。そのうち、空も人間の手の届く範囲になっちゃって、そこで、『大日本天狗党絵詞』(黒田硫黄)のような事態となるわけです(空をめぐる鴉とヒトの抗争)。

なにが言いたいのかわからなくなりましたが、つまり、ああ、ここは地球なんだな、ってことです。

ラヴ&ピース!


2017/12/07

■冒頭集:ソフトマシーン

船乗りと介抱ドロやっててあがりは悪くなかった。並みの夜で15、午後に万引きこいて日暮れは操短で自由の国からちょろまかす。けどおれは血管が干上がりだしてた。W.S.バロウズ『ソフトマシーン』1961(山形浩生+曲守彦訳/ペヨトル工房/1989年)

2017/12/06

■無臍忌 9年前のこの日亡くなった山本勝之に

本日は無臍忌。山本勝之が亡くなった日です。

なぜ「無臍忌」というのか? 話せば長くなるので、ここではしません。知りたい人にはまたいつかお話しします。

もう9年も経つのですね。リンクを貼って、彼を偲ぶことにします。

私が書いた文章ふたつ。

亡くなった病院から夜中に戻って、週刊俳句・更新の作業をして、書いた「あとがき」(2008年12月7日)
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2008/12/085_07.html

『百句会報100号記念特別号』(2006年9月16日)に書いた一句評(山本勝之論)
http://tenki00.exblog.jp/4116418/

それから、山本勝之自身の文章と中嶋憲武による一文。

山本勝之が週刊俳句で連載してくれた「暮らしの歳時記」。歳時記として世界一・史上最悪にふざけた内容。
goo.gl/8qEDw9

中嶋憲武 マスク鳥(2008年12月8日)
http://hw02.blogspot.jp/2008/12/blog-post_08.html


2017/12/05

2017/12/03

■兄妹のこと 『街』第128号より

押入れに入ると兄ゐて夏の果  小久保佳世子

姉妹がいないので、異性のきょうだいというものについて、よくわからない(世に虚構の妹は無数に存在するようだが、それは自分の感覚の参考にはならない)。

ともあれ、強烈に近親相姦的、甘美にイケナイ句であることは一読して判然。

夏の終わり、まだ暑さが残るのであれば、押入れの中の出来事は、なおのこと。

掲句は『街』第128号(2017年12月1日)より。


余談だけれど、送り仮名。俳句は辞書的正則に縛られることはないが、押入、押入れ、押し入れの三者択一なら、押入がうれしい。「夏の果て」を「夏の果」と用字するなら。

2017/12/02

■とりあえず揚げてみるという、世界への接近法 『guca』第1号より

揚げ物にしてよしアラクニド・バグズ  佐藤りえ

アラクニド・バグズってなんだろう? 「バグ」が虫ってことはわかるけど、アラクニドって? 科学用語っぽい。

あれこれ考えるのも愉しいが、調べてみることに。

ロバート・A・ハインラインの『スターシップ・トゥルーパーズ』(映画はポール・バーホーベン監督/1997年)に登場する「昆虫型宇宙生物」(の総称?)なんですね。この映画、未見。そこで、そのアラクニド~を画像検索。

ひえぇ~、気持ち悪ぃ~(≫画像)。

でも、揚げたら、煎餅みたいになって、意外にイケるのかもしれない。鯛の皮もカリッと二度揚げすると美味なんですよね。

ラヴ&ピース!


掲句は『guca』第1号(2017年11月23日)より。


2017/12/01

■無人島に持っていく3冊

…という、よくある話題。

国語辞典。

地図帳。

2冊はすぐさま決まる。

どの国語辞典か? 『広辞苑』を選ぶ人も多そうだけれど、重すぎるし厚すぎる。コレというこだわりはそれほどないので、エンタテイニングな『新明解』あたり、いいかも。

地図は大きなものが欲しい。


さて、もう1冊は、となると、ううむ、漢和辞典?

国語辞典があるのだから漢和は要らないだろうという意見が正しいか、いやそうでもないか。悩ましいところ。

あるいは、なにか写真集?

飽きないということなら写真集がいいかもしれない。ノンフィクションなやつ、ね。

3冊目は難しいです。

ラヴ&ピース!