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2015/03/05

■枯野の冷蔵庫

『連衆』第70号(2015年2月)より。

冷蔵庫枯野にあれば口開けて  谷口慎也

冷蔵庫句の私的コレクションに加えました。

野積みの廃棄物と読めば、わりあい現実的。それはそれで手堅い興趣。一方、強引に、現役の冷蔵庫がとつぜん枯野に在るような読みも、それはそれで鮮やか。枯野=冷蔵庫の見る幻視。わたちたちはそれ(冷蔵庫と枯野の関係)を私たちの幻視として味わう。

「口開けて」が、意外なほど絶大な効果のようにも。

試しに「冷蔵庫 枯野」で画像検索すると(≫こちら)、冷蔵庫も枯野もまるで姿を現しません。この組み合わせが日常の脈絡から離れたところにあることの証左とも解せます。そこ(日常との乖離)にこそ俳句があるというわけです。


2015/02/18

■吼える

『都市』第43号(2015年2月1日)より。

金色の吼ゆるがごとき屏風かな  中西夕紀

視覚と聴覚の相互乗り入れ。俳句でめずらしい仕掛けではありませんが、きちんとハマると読者に快感。

ルビはありませんが、「こんじき」と読みたい(「きんいろ」じゃあ締まりません)。

2015/02/13

■猫のふぐり

『星の木』第14号(2015年1月31日)より。

実のごとき猫のふぐりや秋の風  大木あまり

ふぐりを包む産毛。その産毛が秋風に包まれる。

猫のふぐりは触っても「実のごとき」なんですよ。


モモ。photo by 嫁はん



2015/02/04

■大きな字

蘖と書けば大きな字となりぬ  鶴岡加苗(句集『青鳥』2014年)


書いた。




大きな字になった。

句にそのようにあるので、大きくならないように意識したはずなのですが。


2015/02/02

■風の都

「てのひら」という語は、「平(ひら)たい」やら「開(ひら)く」のイメージを伴っています。

てのひらは風の都や百千鳥  山崎十生

手の上に都がある。手をかざせば、風が集まる、風が吹く。そこは「風の都」です。

典雅で華やか。その悦ばしさを増幅するように「百千鳥」。あまたの鳥が集まり、さえずりあう景は「都」にぴったりです。


春ですね。



掲句は『花鳥諷詠入門』(2004年/富士見書房)より。

2015/01/27

■蝸牛の秘密

『儒艮』第10号(2015年2月)より。

原型を留めておりし蝸牛  曾根毅

コトバの一節はしばしば逆やら裏やら対偶を連想させる。だからそこには一瞬にして「原型を留めない蝸牛」の存在が浮かぶ。

それってどんな?

蝸牛の中身(それはナメクジではないらしい)の「原型の留めなさ」ならすぐに了解できるが、蝸牛のあの殻はどうなのだろう? いろいろと変化するものなのか?(色や柄なら変化しそうな趣がある) 硬いはずの殻が?

そうこうするうちに、殻の渦巻きがぐにゃぐにゃと変型しはじめる。

だが、気づくと、やはり蝸牛は「原型」から変わることなく、そこにいる。かくして、私たちの読みは、句の「原型」へと帰着するのです。









2015/01/25

■旅の始まり

しろながすくぢら最終便となる  小津夜景「わが部屋をめぐる旅」より

切れをどう読むかによって、さまざまな解釈がありそうですが、ただ、そんなことは置いておいて、ここには、はるかな旅の始まり(の感触)があると感じるだけで、読者である私は満たされます。


しろながすくじら愛好家としても、たいへん結構な句であります。



2015/01/24

■蝶とトンネル

『蒐』第14号(2014年12月)より。

トンネルが人を吸ひ込む蝶の昼  太田うさぎ

トンネルの闇と昼の光があざやかな対照。座五の展開力が生み出す効果。

ついでに蝶も吸い込まれていく。これは読み手の幻視。だけど、幻視を誘うのも句の手柄。


2015/01/23

■蛤のあぶく

『蒐』第14号(2014年12月)より。

蛤のあぶくは雀のこゑらしき  馬場龍吉

「雀蛤となる(雀大水に入り蛤となる)」は七十二候のひとつで晩秋の季語。そこからの連想で成立した句。

こういう下敷きからの展開は粋ですね。「季語の説明」という無粋とどう一線を画すかが決め手でもあるわけですが。

「あぶく」が見える句。微細なものへの視点もよいです。



2015/01/09

■温室

温室へ扉の硝子押せば雨季  花谷 清

「温室」を冬の季語とする歳時記もあるようですが、当面それは無関係。この句は夏の句。

夏の温室の中というのはむせ返るようだったりします。きちんとした大きな温室(植物園にあるような)なら、温度管理・湿度管理されているので、そうでもないのでしょうが、個人の庭にあるような温室の夏は、そう。熱帯雨林の雨季とは、ひょっとしてこんな感じかと思うくらい。

ちょっと懐かしい気持ちにもさせる句であります。


掲句は『GANYMEDE』第62号(2014年12月)より。


2015/01/08

■便器句

毎日最低でも1回は目にするものなのに、便器を詠んだ句は少ない(≫ウラハイ「便器」)。

膝折れば便器まばゆき九月かな  遠藤 治(『鏡』第14号・2014年10月)

膝を折って目に便器が近づくから見えるまばゆさなのか。

膝にあたる便器の冷たさから、まばゆさが際立つようにも思える。


便器句はもっとあっていい。


拙句。

これもあのデュシャンの泉かじかめり  10key(『けむり』2011年)

2015/01/07

■カルタつながりで……

むさし野は男の闇ぞ歌留多翔ぶ  八田木枯

八田木枯「庚寅歳旦」(週刊俳句・第141号・2010年1月3日)より。

この句を思うのですよ。


(ぎりぎり、お正月モード)

2014/12/19

■鬼が年越す

今年もあと10日ほどですね。

大津絵の鬼が年越す天袋  亀田虎童子

『雷魚』第100号/終刊号(2014年12月10日)より。

百号二十七年というのは多くの俳誌の中では短い期間だと思うが、同人の皆さんが「雷魚」同人と言う矜持をもって俳句を書いてきたのは充実した素晴らしい時間だと思います。
寺澤一雄「あとがき」

≫太田うさぎ「亀田虎童子『合鍵』を読む」

●

2014/12/05

■日向の椅子 岡田一実『境界』の一句

俳句は音数が限られているので(短いので、とは言わない)、省略や舌足らず、意味の不確定が生じる。

家具屋あり日向ぼつこの椅子のあり  岡田一実

「日向ぼつこの椅子」もまた、一種の省略、舌足らず。その椅子に坐って日向ぼっこをするそのための椅子なのか、椅子が日向ぼっこをしているのか。人によって読み方が違うかもしれません。

けれども、これは、どちらとも言えない、という効果を味わうべき句と思いました。

椅子が日向にある(日向ぼっこをしているようだ)。そこに(私が)坐れば、気持ちのいい日向ぼっこになるんだろうなあ、というような。

ふたつの読みのちょうど中間に、読者を誘う。これは、計算された舌足らずと言えそうです。


ところで、店内ではなく道にはなかばはみ出すように商品を並べた家具屋というのは少なくなりましたが、昔はたしかにありました。「町の家具屋」といった風情。懐かしさがよろしき下味にもなっています。


掲句は『境界』(2014年11月1日/マルコボ.コム)より。

2014/12/03

■「しあわせ」と「よろこび」 佐藤文香句集『君に目があり見開かれ』の一句

ヒヤシンスしあわせがどうしても要る  福田若之

歩く鳥世界にはよろこびがある  佐藤文香

「しあわせ」を希求することと「よろこび」の存在を知ること。

ヒヤシンスを見てるのもいいけど、歩けば(飛ばなくても)、そこに「よろこび」があるんだよ、と。

「よろこび」を〈外〉に見出す態度は、ヒヤシンスの句への返答、アドバイスに思えてきます。

単純で幼稚な読みですが、前者はひとつの始まり、後者はひとつの答え。

鳥の句が無季なのは、年がら年中、よろこびはあるんだよ、ということでしょう。



■蛸と天球 関悦史「量産型秋の暮」の一句

太古、夜空を眺めて、それを球体とみなしたこと(天球という概念)は、何らかの研究や思惟を通してのことだろうと思います。空をじーっと見ていると、とか、これはなんだろう?と考えてのうえで、とか。

天球冷え真実蛸は無脊椎  関悦史

蛸のアタマを見て、夜空を、世界を、そのように、というのは球体と、認識した、というわけではないでしょうが、天球の冷えと蛸のぐにゃぐにゃは、なんだか感動的に呼応いたします。


掲句は『GANYMEDE』第62号(2014年12月1日)所収「量産型秋の暮」より。


ちなみに蛸は好きです。

外観も。

味も。

寿司のタネで、蛸はかなり上位に入ります。小さい頃は「蛸の炊いたん」がよく食卓に出ていました。いまでも食べたいおかずの上位に入ります。



2014/11/20

■梅と戦艦 利普苑るな句集『舵』の一句

以前、俳句の「取り合わせ」について、《内部知(esoteric knowledge)の最たるもの。これはこうとも、だからどう、とも、誰もうまく説明できないけれど、メンバー(俳人)間では共通認識がふんわりと存在するたぐいの》(:togetter「俳句の作り方 12音+季語?」)と書いたのですが(カッコつけて英語を併記したりして書いたのですが、これは間違っていて、内部でさえアヤシい、つまり共通の認識などないのではないと思ったりしています。

けれども、考えてみれば、内部で了解され、定式が出来上がっているなら、誰かを驚かすことは難しい。了解や定式がないからこそ、異変、突然変異、事件、事故のような語の組み合わせが現れる、それに驚き、快感を味わうのかもしれません。。

海底に巨大戦艦梅白し  利普苑るな『舵』

戦艦と梅の取り合わせに、私は快感しました。

海のものと梅の取り合わせは、金子兜太《梅咲いて庭中に青鮫が来ている》が思い出されもしますが、「巨大戦艦」は大きさ・質感から言って「青鮫」とは別物です。

(梅と海は誤植になりやすい。これは冗談ではなく、事件、事故を引き起こす契機たりうると思っています)

なぜ海底の景から梅の白さへと展開されるのか? その(私にとっての)唐突さは、やはり気持ちがいい。「作者はどこかにいるんでしょうか?」といった作法上の小賢しい論点などおかまいないしに、美しい句。


なお、句集『舵』には、上掲のような乱暴に美しい句が数的に多いわけではありません。

遠浅の海の音聞き冷奴  同

といった清々しい句が多い(この句も「冷奴」が取り合わせの妙とは言えます。けれども乱暴ではない)。

ほか、気ままに何句か。

葉牡丹を並べて父の家居かな  同

竹林のうねりゆたかに燕来ぬ  同

めつむりてより凍鶴となりにけり  同



2014/11/09

■傷あるところより

やかんに水を入れて、火にかける。温度が上がり、やがて、やかんの底に気泡ができる。

その気泡の、最初のひとつぶは、どこにできるのか?

言い換えれば、水は、どこから沸き始めるのか?

答えは、傷のある箇所だそうです。どの本で読んだ話か忘れましたが、とにかく、そういうことらしい。まったいらでつるつるに見えるやかんの底にも、かならず微かな傷がある。そこに最初の泡ができる。

無花果の傷あるところより開く  土肥あき子

『絵空』第9号(2014年10月20日)より。

まだ固い無花果の実の微かな傷を端緒にして、ぱっくり開く。

 ●

さて、やかんの泡の話に戻ります。

泡は傷から。それはわかった。では、傷も凹凸もまったくないやかんで(理論的には、そういう仮定は可能です)、均等に熱を加えていくと(理論的には、そういう仮定は可能です)、泡はどこに出来るのでしょう?

出来ない?

出来なければお湯は沸かない? いや、気泡なしで水温が100℃まで上がるのか? そんなことってあり得るのか?

あるいは、傷(差異)がまったくなくても、〈どこか〉に気泡が出来るのか? その〈どこか〉とはどこなのか? 偶然の〈どこか〉なのか?

ないアタマで、それを考え始めると、もうワケがわかならくて、とても気持ちよく、愉しいのですよ。



2014/11/07

■そのとき心にぶらさげるもの

『儒艮』第9号(2014年11月)より。

旅に出る心に糸瓜ぶらさげて  岡田由季

心に何かをぶらさげる。喩としては、なんだかわかる。というか。、何もぶらさげない心というもののほうが稀有だろうし、想像しにくい。いつも何かをぶらさげているっぽい。

で、糸瓜である、と。旅に出る、と。


なんだか奇妙なものをさげて旅立つんですね。


つまり、こういうことですか。生活のシーンシーン、そのときの心持ちの如何によって、いろいろなものがぶらさがる、と。心には。


2014/11/04

■飛べば小鳥は

白壁やとべば小鳥は空の中  八田木枯