2019/07/31

■なぜひとはこんなにもくらげにこころひかれるのか



冷房にゐて水母めくわが影よ  草間時彦

2019/07/28

■あわれ 『や』第74号より

ゴールデン街のあわれは昼の三の酉  中村十朗

花園神社はゴールデン街から目と鼻の先。夜ではなく昼の、初酉でも二の酉でもなく三の酉。これはもう、まさに「あわれ」。

(…)かく、人に異ならむと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。 紫式部

2019/07/27

【句集をつくる】第19回 再開

もう、自分でも忘れかけていた【句集をつくるというシリーズ。読み返してみると、あんがいおもしろくて、こりゃあこれからつくるかもしれない句集よりも、おもしろいんじゃないの? と、ちょっと自嘲気味に、ますます、新しい句集の完成から遠のくわけですが、なかなか腰が上がらないのは、つまり、現実の制作へと作業を移せないのは、「読む人、読みたい人、いるのかなあ?」という、これは謙遜でもなんでもない疑問。この手の話になると、「いますよ、いますよ」という答えが返ってはくるけれど、そこには気遣いもあるし、そう応えるしかないわけです。

想定読者という話題はすでにしたと思いますが、数人なら、紙やらインクを使う必要もない(実際、ふだん1人なし数人を頭を置いている。ゼロというのはむなしすぎ・かなしすぎなので)。デジタルデータ(例えばPDF)でよさそう。

でもね。リリースのスタイルは、横に置いておきましょう。まずは、まとめるという作業。それが、現在、私にとって、どれくらいおもしろいか。確かめてみるのも悪くないと、思い始めましたよ。

ラヴ&ピース!

2019/07/26

■氷河期のつづき

氷河期がつづく回転ドアのなか  飯島章友

地球史の転倒・混乱。

ところで、ふと、回転ドアの歴史に思いが至ったのですが、ちょっと調べてみると、19世紀末くらいまで遡れるらしい。ともかく古いんですね。ひょっとしたら、20階規模の高層ビルの始まりと同じくらいかもしれません(誰か調べてください)。

ラヴ&ピース!

掲句は『川柳スパイラル』第6号(2019年7月25日)より。


2019/07/25

■ホカホカねえさん

無 ホカホカねえさん以外すべて虚無  川合大祐

いったいぜんたい「ホカホカねえさん」って誰だろう? 何だろう?

どんな人なのか、どんなモノなのか、まったく想像ができず、けれども、なにかただならずファンキーな存在のような気もするし、こちらの精気をぜんぶ奪ってしまうくらい無意味な事象のような気もするし、そのブラックホール然とした超越的バカバカしさこそが虚無であり、それ「以外がすべて虚無」などとのたまうこの句は、さらに虚無的で、ほんと、途方に暮れてしまうほどに素晴らしい一句。

冒頭の「無」のあとの全角1字ぶんの空白が、とてつもなく無。とか言う人がきっといるだろう。私も言っておく。

ラヴ&ピース!

掲句は『川柳スパイラル』第6号(2019年7月25日)より。

2019/07/23

■冒頭集:宛名

 アボガドが書く宛名はいつも中途半端であてにならなかった。
 脳味噌をトロトロのアイスクリームにさせる陽射しのなか、俺は穴ぼこみたいな自分の影と一緒に埃っぽい田舎道をゆらゆら移動していた。時折、立ち止まってアボガドのメモを確認したが、焼いた煉瓦並みに陽炎をおっ立てている田舎道でB1だかB3だかの鉛筆で撫でくった文字を解読するのはとても大変なことだった。
 アボガドは五十過ぎのデブで俺は奴の水の飲みっぷりから糖尿だろうとふんでいた。(…)
平山夢明『メルキオールの惨劇』200年/ハルキ・ホラー文庫

2019/07/21

■俳句な人々・俳句な交遊

某日。実家での所用のため西へ。京都で途中下車して一泊遊ぶ。京都在住の俳人諸氏に感謝。所用を終えての帰り、神戸で散歩。その前の晩の写真を、週刊俳句に。

https://weekly-haiku.blogspot.com/2019/07/639.html




某日。鷲巣正徳さんの句集が出来上がり、発送作業(≫その模様 ピンぼけ御容赦)。

某日。若手俳人2名が来訪。たのしく過ごす。

対談を撮影。「週刊俳句」次号に掲載予定。乞う御期待。

投票へ。

投票率は低そう。どうなるんでしょうね。わが国は。

2019/07/19

■冒頭集:厭だ

「厭だ」
 同僚の深谷が、突然溜め息と聞き違えるかのような声を発した。喘ぎ声である。視線を向ける。カウンターに突っ伏しているので表情までは窺えない。ただ、肩の線といい項の覗き具合といい、まるで倦怠感の塊のように、ずっしりとしていて重苦しい。
京極夏彦「厭な子供」;『厭な小説』2009年/祥伝社

2019/07/17

【お知らせ】7月のくにたち句会

2019年7月28日(日)14:00 JR国立駅改札付近集合

句会場所:ロージナ茶房(予定)

席題10題程度

初参加の方は、メール tenki.saibara@gmail.com電話etcでご一報いただけると幸いです。問い合わせ等も、このメールまで。

2019/07/16

■中階段

透けて見えるので、外のようでいて、中。


撮影場所:神戸市中央区

2019/07/15

■水界園丁をめくる



生駒大祐『水界園丁』は、本好きなら、ぜったいに入手したほうがいいです。そして、ひらきましょう。ページをめくってみましょう。

自然現象のような美しさが、本文ページに、あります。

(どうもわかりにくいな。つまり、雨や雪、光、風といったものが、あるんですよ。物理的に、というか視覚的に)(もっとわかりにくくなった)

(俳句には興味があっても書物には興味がないという人には、ちょっともったいないかも)

ブックデザインは、吉岡秀典。

この本は、ひとつの幸運や幸福以上のものかもしれません。ブックデザイナーにとって、著者・生駒大祐にとって、版元にとって、そして読者にとって。


2019/07/09

■プラネタリウムその他 小川軽舟『朝晩』

「週刊俳句」第637号に、

 ガスの火のあとさき
 小川軽舟句集『朝晩』の一句……西原天気 ≫読む

を書きました。

この句集、ほかにも好きな句があって、例えば、

プラネタリウム急に暮れたる弥生かな  小川軽舟

人工・虚構の日没なので「急」は当たり前なのだけれど、なんだかなまめかしい都市風景。「弥生」がいいのかもしれません。隣席同士が異性でも同性でも親子でも、いずれにしても艶がある。

あと、

汐干狩馬穴が汐に浮きはじむ  同

も大好きな句。満潮が訪れ、汐干狩が終わりに近づく。なつかしく明るく哀しい。


〔過去記事〕
職場という自然 小川軽舟第三句集『呼鈴』

2019/07/08

■躑躅について 『川柳ねじまき』第5号より

『川柳ねじまき』第5号(2019年1月)より。

これからが躑躅やんかというときに  瀧村小奈生

そうそう。これからが△△というときにかぎって、ふだん起こらないようなことが起きたり、とつぜん心変わりしたり、社会変動・天変地異に襲われたり。

セラヴィ、セラヴィ。

ところで掲句の「やんか」に滋味。へなっとリラックスしますね、関西弁は。


〔過去記事〕そんなこんなで
http://sevendays-a-week.blogspot.com/2019/04/blog-post_26.html

2019/07/05

■あかるさ  『豆の木』第23号より

『豆の木』第23号(2019年6月1日)より。

あきらめのあかるさ昼顔の真昼  月野ぽぽな

あきらめきれないでいるときのうじうじから、あきらめてしまえば、ぱっと気分があかるくなる、あるいは視界があかるくひらける。

というと、箴言めくが、実際、箴言に季語をくっつけたような俳句が多いなか、そこをどう逃れるか。五七五の固定的定型からちょっとずらす、例えば掲句のような韻律の組み上げるのも一手の模様。

「昼顔の真昼」の昼のリフレインが、あかるさを増幅させる。



2019/07/03

■鈴の音

生駒大祐氏の句集がもすぐ出るとのことで(≫こちら)、《六月に生まれて鈴をよく拾ふ 生駒大祐》という大好きな句を、いまさらのように思い出しているのですが。

http://sevendays-a-week.blogspot.com/2015/12/blog-post_10.html

「ちりん」ですよ、「ちりん」。

で、ふと立ち寄った本屋さんで買った文庫本、京極夏彦『巷説百物語』。とたんにやみつきになり、シリーズ4巻を夢中で読み、あとは「西」を残すのみ。そのなかでね、

りん。

と鳴ったら、小股潜りの又市の登場というわけで、鈴の音で、2019年夏のふたつの出来事がつながった。






2019/07/02

■獏然とページをめくる 『みしみし』第2号

連句誌『みしみし』第2号は2019年6月刊行。不定期を謳いつつ、創刊号が4月だったから、ずいぶんなペース(いい意味です)。

連衆(歌人、柳人、俳人)の個別作品が読めるのがうれしい。

ぱっと適当にページを開くと、岡村知昭「獏十景」10句が素っ頓狂で愉しめる。

非常用獏のおります雨上がり  知昭

友達に食われし獏よ万緑よ 同

こう言われると、獏にしっかりとした実用があるかのような、食べて美味しいような気になってきます。

ちなみに、10句中に夢は出てきません。かろうじて短夜が一度出現するのみ。夢や眠りはきちんと避けられております。

ラヴ&ピース!


A5判、本文76頁。頒価1,000円。
連絡先≫みしみし舎 https://twitter.com/officemisimisi


2019/07/01

■そのツッコミじゃない 上田信治発通俗論議の傍流的話題

ウラハイに【俳誌拝読】『鷹』2019年7月号を書きました。
http://hw02.blogspot.com/2019/06/20197.html

この号の編集後記は、話題沸騰の上田信治「ふたたび通俗性について」(週刊俳句・第636号)で触れられています。
そういえば、小川は、出たばかりの「鷹」2019/7月号の編集後記で〈子にもらふならば芋煮てくるる嫁〉が「俳句」6月号で神野紗希の批判を受けたことについて、こう書いている。
作者としては、「今どきそんな娘いるわけないだろ」とツッコミを期待したユーモアのつもりだったので、「そうか、やっぱり芋煮てほしいのか」と真に受け取られると当惑する。しかし、政治家の失言の大半も受けを狙って社会的な配慮を忘れた結果ではなかったかと反省も頭をもたげる。社会的な配慮は文学の表現の首を絞めかねない。しかし、文学が人を傷つけることは本意ではない。境界線は時代とともに変わるのだろう。
じつに行き届いたコメントだけれど、やっぱり、ウケを狙っていたんだ、ということが感慨深い。
小川氏の〈注釈〉〈言い訳〉で私が興味深かったのは、《「今どきそんな娘いるわけないだろ」とツッコミを期待した》という部分。

世の中には、その期待どおり、そうツッコんでくれる人もいるだろうけれど、そうじゃなくって、「へえー、今どき息子の配偶者にそんなことを期待する父親がいるんだー」というツッコミも多いはず。これは《「そうか、やっぱり芋煮てほしいのか」と真に受け取》るのとはちょっと違う。「自分の嫁に煮てもらえ」「自分で煮れば?」という〈ツッコミ〉には近いかもしれない。

芋を煮る娘さん、芋をじょうずに煮る若い女性は、「今どき」もいる。たくさんいる。「いるわけない」はずがない。ツッコミどころは、そこじゃないだろう。

って、これ、上田記事のテーマ(ジェンダーと通俗、ジェンダーではなく通俗)とは無関係なようでいて、そうでもない気がしている。



さて、今回問題になってるジェンダーは社会的話題、通俗はより文学的な話題。きっと、後者のほうが手強い。上田信治はその手強いテーマにあえて切り込んでいるわけだけれど、どう手強いかというと、ジェンダー論がなんらかの合意(充分ではなくともなんらかの合意)や共通理解に達する可能性があるのに対して、通俗論は、おそらく話が通じないままに終わる。

通俗は誰もが内に抱えていて(それを表現する・表明するかどうかは別にして)、多くは無自覚である一方、他者の通俗には敏感だったりするので(逆だと平和なのにね)、お互いに会話が通じなかったりする

例えば、「今どきそんな娘いるわけないだろ」とツッコ〉む人と、「今どき息子の配偶者にそんなことを期待する父親がいるんだー!」とあきれる人とが、この話題について話し合うことは難しい。というか、お互い別々の婚姻観、男女観、社会観をもってるんだね、と、違いを確認するにとどまる。

だから、その人がどうなのか、は、さておくのがいい。作品(俳句)に限定したほうがいいですね、最低限。通俗が作品に染み渡っているかどうかを問題にする。

とはいえ、作者のキャラを前面に押し立てて書く人、演出的か素(す)かは別にして、句の一人称=作者という書き方・読み方をする人が多いだけに(ついでにいえば、上田信治さんは、このタイプなんだろうなあ、フェイク俳句うんぬんについての考え方を見るかぎりにおいては…。このくだり、気になる人はググってください)、人と句の峻別は困難を極める。



あとひとつ。上田記事の「野蛮」とか「蛮族」に、心情的に反応する人が多いかもしれないけれど(ある種の罵倒や軽蔑を読み取る反応のしかた)、ちょっと直截でナイーヴすぎると思いますよ。これは、まあ、バーバリアン・キャピタリズムみたいな用法を参考にしつつ、社会科学的に、価値ニュートラルに受け取るのがよいと思っています(信治さんの意図は知らないけどね。いや、もう、露骨に煽りたいのかもしれないけどね)。

ちなみに、「バーバリアン」の語源は、わからない異国語をしゃべる人ってことらしいので、ここでくだんの話題(会話が通じない)につながったりする。

ラヴ&ピース!


上田信治 時評のようなもの5 それは通俗性の問題ではないか?