2013/12/31

■戦後史

唐突ですが、タモリといえば、これです(いまだに私にとっては)。






日本の戦後を振り返りながら、年を越すのもよろしいかと思います。

みなさま、良いお年をお迎えください。

2013/12/30

■句会無事終了

JR国立駅

ぶらぶら

キャットフィッシュ

句会:席題(街、湿布、たっぷり、いきなり…他)

ぶらぶら

選句・合評

おつまみいろいろ、ワイン他いろいろ

蒸し牡蠣

牡蠣鍋

カヨノ氏、乱入

自然薯とごはん

談笑・大騒ぎ

散会

後片付け

あまちゃん音楽会(完全版)

鶴瓶の家族に乾杯(久慈市・小泉今日子)

就寝

憲武画伯+ランちゃん、予防注射のため再び来訪

掃除・片付け:テレビ画面にあまちゃん総集編  ←いまココ


2013/12/29

■インターネット関連で私的2013年回顧

1 「週刊俳句」1号も欠かさず1年間。

当番の一人としてやはりうれしい。


2 ツイッターには過去も未来もない。ただ現在があるのみ。

つまりモニター画面に見えているツイートがすべて。とはいえ、少しは遡ったりするのですが、それをやるとキリがない。たまたま目にした情報の欠片を、そのときの気分で吸収したりしなかったり、反応したりしなかったり。

ツイッターは一覧性や横の広がりという点が弱い。情報が立体化しない。「タイムライン」とはよく言ったものです。単線的に流れていく。しかも雑多なままで。だから 「たまたまのそのとき」と付き合うしかない。情報をぜんぶ取り込もうとするのはムダということがよくわかる。そういうツールです、ツイッターは。

こうした「ただの現在」性を補完するものとして「togetter」という機能もあります(いわゆるトゥギャり)。これはかなり便利なものです。話題とは無関係なツイートが目に飛び込んでくることもなく効率的に、過去の関連ツイートを流れとしてまとめて読める。

私も以前には、たまにトゥギャッたりしていました。けれどもこのところまったくやらなくなった。理由の一つは、ツイッター界隈でも「引用」「転載」に対して神経質な空気が漂い始めたこと。「togetter」に「引用」「転載」されることに抵抗感のある人がいるかもしれない。そう思ったとたん、わざわざトゥギャる気はなくなりました。私の他にもそういう人はいそうです。俳句関連の話題で、「トゥギャリ」をとんと見かけなくなりました。こうして、ツイッターはどんどん単線的に、雑多に、その場かぎりになっていくようです。


3 フェイスブックは、文字どおり「顔」。

たまに、こっちを見ている顔があって、そういうのは、だいたい、怖い。

べつに怖い顔をしているわけではないです。ある一定の意味で、怖い。ページをすぐに閉じる/切り替えることになります。

まだ始めたばかりで、しくみがよくわかっていないのだと思いますが、何かを読むという意味では、フェイスブックほど不向きなツールもないんじゃないでしょうか。つまり、読みたいもの(記事とまで行かない小さな情報も含め)にアクセスしにくい。というか、アクセスという手順自体、あまりない。

不思議なツールです。

きっと文字ではなく、写真が中心、スマホや携帯電話で写真を撮って、フェースブックにアップする、というのが主要なマナーなのだと思います。。 写メをやらない私などは、あまり使い道がないのかもしれません(もっぱらリンクをアップしています。URLコピペ。数秒で済みますし)。



というわけで、インターネットは日進月歩(棒読み)、いろいろと新しい局面が現れますが、最初に戻って「週刊俳句」。

どこかで、週俳はいつまで経ってもオールドスクールで行くのでは?と発言しましたが、実際、スタートしたスタイルでずっと変わらず、なのではないかと思います。

2013/12/27

再掲●くにたち句会(12月)のお知らせ

12月29日(日) 14:00 JR国立駅改札 集合

句会場所 キャットフィッシュ

席題10題程度。

句会後は拙宅で飲食(会費アリ)。忘年会ですな。

時期が時期ゆえ、都合のつかない方も多数かと思いますが。

■本日はホーギー・カーマイケル忌

Hoagy Carmichael(1899年11月22日 – 1981年12月27日)


2013/12/26

■俳句と教科書

週刊俳句に上田信治さんの時評「2013年の角川「俳句」から記事4つ「年鑑」から1つ」。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/12/852-2013-4-1.html

この後半、俳人協会の「俳句の取り上げ方に対する要請(俳句の季語および五七五定形の厳守)」(1999年)に触れた座談会のくだりで、『Iv Σitu(インサイトゥー)』第2号(2013年2月)でこの記事を読んだ当時に感じた「ひっかかり」を思い出したのでした。

(話はそれますが、「インサイトゥー」という誌名を聞くたびに、狩野英孝の「スタッフゥー、スタッフゥー」の言い方をしたくなるのは私だけ?)

座談会の途中で俳人協会側(藺草慶子氏)の説明を聞いたその部分は、信治さんのまとめを使わせていただきましょう。
1 要望書を文部省に送ったという投書が朝日新聞の「声」欄に送られたそうだが、それは間違い。文部省には 送っていない。

2 ある会社で非常に偏った教科書が作成されつつあるという話が伝わってきた(どういうものかは確認していない)。そのことから、今後の子供たちへの影響力を危惧し、小学校と中学校の教科書会社に要請書を送った。

3 じっさいに送った要請書の文言を今回確認するために、当時の委員長、西嶋あさ子さんに依頼したが、現時点では見つからなかった。
1と2はつまり、要望書の宛先が「文部省」ではなく「教科書会社」だったということ。政治家や関係省庁に団体・組織の利益のために働きかけるのを「ロビイング」と呼び、企業に対する場合は単に「圧力」と呼びます(「圧力団体」という語は古くから浸透しています)。

圧力という行為が(一般に)正当か不当かはさておき上にある説明は、〈ロビイングではなかった、関係企業に対する「要望」だったというもの。これで「ああ、なんだ、そういうことか」と合点がいったり解決した気になるのはちょっと奇妙な話です。行政・立法向けならダメで、私企業向けならオーケーということでもないでしょう。

「働きかけ」自体が問題なわけです。そこで、その「働きかけ」の内容ですが、3にあるように書面そのものは出てきませんから、細かいことはわからない。

(探したけれど見つからないってのは、一般的にはちょっととんでもない話ですが、時間も経っているし、これは本当なんでしょう。それに、わざわざ来てくれた藺草さんへの礼儀もありますから、座談会のその場でそれ以上追及することもない)

教科書会社は保管しているかもしれませんよ。教科書会社にはこの手の「要望」「要請」は山のように届くと想像しますが、それだからこそきちんと管理・保管している会社がありそうです。本当に現物が見たいなら、そちらに当たってみるのも一手です)

書面がない以上、どのような言い方だったか、文言が強硬かそうでないかはわかりません。座談会も上田信治さんも「書面」にある程度関心を向けているようですが、そこにはあまりこだわらなくていいのではないかという考え方もあります。例えば、やわらかい言い方、婉曲な要望だったら、「まあ、いいんじゃないか」、きつい言い方だったら「ひどい」ということにはならないでしょう。

要旨が問題であって、要旨はすでに判明している(類推できる材料は揃っている)。要旨は、こうです。〈「有季定型」以外の俳句(のようなもの)を多く取り上げた、偏った国語教科書を出そうとしている会社があると聞いた。それはやめていただきたい〉。これでおおむね間違っていないと思います。そこで「こうした要望ってどうなの?」ということが議論されているわけで、書面の「現物」は、あるに越したことはありませんが、なくてもできる議論です(すでに各所で議論されています)。

「偏った教科書」について座談会の藺草さんは、「私は見たわけではないのでわかりませんが、例えば、無季俳句しか取り上げられていない、あるいは(…略…)全部が 子どもの作品であるとか」と説明している(『インサイトゥー』前掲 p52)。こう聞くと、俳人協会でなくても、「この教科書、大丈夫かいな?」と心配になります。気持ちとして理解できます。

ただ、一社・一教科書くらいはそれでもいいのではないかと鷹揚に構えることもできそうなものです。教科書ってたくさんあるんでしょう? その中の一つです。

けれどもそうは行かない。上田信治さんが引いている岡田日郎氏(俳人協会副会長・当時)の「俳人協会賞や新人賞選考のとき、句集に一句でも無季があったら選考対象から外す。一句ぐらいはいいだろうと言ったら崩れていく。「清規」の言葉を具体的にいえば、そういうこと」に倣えば、一社でも許せば「崩れていく」ということでしょう。

こういうのって、まさに統治者・為政者・ 管理者っぽい。反抗分子は一匹も許さない。殲滅するという…。そのへんが反感を買うのかもしれません。

閑話休題。「偏った教科書」を心配するなら、その一社に向けて要望書を出せば済む話でもあります。そうではなく関係各社に向けたのは、一社が特定できなかったのか(噂レベルだったので)、一社だけに向けると「圧力」の色合いが増すという配慮なのか、そこは想像の域を出ません。いずれにせよ、ちょっと時間が経ちすぎている(1999年の話です)。

ただ、かなり根深い問題を含むもので、「俳句」と「俳句のようなもの」(正統や覇権をめぐる争いという様相も呈している)、偏りとは何をもって偏りとするか、さらには教科書の編集権という問題にまで広がります。私にはそのあたりを語る準備も能力もありませんので、ちょっと方向を換えましょう。

俳人には学校の先生が多いと聞きます。そうした教育の現場を知っている方々は、こうしたたぐいの要望、すなわち教科書に対して特定の団体が内容はどうであれ「要望」を伝えるということを、どのように考えていらっしゃるのでしょうか。

ざっくり言えば、外部からの(大袈裟に言えば)教科書を通した介入について、慎重であるべきとか、いや逆にどんどん要望を出すべきだとか。そのへんのお考えを聞いてみたいところです。

 ●

しかし、それにしても、まあ、この一連の出来事と議論につきまとう「古くからお馴染みの」感。これには吃驚もし、気持ちが萎えもします。

「正統」(カギ括弧付きです。為念)は自分たちであるとし、正統たる旧体制を守ろうとする勢力・党派(いわゆるエスタブリッシュメント)が(彼らにとっての)「逸脱」「異端」に対して攻撃的に行使する排他性、閉鎖性、教条主義、(信治さんも指摘の)フォビア。これとそっくりな事象を、私たちは何度も何度も見聞きしてきたわけで、歴史と政治のステレオタイプにずっぽりハマりすぎだよ、おとっつぁん、という感じです。

というわけで、私自身は、あまり関心はないのですよ。教育とか教科書とか正統の俳句とか。関心がないわりに長く書いてしまったけどね。



〔参考:『インサイトゥ』側から、橋本直さん @musashinohaoto のツイート〕





2013/12/25

■芋づる式にまとめて観た:中村義洋監督から多部未華子へ

発端は、堺雅人でした。銀行員や弁護士のTVシリーズで人気沸騰(前者は最終回だけ観ました。後者はなんだかんだで全部観た。見逃した回は、録画している人ん家に泊まったときに観た)。その堺雅人が『ゴールデンスランバー』という映画に出ていることを知り、借りて観たわけですが。

おもしろかった。ちょっと甘酸っぱい青春モノ。

原作は、伊坂幸太郎の同名小説(本屋大賞受賞作)だそうです。伊坂幸太郎という作家は名前は知っていましたが、読んだことはありません。「本屋大賞」はあまり信用していません(自分の指標にはしないという意味)。

伊坂幸太郎原作・中村義洋監督というコンビで映画が何本もあることを知り、借りて観てみることにしました(以下、観た順です)。

『ゴールデンスランバー』(2009年) 堺雅人主演

『アヒルと鴨のコインロッカー(2006年) 濱田岳、瑛太

『フィッシュストーリー』(2009年) 伊藤淳史ほか

『ポテチ』(2012年) 濱田岳主演


結論として、どれもおもしろかった。以下、箇条書きに。

1 『ポテチ』は低予算が惜しまれる。プロ野球のシーンは低予算では無理ですね。

2 伊坂幸太郎の小説は、映画から類推するに、わりあい上質な青春小説(ミステリー要素を含む)。十代のときこれらを読んだ/読んでいる人たちは、私よりだいぶ若い世代でしょう。今の言い方なら「エンタメ小説」? こういうのはたくさんあるのは楽しい読書生活だと思う(年寄りとして他人事のように言う)

3  浜田岳という俳優、いいですね。ほとんど観たことがなかった。

4  多部未華子。『フィッシュストーリー』に出ていたのですが、んんん、こんなことをいまさら言うのは恥ずかしいのですが、「も の す ご く い い」。


というわけで、 多部未華子が出ている映画を借りて観ることに。

『ルート225』(中村義洋監督/2005年) 藤野千夜の同名小説が原作

『夜のピクニック』(長澤雅彦監督/2006年) 恩田陸の同名小説(本屋大賞)が原作


結論。よかった。(いわゆる小並感)

多部未華子が若いうちに100本くらい映画を撮っておけばよかったのに!(むちゃくちゃを言う)


ところで、どれも小説が原作なんですね。上に挙げた6本すべて。丹念にストーリーが組み立てられたものを映画にする(映像化する)というのは、手堅いのかもしれませんが、映画側から発生する虚構にも期待したいところ。


なお、多部未華子について書き始めたら、すごく恥ずかしいことになるので、「いい」としか書かないでおくことにします。(もうじゅうぶんに恥ずかしい)


■本日はジェームズ・ブラウン忌

James Brown(1933年5月3日 - 2006年12月25日)

若い!(↓)


2013/12/24

■リニューアル

『麦』という俳句雑誌の表紙が新しくなりました。



リニューアル版のロゴタイプ(麦の字) は好みではないですが、イメージ一新。違う雑誌みたいになりました。表紙は大事です。

■俳句でいちばん大事なこと



悲しいって、よくないですよね。追い詰められるのはよけいに。


じっさいのところ、

結社や句会や季語や一物仕立てや二物衝撃や切れ字や句集や総合誌や無季や多行や自由律や芭蕉や新興俳句や前衛や伝統や写生やなんやらかんやら

すべて、どうでもいい



じゃあ、何がどうでもよくないか、俳句で何が大事かというと、

  野暮じゃないこと

です。

人それぞれでしょうけれど。

2013/12/23

■イベントとしての選句

『里』誌の「ハイクラブ」(佐藤文香の選句欄)が、この12月号で終わるそうです。

若い人が(結社主宰のような)「選句」を担当するということで、テストケースの意味合いもあったと思います。どんな結果をもたらしたか。この手のことはいつでも明示的ではなく、私などにはわかりません。ただ、この種の選句(という場、関係?)にとって1年間というのはやや短すぎ、少なくとも2年から5年のスパンが必要のような気もします(かたちを換えて続くそうですが)。

当欄(『里』2013年12月号)より、気ままに。

  パート2でも全力疾走のいなご  福田若之

いなごが走るのか?という質問は野暮なのだろう。

  行く秋のヒエログリフに鳥整列  石原ユキオ

  心臓や天体望遠鏡は冷ゆ  喪字男。
 

2013/12/20

■積み残しはないか?

週刊俳句も今年の発刊を残すところ2号となりました。

私自身は12月22日号と29日号向けに年末っぽい記事をすでに書いている。

一方、ウラハイ。こちらは、相子智恵さんの「月曜日の一句」、関悦史さんの「水曜日の一句」、樋口由紀子さんの「金曜日の川柳」と3本柱があって、そのあいだを、たまに暦に絡めたりして埋めていく。年末年始の留守のあいだの自動更新記事を溜めておく(一種年末進行ですな)。

ひとつ気にかかるのは、2009年から3年連続でやっていた「日本一早い回顧記事」。

週刊俳句2010年回顧(2009年12月31日)

週刊俳句2011年回顧(2010年12月30日)

週刊俳句2012年回顧(2011年12月29日)

つまりは「来年予測」でありまして、去年、ナシだったのは、ひとえにネタが切れたから。これを今年やるかどうか。バカ記事は大事よ、という内なる声が聞こえてくるが、ネタはあるのか? 悩ましい。


週刊俳句、ウラハイ、それからこのブログと、書いておきたかったものをぜんぶ書いたかというと、ぜんぜんそんなことはなくて(怠慢、オトナの事情等、理由はいろいろ)、積み残しは、もちろん、ずんぶんとあるですよ。セラヴィ。

2013/12/19

■はがきハイク:第8号

所属団体は3人以上だとNGな体質につき、現在、「はがきハイク」所属です。


といった戯言はさておき、第8号がぼちぼち届いているかと思います。

第7号は今年5月でしたので、7カ月ぶりです。

お送りしたくても住所がわからずお送りできていないというケースも。

「なんだ、それ? 見てやるから送れ」という方は、tenki.saibara@gmail.com まで送付先をお知らせください。


なお、【最近気になる人】は岡本夏生にすればよかった、と、ちょっと後悔(≫参考画像)。


創刊号は2010年7月。3年半で8号、ということは1年で2号少し。当初は年4回くらいがアタマにあったが、まあ、こんなペースかな、と。


2013/12/17

■本日はマルグリット・ユルスナル忌

本日はマルグリット・ユルスナル忌。

Marguerite Yourcenar 1903年6月8日 - 1987年12月17日

唯一の栄誉は役に立たないことだ。私を好きなものにしてごらんなさい、映写幕だろうと、良導体の金属だろうと。
(ユルスナル『火』p44 森開社 1974年 多田智満子訳)


2013/12/16

■訃報:ピーター・オトゥール

Peter O'Toole (1932年8月2日 - 2013年12月14日)

目が美しくキュート、というのが私のイメージ。



太田うさぎ「泥棒 ピーターとオードリー」20句
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2009/10/blog-post_18.html

2013/12/13

■酒3句 『なんぢや』第23号より

『なんぢや』第23号(2013年11月27日)より。

  どう酒を呑んでも旨し秋の暮  土岐光一

  酒飲んで夢のなかなる夜学かな  井関雅吉

  酔漢の声遠ざかる夜学かな  鈴木不意

同じ日、同じ場所で詠まれた3句なのかもしれません。

2013/12/11

■うがい・ユートピア・巻き尺

十二月某日。

洗面所のうがい用のコップにはいつもなみなみと水が。「どうして?」と妻に訊くと、「ピーちゃん(猫)がいつでも好きなときに水を飲めるように」だと(他にも何箇所か水飲み場がある)。私とピーがひとつコップを兼用していたことに、ちょっと驚いた。これからは、うがいのあと、水を張っておくようにしよう。


十二月某日。

談志曰く、「落語とは人間の業(ごう)の肯定」。宮藤官九郎の書くドラマもまた「肯定」が基礎にあって、クドカンと落語とは相性がいいようだ。

というのは、「タイガー&ドラゴン」全12話を無事見終えたのだった。

ある種、ユートピア。

すべての登場人物がのっけから、あるいは途中で、あるいは最終的に「良きもの」「善き人」としてストーリーに収まる。その意味でユートピア。

その際、彼らが大きく変わるのではない。いわゆる成長物語の要素は少ない。失敗と挫折がちりばめられている。それでもなお、受け入れられる。受容と肯定によって善となる。これは素晴らしいことだなあ。


十二月某日。

洲崎岬の「風の抄」という旅館の朝ごはん、晩ごはん、「セントシュバイン」という食べ物屋さんのピザとソーセージ。どれも美味。南房総、ナイス。


十二月某日。

週刊俳句・第346号に「コマ落としのように 柿本多映第一句集『夢谷』の一句」。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8.html


十二月某日。

部屋を片付けまくる。


2013/12/10

■汽車と狐

狐啼く笥の環に手をかけて  八田木枯

和簞笥の把手に長い汽笛あり  樋口由紀子


「汽笛」という語から船の汽笛か汽車の汽笛かを考える。この場合、汽車と解したい。

八田木枯『鏡騒』(ふらんす堂/2010年)
樋口由紀子『容顔』(詩遊社/1999年)

2013/12/09

■静から動へ

黒揚羽がずっととまっている鏡  樋口由紀子

黒揚羽ゆき過ぎしかば鏡騒  八田木枯


樋口由紀子『容顔』(詩遊社/1999年)
八田木枯『鏡騒』(ふらんす堂/2010年)

2013/12/05

■珠玉のバカ 榊陽子「鯖缶のバカ」10句

「バカバカしい」と、俳句に向かって言うとき、それは褒め言葉であります。

それは私だけかもしれませんが、私が言った場合、そうなのであって、他意はない。ですから、誤解のないように。

バカバカしい句は、生易しくはありません。例えば、よく言われるように、バカにはバカはできない。

そんな折、『川柳カード』第4号(2013年11月25日)、榊陽子「鯖缶のバカ」10句。珠玉のバカとでもいうべきナイスにバカバカしい句が見つかります。タイトルに「バカ」と入れてしまうと、おのずとハードルが上がるわけですし、バカと題された句群からバカ句を見つけてもねえ、という部分はあるのですが、10句すべて「鯖」あるいは「鯖缶」入りで、ひつこくバカをやろう、という気概が見える、なかなかの作品です。

匍匐する秋の鯖缶兵として   榊陽子

ひとつ選ぶとしたら、この句でしょうか。

あるいは、

鯖缶に夜の帳がおりません  同

も、じわじわ来るタイプ。

 

俳句には、すばらしくバカバカしい句(単にバカバカしい句ではなく)が稀少なのですが、かといって、川柳にたくさんあるかというと、管見の範囲では、そう多くないように思います。

川柳、俳句、分野にかかわらず、「すばらしくバカバカしい句」がもっともっと増えてほしいですね。


なお、「すばらしくバカバカしい句」という言い方はわかりにくいかもしれませんので、もうすこし説明すると、「貧相な知性」に縛られていない句。それは、言ってしまえば、きわめて知的に処理された句、ということになりますでしょうか。

「バカ」という語に、ひっかかり、というか、抵抗感のある人は、ノンセンス(ナンセンス)に近いもの、と、ざっくり捉えていただいてもいいと思います。

2013/12/04

■本日はフランク・ザッパ忌

ザッパ22歳。若い!




The Best Of Frank Zappa (Full Album) 

2013/12/02

■まとめて観る:吉田大八監督

桐島、部活やめるってよ(2012年)がえらく良かったので、吉田大八監督の他の作品を観てみよう、ということで、

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ(2007年)

クヒオ大佐(2009年)

パーマネント野ばら(2010年)

と3本たてつづけに、DVDを借りて、観ました。

どれもおもしろい。

「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」は、主演の佐藤江梨子をはじめ、女優陣が素晴らしい。「パーマネント野ばら」は、やはり女優陣がなかなか良いのです。「クヒオ大佐」は、主演の堺雅人がいい(テレビドラマを含め、登場人物をきちんと演じ分けられるのですね。上手)。

どれも元になる本(クヒオはノンフィクション)があり、物語の骨格がしっかりしている感じです。

で、 『パーマネント野ばら』(西原理恵子)、映画ではすんなり行くであろうラストの処理は、マンガだとどうなのだろう?と心配しつつ読んでみたのですが、あらま、きちんと出来ている。

クヒオ大佐という情けない結婚詐欺の話は、小沢信男『犯罪紳士録』で読んだことがあるような気がして確かめてみると、また別の詐欺師でした。でも、似ている。「こんな胡散臭いのに、なぜに引っかかる?」と呆れるところも共通。でも、詐欺被害、とくに結婚詐欺被害って、そんなものなのでしょうね。恋愛沙汰で利口にふるまえる人は、男女かかわらず、いない。みんなバカになる。バカになるから、いいんですよね。

あ、それと、クヒオも『犯罪紳士録』の詐欺師も、「アメリカ」が鍵になっているところも共通。

 

4作品の気に入った順をつける必要もないのだけれど、つけると、桐島=腑抜け>野ばら=クヒオ、というような感じか。

話の好みでいえば「腑抜け」が好きで、感心するのは「桐島」。「野ばら」「クヒオ」もずいぶんおもしろい、という感じで、どれもオススメ。


なお、現在は、『腑抜けども~』も、原作本を読んでみる気になっているところです。