2023/12/30

■川柳と俳句@自分事情

年末らしい話題、というわけではないのだけれど、このあいだ、ふと思ったことを。

私は、わりあい長いこと、俳句の近くに身を置いているのだけれど、短詩という同じジャンルにある川柳も、たまに読む。読むだけでなく、それについて書いたりする。ウラハイの「金曜日の川柳」で樋口由紀子さんの公休日(第一金曜日)に代打したり、なぜか依頼があって川柳作家・八上桐子さんの作品について川柳雑誌に寄稿したり。

川柳について書く。俳句について書く。頻度はちがってもどちらもやる。でも、このふたつには決定的なちがいがある。そのことに、このあいだ、ふと思い当たったのだ。

それはつまり、川柳をつくるノウハウについて、私は、これっぽちも持ち合わせていないという点。

俳句については、程度や質は置くとして、なんらかのノウハウを知っている。理解している。否、信じるところがあるという言い方が、いちばんしっくりくる。ところが、川柳については、まるっきり。

「入門書を読んでみれば?」「川柳教室に通えば?」といった声があるかもしれないが、いや、川柳のノウハウを学びたいと言ってるんじゃないんですよ。俳句と川柳における、自分の中の決定的な違いを、いまさらのように気づいたという雑談? 自分以外、関心がないであろう閑話(ひまばなし)。

でもね、川柳について書くとき、このノウハウ皆無状態は、良い面もあると思っている。確信じゃないけど。

だって、俳句について書くとき・語るとき、ときとして作句ノウハウが邪魔になったりする。俳句について書くこと・語ることは、評価や審査じゃないので。評価や選句は句会でやればすむことでね。

そんなこんなで、川柳をどうつくればいいのか、皆目わからない状態のまま、ひとさまの川柳作品を快楽しつづけるつもりなので。


では、良いお年を!

年末年始、私は、うれいしいことに労働に勤しみます。正月をだらっと過ごすのは好きではないので(ふだんだらっと過ごすのは大好き)、正直、「うれしいことに」なのです。

2023/12/25

■赤と緑

24日は句会。

途中、ぴんぽん、と鳴って、ドアをあけると、お向かいさんが庭で摘んだ花と葉っぱ・クリスマス仕様(写真・上)。

句会後は、パエリアその他。




■週俳の【句集を読む】とか冬菜とか

週刊俳句・第870号で、【句集を読む】を6本、書いております。
https://weekly-haiku.blogspot.com/2023/12/87020231224.html

溜まってしまった宿題の一部をなんとか年内に、というかんじです。

あ、そうそう。この句に触れるのを忘れていました。

じんわりと温む背中や冬菜畑  半澤登喜惠

これ、畑仕事の実感。

2023/12/23

■泣茸 『閏』第18号より

泣茸も在るべし笑茸在れば  守屋明俊

『閏』第18号(2023年12月1日)より。

《在るべし》は、推量(在るんだろうなあ)か命令(在れよ)か、迷うところ。

ふたつを混ぜて(そんなこと、許されるのかどうか知らないが)、「在るんだよな」と解したいところ。

泣茸も在るんだよな? 笑茸があるんだから。

ところで、ワライタケの Wikipedia には「(…)採取したキノコを汁に入れて食べたところ、妻が裸で踊るやら、三味線を弾きだしたやら」など、ファンキーな解説。

掲句は、実在のワライタケから、(おそらく)実在はしない泣茸に思いを馳せた軽妙な句と読めるいっぽう、しんみりと、つまり、泣きたいことがあるのに泣けない状況を詠んだとも読め、ここもまた迷うところ。きっと、違うときに読めば、印象が変わりそう。



2023/12/19

■せめて栞になる大きさ 『牧』第16号の一句

長き夜の本をこぼれし正誤表  仲寒蟬

正誤表の紙片はとても小さい。ないに越したことはないのだが、付さざるを得ない、といった発行者/著者の心持ちを体現するかのように、とても小さく、意匠もない。

だから、ページを開くとき、こぼれてしまうのだが(たいていは見返しあたりに挾んである)、もうすこし大きければ、栞代わりになるのに、と思ったりする。

とはいえ、むこうからしたら、いつもいつも見られるのはかなわない、といったところだろう。

「長き夜」の書物関係への配合・斡旋は安定的で手堅すぎるようにも思うが、そこはそれ、こぼれて落ちた場所は、夜の底なのだからして、焦点は定まる。

掲句は『牧』第16号(2023年12月1日)より。

2023/12/09

【句集をつくる】番外編 奇妙な連作

 

『みしみし』第9号(2021年夏至)掲載。

人名短歌との組み合わせは、2015年にもやっている。このふたつは、手を加えて掲載の予定。

へんてこな部分、奇妙な箇所がたくさんある句集にしたい。

2023/12/07

【句集をつくる】番外編 連作×n




『みしみし』第4号(2020年節分)掲載の「眼科」10句。3年半前。もっと前のような気もする。

こんど作る句集は、連作の集合。これはだいぶ前に決めた。

上のような10句ひとかたまりが単位になるが、この「眼科」は、連作っぽさが希薄なので(また、既存をそのままでは、句集を編む愉しさが半減なので)、ばらして使うか、何句か入れ替えるかする。

2023/12/05

【句集をつくる】第28回 とりあえず編む

前回・第27回から1年半近くが過ぎちゃったけど、これ、第28回。

ちょっと整理してみようと思います(いまさら? こんなにひさしぶりなのに?)

句集をつくる/出すメリット(言い換えればモチベーション)。

1 編むのが愉しい。これに尽きる。前回(12年以上前に『けむり』という句集を出してるのです)、作っているあいだは愉しく、出たら、そうでもない(もちろん、いろいろな方からの反響はうれしかったのですが、きっと社交辞令もあるんだろう、と)。

句集を出すまでの障壁。

1 費用。これは小さくはないけれど、まあ、どうにかならないわけではない(家族会議。きっと数秒か数分で終わる)。

2 誰が読みたい?

これが大きい。

通常、句集は、紙の本になって、「謹呈」として知人に送ったり、若干は書店やamazonで捌けたりするのですが、「読みたい人」の数が、まったく見当がつかない。

ゼロではない気がするが、一桁か、あるいはもう少したくさんか。まちがっても三桁には行かないだろうから、紙の本(最低でも数百部)ではムダが多い(その時点で、私もあちらも互いに知らない未知どうしの潜在的読者はいるだろうが)。


で、ちょっと考えて、配本については棚に上げておいて、「とりあえず作る」という作業を始めてみようか、という結論に達しました。

なお、出来上がってから、紙にはせず、希望する人にPDFを送る、ということでもいいしね。それなら、費用はほとんどかからず、「希望しないのに手元に届けられる」人を生み出すこともない。

ちょっとだけ、考えが前進したので、音楽でも聞きましょう。

2023/12/01

■芝へ 稲畑汀子俳句集成読書会

「なんでまた、この私に?」という依頼(俳句関係)がたまにあって、それが、このところ続いております。「稲畑汀子俳句集成読書会」イベントへの参加もそのひとつ。
12/3(日)に芝までで出かけてきます。配信による視聴(無料)があるみたいです(ご案内へのリンクはツイートの下のほう)。