2012/12/27

今年一年、週俳で仕事したっけなあ、と

週刊俳句は今年中に297号を数え、来年1月には第300号を迎えます。1号も落ちずに続いてきたことはエラいことです。

今年を振り返ると、当番の一人として、いろいろな人に記事を書いてもらえたという意味で、まずまず仕事をした感じですが、自分自身はあまり書いていないです。

句集評などをポツポツ書いたほかは、ウラハイの「コモエスタ三鬼」もずいぶん長いこと書いていないし、「真説温泉あんま芸者」シリーズは《第9回 俳句のなかの「私」》のみ(《第10回 引用のマナー 法や規則の以前に》 は昔の記事の転載)。

来年は、もう少し書きたい所存であります。

「自然」

「ルサンチマン」

「コンテクスト」

このへんを「真説温泉あんま芸者」シリーズの記事企画として、いま並べておけば、気力が出るかもしれませんので、挙げておきます。

「自然」は、橋本直さんの週俳での連載(転載)、《俳句自然 子規への遡行》が参考になる。

「ルサンチマン」は、どうもみなさん、ちょっと違う意味でお使いになっているようですね、という話。

「コンテクスト」はすでにしばしば言及しているけれど、これって大事よ、という話。

…になるかなあ、と。


まあ、のんびり行きましょう。

週刊俳句は来年も、それ以降も続くでしょうから。

2012/12/26

美しい日本語 vs 美しくない外国語

『俳句界』2013年1月号をめくっていたら、こんなものが。
日根野 英語、ドイツ語など西洋の言語と比べて、日本語は美しいと言いますか心地よいですね。

八木 それは音楽アクセントだからです。西欧の言語の大部分は強弱アクセント、日本語やフランス語は音楽アクセントです。ドイツ人と話していると叱られているみたいです。
これ、「美しい日本語」という特集のなかの「美しき日本語 音声表現考察対談 八木健(俳人・元NHKアナウンサー)×日根野聖子(俳人)」の冒頭。

「美しさ」について語る言説が「醜悪」となる例はめずらしくないけれど、のっけからこれだから堪らないです。

何語が美しいとか、何語が美しくないとか、あるいは「西欧の言語の大部分」と言っておきながら「フランス語は」というシッチャカメッチャカに始まり、「このお二人、何をアホウなことをおっしゃっているのでしょうか?」つうような対話が以降も続きます。たった3ページで終わっているのは、対談させてみたものの、さっぱり使えなかったという編集上の事情と拝察いたしました。

「美しい日本語」とか「美しい日本」とかという切り口からは、ロクなものが出てこないということですね。


「ことば」は美しいかもしれないです。美しい瞬間があるかもしれません。その「美しさ」とは何だろう? その「瞬間」はどのように訪れるのだろう? と、ドイツ人と会話したことも叱られたこともない私、「西欧の言語」を知らない私、それどころか日本語もあまり知らない私は、貧弱なアタマを絞って、ことばの美しさについて、誠実に考えていこうと思いましたですよ。

2012/12/25

某日日記 至福その他

十二月某日

週刊俳句・第296号に「近恵 ひとり落選〔×4〕展」、今年1年、落選した4作品、計120句を一挙掲載。

そのうち自分も参加したことがあって親しみのある「豆の木賞」落選作品「まばたき」20句をまず読む(豆の木賞は互選。1人6点持ちで3作品以下に点を割り振る)。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/12/4_5879.html

えっ? これ、いいじゃないですか。豆の木賞を受賞しなかったんですね。

出だしの4句がいいし、全体に、いい。ポニーテールの句と人形の句と稔り田の句以外はぜんぶ、悪くない(褒め言葉です。ちょっと上から目線になっちゃってますが、そこは気にせず)。《膨らんだ桔梗朝を待っている》は「きちこう」と読ませるから、こうなるんでしょうけれど、「ききょう」なら、いろいろと改稿が進みそうです。あとは「膨らんだ」の「だ」はどうなの?とか、いろいろ。

落選の理由を考えると、ご本人が自覚されているだろうと思いますが、コレっていう一句がない感じでしょうか。それにしても、私にはじゅうぶんに愉しい20句でした。

  虫の夜の電柱ことごとく斜め   近恵

来年の「ひとり落選展」は、ぜひ120句超えを、と。


十二月某日

山田露結句集『ホームスウィートホーム』の附録「裏悪水14句」で解説を書かせていただいた、その肩書が「ウラハイ=裏「週刊俳句」運営管理人」とあるのを見て、「とうとう週刊俳句をクビになったのか?」との問い合わせが…。「とうとう」は余計ですよ、と答える。


十二月某日

くにたち句会。いつも利用させてもらっているキャットフィッシュが「はがきゑ展」ということで、急遽、句会場所をロージナ茶房に変更。

句会後は、角上魚類で買ってきたお刺身やら博多華味鳥からいわゆる「お取り寄せ」(ぷっw)の水炊きやら、果ては白いご飯に柚子ちりめんをかけたのやら、いろいろ悪魔のように食す、ワインやら日本酒を飲す。

句会後は例によっていろいろな話題に。「××の犬か!」という言い回しが流行の兆し。来年は「俳壇の犬」「結社の犬」「××誌の犬」という呼称を、当該の俳人に積極的に用いたい所存。


十二月某日

中野のルノアールで年に4回の句会に。河童や尻子玉といった句がどっと出てくる、ちょっと変わった句会。

十二月某日

スチューベンという青森産の素晴らしく甘い葡萄をいただく。至福。



2012/12/24

八田木枯少年期句集

『八田木枯少年期句集』が発刊されました。14歳から24歳までの句作、約1200句を収録。

ご興味のある方に差し上げます。tenki.saibara@gmail.comまでご連絡ください。

なお、手許に残部がなくなるまでご希望を受け付けています。



2012年12月25日 10:22 の コメント欄から
 
残部ゼロとなりました。

編集委員には、寺澤一雄、森宮保子、村井康司の三氏の名があります。御希望の方はそちらに問い合わせてみてください。



削除

2012/12/19

七七が付いてしまう俳句

自分の俳句に七七を付けられるのを嫌がる、あるいは怒る人もいるので、そんなに気軽に七七を付けちゃあいけないのですが、でも付けちゃう、という話題です。こういうのは最初に断っておくのがいい。




なるほど、万能でもない、と。

いま話題の『俳諧曾我』がらみで、こういうのはどうでしょうか。

  麿、変? 死して屍拾うものなし

前半は高山れおな『荒東雜詩』より。

 ●

七七が付いてしまう句はダメな句、というのも昔からよく言われるようです。以前にも話題にしましたが、ダメ句判定機として使用される七七は、「昼のおかずにコロッケを買う」とか「それにつけても金の欲しさよ」。

でも、これって、どうなんでしょう。七七を付けてうまくハマるようならダメ、そうじゃなければダメじゃない句、というのは、ある種、俳句への幻想のような気がします。つまり、どんな句にも、付けようと思えば付いてしまう。

試しに……と考えているうちに、「昼のおかずにコロッケを買う」が素晴らしい感じで付いてしまう句群を見つけました。

鴇田智哉さんが「あるきだす言葉たち」という新聞の俳句コーナーに発表した作品「丘にゐた」を眺めていると、どの句も、コロッケと相性がいいような気がしてきたのです。

 ひとかげと九月の丘で入れかはる昼のおかずにコロッケを買ふ

 灯台になりたい秋は目をつむり昼のおかずにコロッケを買ふ
 
 丘にゐたときとは違ふいわし雲昼のおかずにコロッケを買ふ

元の俳句とはまた違う興趣が湧くような気がしてなりません。

七七が付く句はダメというのは間違いで、実は、七七が付かない句はダメ、ということではないのか。

ちがうか。

鴇田智哉さんが、七七を付けられると怒る人でないことを祈ります。

2012/12/17

【再】くにたち句会〔12月〕のお知らせ

前にちょっとお伝えしましたが、くにたち句会のお知らせを、あらためて。

2012年12月23日(日)14:00 JR国立駅南口集合
句会場所:キャットフィッシュ(予定)

10題程度の席題。

よろしければ句会後の飲食もご一緒に(会費アリ)

はじめての方もひさしぶりの方も御常連さまも、よろしくどうぞ。

2012/12/12

わが家

「増殖する俳句歳時記」のウェブマガジン「ZouX」の第308号(2012年12月8日号)に
「西一丁目」8句を掲載していただいております。










2012/12/08

「つづきもの」の愉しみ

(歌集の話題は小早川忠義『シンデレラボーイなんかじゃない』以来です)

田中槐『サンボリ酢ム』(2009年・砂子屋書房)という歌集は、落掌する前から書名が気になっていました。

酢?

この部分もそうなのですが、象徴主義というもの、自分が俳句を齧るようになってから、気になるテーマではあったので。

その気になるというのは、枇杷や柿の実ではなく、種のようなものとして、なわけですが、はじめに言っておくと、この枇杷の種としての「サンボリスム」への関心が、この歌集によって、なにか解決とか進展を見たのではありません。

で、この本を読んで、ひとことでいえば、とてもおもしろかった。

歌が集まって歌集、というのとはちょっと違います。歌が集まった「連作」が集まった本。だから「歌集」というより「連作集」です。

帯文に、
連作ごとに「私」が再起動する、短篇集のような歌集だ。(斉藤斎藤)
とあります。「再起動」というのが大事なところのようで、そういえば、連作ごとにちょっと感触の異なる語り手が現れる感じです。

実際、連作ひとつひとつが掌編小説から中編小説のようで、自分が今まで読んだ句集や(あまり読書体験のない)歌集と比べて、読んだときのボリューム感がある。だから、最初にひと通り読んでから、ときどき引っ張りだしてきて、拾い読みしています。

こういう場合、どんなふうにおもしろいのかを伝えるのに、歌を引くべきなのでしょうが、連作としてのおもしろさなだけに、歌をいくつか引いて済むというものでもない(この本の書評って、どんな引用のしかたをしているのでしょうね)。

まあ、一首も引かないのもヘンなので、例えば、連作「尼寺へゆく」は、ちょっとした思い出話の前振りと引用から、
かつてかのハムレット氏ののたまふに「尼寺へゆけ」尼寺はいづこ
と歌われ、横浜駅を経て横浜港へ。そこに「恋のようなもの」もちらちら見える。

かと思うと、陸上部入部から箱根マラソンまでの物語であるとか、「さうだ」と思い立って京都へ出かけたりだとか、少年犯罪をたどったりだとか、飯島愛のブログの引用をさしはさみつつ、その死が描かれるだとか。

楽しみは尽きないのですよ。




 

こういうことが俳句でもできないものだろうかと、まあ、これは軽い夢想として言っているのですが、自分の場合、この歌集、「俳句の隣にある短歌」を読む、というより、小説を読んでおもしろがる自分が『サンボリ酢ム』を読んでいる感じなので、俳句と結びつけるのは、どだい無理な話かもしれません。

(連作集ということでは、関悦史『60億本の回転する曲がった棒』に思いが到ります。あるいは最近出た高山れおな『俳諧曾我』)

以前、『にんじん 結婚生活の四季』というのをウラハイに掲載してもらったが、これも連作といえば連作。9句で1年だから駆け足なんてものではない、映画でいえば予告編みたいな感じか。こうではなくて、それ自体が短編映画のような連作がおもしろいのではないか、と。

例えば10句作品(週刊俳句に多い)も、連作っぽいものはある(例えば、野口る理「実家より」10句 週刊俳句・第121号 2009-8-16)。それらと決定的に違うものをイメージしているのではなくて、〔つづきもの〕という見せ方を強く意識したようなものができないかなあ、と、漠然と思っているわけです。

それは一人でやる連句みたいなものかもしれないし、もっとコンセプチュアルなものかもしれない。まあ、ゆっくりのんびり考えておくことにします。

12月8日は

12月8日は、日米開戦日であり、力道山が赤坂のナイトクラブで喧嘩になりナイフで刺された日であり(死亡は15日)、ジョン・レノンの命日。

開戦日とその翌日の徳川夢声の日記

開戦日の古川ロッパの日記

2012/12/07

よしっ!

誌上やら句集でなくてもウェブ上でも俳句(新作)は読めます。週刊俳句には毎週掲載されているし、ほかのサイトでも。例えば、スピカでは、運営3人が毎月、月初に新作を発表するのが常になっています。ウラハイの【ネット拾読】というコーナーでやってもいいのだけれど、まあ、自分のブログのほうが、気楽でいいので。


手袋の手にあはざるをよしとして  江渡華子 「よし」より。

手にフィットしてもフィとしなくても、どっちでも良し。簡単にいえば、プラス思考? 前向き? のんき? こういう考え方は、文句なしに良いです。 


死は神に捧ぐものなり志も私も詩も  野口る理 「希臘行」より。 

ほんまかいな。

と。

作者ではなく、ギリシャのことかもしれないが、それならそれで、そんなこと言うとる場合か、と、EU成員ではないし世界経済にさしあたり無縁な私も思ってしまう。

こういう句は《実は神に捧ぐものなり身もミーも》などとパロディをつくりたくなりますが、それはさておき、「詩」という語を、このところ、よく俳句で目にします。社会学的に考察してみたいところです。


恋幾度セーター脱げば静電気  神野紗希 「N」より。

《花びらの一つを恋ふる静電気 石田郷子》という句がかすかに響いてきます。この句は恋の句ではないのでしょうが、「恋」の一文字で、恋の雰囲気が漂う。

掲句は、性愛にまで踏み込んだ点、セーターと静電気を詠んだ凡百の句とは一線を画しています。

「幾度」の2字3音は、疑問/感嘆のフレージングとして効果大。「恋幾度」の直後にある「切れ」に注目です。



ウェブ上に発表された句も、これからはときどき取り上げたいと思います。

選挙とインターネット

こういうのはアリなんですね。




選挙におけるインターネットの利用と制限、恥ずかしながら、よくわかっておりません。

2012/12/06

ことの次第

〔ここは、それではない〕と〔ここが、そうなのかもしれない〕の中間のような心情が〔ここ〕から〔どこか〕へとたゆたうように移動していくのがロードムービーというふうにも言えて、けれども、『ことの次第』(ヴィム・ヴェンダース監督/1982年)のまったく動かない前半部分も、〔ここは、それではない〕と〔ここが、そうなのかもしれない〕の中間という意味ではロードムービーなのかもしれない、などと。

オン・ザ・ロードの途中の長い長いポーズ(一旦停止)。

映画制作費がショートして、ロケ地であるポルトガルの海岸で足止めを食うスタッフと俳優が、たまたま〔一旦停止〕の時と場所を共有したかのようであるのは、帰るところがあるような人がひとりも見当たらないせいか。


ま、それはともかく、初期のヴェンダース映画の何本かが、たまらなく好きであることが、いまさらのようにわかった。





2012/12/05

くにたち句会12月

毎月、最終日曜がくにたち句会なんですが、となると今月は30日(日)。だが、さすがに押し詰まり過ぎているので、一週間ずらして、12月23日(日)にします。

また近づいたら、詳細をお知らせします。

クリスマスどまんなか?

2012/12/04

AC/DC

AC/DCというバンドは、半ズボンのギタリストというくらいしか知らず、ほとんど聴いたことがなかったのですが、このバグパイプとの共演はなかなかです。



で、そのAC/DCのコピーバンド(トリビュートバンド)。


2012/12/02

壁画、法要、団体戦句会

壁紙の張り替えが決まったら、子どもに絵を描かせるのがいいです。

家に帰ってきたら、こんな(↓)ステキな絵が出来上がっていましたよ。
http://instagram.com/p/SrzvYKNOva/

たまたまやってきた近所のボウズによる壁画。来週にはなくなってしまうのが惜しいけどね。

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「月天」の12月の句会は毎年、無臍忌法要(山本勝之の法要)と団体戦。

勝ちゃんが亡くなって、もう4年。数日前、用あってオクンチ(メール句会)の句会録を見ていたら、亡くなる一週間前に投句していた。

  生前の霜夜に廻る洗濯機  勝之

病床にあったわけでもなく、まあまあピンピンしていたわけなので、この符合は不思議、というか、ちょっと切ない。けれども、毎年、友人が集まり、法要のあと仏前でわいわいと句会に興じるなんて、なかなかないぞ。幸せ者だ。わかってんのかな、勝之は。

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俳句の団体戦は詳しく説明するのはめんどうなので簡単に言うと、4チームに分かれて総当たり戦。対戦チーム以外の2チームの全員が判定する。今年は1チーム6~7名。6句から7句の勝負で、12~13名が判定。

私が所属するチームは逆転優勝。わーい!

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12月が始まった。


2012/11/30

お伽話と現実 映画『人生の特等席』

A 古いタイプ=他人思い=情で動き、義を重んじる=日の目を見ないor敗残寸前=いいやつ

B 新しいタイプ=自分勝手=行動や態度が現金=チヤホヤされている=ヤなやつ

この2つの相克において、クリント・イーストウッドは、監督しようが出演しようが、もう、ひつこくひつこく、「古いタイプ」の勝利を描く。

『人生の特等席』(ロバート・ローレンツ監督/2012年)は、職人気質・昔気質のスカウトマン(クリント・イーストウッド)と娘(エイミー・アダムス)の関係修復物語。いろいろあって、結局、データしか見ない新タイプのスカウトマンやら、大リーガーになって女を抱くことしか興味がない高校生スラッガーやら、ゴマスリで出世欲の旺盛な仕事上のライバルは、「勝負」に敗れ、古いタイプの「いいやつ」らが笑顔で終わる。

王道だ。

クリント・イーストウッドは(そして多くの映画は)、「古いタイプ」のお伽話、「いいやつ」のためのファンタジーを私たちに届け続ける。

現実の世界では、 「新しいタイプ=ヤなやつ」がちゃっかり成功をおさめて、勝者の側に居座り続けることが多いのであって、だからこそ、お伽話やファンタジーが要る。

イーストウッド映画に限らず、アメリカ映画に、「いろいろあっても善良な人々が最後には笑う」映画がかくも多いのは、現実がいかにその逆かの証左なのだろう。

お伽話、ファンタジーは、大事。


『人生の特等席』という邦題に嫌気がさして、見送る人も多そうなこの映画(原題は Trouble with the Curve)、 このところの「イーストウッド・クオリティ」を期待するとガッカリするかもしれませんが、つまらないことはない映画。でも、凡作といえば凡作。いわゆる「中の上」。

ちなみに、ジョン・グッドマン(すごい名前だと思いませんか。邦訳するすると「善人太郎」?)がいい感じです。

2012/11/29

今日は

ジョージ・ハリスンの命日。


2012/11/28

某日日記 ミュージカルその他

十一月某日。

南房総・千倉町の花の谷クリニックへ。近所のおじいちゃん、おばあちゃん、おじさん、おばさんが集まって催すミュージカル(今年の演し物は「サウンド・オブ・ミュージック」)の伴奏を yuki氏がやるのが毎年の恒例のようになってきた。今年は、某俳人1名も同行の三人旅。

ホスピスも兼ねた花の谷クリニックは、出かけるたびにいろいろな話を聞き、いろいろなものを見て、思うこと・考えること多く、それをどうきちんと持ち帰るかが、個人的な課題。道の八百屋さんで買う野菜といっしょに思いや考えを持ち帰る。

十一月某日。

『川柳カード』創刊号が届く。私も会員で、投句したので、楽しみにしていた。

なんで私が川柳誌の会員になったかというと、〈選句を仰ぐ投句〉からずいぶん長いこと遠のいていたので、久しぶりに、という感じだった。俳句はいまさらどこかにその手の投句をする気にはならない。川柳なら一から始めるということだから楽しめるのではないかなあと思ったのだ。

実際、新鮮な気分。この〈選句を仰ぐ投句〉って、独特の愉しさがある。次の投句締め切り(1月末)をメモに書いて壁に貼った。この創刊号では虫と労働をテーマにしたが、次は何にしようかと、今からあれこれ考え始めている。

なお、今回、掲載となった句の中に、投句時のタイプミスで字足らずの句が混じってしまった。痛恨。だが、それも良し。

間違いは、何かを産む。正解は、何かを育てはするが、何も産まない。(って、今回の件とはちょっと違う話か)

十一月某日。

スピカで若い俳人・矢口晃さんが連載している「モノローグ」の内容が凄いと、ツイッターで話題に。

結社「鷹』での日々を主宰・藤田湘子との関係を軸に描く。愛憎劇? 毎日、俳句も一句ずつ付いているんだが、それが目に入らないくらい「独白」部分に迫力がある。たしかに凄い。しかしながら、この「凄い」は、自分の場合、多分に下世話なものだ(矢口さんには悪いが、所詮は楽屋話なんだし、俳句そのものとは無関係だしね)。一歩引いて、こうした師弟関係について、どう考えるのかというと、「人との距離って大切よね」という程度。

ただ、ここまでドロドロとしたものを吐露できる矢口さんという人は、きっと良い人なんだろうし、今回の「モノローグ」は、彼にとってとても重要なことなんだと思う。「いい方向に向かうといいね」は、読者が共通して抱く感想だろう。

ちなみに、この連載を読み始めた直後に、「鷹」の人に会う機会があったので、少しその話題になった。二、三、内情について質問はしてみたが、とりたてて興味深い内容は引き出せず。

2012/11/24

「7」あたりで絶頂感 高山れおな句集『俳諧曾我』

俳句好きにとって、というより、本好きにとって、たまらないです、高山れおな第3句集『俳諧曾我』。

函のツートンカラーが順当なようでいて冒険的であるとか、おお、分冊かあ!とか、《7 パイク・レッスン》のタイポグラフィーで、一瞬、イキそうになるとか、デザイン方面から、たびたび、また多方向から恍惚感がもたらされると同時に、「俳句」ではなく「俳諧」、俳諧と言って、もっぱら歴史的脈絡に偏向して伝わるのを避けたいなら、「俳句様(はいくよう)テクスト」でも、「俳句のようなもの」でも、なんでもかまわないんじゃないでしょうか、つまり、書いてあること(またエラくアホな言い方ですみません)、そこに書いてあることも、もちろん、いい具合に心地よくさせてくれますぜ。

(オッサンを快楽させても、この句集は、なんも嬉しくないでしょうけれど)

まあ、しかし、(余談とはなりますが) 「俳句」というジャンル語で狭いところに縮こまってしまいつつあるなあと。いま一度、のびのびとさせてあげるということは、あの手この手で必要だなあ、と。そんなこともいまさらながら考えましたですよ。


で、この『俳諧曾我』、書店では手に入らないらしい。いわゆる私家版。著者に直接メールするとか、そういうことらしいです。メールアドレスをここに書いても問題はないと思いますが、ほんとに欲しい人は、なんとしてでも入手されるでしょう。

(自分で勝手に手に入れよ。部数に限りはありそうだから、急がないとね)

外観くらいは知りたいという人は、グーグル画像検索する手がありますね。現時点ですでに顔が晒されているようですし、曽我町子が検索に引っかかってきたりする余得も味わえます。

2012/11/22

くにたち句会11月のお知らせ

お知らせが遅くなりましたが、

11月25日(日) 14:00 JR国立駅南口 集合
句会場所 キャットフィッシュ(予定)

※今回は、拙宅が使えないので、外で飲食しましょう。

初めての方も久しぶりの方もご常連さまも、どなたもよろしくどうぞ。

2012/11/21

某日日記 祝婚その他

十一月某日。

yuki 氏が所用で南房総一泊。おみやげがイチジク。それについては週刊俳句・第291号の後記に書いた。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/11/291.html

で、食べてみて、スペインやらどこやらの小ぶりの品種の味の濃いいこと濃いいこと。

十一月某日。

Y口Y夢くんと華子さんの結婚披露宴へ。

俳句関係者多し。テーブルの数が、新郎なり新婦なりの社会関係とかアイデンティ(そんな大げさなもんか?)を示すという説を思いついた。Y夢くんのパーソナリティにおける「俳句度」は3テーブルでありました(テーブルは単位)。

あたたかいかんじの、いいパーティーでした。

十一月某日。

風邪をうつされる。

十一月某日。

福岡県・九州(?)を中心とする同人誌『連衆』第64号が届く。「草紙」15句を載せていただいている。

2012/11/11

消息 ロボットほか

週刊俳句・第290号に、俳句ロボットの制作者、三島ゆかりさんとのダイアローグ
「二物衝撃と俳句ロボット「忌日くん」の爆発力」が掲載されました。

ウラハイに、〔おんつぼ44〕ジョルジュ・ドルリューを書きました。

2012/11/03

それ、誰やねん? という

このあいだの句会のはじめ、みんなで席題を出し合うときに、「そういえば、みやもとかよのさんは本日、引越しだとか」と誰かが口にしたことから、「宮」というお題が出て、ついでだから、

宮本がカンナの如く立つてをり  10key

と投句。

人に知られた人名を詠み込む(それが人名句)でもないので、名前だけ放り出した格好で、「それ、誰やねん?」ということになり、なかなかうまく行かない。

いのうえの気配なくなり猫の恋  岡村知昭(『俳コレ』収録)

この句が、この手ではよく知られる句だが(って、ほんとか?)、この句のおもしろさを伝えるのは、なかなか難しい。難しいのだが、おもしろさの出発点に「それ、誰やねん?」という《わけのわからなさ》があることは確実。

おそらく、俳句の17音のうち、誰だかわからない人名に4音も使ってしまうという贅沢(ムダとも言う)を許す状況をつくりだすのは、なかなかに骨を折れることなのかもしれない。

じゃあ、短歌はどうなんだ?ということで。

百点を取りしマサルは答案の束もつ我にひたすら祈る  小早川忠義

人名が、俳句と比べると、自然に溶け込む感じ。

小早川忠義さんの歌集『シンデレラボーイなんかじゃない』(2010年9月/邑書林)には、この手の人名が他にいくつかある。

《「目立たない方の鈴木」と呼ばれゐる同窓会の常任幹事》は、機知がわかるぶん、突拍子のなさは消える。むしろ、

書き慣れぬ振込用紙の名前欄「若草太郎」と書き損じたり  同

このほうが、不思議さが残る。

振込用紙になんと書こうとしたんだろう? 答えがわかると、魔法が解けたりして(それはよくあること)。



短歌はあまり読んでいないし、知識もまったくないのですが、出会った本をおもしろく読ませてもらっています。俳句と違って、いわゆる「純粋読者」になれるから、でしょうか。楽しいのですよ。





2012/11/02

ボケる句

村越敦氏の週刊俳句・第288号の後記(≫こちら)、『一億総ツッコミ時代』(槙田雄司)というたいへんおもしろそうな本を書店でふと見つけ、紹介しているのですが、
(…)という内容だったと記憶しています。

って、立ち読みで済ませたんかい! 買えよ!


と、こういうのが 「一億総ツッコミ時代」の一例なわけですね。なるほど。きちんとボケて記事をまとめるとは、村越くん、やるなあ、と。

それはさておいても、俳句においてボケというのはいちばんおいしい部分です。ツッコミを受容する箇所を備えた句は、素敵です。そこは愛嬌、お茶目という、俳句にとって最重要な要素に素直につながる。そういう句はもっとあっていいし、もっとみんなで愛していい。

そういえば、

  コロッケの上で踊ってしまいます  徳永政二

川柳作家・徳永政二さんの「フォト句集」第2弾、『大阪の泡』(2012年10月25日/あざみエージェント)より。

俳句のボケと川柳のボケ。どう違い、どう同じか、私にはよくわかりませんが、掲句、なにかしらツッコミたくなります。

さてしかし、ボケた句を作るのはいいのですが、作れば作るほど、読者間にツッコミが増殖し蔓延するということもあって、そうなると、「一億総ツッコミ化」がますます促進する。これはどういう事態なのか。

きっと、ボケの稀少化が進み、価値が上昇するのです。

詩情やら叙情をボケへと昇華すること、それが俳句である。

一足飛びにそう結論、太字で結論しておきます。



なお『大阪の泡』はあざみエージェントで購入できるようです(≫こちら





2012/10/30

某日日記 フルグラやら植木屋やら

それ用サーバーを「半額」に惹かれたyuki氏が買ったのがきっかけで水出しコーヒーが我が家でブーム。水で落として8時間置くと完成。てことで、夜中に入れて朝に飲むという生活のリズム的飲料。

で、もうひとつのブームがフルーツ入りグラノーラ。シリアルの一種らしく、これもyuki氏が突然買ってきて、私のブームに。

我が家は前触れもなく突然ブームが始まる。始めるのはいつもyuki氏で、ハマるのが私、飽きるのも私。

十月某日。くにたちで席題句会。10題で20句ほど作る。おみやげに焼き栗やらもあって、秋深し。

十月某日。週刊俳句の当番・ムラコシ君がアップ作業で不明な点アリとのことで拙宅に再研修に訪れる。手作り簡単浅漬ピクルス(これは今年のブーム)やらスパゲティやら。トマトがおいしい。イタリア人はえらいなあと感無量。不明点は難なく解決。アップ作業も終わり、ムラコシ君と俳句について熱く語り合い(ホントです)、真夜中になって彼も帰っていったあと、週刊俳句の目次を見ていると、記事は少なめ。1本足したくなって、前から書きたかった油布五線句集の紹介文を書く。

く、く、くろい 油布五線句集『蘚苔類』を読む

十月某日。友人の植木屋が来る。例年なら年末だが、今年は白蟻工事が始まるやも知れず(出たんです、白蟻)、それで早めに来てもらう。京都はいいっすねえとか、永平寺ももう観光地だったとか、10万キロ以上走ったレガシーが2万円で売れたとか、有馬記念3連単とったとか、そういう話を男二人でする。

今年も終わっていきますね。って、ちょっと気が早い。

2012/10/26

くにたち句会 10月のお知らせ

2012年10月28日(日)

14:00 JR国立駅南口集合

句会場所:いつものキャットフィッシュ (予定)

席題10題程度。よろしければ句会後の飲食も(会費アリ)。

ご常連様も、久しぶりの方も、初めての方も、よろしくどうぞ。

2012/10/24

糸大八200句抄、よいです

『円錐』2012臨時増刊「追悼 糸大八」(2012年9月25日)は、今年3月9日に亡くなった糸大八に捧げた一巻。抄出の200句が素晴らしい。


  睡蓮やにはかに飯の噴くことも

  洪水はわが白桃に至らむと

  文芸にたたみ鰯のけぶりかな

  忘却の河のはじめの金魚玉

  天高く帽子の箱を持ち歩く



関連
関悦史:安らかなグロテスク・リアリズム 糸大八句集『白桃』


2012/10/21

ちんどん屋、席題句会、薩頂頂など

千駄ヶ谷駅に30分ほど遅れて到着。道にちんどん屋が。クラリネットはなくテナーサックスで My Favorite Things なものだから、ちんどん色が薄い。鷗外展は、谷根千あたりの写真今昔。「夕焼だんだん」そばの富士見ホテルあたりからの景色が、昔は、ひらけていて、まさに富士見。鷗外の観潮楼からも海が見えたわけだし、ああ隔世の感。

数人連れ立って根岸までぶらぶら歩く。谷中墓地をかすめて上野桜木から日暮里へ、言問通りを根岸へ、という経路はクルマでは何度も通っているが、それでは見えないものが、歩くと見える。当然だけれど、歩かなくちゃね。散歩の愉しみ。

根岸・西念寺では、百句会スタイル(作った句は席題ごとに読み上げるだけで撰はしない)。席題は、音階、砂、後ろ、土、タガログ語、根、猫、毎、揺れる、和の10題。タガログ語とか、もう大変な席題ですわ。15句から20句くらい作ったと思う(短冊は持ち帰らないし控えがないので正確な数はわからない)。以下、改稿やら、いま新しく作った句やら。

  なしぶだうもも音階のはにほへと 10key(以下同)

  蛇穴に入る後ろから別の蛇

  雀落ちて化す蛤はタガログ語

句会後は中華屋さんで飲み食い。帰り際に狂流さんにもらったコンピCD。帰宅してから聞く。きゃりーぱみゅぱみゅがエスニック(ワールド・ミュージック)の流れの中にあって(おお、こういうコンテクスト!)、なんともしっくり来る。ハナレグミという人は聞いたことがなかったが、「サヨナラ COLOR」という曲が懐かしく良い感じで、その他、知らない曲がほとんどで収穫多大。なかでも薩頂頂(サーディンディン)のこの曲(↓)。胸がざわつきます。



2012/10/20

特別ではない土曜日

なんとなく、こういう…



気分の土曜日です。

南房総・千倉行きの予定が流れて、午後は、千駄木あたりの散歩から根岸・西念寺での(突発的)句会?

しなければいけないこと、やりたいことは多いはずで、となると、やらなくてもいいこと、やりたくないことの見極めが大事かもしれず、とりあえず、目の前の雑事と対面し、いやんなりそうな自分を宥めつつ。

2012/10/15

聞き比べ ダニー・ハザウェイの演奏モノ

ダニー・ハザウェイ(1945年10月1日 - 1979年1月13日)は歌モノの人気が高いようなのですが、歌のない演奏モノ(インストゥラメンタルつうやつですな)をたいそう愛していまして、これさえあれば一生生きていけるというくらいに愛しています。 で、その演奏モノのなかから、Valdez in the Country

まずはスタジオ録音。




次は同じダニー・ハザウェイのライブ。Recorded Live at Newport in New York ステージなので、ちょっと元気な演奏です

 


で、Cold Blood のカヴァー。スタジオだけど、わりあい元気。




おまけ。ジョージ・ベンソン。ファンキーよりもメローが強い。どうでもいいことですが、ジョージ・ベンソンを聞くと、バブル期を思う。この曲が1977年、よく売れた「Breezin」が76年。バブルよりもずっと前なのに、なぜか、思ってしまう。単なる勘違い?


2012/10/14

小鳥のような

いいな。



小鳥のように暮らしたいです。

オッサンが何ゆうとんねん!と罵られようとも。


この句、いいですね。俳号込みで。

2012/10/12

アンディ・ウィリアムス逝く

アンディ・ウィリアムスが亡くなったのは2012年9月25日。もはや旧聞に属す。84歳。そういえば、このまえの句会で狂流さんと、このことをしゃべったのだった。NHK放映の「アンディ・ウィリアムス・ショー」のこととか、元妻のクローディーヌ・ロンジェのこととか。


2012/10/11

毎日が呪術

若いとき走れた1000メートルが今は走れない。けれども、200メートル走っては休む、なら、1000メートルを走れる。

と、これは仕事(労働)の話。


パソコンに向かうことが作業の相当を占める。わたくしの場合、そういうたぐいの仕事(労働)。で、はかどらないなあ、というときにやるのが、「手を洗う」こと。石鹸で、ていねいに。

手を洗うことと、指が思うようにキーを叩いて作業が進むこととは、合理的な関連はない。でも、やる。

これは、いわば呪術。


獣の足跡を槍でつついて逃げ足を遅くするという、あの有名な事例。フレイザーの古典に出てくる感染呪術。


「休み休みならアタマも動く」という合理と「手を洗う」呪術を組み合わせながら、これからも労働していくことになるのですよ。


2012/10/10

「すこし離れて」型で遊ぶ

このところ、俳句自動作成ロボットの嵐が吹き荒れておりますが(≫参照)、このほど山田露結さんがお作りんなった「すこし離れて俳句」。これも一種のロボットと言えるわけです。

×××××すこし離れて△△△△△ という俳句の型。上と下に5音が放り込まれる。

この型は、かなり収まりが良いようでして、




 


このままどこかに投句しようかと思うくらい。

(しないけどね。真に受ける人がいて怖い)



作者名で遊ぶと、



いや、これはないでしょう。電子辞書って、あなた。

でも、三流SFタイムマシンものと思えば。ね。


 

これは、なんだか出来すぎの感も。


まあ、軽い遊びとして。

まじめなことを言うと、型(パターン)に何を放り込むかを考えるよりも、型(パターン)を考えるほうが面白いのですよね、俳句って。

2012/10/08

消息 2012年10月初旬

週刊俳句に
俳風昆虫記〔夏の思ひ出篇〕99句
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/09/99.html


愛の言葉 雪我狂流句集『恥はかくもの』の一句
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/09/blog-post_5593.html

星の虚実 金子敦句集『乗船券』の一句
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/10/blog-post.html


ウラハイに
〔ぶんつぼ〕『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』
http://hw02.blogspot.jp/2012/09/roadside-japan.html

2012/10/07

「こんなところ」パターン・ふたたび

今週の週刊俳句、小林苑をさん「空蝉の部屋 飯島晴子を読む〔 7 〕」が「こんなところに」パターンを取り上げている。
私達は普段「こんなところに」と聞けば、「どんなところ?」と反応する。既成の体系にのっとって、ということだろう。一方で、俳句の中で語られれば、その違和感だけをすんなりと受け入れる。もう「こんなところに」が使い古されたあとに私達はいる。

このブログで昔取り上げたこともあって。

「こんなところに」型

そこでも少し触れたが、「こんなところに」のうしろに「何を持ってくるか」 に、人名という選択もあるわけです。なんでも人名に行っちゃうのは、よくない性癖ですが。

季語+こんなところに+5音の人名

その記事に挙げたのは、笠井亞子(はがきハイクの相棒につき例示を許されよ)、瀬戸わんや(なぜか獅子てんやは出てこない。俳味という点で難があるのか)、越智道雄(翻訳家)。政治家は越智通雄。選挙カーで「下から読んでも越智通雄」と連呼していたとか。目黒区在住・祐天寺大将がよく言っていた。

5音の人名なら、他にいくらでもある 。

ジョン・レノン、オノ・ヨーコ、郷ひろみ、多湖輝。なんか古い。なんとかミクというのも5音ではなかったか。俳句世間では、spicaが暗刻状態(神野紗希、江渡華子、野口る理)。大御所で宇多喜代子。

というわけで、三島ゆかりさん、俳句自動作成ロボットを作ってくれないかしらん。プログラムとしては、上中下の位置が決まっているので単純だろう。もっとも、「自動」のおもしろみは薄いかもしれない。

 

で、ちょっとバリエーション、いま思いついた。「そんなところ」パターン。

××××のそんなところが△△△△△

  例 伯母さんのそんなところが竈馬

ま、これは「に」でもいいわけです(句意も趣向も違っちゃうけれど)。


バレ句になっちゃあ、つまらないので、そこのところ注意を要す。

でも、これではウケないので、パターンとして広まることも定着することもないだろう。

2012/10/03

ピーほか 〔備忘録〕

2012/10/02

手ぶらな句

俳句は、きほん、「まるごし」、あるいは「手ぶら」がいいです。

これにはいろいろな意味があるのですが、例えば、表記。

  さよなら、ウォーホル 丸ごとのトマトを齧る  福田若之〔*〕

読点とか1字アキとか、いらないですよね。

《さよならウォーホル丸ごとのトマトを齧る》。ほら、このほうがいい。少なくとも、見た目、すっとしている。


それから、カギ括弧「  」。

不要でしょう、という句がほとんど(≫例


手ぶらで、すっと、あるいは、ぼぅっと立っている、という風情が、きほん、よろしいです。



〔*〕 「さよなら、二十世紀。さよなら。」;週刊俳句 第276号 2012-8-5

「Haiku of the Dead」連載スタートを祝して


石原ユキオさんの連載はこちら↓
http://spica819.main.jp/tsukuru/tsukuru-ishiharayukio






「ゾンビ」(Dawn of the Dead ジョージ・A・ロメロ監督/1978年)もいいけど、「ショーン・オブ・ザ・デッド」(Shaun of the Dead エドガー・ライト監督/2004年)もね!


2012/10/01

暴風句会

十五夜に颱風直撃。予定していた句会を中止にすることなく決行。

少し早い目に散会(といっても10時を回っていた)。外に出ると、暴風のなか、きれいな満月が見えた。

  真つ向に名月照れり何はじまる  三鬼

いえ、いろいろ終わって、もう、みなさん、お帰りんなる。

電車が動いているのかなど心配ではありましたが、いちおう誰一人遭難することもなく無事ご帰宅された模様。 お疲れ様でございました。


2012/09/30

もうひとつの解題 俳風昆虫記〔夏〕のこと

週刊俳句・第284号に、

俳風昆虫記〔夏の思ひ出篇〕99句
Fabulous Insect Adventure; summer souvenir
 
を載せてもらっています。

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/09/99.html


この記事は、その「もうひとつの解題」、あるいは「ウラ解題」

 

俳風昆虫記は、当初、掲載サイト・掲載誌を広く募集してみたのだが(≫拙ブログ「俳句、載せてください」)、どこからも声はかからず(作句信条まで用意したのにぃ)、最後の頼みの綱、「週刊俳句」運営担当諸氏に「どうか、ウラででも」と泣きながら懇願、諾否を問うたところ、賛成票2名(過半数)で諾の決定。「オモテでやりなさい」と寛大な措置をいただき、このたびの掲載となった。


まずは、スピカさんに感謝。「虫の生活」が土台になっている。解題にも書いたが、99句のうち30句は、ウェブサイト「スピカ」で連載させてもらった「虫の生活」の再録(若干の改稿アリ)。31日間の連載だったから1句を落とした。

句集『けむり』からも18句を再録した。また、「はがきハイク」等からも若干(こちらは、どれが再録でどれが新作か本人も把握できていない。なにぶんにも前後不覚で暮らしているにつき)。

【偽・俳コレplus】とする手も考えたが(99句という句数)、そのアイデアは途中で捨てた。「俳コレ」本体、また純正「俳コレplus」の生駒大祐氏は、関連付けられても迷惑だろう、ということで。

解説が付いているのは【偽・俳コレplus】案の残滓。近恵さんには、某句会後の酒席においてその場のノリで頼み、快く引き受けていただいた。多謝。

ところが私と来たら、無理な頼みをしておきながら、いつまで経っても稿を固めない。最後まで句のサシカエをやっている。軽微な変更を施す。順序を変える。
この99句の最終形が、この稿を書き上げる締め切りの一日前に届くという鬼の所業。(近恵・解説)
じつはそのあとにも、さらに一句、さしかえた。
難しい言葉もないし、難しいことも言わない。(近恵・同)
俳句で難しい語はふだんから使わないけれど、今回は、ラテン語っぽい語(post cotus)なんぞが入っちゃったりしている。がんばっちゃっているのだ。

 

夏季の「虫」にまつわる句を並べ、いじくっていて、わかったことは、きっと秋の虫で99句もの句数は、きっとつらかろう、ということだ。じつは秋の虫でも制作に取りかかっているが、ヴァリエーションの点で、夏は秋に勝る。「虫」というと秋、というのが俳句の習わしだが、秋季で虫にまつわる句をまとめようとすると、数が行かない。鳴いてばかりいることになってしまう。考えてみれば、「昆虫」といえば、秋ではなく、夏、なのでありました。

 

ところで、いま、小学生向けの雑誌やノートの表紙に、昆虫が使われることはまずないそうだ。理由は、見るだけで嫌悪感を催す子どもが増えたから。悲しいことです。



2012/09/28

【再掲】くにたち句会 9月のお知らせ

2012年9月30日(日)

14:00 JR国立駅南口集合

句会場所:いつものキャットフィッシュ (予定)

席題10題程度。よろしければ句会後の飲食も(会費アリ)。

ご常連様も、久しぶりの方も、初めての方も、よろしくどうぞ。

子規

子規って、ほんと、いいやつ、って感じですよね。


ところで、スピカは、毎日更新を続ける、がんばってる俳句系ウェブマガジンです。
『子規に学ぶ俳句365日』の時にも、こういったボケぶり(まぁ無知ぶりですね)を披露して、西原天気さんととあるやりとりがありました。そっちの話はその後の天気さんとのやりとりが少し笑えるので、いずれ天気さんか私がブログに載せ・・・るかもです。
http://spica819.main.jp/yomu/8197.html

2点ほど異議、というか補足。

まず、「少し笑える」とあるが、ちがう。むちゃくちゃ笑える、だ。

もうひとつ。私は、絶対にブログに書いたりしない。江渡華子さんの名誉のために。


2012/09/27

あらま、お茶

目の前にあるおーいお茶に、

《桜色美しすぎて散りゆく身 兵庫県尼崎市・12歳・中野なつ美》

12歳の彼女の身に何があったのだろう?


《しゃぼん玉合格したと伝えます 兵庫県加西市・12歳・繁田将貴》

これ、たぶん合格してませんね。俳句における「しゃぼん玉」効果。


「おーいお茶」というお茶、あまり買ったことがなかったのですが、こんなに楽しめるとは! 知りませんでした。不覚。

2012/09/26

木枯さんの写真

八田木枯さんが亡くなって半年と一週間が過ぎた。

短いあいだだけれど句会をご一緒させていただくなど思い出はある。でもそれをどこかに書く気には、なかなかならない。だって、もったいないから。思い出は独り占めしておきたいじゃないですか。

いまもいろいろな思いがあるのだけれど、それを書くのは難しい。

 ひとつ、私にとってうれしいのは、 木枯さんの追悼記事などで目にする肖像写真、あれが自分の撮った写真であることだ。


晩紅塾のときだったか(私は数回しか参加していない)、2008年6月3日、夜の8時だから句会のあとだったのだろう。カバンにカメラがあったので、なんの気なしに撮らせてもらった(おそらく着物姿が渋かったからだと思う)。2~3回しかシャッターを押さなかったが、すごく良いお顔に撮れている。偶然とは恐ろしいものです。

木枯さんの優しさや飄逸、また威厳(といってもけっして人を圧することのないたぐいの)、そんないろいろな魅力が、あの写真の顔にあらわれている。

自分で撮っておきながら、こんなことを言うのはなんだが、これは私の腕前ではなく(写真技術的にはダメダメです)、偶然が生み出したものなのだから臆面はない。

帰宅してからモノトーン処理のパターンもつくり(人の顔の写真って、カラーだけじゃなくモノトーンも欲しい) 、次にお会いしたとき差し上げた。紙焼きだけだったかCD-ROMも付けたか。それは忘れた。

木枯さんも気に入ってくれたようで、「雑誌で写真が要るときは、これ、渡しといたらええな」と笑っておられた。そのうち私が知らぬまに、あの写真はいろいろな誌面に掲載されたようだ。そんな用途があるなら、バックの壁などももう少し考えればよかったが、なにしろ、あのときは、ほんの数十秒ほどでシャッターを切っただけだったのだ。


俳句雑誌や出版物、あるいはウェブ上で、木枯さんのあの写真を、これからも何度か目にするだろう。そこのところは、みなさんも私も変わらない。けれども、私だけは、写真を見るたびに、木枯さんと向かい合ったあのときのことを思い出すことができる。

そして、これからさき、あの写真は長く残るだろう。私と俳句との関わりは長くてあと数十年。それから先は何も残らない。痕跡は、ウェブ上の恥ずかしいログとして残り、あるいはいくつかの印刷物としても若干残るだろうが、私という存在は残らない。ところが、あの写真は、これからも俳句史に残っていくのだ。

写真一枚。あのとき偶然、私にもらたらされた写真が、自分にとって、なんだかとてもスペシャルなものになった。木枯さんのこと、自分にとって貴重な出会いや思い出が、「自分だけのもの」でありつづけるための記念碑のような(もちろん自分にとって、というだけの話)存在なのだ。


ええっと、つまり、「いいでしょ? うふふ」という話です。ごめん。

2012/09/25

Ebony and Ivory

二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり  金子兜太(*)

汗かく白人深夜のテレビ通販に  神野紗希(**)



(*)暗緑地誌 1972 (**)光まみれの蜂 2012



2012/09/24

柱の燃ゆる

同じく柱が燃えるにしても、

いつせいに柱の燃ゆる都かな  三橋敏雄 (まぼろしの鱶 1966)

焼藷屋柱燃やしてゐたりけり  大石雄鬼 (だぶだぶの服 2012)

大違い。


どちらがいいとか悪いとか、好きとか嫌いとか、そういう話ではないです。


ところで、焼藷屋の句は、どう解せばいいのか。焼藷屋の屋台を思い出してみるに、たしかに柱がある(ないタイプももちろんある)。柱は経年の営業から焦げてもいそうだ。しかし、それを「燃やして」というか? この句の景は、ごくごくありふれた現実の景なのか(「燃やす」は誇張であり文彩)、それとも単に小火なのか。あるいはシュールな事件なのか。あるいはこれが屋台でないとしたら?

答えを出そうってんじゃあ、ありません。俳句はなぞなぞではないので。

でも、謎を残す句は気になります。


大石さんの『だぶだぶの服』(ときどき「だぼだぼの服」と覚え間違えそうになる)は、素晴らしく「おもろい」句集(と幾度となく宣言している)。謎がいたるところにあって飽きない。もちろん巧い描写の句も(息抜きの如くに)存する。

この脈絡で難を言えば(こういうのも言っておくほうがいい)、謎が謎だとわかりやすく示され過ぎる点。誰でも読めば何がしかのワンダーを手にするが、誰もが通り過ぎるけど「わたしだけのワンダー」といった仕掛け・風味は、ちょい足りない気が、いまはしてる。

ま、そのへんも含め、また別の機会に(週刊俳句とかウラハイとかココとか)。それにまた、いろいろな人がこの句集を取り上げるでしょう(半面、批評という側面で手を出しにくいところはある。いわゆる一筋縄じゃ行かないところがある)。


大石雄鬼句集『だぶだぶの服』 ふらんす堂オンラインショップ


パイナポー

大石雄鬼さんの句集『だぶだぶの服』がたいへんな面白さで、そのことはどこにも書かず、ここにも書かず、独り占めしておきたい気分でもあったのですが、そうもできなくて、こうやって書いているわけですが。


愛の巣のパイナップルが立つてをり  大石雄鬼

すでに知っている句も集中にいくつかあって、この句もそのひとつ。

この句、憶えている人・知っている人は少ないかもしれませんが、週刊俳句で、川柳作家と俳人の競詠企画に寄稿してもらったなかの一句。柳人は、なかはられいこさん。

競詠は、こちら。まだ画像ではなく横組。週俳の草創期ですねえ。

で、この読後の感想などを遠藤治さんと私で語り合った記事が、これ(↓)。

第16号・柳×俳 7×7 「二秒後の空と犬」「裸で寝る」を読む(上):週刊俳句 第17号 2007年8月19日
第16号・柳×俳 7×7 「二秒後の空と犬」「裸で寝る」を読む(下):同 第18号 2007年8月26日


大石さんの作品については(下)のほうで語り合っています。

なつかしい。当時も、パイナップルの句がお気に入りだったのですね。私も遠藤さんも。


『だぶだぶの服』については、まだもっと、どこかで書くと思います。今日のところは、パイナップルの思い出だけ。


【追記】
大石さんの話題で言うのもなんですが、この競泳、 なかはられいこさんの7句、いまさらながら、むちゃくちゃにおもいろいですね。読むドラッグに近いわ。

2012/09/23

消息 ブルースなど

ウラハイに「おんつぼ43 B.B.King」を書きました。
http://hw02.blogspot.jp/2012/09/43-bbking.html

ちなみに過去記事
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2009/11/3bb.html


週刊俳句・第283号に「ひかり 林昭太郎句集『あまねく』の一句」を書きました。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/09/blog-post_5441.html

2012/09/22

俳句とは

俳句は、

1に「愛嬌」
2に「いいかげん」
34がなくて
5が「ずらし」

…というのは(他にもいくつか要件はあるにしても)、俳句を読むときの、単に好みというに過ぎないのですが、存外本気です。

愛嬌は、T田T哉さんは「茶目っ気」という語をあてていらっしゃるそうです。同じことを指している。

「いいかげん」とは、「まあまあ、そんなにがんばりなさんな」という部分と、加減の悪い句よりも加減の良い句のほうが、そりゃあいい、ということ。
 
「ずらし」は、何かをずらす、としか言いようがなく、ひょっとしたら伝わりにくい。作り手のスタンスとしての「かわし」につながり、あるいは「傾(かぶ)き」にもつながる。


愛嬌のない句はたいてい不遜。いいかげんなところのない句は暑苦しい。ずらし・かわしのない句はどこか痛々しい。


最初にも言ったように、単に好みの問題です。

自分で作るときも、自分の好みに沿うように作ろうとしますが、そこはまあ、なかなか、ね。意に沿ったものを作るというのは、俳句に限らず、なかなかタイヘンなことです。

2012/09/21

大石さん句集


大石さんは、おもしろい句をつくる。


ほら、すごくおもしろい。


その大石さんの第一句集が近々出るの報。


お茶目である。

2012/09/20

ベンチーズその後

ベンチでのんびり過ごすベンチ愛好会・ベンチーズのことを、スピカ「虫の生活」で書きました(≫こちら 7月31日)。

その後、ベンチ愛好者が続々集まり…という話ではないのです。数件、入会希望はありましたが、いまだ活動実績はナシ。私自身は、ひとりベンチラヴァーとして、ちょくちょくのんびりしています。

何の話かというと、映画「おおかみこどもの雨と雪」(未見)の一シーン。


これね、くにたちの白十字というケーキ屋さん兼喫茶店の玄関が、映画のなかで写真並みに忠実に再現されている。この手前にあるベンチこそが私が長年愛用しているベンチなのですよ。

どうですか? びっくりしました?(別にびっくりはしないか)

絵だと、えらく美しい場所のようですが、現実は、それほどでもない。でも、まあ、気持ちのいい場所ではあるのです。

何がいいって、ロケーションはまあそれとして、まんなかに出っ張りとかが、ほら、ない、でしょう? 最近は、何処に行っても、ベンチに「ホームレスが眠るの防止」用の出っ張りがある。あれほどイヤなものはない。くにたちの、ここのベンチには、アレがないのです。

というわけで、ベンチ愛好生活を続けます。

2012/09/19

媚態

『里』2012年5月号、上田信治「成分表76」より。
自分は、女性歌手の若々しくたっぷりと媚態をふくんだ歌を聴くと、ありがたく涙ぐましいような気持ちになる。ロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」とか。
涙ぐましいかどうかは別にして、ロネッツのかわいさったら、ない、わけで、再三取り上げているのですが、またもや貼ってしまう。



ついでにリンク(旧ブログ)も(≫ロニー・スペクター

閑話休題。「成分表76」の終盤には、こうあります。
ロネッツを聴くと、ロネッツになりたい、と思う。電車の好きな子供が、新幹線になりたいとか言う、あれだ。
ここは、ごめん、わからない。つうか、自分は、なりたいと思わない、ということなのですが、大事なのは、ここからです。

「成分表76」では川島彷徨子《夏蜜柑の種子あつむれば薄緑》を掲げてのち、
では、写生とは、薄緑のみかんの種になりたいような気持ちになることか、と思ったりします。
なるほど。この写生観は興味深い。しかしながら、残念にも、その「なりたい」の気持ちがわからない自分は、次のように解釈することにします。

「たっぷりと媚態をふくん」で自分に歌いかけてくるもの(世界のさまざまな一部)に魅了される、その契機を書き留めようとする行為、それが自分にとっての俳句なのかなあ、と。

この夏蜜柑の種は、ほんと、かわいい。

世界は、ロニー・スペクターの微笑みやら夏蜜柑の種やら、私(たち)を魅了せずにはおかないもので満ちている。ありがたや、ありがたや。そのことに毎日気づいていたいものです。

2012/09/18

ステップをゆずる

例えば、こういうの。
何ものでもない人、何ものももたぬ人は通過し、道をゆずる。何らかの力、あらゆる力を前にし、何ものかを前にし、あらゆる決定とか限定とかを前にし、踊る女は、舞踊は、道をゆずる。ステップとはステップにゆずることである。こうして運動が生じる。こうして優美さが生じる。優美さは何ものでもない、それはステップをゆずることにすぎない。
(ミッシェル・セール「アルバのバレー」 『生成 概念をこえる試み』 及川馥訳 法政大学出版会・1983 p78)
難しく考えないで、そら、ステップを譲らないとなると、足がぶつかるわ、人の足は踏むわ踏まれるわで、どうにもこうにも、だわなあ、と、くらいに解せば、とても為になる。

優美とは、状態ではなく、行為のあり方のようでもあるのですね。

2012/09/17

アレサ

これは貴重。よくぞ残っていたものです。



長い長いキャリアのなかでも絶頂期。それもきちんとライブの歌と演奏の音が入った映像。

2012/09/16

イメージの強度

カミキリムシの声は字で書くと「キイキイ」と、それほど不思議のない軋むような音ですが、実際、かなり独特の感じがあります。あれはなんなんだろうなあ、と、思いが残る声。

天牛を鳴かすや黄泉の誰のこゑ
  堀本裕樹

なるほど、そうでしたか。黄泉。カミキリムシに「黄泉」という別の世の、不特定の「人」を結びつけて、読後も句の残響が長らく残るような句です。

この句の収められているのは句集『熊野曼陀羅』(2012年9月/文學の森)。302句は、明確に「連作・熊野」とはいえないようですが、ゆるやかに連作的ではあります。

全体に、イメージの《強度 intensity》が求められています。

(いやらしく=エッチに、英語も併記。「イメージの」と来ればわかるとは思いますが、「強さ」というのは人によっていろいろな意味に受け取るようなので)

《イメージの強度》とは、例えば《ニュアンス》や《あえか》とは逆、といえばわかりやすいでしょうか。《強度》が備わると、句はドラマチックになりがちで、実際、ドラマチックに仕上がった句が多く、それらがいわば真骨頂であり見せ場になっています。例えば、

向日葵の首立てとほす豪雨かな  同

ただの雨ではなく「豪雨」。しかも「とほす」。《強度》志向の好例。

で、例えば、

飛魚よつぎつぎ難破船越えよ  同

好きな句です。これも鮮烈な《イメージ》、《強度》のあるイメージですが、目の前に見た光景ではなく、目の前で見たい光景です(「越えよ」の措辞からすれば、です)。

こうした《思いの中のイメージ》とでもいうべきアプローチも、この句集の特徴でしょう。これ、実際に作者が目にしたのか想像したのか、という問題ではなく。そういう「楽屋裏の真相」的な話ではなく、読んで受け取ることとして、です。

(「見たい」とは、想像・想望とは少し違います。それは「希求」ということであり、だからこそ、イメージに《強度》が備わります)

(熊野といえば、谷口智行さんを思い出しますが、イメージの成り立ちという意味で対照的かもしれません。ざっくり言えば、熊野イメージとの遠近。また句のたたずまいの点で、堀本裕樹さん=詩、谷口智行さん=俳、という感じ)


作中主体=作者が、句の中に登場する、さらに言えば、作者が光景(自然、事象、熊野…)に感応するという作りの句が多いのも特徴です。

以上の2つの要素……1 《希求されるイメージ・志向される強度》、2 そのなかで《感応する作中主体=作者》……によって、はっきりと特徴づけれる句集であり、作家だ思いました。

また、《ことば》のハンドリングといった分野に力が注がれるより、むしろ、語や措辞は《イメージ》のために供されるもの、といった位置関係です。このあたりは俳句全般にとって微妙で重要な問題なのですが、簡単にいえば、《イメージ》の愉悦か、《ことば》の愉悦か。二分法ではなく両極。

一例を挙げれば、「路地に干す血潮のごとき唐辛子」(同)などは、《イメージ》の愉悦を求める読者には強く訴えても、《ことば》の愉悦を重んじる読者には「直截すぎる直喩」でしょう(総じて、喩・措辞は直線的な作風です)。

いずれにせよ、『熊野曼陀羅』は、《イメージ》を志向するとの覚悟がはっきり見え、句群のポジション・作者のポジションが明確です。一定の意思・一定の狙いをもって俳句をつくるという部分が、作者にとって最重要。句が、句集が発表されれば、あとは読者のマターです。


ほか、気ままに何句か。

身を暮光つらぬくや鳴く田螺あり  同

はらわたに飼ひ殺したる目高かな  同

しろがねの蛇りんりんと穴に入る  同




2012/09/15

おろおろ2句

体重計に針のおろおろする秋暑  杉山久子

働かぬ蟻のおろおろ来りけり  西村麒麟

ともに『俳句』2010年11月号より。

部屋を片づけていて古い雑誌が出てきた、と思うかもしれませんが、違います。俳誌や句集から俳句を書き留めていたノートが出てきたのです。部屋の片づけ、というところは当たっています。

この1年くらい体重を気にしながらの暮らしなので、体重計の「おろおろ」、よくわかる、というか、毎晩のように見ています。針じゃなくて、7セグの数字だけど、このデジタル表示も「おろおろ」するのです。「おろおろおろおろっ」とちょっと素早く、ですが。

で、働くか働かないか。事情が許せば、好きなほうを選ぶのがいいです。怠けるのが好きな人は怠ける。でも、怠けるのが嫌い、働くのが大好き、という人も、世の中には多い。そういう人は、誰に憚ることなく、めいっぱい働くのがいいです。そうして、怠け者も幸せに暮らせるくらいの成果をあげてもらう。これで万事うまく収まるのです。

って、何言ってんだろう?

俳句の話だったんだよ。

2012/09/13

鴇田智哉「丘にゐた」15句、その市場性

一句目が

壜ならばすんなり秋が来てくれる  鴇田智哉(以下同)

こう「すんなり」入っていくところなど、新聞読者という広い層がきちんと意識されているなあ、と感心しました。

鴇田智哉さんの「丘にゐた」15句(朝日新聞 2012-9-11 夕刊)の話です。

「その夕刊、入手できなかった」という人も、こちらとかで全部読めます(便利です、インターネット)。

さて、2句目《水面ふたつ越えて高きにのぼりけり》は文語体。俳句プロパーの人は「高きに登る」を季語として捉えるけれど、ふだん俳句に接していない人も「高いところに」という一般的な意味で読んで、まったくもってだいじょぶな作りになっています。この2句で、広い読者層の「つかみ」はオッケー。なおかつ俳句プロパーにも「おお、どうなるんだ? この15句は」と期待させる雰囲気があります。

15句はバラエティ豊かです。《巣が蜘蛛のまはりへと波打つてゆく》《鶏頭が茎の真上に出てをりぬ》といったところは、俳句伝統が積み重ねてきた技法の集積(レガシーってやつですな)の上にきちんと乗っかった作り。「新聞読者」。朝日の夕刊の場合、300万人。これがきちんと意識されていると最初に言ったのは「伝統」部分も、今回の展示に含まれているから、というところが大きい。つまり、チャレンジングではない部分、俳句の歴史的集積とも仲良く手をつなぐぜ、という部分。それも含めた、15句のバランスの良さです。

ついでに言えば、《顔のあるところを秋の蚊に喰はる》は、伝統との折り合いよろしく、かつ21世紀的オシャレネス(いま造った造語)をも備えています。

バラエティ豊かとは、つまり、俳句をふだん読んでいない人に向かって、いろいろな手がかりが用意されている、ということです。この場合。

バランスがよいぶん、この15句、「鴇田成分」〔*1〕の含有量はそれほど多くない(まあ、鴇田さんのオールドファンからすると「並」の出来かな、と、ちょっと軽口・冗談です)。これはつまり、純度を少し犠牲にしても300万読者が優先的に意識されたのだろうと想像しています。


さて、ところで、《水澄みて自分のやうな人に会ふ》のような句は、どうでしょう? 水と来て、この中下だと、いやでもナルシスの神話を想起してしまうので、「ダメだろう! これは」と叫んでしまいますが、ちょっと冷静に考えてみれば、300万読者向けには、こういう直接的な連想を誘う句があってもいいのかな、と。そんなところまで計算に入っている! それほどまで、この15句は周到なのかもしれない、と思わされてしまいます。

この句の前に置かれた《ひとかげと九月の丘で入れかはる》は、モチーフ的には同様にやや直接的・明示的ですが、「丘」という設定がなんだか不思議さを残します。

このあたりについては、
…といった迫力のある分析もありますが、しかし、まあ、この手の俳句上の「実験」は、少し時間をゆったりとって見守るという態度も大切かな、と思っています。自己とか他者とかはもともと理屈っぽい世界なので、その分野の語彙と文法で評してしまうと、句の成り立ちが底割れして、そうなるとつまらなく見えてきたりします。


ともかく、全体には心地良い15句だし、「おっ」と思ってくれる、センスのいいシロウトさん(不遜な言い方w 私もどっぷり俳句プロパーなのかなあ)がたくさんいるのではないでしょうか。「俳句の人は、おもしろいところへ手を伸ばしているぞ」と。

 ●

「丘にゐた」はポップを狙った15句。喩えていえば、ふだん実験的なことをやっている暗いバンド(でも音楽の伝統を知っているし技術もあるミュージシャン)が、ちょっと聴きやすく調整したポップなチューンを、ラジオ・テレビの大メディアを通して伝える、という感じか。

いちばん残念なことは、俳句には、大きなマーケットがない。そのことだ。ここが音楽と違う。記事タイトルをせっかく「市場性」としたのに、わお! なんてこったい! という残念さです。

ほんと残念だけど、でも、数に倚むことはない。ポップは数じゃない。質なのです。「丘にゐて」15句には、愛と敬意を込めて「2012年型俳句ポップ」と名づけました。



〔*1〕
では、その「鴇田成分」とは? これにしっかりと答えるのは、まあ無理です。この場では、ほのめかしのような書き方になりますが、例えば、鴇田さんの俳句について加藤かな文さんが「ジェンガ」の喩えを使って提示した次のような把握。
その古い言葉の塔の重心を測りつつ、言葉の木片を次々と抜いていく。向こうの景色は透いて見えるのに、それでも塔は崩れない。(『俳句年鑑2009年版』)
これなどはかかり言い得て妙だと思います。

私が思うに、今回の15句のなかで《鴇田成分》の含有量が多いのは《目を使ふやうに蜻蛉を使ふなり》かなあ、と。

〔補記〕

朝日新聞やその他の大新聞に俳句欄があるのは知っている。今回は鴇田さんの作品だったが、ふだんからたくさんの人がそこで発表しているはずです。広い読者層に「俳句」が届く契機はたくさんあるということです。しかしながら、ふだん俳句にあまり接していない人が読んで、俳句にまつわる予見を固定化するような作品もきっと多いと想像します。「俳句と聞いて抱くイメージがますます凝り固まる。それだとつまらない。契機は多くても、契機を生かす作品は滅多にないのだと思います。

2012/09/12

滝の一滴

はじめにことわっておきますが、類想とか、まちがっても剽窃とかの話題ではありません。俳句というのは、類似・相同の2句が共に並び立つ可能性のある分野。可能性というのは、起こり得るという意味、そして肯定的に句の共存可能性、この2つの意味で。

さて、堀本裕樹句集『熊野曼陀羅』(2012年9月15日/文學の森)を読んでいたら、

  那智の滝われ一滴のしづくなり  堀本裕樹

すぐに思い出すのが、

  一滴の我一瀑を落ちにけり  相子智恵

これは『新撰21』(2010年10月/邑書林)。句が言いたいことは、似ている、というか同じだと思う。

お二人の作風は(おそらく)ずいぶん違います。それでも、このように隣り合うような2句が生まれてくるのが興味深い。生年は堀本氏が1974年、相子氏が1976年。同年代ですが、それが関係しているのか無関係なのか、よくわかりません。

ざっくりいえば、「われ」と「自然」の合一、と同時に「われ」の微小化という作用は、俳句においてしばしば起こることのようです。

野暮なことを言えば、技巧的な成功という意味では、後者のほうに分がある。とはいえ、前者の「なり」語尾の生硬さ、また「一滴」と「しづく」の重複は、傷とばかりは言えず、このへんの口調が作家性、堀本裕樹さんの作風を成り立たせているとも考えられるわけです。

ついでにいえば、この2句にある自然観・「われ」観、その表現、自分の趣味・好みの外にあるので(なんだかカッコよすぎるじゃないですか。愛嬌がない)、それほどこだわるつもりはないのですが、最初に言ったように、全体として大きく異なる作風のお二人なのに、この部分(自然と「われ」)では共通の根っこ、共通の参照(広い意味での参照)が見て取れる、というところに興味を引かれたのです。

で、その共通部分というのは、俳句というものの大きな幹の一部を成しているものかもしれません。


突然、一般的なことを言いますが、句は「点」を読むようなものです。句集はそれが「線」になる、複数の句集を読んでいくと、「面」に出会うことがある。なにかを《読むこと》は、おもしろいですね。

ついでに言えば、私たちは、俳句以外のものも読んでいるのですから、「面」が立体化する契機はつねにあるわけです。


で、話を戻せば、上に取り上げたような「われ⇔自然」観は、ヒンドゥ的とも言えるようなのですが、このへんを詳しく書くのは荷が重い。そのうち書けるかも、と、自分で楽しみにしておきます。


せっかくなので句集『熊野曼陀羅』について、近いうちにどこかに(このブログか週刊俳句)書きたいと思います。

2012/09/11

吹き替え口調

海外の映画・ドラマの日本語吹き替えというのは、「そんな日本語をしゃべる人はどこにもいない!」という独特の口調なわけです。例えば「なんてこった!」。実際にはまだ聞いたことがない。

私自身は海外のTVドラマはほとんど観ないし(というか皆無?)、映画も映画館かレンタルDVDで観るので日本語吹き替えをふだん耳にすることがないのですが、「吹き替え口調」を目で読めるところがあるのです。それは、スポーツ記事。海外の選手のインタビューの翻訳。これが「吹き替え口調」を字にした、という世界。

サッカーキング(http://www.soccer-king.jp/)というサイト。例えば、こんな感じ。
マイケル・オーウェン。ストークとの契約成立に。
「今日、新しい学校に息子と娘を連れて行ってね、その時に子供たちに言ったんだ。『今日はパパも含めた全員が、新しい学校に入るみたいなものだよ!』ってね。新しい人との出会いがたくさんあったし、そう感じたんだ。前にも経験があるけど、全員に挨拶をするには少し時間がかかる。でも僕はそれを楽しみにしているんだ」
http://www.soccer-king.jp/news/world/eng/20120907/70015.html
「(…)新しい学校に入るみたいなものだよ!』ってね」って…。

こういう「ってね」は、まずふだん聞かない。言う人がいたら、会ってみたい。

もうひとつ。“悪童”バートン。知らない選手。
「俺の中のチンパンジーが出てきてしまった。まったく自分自身に失望したよ。でも、理性が保てる状態ではなかったんだ。我々には降格の可能性があったし、相手はリーグ優勝が懸かっていた。それに、俺はQPRのキャプテンだったんだ」
http://www.soccer-king.jp/news/world/fra/20120911/70699.html
ま、こんな調子なわけです。

ところが、本日、ワールドカップ予選。対イラク戦直後のザッケローニ監督。これがですねえ、いつもと調子が違うのです。
「相手の出方がどうであれ、うちのサッカーができれば心配はないと思っていたんですけれども。相手は全員引いて守ってくるようなやり方で、若くて走力があって、コンディションがいいメンバーというのを出したわけですけれども。通常のスタメン組が出てきていれば、ああいった貢献というか仕事はできなかったのではないかと思います」
http://www.soccer-king.jp/news/japan/national/20120911/70553.html
わっ、59歳仕様!

いつもの吹き替え調じゃない。いつもと違うぶん、妙にコナレない感じもあって、コクが深いです。

ちなみに、香川くんがイギリスでのインタビューに日本語で答えて、通訳が英語に直して、それが記事になって、その記事が日本で、日本語になる、というややこしいパターンも出てきました。これはもう、「日本人が吹き替え口調でしゃべる」というコントとしか思えない事態が文字によって展開されましたですよ。
マンチェスター・Uの日本代表MF香川真司が、イギリス紙『ガーディアン』のインタビューに答えた。20日のエヴァートン戦で果たした念願のプレミアリーグデビューを、以下のように振り返っている。

「夢がついに叶ったよ。憧れのプレミアリーグでプレーしたんだ。試合には負けてしまったけど、もっとトレーニングを積んで、クラブに全力を捧げるよ。チー ムメートとも、もっとコミュニケーションをとりたい。そうすれば素晴らしい成果が自然についてくるって、確信しているんだ」と、プレミアデビューの感想を 語った香川。

 当日の心境を、「開幕戦の日は重大な1日だった。だけど、まったく緊張はしなかったよ。何度かいい場面はあったけど、ゴールにつながらなければあまり意 味はない。練習の感じから僕はベンチスタートだと思っていた。だけど僕の考えとは逆に、90分間フルにプレーさせてもらえたんだ」と明かした。

 さらに、次戦に向けて、「第2節のフルアム戦はすぐだ。愛するホームでの試合だよ。C大阪やドルトムント、日本代表でも経験しているけど、ホームゲーム の雰囲気や環境以上にクラブの力になってくれるものはないよ。このホームアドバンテージのほかに、僕が求めるものは何もない。あとは試合に勝つだけさ」と 語り、本拠地での初勝利を約束している。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120825-00000312-soccerk-socc
神戸出身の香川くんが「あとは試合に勝つだけさ」と締めくくるという…。

香川くんがプレミアリーグで活躍すれば、こういう記事にたくさんお目にかかれるはずです。活躍を期待しないわけにはいきません。

2012/09/10

某日日記 京急その他

八月某日。

広渡敬雄さんが角川俳句賞受賞の報。その翌日に届いた『沖』を、なんだろう?とめくると、広渡さんが週俳がらみで上田信治さんの100句(超新撰21)と『けむり』を取り上げてくださっている。このタイミング。悦ばしき偶然。

受賞のお祝い、そして句集紹介記事への感謝をハガキに書き、投函(一石二鳥のハガキ、という言い方は日本語として、ちょっとおかしい)。

yuki 氏も広渡さんにお目にかかったことがあるはずと思い、受賞のことを話題にする。「ほら、週俳のオフ会とかで…。いつもニコニコしている…」と説明すると、「ああ、あの?」と、わかるから、すごい。広渡さん・イコール・ニコニコ、なんだなあ。

九月某日。

週刊俳句・第280号に(って、ぜんぜん某日じゃないんだけど)、「るふらんくん」の10句と井口吾郎 さんの「沢庵自慢」10句。ロボットと人名回文句というユニークな(つまり変態的な)セット。当初、るふらんくんだけで行くはずが、思いがけず吾郎さんから入稿。じゃあ、セットだろう、と。これも偶然がもたらした愉快。

この号には、「郷愁 小池康生句集『旧の渚』の一句」を書きました。(≫読む)

九月某日。

週刊俳句・第281号に(って、ぜんぜん某日じゃないんだけど)、「真説温泉あんま芸者 第10回 引用のマナー 法や規則の以前に」を」を書きました。(≫読む)

(もうお気づきでしょうが、「消息」も兼ねています)

ついでにお伝えすると、ウラハイに、
「俳誌拝読 『静かな場所』No.9(2012年9月15日)」を書いています。(≫こちら) じつは、この記事に載せた写真、自分でちょっと気に入っています。

九月某日。

掲載場所を募集したものの(≫俳句、載せてください)、みごとにどこからも声がかからなかった「俳風昆虫記〔夏〕」。企画として、おもしろいと思ったんだけどなあ。

週刊俳句に相談しようかと迷っているうちに、いくにちか過ぎ、夏は過ぎ。

それでも、自分でいじくっているのは好きなので(昔のプラモデルみたいな感覚)、100句あまりを紙に並べて、小一時間。

九月某日。

新宿伊勢丹で「ホレンディッシェ・カカオシュトゥーベ」という絶対に憶えられない名前の店のバウムクーヘンを買い、それをおみやげに某所へ。

で、京急って、東京西郊に住んでいると、あんまり使うことがないのだが、プラットフォームのベンチに坐って、この電車をじっくり見ていると、どんどんかわいくなってくる。ファンが多いの、わかるわ。

九月某日。

神田・西田書店に、自分の句集『けむり』の在庫がどれくらいか確かめがてら(もし邪魔になっていたら引き取るつもりで)立ち寄る。某俳人2名様も偶然そこに。数十分のよもやま話が愉しい(ちょこっと重要な話もあったりする)。

で、『けむり』は、思っていたよりも在庫が少ないことがわかり、自宅にあるぶんを大事にしようと思ったことでした。


2012/09/07

な、なんと、実例が

8月21日の記事で、
俳句甲子園というのは、上記の「おとなげない」をはじめとする《安全に語る語り方》というのが確かにあって(これが問題だと思うのですが)、それから逸れたことを言うと、しばしばヒステリックな反駁に遭う。
…と書いたところ…

匿名さんのコメント

まさに実例が、当のその記事に飛び込んでくるとは!

可笑しすぎる。

(スパム判定でbloggerに削除されてしまう可能性があるので、見るなら今のうちです)


俳句甲子園の関係者の方なんでしょうか。

この記事が「非難」? ヒステリックなだけでなく、日本語を読めていない、という痛々しさです。


2012/09/06

観くらべ 第19番 死

予約したDVDをTSUTAYAが2本ずつ郵送で送ってくれるサービス。その2本に勝ち負けを付けるという、ヘンテコリンなシリーズの第19弾。送られてくる2本は、自分が予約していることにはいるのですが、組み合わせには偶然の要素が大きい。にもかかわらず、2本の映画に共通項が見出だせる不思議。というか、世の中のもの、どんな2つにもなんらかの共通項があるということか。ともかく、今回の2本は、ドイツ、ヨーロッパとアジア(イスラム)、死、と、いくつものの共通項があるですよ。

ミュンヘン スティーブン・スピルバーグ監督/2005年

そして、私たちは愛に帰る ファティ・アキン監督/2007年

「ミュンヘン」は1972年のミュンヘン五輪で起きたパレスチナ・ゲリラによるイスラエル選手殺害事件。その報復にイスラエル諜報機関モサドが秘密暗殺チームを組織、ヨーロッパ各地で暗殺を遂行していくというスパイもののような政治もののような。

緊迫感もあり、登場人物の魅力もあり。とりわけマチュー・アマルリック(「潜水服は蝶の夢を見る」の人ね)の一家。フランスの田舎で暮らしながら闇社会の情報に通じているという一家は「白猫・黒猫」(エミール・クストリッツァ)を思い出したりして、コク深。ただ、ラストに救いはない。殺人・謀殺に救いはないといいうメッセージなのか(単純に受け取れば)。

邦題が最悪な「そして、私たちは愛に帰る」(英題「The Edge of Heaven」)は、ブレーメンとイスタンブールを舞台に3組の親子のすれ違い(いくつかの意味のすれ違い)を描く。監督のファティ・アキンは「太陽に恋して」「ソウル・キッチン」が素晴らしかった(というか大好きな)監督。

ストーリー上の重要なポイントになる「死」が、なんともあっけないのは、「ミュンヘン」と大違い。「ミュンヘン」はテロであり謀殺ですからね。しかし/だからこそ、「そして~」の「死」はリアルで無常観溢れる。

どうもファティ・アキンのことを、私はかなり好きらしく、どの画面も、その展開も、じわっと来る。勝敗は「そして、私たちは愛に帰る」の勝ち。

でもね、映画で何を見せるのかという点で、この2本の映画は、じつは比べるのに無理がある。言い換えれば、映画で何を見たいのかという観客の態度にも関わる。

ちなみに、wikipediaによれば「そして、私たちは愛に帰る」は映画館大賞「映画館スタッフが選ぶ、2008年に最もスクリーンで輝いた映画」第85位、とある。えらく低いな。その年のランキングを見て(≫こちら)、ふにゃっと力が抜けた。

観てないのももちろんたくさんありますが、「ぐるりのこと。」(第2位)は好きな映画だから、まあいいとして(それにしても2位か!)、「おくりびと」(第3位)! 「崖の上のポニョ」(第10位)! ほかいろいろキリがありません。このへんと比べて10倍から100倍は良いです、「そして、私たちは愛に帰る」は。



2012/09/05

観くらべ 第18番 対戦

予約したDVDをTSUTAYAが2本ずつ郵送で送ってくれるサービス。その2本に勝ち負けを付けるという、ヘンテコリンなシリーズの第18弾です。

ボビー・フィッシャーを探して スティーブン・ザイリアン監督/1993年

ガールファイト カリン・クサマ監督/2000年

「ボビー・フィッシャーを探して」はチェスの天才少年の話。実話をベースに素晴らしい才能、素晴らしい人格を描くのが、アメリカ人は好きですね。で、だいたいはそこそこの出来栄えになるってのはやはりアメリカ映画の地力でしょうか。考えてみれば、実際に素晴らしく生きた人をモデルにしながら、ダメな映画を作ってたんじゃあ、リアルな冒瀆になってしまうわけで、そのへんは覚悟したうえで映画化するのでしょう。

チェスの世界は知らないのですが、対戦シーンの見せ方がスペクタクル。公園の賭けチェスの強者(ローレンス・フィッシュバーン)なども含め、実話にしては「ほんとに? まあ脚色だろうな」という、物語的な材料が揃ってもいて、飽きません。

「ガールファイト」は、17歳の女子高生がボクシングにのめり込んでいく話。主役のミシェル・ロドリゲス目当てに借りた映画。



そう、あの「マチェーテ」 (2010)のミシェル・ロドリゲス。「ガールファイト」はデビュー作らしく、二十歳そこそこ。「マチェーテ」のような眼福シーンを期待すると、ちょっと物足りない。

映画自体は、意外にマジメで(というと悪いか。でもいかにも企画モノっぽい設定でしょ?)、感じのいい映画。


そこで勝敗ですが、「ガールファイト」は、恋人との試合になってしまうという展開は、ちょっと無理があるかなあ、と。「ボビー・フィッシャーを探して」の辛勝。どちらも、観て損、という感じはありません。よく出来ていて、楽しめます。

2012/09/02

消息 なんぢや他

●『なんぢや』第18号(2012年8月27日)に「握手」5句

榎本享(えのもと・みち)さんが発行人の同人誌に、5句+短文、寄稿させていただいています。


●週刊俳句・第280号に「郷愁 小池康生句集『旧の渚』の一句」を書きました。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/09/blog-post_2.html


2012/09/01

目黒川から西郷山へ

いわゆる吟行です。

中目黒駅から目黒川沿いに、目的地は西郷山。


病葉っすか?

目黒川沿いは、おしゃれな店が建ち並び、入る機会はこのさきも訪れそうにありませんが、「ほおほお」と眺めながら歩くのは気持ちがいい。


しかし、いつからこうなっちゃったんでしょう?

道を入ると、青葉台ほか住宅街。お金持ち!といった邸が多い。


雨がぱらついたと思ったら、晴れて、そうなると蒸す。残暑厳しい土曜日です。

  ぼた餅のやうだこのあたりの残暑  10key

西郷山は、丘といったほうがいいのかもしれませんが、上まで登れば、そこはやはり山頂で、ビルが見下ろせたりするのです。

  山頂がまんまる九月一日の  10key


2012/08/30

某日日記 句会その他

八月某日。

カーラジオからピストン西沢のDJ-MIX。気持ちいいことこのうえない。成分曲を調べると、1973年の「Shaft in Africa」という映画のサントラ。



「うんうん、これこれ」と上機嫌で聴いていたベースは、チャック・レイニーであったことが判明。「うんうん」と、あらためて。


八月某日。

くにたち句会。席題8題。25句ほど投句。考えずに俳句が作れたのは久しぶりのような気がする。故・田沼文雄さんの教えは、「俳句? 考えない考えない」。これがなかなか難しい。

句会後、俳句の話があまり出ないのが、この句会の特徴(私の行く句会はだいたいそう)。句会のあいだ、さんざっぱら俳句の話をしているのだから、終わったら当然、別の話でしょ?と思っていたが、これは、どちらかというと異例らしい(句会後も俳句の話をする句会が多いらしい。そういえば…)。

この夜は、例えば、某若者の内面における架空妻vsリアル女医といった問題からだったか、そうじゃなかったか、なぜかその方面に針が振れ、フーコー的観点も見え隠れしながら、最後は獣姦まで。淑女も交え、広範かつディープに話題が展開したのでありました。


八月某日。

某誌より依頼の八田木枯さん追悼文を締切ぎりぎりに書き、送稿。はなはだ心許ない。昨年3月19日に木枯さんが亡くなってから、思い出話などを、例えばブログや mixi などにほとんど書いていないと思う。書きたくなかったのは「もったいない」からだった。私が木枯さんと接したのは、ほんのわずかな時間だったが、それでもいくつかの思い出はある。それは、たくさんの人に披瀝せず、自分ひとりで大事に持っておきたい。それが、もったいないという感情。

追悼文は何を書けばいいのかわからない。木枯さんの俳句については、エラい人がたくさん書くだろうから、私などが書くことはない。書けるとも思わない。結局、小さな思い出話と木枯さんへの思いを綴ることになった。それでよかったのかどうか。よくわからないが、もう送稿しちゃったから、しかたない。諦めて覚悟を決めることにする。

2012/08/27

消息 千の眼

週刊俳句・第279号に、「夜空 谷口摩耶句集『鏡』の一句」 を書きました。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/08/blog-post_26.html

句集評というと、句集の全体を論じる/評するようでヘヴィーかつハードルが高い。紹介に近いレビューというスタイルなら、ある程度、負担なく書ける。

句は引用しすぎない、が原則。というか、好み。たくさん引用すると、それだけで全部読んだ気になる。「もっと読んでみたい」と思わせるのがレビューの本旨、ではないか、と。そうなってるといいのですが。


ウラハイに〔今週号の表紙〕第279号 夜は千の目を持つ を書きました。
http://hw02.blogspot.jp/2012/08/279.html


The Night Has a Thousand Eyes は同タイトルでまったく別の2曲があり、小説、映画との関係もややこしい。その話はまたいつか書くか書かないか、わからないけれど、今日はジャズっぽいほうの曲の、まだ暑いことだしボサノヴァ調の版を。


2012/08/26

俳句、載せてください

俳句を掲載してくださる媒体を探しています。

 俳風昆虫記〔夏〕
 Fabulous Insect Adventure 64句(100句オーダーにも対応)

新作・未発表句だけでなく、既発表(改稿)も含みます(スピカ掲載の「虫の生活」、句集『けむり』等)。

掲載媒体

ネット上のウェブサイト/ウェブマガジン/俳句系ブログ…どこでも結構です(個人ブログは除く:ふつうオファーはないでしょうけれど、念の為ね)。

紙媒体:「来年の夏号で」というお申し出もご遠慮なく。

お申し出の期限:今週の金曜日(2012年8月31日)まで。
※先着順で決定ということはありません。

ご連絡・お問い合わせは tenki.saibara@gmail.com まで。

掲載料は、恐縮ですが「無料」でお願いできれば、と。


※どこからもお申し出がないときは、悲しい……って、その話じゃなくて、週俳に泣きつく用意も。泣きつかれても困る、という声も。

2012/08/25

ごぢやごぢや言ふな

こういう記事が出て、


知っている名前だから、ざわざわする俳人さんたちでありましたが、


御意御意。


そんなことくらいでごじゃごじゃ言うな、と。

土曜日午後を自宅でゆっくり過ごす一俳句愛好者は思いましたですよ。

自分濃度、ひゃっ、ひゃくぱーせんとー?

矢野風狂子さんが、私の記事「自由律俳句・断章」を受けて、「私が《自分からの自由》に利用するのは「写生」です。」とツイート。

へえ、自由律俳人も、そんなことを考えるんだー!と少々驚き、その後のツイートに注目。質問を入れて、考えを聞かせていただいた。それをまとめたのが、これ↓

@fu_kyo さんによる《自分からの自由》《写生》《定型・自由律》

http://togetter.com/li/361047

どうなるのかと経緯を追っていたら、どうも雲行きがあやしい。で…




えー! 思いっきり、「自分」に行っとるやんけ~!

と、まあ、びっくりするやら、力が抜けるやら、です。

つまり、「自分濃度100%」で行きたいけど、それじゃあまりに恥ずかしいし、読者にはつまらないだろうから、「自分濃度」を薄めるために《自分からの自由》をちょこっと混ぜますわ、ということですから、最初に抱いた私の関心は、いったいなんだったのでしょう?

風狂子さんは、《自分コンシャス》を全面的に受け入れていらっしゃるようです。それならそれで、そこを貫けばいいと思うのですが、「それだけだと、ほ ら、読者が…」というのは、合コンで、自分の話だけしてモテたいけど、それだと嫌われるみたいだから、違う話もするね、みたいな話でしょう。

それにですね、「ここが天気さんのいわれる「含羞」の部分(あくまで僕なりの「含羞」ですが)」って、ぜんぜん違いますからw 「自分濃度100%」って時点で、含羞ゼロですから。

風狂子さんは、マジメなのか、ふざけているのか、私がからかわれているだけのか。そこはもう、なにがなんだかわかりません。

私がだまされ、からかわれてるだけだとしても、だいじょうぶ、「私の青春を返して!」などとは言いません。



上記の「まとめ」のあと、「写生」や五七五についてもコメントややりとりががあるのですが、「え? 定型の人は削っていって五七五にするんじゃないの?」といった驚きを見せる風狂子さんがいて、こっちのほうがよっぽど吃驚しましたぜ、という感じです。

ひょっとして、削るのがもったいないと思った人が、長い系の自由律に行くんですか? 教えて、自由な人。

写生に関する部分も、なんだか、《世界》を描写するには、地球の表面積と同じ大きさのスクリーンがベスト、みたいで、それはそれで「シミュラークルとシミュレーション」ぽくて刺激的ですが、文芸でそれだと大変です。



まあ、そんなこんななわけですが、ひとつ、要点は、風狂子さんに限らず、《自分コンシャス》っぽい俳人さんは、「自分濃度」の濃淡は別にして、基本的には、読者が、作者に興味をもつ、と信じているフシがあるところです。

念の為に言っておくと、これ、有季定型も無縁じゃなく、日常のつぶやき+季語、人生訓+季語、私ってこんな人+季語、といった俳句は少なくないのです。「自分なりの表現」「自分なりの感性」といったワケのわからないことを言う人も、その部類です。

でもね、ふつう、読者は、俳句(ことば)に関心はあっても、それを書いた「どっかの人」になんて興味はありません。

「あんたの話はいいから。俳句がどうか、だから」。

それが読者の気持ちなんじゃないですか。

特定の俳人を好むというのは、その人名義の俳句が、読んでおもしろかったという積み重ねの信頼が基盤。その意味では、作者名は商標みたいなものです(これは週俳掲載の 俳句のなかの「私」 に書いた)。



どうも、これは、おもしろい自由律俳句に出会うのが、私にとって先決かもしれませんね。こんど自由律の話をするとしたら(しないかもしれない)、その話ですかね。

2012/08/24

【再掲】くにたち句会 8月のお知らせ

2012年8月26日(日)

14:00 JR国立駅南口集合

句会場所:いつものキャットフィッシュ

席題10題程度。よろしければ句会後の飲食も(会費アリ)。

ご常連様も、久しぶりの方も、初めての方も、よろしくどうぞ。

2012/08/23

消息 芸者その他

真説温泉あんま芸者 第9回 俳句のなかの「私」:週刊俳句・第278号 を書きました。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/08/9.html

真説温泉あんま芸者シリーズは前回が2011年1月16日。1年半ぶりだったんですね。

若手女流俳人であり作家の石原ユキオによる憑依俳句。そして、自由律俳句!

《私》という微妙かつヘヴィーな問題を、カジュアルに(いいかげんな感じで)書きました。


でもね、こういうの、領土問題と同じで、俎上に載せない、議論しないことで平和が維持されているというオトナの差配・オトナの事情があったのかもしれませんね。


俳誌拝読 『里』2012年2月号:ウラハイ を書きました。
http://hw02.blogspot.jp/2012/08/20122.html


なお、俳誌や句集、俳句関連書のレビューは、週刊俳句で広く募集しているのですが、なかなか集まらず、内製です。

スタイルを問われないレビューって書いてておもしろいですよー。ちょっとした暇つぶしに、また俳壇ジャーナリズム(ぷっw)体験として、皆様にオススメです。

2012/08/22

その後

1日で2000view超え、って。

「俳句甲子園のレベル?」http://togetter.com/li/358959 アホみたいな伸び。

振り返ると、最初のツイート、@sekihan さんの「酷評」がいちばん心優しいような気もしてまいります。高校生を一人前の作者と見ていらっしゃるわけですから。

心配される方も多いようですが、当の高校生諸君は、何を言われても大丈夫ですよ。世間知らずで生意気だから。

私もそうだったし、みなさんもそうだったでしょ? 「世間知らず」と「生意気」が高校生の仕事みたいなものです。

それとは裏腹に、俳句高校生たちには、馴化されたようなところがあります。@kitaoojitsubasa さんの「憤り」には納得であります。ただし、オトナ俳人にも馴化は多い。年齢じゃないよ、ってことですか?


関係者の皆様、お疲れ様でございました。「ご当地応援俳句」シリーズというものが私にはありまして、それをもって今回の話題は打ち切り。

  愛媛県俳句以外もがんばれよ  10 key



前記事:俳句甲子園を安全に語る方法
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2012/08/blog-post_21.html

2012/08/21

俳句甲子園を安全に語る方法

ますはじめに言っておきたいのは、私は、俳句甲子園にほとんど関心がなく、あまり知らないということだ(ここ、「マツコ&有吉の怒り新党」新・3大○○調査会のナレーション調で)。

関心がなくて知らないなら書くな、って? まあまあ、そうおっしゃらずに、そういう視点も何かの役に立つかもしれない。

俳句甲子園という名は昔から聞いたことがあるような気がしていたが、はっきり存在を知ったのは、週刊俳句の当番をやりはじめる少し前(2006年)くらいか。今では、しくみはなんとなく知っているし、開成があんまり強いんで、敵役の位置づけになってることも知ってる(2チーム出ているのは最近知った。開成Aと開成Bで決勝になったら、どうすんの? みんな引くよ)。それくらいの知識はあるのですが、実際に「対戦」を見たのは、何年か前、YouTubeで数分のみ。

これまでどんな句が登場したのかも、あまり知らない。週俳の縁で、俳句甲子園に出たことのある若手俳人とたまに話をするようになり、その関係で、彼らの俳句甲子園時代の句を知っているが、その数句程度(いま週俳の当番をやっている村越敦君の《それぞれに花火を待つてゐる呼吸》とかネ)。

で、そんな私にも、ツイッター上で、俳句甲子園の話題が流れてくる。ちょっと興味深い展開があったので、まとめてみた。

≫ 「俳句甲子園のレベル?」 http://togetter.com/li/358959

sekihanさんの、レベル低すぎ、自信満々風に擁護するこましゃくれたディベートとやら、といった、いわゆるdisりに端を発したもの。

私自身は、その次のツイート「若者は俳句を捨てよ、街に出よ。せっかくの夏休み、他にやることはないのかしらん。」のほうがむしろsekihanさんの言いたいことなのではないかなあと想像する。

私も少しそう思った。「若い身空で何が悲しうて俳句なんぞを」と、俳句甲子園に限らず若い俳人さんたちを見て、思ったものだが、「おまえはどうなんだ?」と訊かれたら、「年取ってからだから、悲しくない」と胸を張って答えられない。それに、何をしようが大きなお世話なので、言わない。いつ何と出会って、どうハマってしまうかは偶然に過ぎないのだ。

話を戻そう。上に挙げたツイッターのまとめは「誰でも編集可能」にしてあるので、まだ増えるかもしれない。このさき別の展開があるかもしれないが、現時点では、「高校生がやることに、おとなげないことを言うものじゃない」といった意見が多い。

それはそうなのだが、「おとなげない」というセリフは、子どものテーマを扱うときは、最強の抑止力になる。「オトナとして、やさしく見守ってやればいいじゃないか」といった心優しい態度は、じつは凶暴に言論を封殺する(大袈裟に言えばだけど)。ツイッターでも書いたが、苦言が出てきてもいいじゃないですか。「素晴らしい」ばかりじゃ、気持ち悪い。

俳句甲子園というのは、上記の「おとなげない」をはじめとする《安全に語る語り方》というのが確かにあって(これが問題だと思うのですが)、それから逸れたことを言うと、しばしばヒステリックな反駁に遭う。

週刊俳句で、以前、佐藤文香さんが俳句甲子園のレポートを書いたところ(≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2009/08/blog-post_16.html)、コメント欄が少々荒れた(記事の下に延々と並ぶコメントを参照)。

これはまあ、佐藤さんがみずからのチームの勝敗や判定に触れたものだったので、なんらかの反駁が来るのは予想できたが、かなりの粘着ぶりでありました。

さらに、ウラハイで私が、上記佐藤記事に触れたところ(≫http://hw02.blogspot.jp/2009/08/blog-post_3256.html)、またもやコメント欄でゲンナリするやりとりに。

コメント主の名義が「シキ」とか「ノボル」とか。松山の方ですか、俳句甲子園の関係者ですか、との類推を呼び(もちろん断定はできません)、そうだとすると、さらにゲンナリ疲れてしまうのであります。

数例の出来事で、何かを判断するのは不適切かもれませんが、どうも、俳句甲子園というのは、きれいごとでしか語れない、語らせないところがある。だとしたら、かなり気色悪い状態でしょう。なんなんでしょうね。この雰囲気は。

これは、参加している高校生の問題ではありません。オトナの問題です。

別に、disれ、けなせ、と言っているのではありません。ついでにいえば、私自身は、俳句甲子園が悪いとも良いとも思わない。disるネタもないし、けなす話題も持ち合わせていないから。

ただ、「素晴らしい若者たちが素晴らしい俳句に出会う素晴らしい場、素晴らしい先輩たちや素晴らしい先生方に囲まれて素晴らしい時間を過ごす」といった語り口以外の意見もあっていいよな、とは思います。

そして、こうした《「素晴らしさ」強制力》を居心地悪く思っている高校生や俳句甲子園出身者もいるのではないか。私が知っている俳句甲子園出身者に関するかぎり、彼ら当事者は、むしろ醒めています。《素晴らしい症候群》には罹っていないのです。



さて、俳句甲子園をあまり知らない私も、俳句甲子園出身者から感想を訊かれたりします。外から見てどのように見えるものなのか、彼らも知りたいのです。数分間のYouTube観戦だけですが、正直にそのときの感想を言いました。

「出てきた句は忘れたが、サラリーマンがコンペでプレゼンしているみたいだった」。

なぜそう思ったのか。きっと、互いに言葉が、対戦相手にではなく、クライアント(審査員と聴衆)に向かっていたからです。これは対話ではなく、もしかしたらディベートでもない。それぞれのチームがクライアントに向かってプラン(句)を提示し、競合の別プランと比べていかに優れているか、さらにいえばクライアント(審査員)にとって、この句を選ぶことが、いかに適切な選択であるかを説得する。当然ながら、このように見えたのは、対戦システムのせいで、高校生諸君のせいではありません。

それともうひとつ、サラリーマンのように見えたのは、既存の評価基準への従順を強いられているせいでもあるようです。これも、高校生諸君のせいではありません。



もうひとつ余談として。俳句甲子園出身で今も俳句を続けている人を何人か知っていると先程も言いましたが、「俳句甲子園」という出自をどう捉えているかは、各自大きく違うようです。これは内面の話。

「俳句甲子園」という自分の過去を、引きずる、誇る、利用する、疎んじる、それらが本音かポーズか…等々、各自がたいそう複雑に異なるようなのです(私が充分に理解しているとは言いません。見ていて、話していての感想です)。



私自身、俳句甲子園に関心がなくとも、俳句甲子園が、俳句世間の現在のありように大きな影響を与えているとの認識ははっきり持っています。俳句甲子園がなければ、俳句世間の風景は、今とはまったく違ったものだったでしょう。

その意味でも、俳句甲子園は、夏の風物詩、俳句好きの十代の少年少女がたくさんいることにオトナが安心する行事というだけでは捉え切れないものを抱えているように思います。もう少し批評の言説でもって語られることも必要かもしれません。


《参考記事》 俳句甲子園出身者の今の気持ち、というか機微がうかがえる座談記事です。

俳句甲子園の思い出① 村越敦×千倉由穂×高崎義邦×神野紗希×野口る理
http://spica819.main.jp/yomiau/7738.html
俳句甲子園の話②
http://spica819.main.jp/yomiau/7795.html

2012/08/19

文語体か口語体か

さて、ここで問題です。次の句は文語体? それとも口語体?

  蛇口の構造に関する論考蛭泳ぐ  小澤實

答えは、「どちらでもない」。

ついでに爽波も見てみましょうか。小川春休さんの「朝の爽波」第28回で取り上げられている7句。

雪兎作つて溶けて如意ケ嶽 →文・口どちらでもない。調子は口語っぽい。

煙草盆火を埋めて草芳しや →文語体

落ちてゐる明智の森の古巣かな →文語体

洩るがまま溢るがままの桶日永 →文語体

葭切の戸を押してくる見舞人 →文・口どちらでもない。

柿の木のいつまで滴らす喜雨しづく →文・口どちらでもない。調子は口語っぽい。

箒草蝶の骸の沈みゐし →文語体

7句のうち3句は、文語体でも口語体でもない。


はい、このように、一句一句を見ると、文語体でも口語体でもない句は存外多い。これ、当たり前のことを言っているだけです。

なぜ、当たり前のことをわざわざ書くのかといえば、文語体・口語体どちらでもない句がたくさんあるのに、「私は文語体だ」「あの人は口語体だ」とかといった姿勢や作風にそんなにこだわってもしかたない部分もありますわな、というわけなのです。

もちろん、口語体が、いわゆる作家性の主成分であるかのような作家はいます。たいていの人がすぐに思いつくのは、例えば池田澄子さんでしょう。ただ、作家の「文体」は、文語/口語の二分法で割り切れるほど大雑把じゃない。


文語体でも口語体でもない句はたくさんある。これは屁理屈ですし、一面を言ったに過ぎない(問題となるのは、文語体・口語体の違いが出る場合の話だから)。

でも、あんまりしゃっちこばって、文語体で行くのか? それとも口語体か? と見構える必要もないのではないでしょう。

(文語体だからダメ、口語体からダメ、という予見に支配された狭量な読者は、とりあえず相手にしなければいいのです)

そのときそのとき体が欲するものを食べていれば、まずまず健康に過ごせるでしょう、という程度に。

(喩えがヘンか)

2012/08/18

観くらべ 第17番 資本主義

世の中には、どこからこれだけのオカネが湧いてくるんだろうという大富豪もいれば、その日の食費も心配な貧乏もいる。当たり前の事実を言っていますが、はい、予約したDVDをTSUTAYAが2本ずつ郵送で送ってくれるサービス。その2本に勝ち負けを付けるという、ヘンテコリンなシリーズの第17弾です。

ジョー・ブラックをよろしく(マーティン・ブレスト監督/1998年)



ファーストフード・ネイション(リチャード・リンクレイター監督/2006年)

「ジョー・ブラックをよろしく」をひとことで言うと、死神のホリデー・ロマンス。死神(ジョー・ブラック)役のブラッド・ピットのちっちゃな子どものような笑顔(これ、ほんとに魅力的なんですよね)、取り憑かれる大富豪役のアンソニー・ホプキンスの、一流の人間をやらしたら誰にもひけをとらないセリフや表情、立ち居振る舞い、どちらも満喫できる映画。

ちょっと考えてみると、死神という超常的な存在=B・ピットにナイーヴネス(生硬)、モータルな(死すべき)存在=A・ホプキンスに洗練という属性を結びつけている点、意外に深い、とも思えてきましたが、映画全体の感触は、いかにも米国、ハリウッド的(と言っていいのだろうか)。「これが人生♪」なヒューマン映画でもありましょう。楽しめました。

しかし半面、「所詮、大金持ちの話でしょ」とヤサグレたくもなる。「この素晴らしい世界♪」と歌われてもなあ、そりゃあんたにとっては素晴らしいだろうけど、とシラケる部分もある。とりわけ、下記で述べる「ファーストフード・ネイション」を見てしまうと…。


「ファーストフード~」は、ハンバーガー生産の裏側、ということでノンフィクション的な映画かと思いきや、存外、劇映画っぽい。精肉工場で働くメキシカン(違法越境労働者)のありさまがリアル。といっても重苦しくなく、メッセージ性は濃過ぎない(それはそれで問題か)。

この映画を観てしまったので、このさき、ハンバーガーはよほどのことでないと食べられない(これまでもあまり食べていないんだけれどね)。

で、勝敗なのですが、引き分け。

なんかねえ、世の中、どちらもあるんだなあ、と。

こう書くと、のんき過ぎますが、資本主義の世界で、金持ちでもなく極貧でもなく、幸せでも不幸せでもなく、テキトーに暮らしている者としては、どちらの映画もこの世の一様相ではあるな、と、興味深く楽しみました。

なお、マーティン・ブレストは、「ビバリーヒルズ・コップ」という大ヒット作の監督。これよりも「ミッドナイト・ラン」がとても良かった。リチャード・リンクレイターは「恋人までの距離(ディスタンス)」「スクール・オブ・ロック」「ビフォア・サンセット」がとても良かった監督。



2012/08/17

自由律俳句・断章【補足】

拙記事「自由律俳句・断章」後に、藤井雪兎さん(「層雲」同人)が解説を加えてくださった。
http://togetter.com/li/356730
(…)「うまくやったな」というパターンは当然出て来るわけでして。そうなると真似し出す人も出て来る。そしてそのパターンは広まって、やがて定着する。(…) 
なるほどです。私がかいつまんだ《規範→自由→自由の規範化》は、外(規範)との関係ですが、それよりもむしろ自由律俳句内部での《成功→追随→普及》。気取っていえば《モードの陳腐化》と捉えたほうが現実的で的確のようです。
今はその「自由律の定型」がそれなりにあり、昔より自由律俳句は作りやすくなったのですが、逆にそこから外れた句はあまり評価されなかったりします。
作句も評価もプロトコル化して(やたら「~化」を使ってますね)、固定化する。このへんは、いわゆる有季定型と同様の事情です。


一見して違いの際立つ2つのもの(今回は自由律と定型)の、共通するところを見ていくのもいいかもしれません。

2012/08/16

自由律俳句・断章

自由律俳句の話題がツイッター上で展開された。「なるほどなあ」と参考になる部分が多かった。

ふだんはいわゆる定型の句に多く接している自分は、自由律俳句についてはなはだ不案内です。でも、拒否感はない。俳句の読み書きにおいて、書くものは限定されるが(誰でもそうだろう。その人の書く俳句には一定の傾向がある)、読むについて限定はないのです(俳句はナンデモアリっすよ)。また融通無碍な成果主義(書き手の信条や系譜などはどうでもいい、その人から出てくる句がおもしろければそれでいい)。

覚書として書き留めておこうと思いますが、ツイッターほかでの議論の全体がわかっているわけではないので、断章。


一般に、規範からの逸脱、規範からの自由を当初めざしたものが、やがて規範となってしまう。自由の規範化、逸脱の規範化という、ある種の本末転倒、倒錯はめずらしいことではありません。

ところで、いわゆる有季定型、作風としても穏当な句(群)に「自在」を感じる作家も多い。定型に不自由を感じさせない。もちろんそうでない場合も多い。これはもう書き手による。

一方、口語がもっぱらとなった自由律俳句にもし「自在」が希薄だとすれば、それは反語的に「自由による束縛」という不幸に見舞われていることになる。これもまた書き手によるのだろう。

さて、上記ツイートに文語・口語とあるのは、今回の話題の発端が、自由律俳句集団 『鉄塊のブログに掲載された記事「I Don't Wanna Grow Up」の次の部分だったから。
定型との合同句会の締め切りは間に合わず深夜になってから送った。/定型俳句で「けり」とか使ったけど自分じゃないみたいで気持ち悪い。やっぱ普段使わない言葉を使うのはおかしいよ。定型の人は、最初はみんな慣れないとか言うのだろうけど、腑に落ちない。俳号や自愛が肥大化して気にならなくなるのかも知れない。なんかの病理だ。
「気持ち悪い」というのは違和感ということでしょう。俳句をつくるとき、こうした実感部分は大事です。

しかしながら、「普段使わない言葉」だから違和感があるのかどうかは、ちょっと考えどころです。言い換えれば、普段使っている言葉なら、気持ち悪くないのか、違和感はないのか、ということです。

俳句(定型でも自由律でもなんでも)のようなもの(まあ、文芸です、創作です)を書く、それが他人様の目に触れるということは、しばしば、気持ち悪さや違和感を伴います。

だって、思春期をとっくに過ぎたオトナがリリカルな趣を醸し出しちゃったり、「自分語り」の要約+季語(あるいは無季)といった内容だったりするわけですから。一方、それが気恥ずかしくて、一発ギャグのような作風へと走ってみたものの、それはそれで「なんでわざわざ五七五に?」という冷静な反応の仕打ちにあったりします。

このあたりは文語・口語、定型・非定型の如何にかかわらず、ついてまわるわけです。

俳句に携わる、俳句を遊ぶとは、それを乗り越えるなり、解消するなりの「処理」が施されていることだと思っています。

よく初心者(であろう人)の句に「恥ずかしい」感じが漂うのは、拙いからというより、本来的に存在するはずの気持ち悪さ・違和感に無自覚というのが大きい。気づかないうちは、技術的に解消されることもありません。


「恥ずかしいなら書かなければいいんじゃあないの?」という冷徹な意見は、私もいっしょに受け止めますが、そこはそれ、恥を乗り越えて到達する人生のコクというものもありますし、俳句というのは、続けていると、書き手とは別に読み手のマターであるということがだんだんわかってくる。読んでおもしがる人が一人いれば書いてやろうじゃないの、と。別に減るもんじゃないし、と。

俳句を続けるとは、読者に出会うこと、ともいえる。これは最初のうち、なかなか気づかない。

話を戻すと、風狂(ヤノカツ)さんのおっしゃる「詩」は、まず置いておいて(私は、俳句を詩と考えていない。俳句は俳句。その話はややこしくなるのでやめておく)、「せめてバサバサに乾いた詩」という部分。

ドライな俳句、ウェットな俳句。これは書き手によるのでしょうが、全体に、自由律のほうがウェットと感じています(その判断が正しいかどうかは知りませんが、自分の印象として)。

なぜなんだろうと考えてみると、ひとつには、《自分》コンシャスという要素。どうも、そこから来る湿度、という部分が大きいようです。

書き手のなかの《自分》が句の中で幅を利かせると、叙情しようが、笑おうが、悲しもうが、怒ろうが、叫ぼうが、囁こうが、結果、ウェットになる。

ちょっと飛躍して言うと、《自分》なんて監獄です。《自分》から自由になれるなら、有季定型だろうが、自由律だろうが、なんだってかまわない。って書いてから、これはまた別の大きなテーマだと気づきました。

少しだけ書いておくと、この自分からの自由》に、定型を利用している人が多いのではないかということです(私もそう)。例えば、自分がどう考え、自分がどう思うか、それを書かないための定型。言い換えれば、自分では考えてもみなかったこと、思ってもみなかったことを経験するための定型。舌足らずですが、そんな感じです。

その点で、定型を用いない自由律俳句は、どのように対処しているのか。興味が湧きます。

というわけで、自由律俳句については、機会があれば、また考えてみたいな、と。

2012/08/14

某日日記 晩夏へ、ほか

八月某日

yuki氏の生徒さんたちのピアノ発表会(7月)、その録音ファイルを整理(PCは便利ですね。昔ならテープ編集だったのだろうか)。先生たち(yuki氏とご友人3名)による演奏(8手=連弾×2台)の音源を、ふと思い立ってYouTubeに。初めてのことで心許ないが、ヘルプを参照しつつアップ。



八月某日。

新三郷のイケアとコストコへ。イケアといってもジャムくらいしか(安価)買いたいものはないのだが、マグカップひとつ壊したところなので、それを買う。コストコは、昔ちょっと話題になったホールセールクラブ方式。この倉庫のようなスーパー、初めて入ったが、摂取カロリーの必要量が極めて少ない老夫婦には、用のない場所だった。大量の水ボトル、馬鹿でかいピザを買って帰る人、多数。

人がどんなものを買っているのかを見物する面白さ。というわけで、買い物というより、「買い物見物」。コストコというところは、その点で好適。カートがでかいし、何が積んであるかがよく見える。

八月某日。

朝早く起きて五輪閉会式の中継を見たyuki氏に「どうだった?」と訊くと、「つまんなかった。だらだらしてて」。

再放送(ダイジェスト)を少し見た。出てくるミュージシャンの中高年っぷりが感慨深い。とっつぁん、じいさんがマイクで歌い、ギターを弾く。そういえば、ザ・フーも4人のうち2人はすでに鬼籍。


いい景です。

暦ではなく実感が、晩夏へと、向かっていきます。

2012/08/13

読む準備

『hotel 第2章』(no.30/2012年8月1日)という同人誌(?)を拝読。詩の作品が多いなか、柴田千晶「幽霊画」10句。

  幽霊画に描き足す赤子山うつぎ  柴田千晶

このところ話題の「怖い俳句」です。2句目の《目覚めてもまだある死体グラリオサ》も怖いといえば怖いが、ちょっと吹いてしまう可笑しさを伴う。赤ん坊、怖いです。

2句とも、植物(花)が季語。グラリオサの名は知りませんでしたが、ググってみると、ああ、これか、と。山うつぎは、馴染みがない気がしていますが、これは私の無知のせい。植物の季語を座五に据えるというのは、俳句として安定していますが、ひょっとしたらこれは俳句に慣れ親しんだ者の感覚かもしれない。そうじゃない人は、どうなのだろう、と、ふと思いました。例えば、この『hotel 第2章』に詩を寄稿している人たちにとって、「書き手の創作部分/(切れ)植物季語」という構造は、すんなり受け入れられるのか、と。

(詩にしても、「切れ」に相当する部分があるのかもしれません。意味上の不連続)



ところで、この少し前に『GANYMEDE』(vol.55/2012年8月1日)という同人誌(?)を手にする機会を得ました。こちらも詩がたくさん載っていて、そのなかに俳句のページもあります。俳句が載っている俳誌ではなく、「詩」という括りで他ジャンルと同居している文芸誌に、続けざまに出会ったわけです。

そこで、ひとつ感じたことはリテラシーということ。

具体的に言うと、自分には「詩を読むリテラシー」がないので、目で文字を追っても、ほとんど入ってこない。結果、読まない。

ジャンルの親しさの如何などにこわだることなく(いわゆる白紙状態で虚心坦懐に)、とにかく、読んでみて、どのように感じるかを重視する考え方もあるのでしょうが、どうも実際にはそうは行かず、最低限のリテラシーが必要な気がしました。

リテラシーなどというより、むしろ、読む側の「心の準備」程度のことかもしれませんが、


なお、『GANYMEDE』第55号に掲載された俳句(6氏6作品・句数はさまざま)については、また後日、書くかもしれませんが、全体に「流した感」が見えました。俳句というもの、書き手一人当たりの発表数の「ちょうどいいあんばい」というものがあるのかもしれません。