ふだんはいわゆる定型の句に多く接している自分は、自由律俳句についてはなはだ不案内です。でも、拒否感はない。俳句の読み書きにおいて、書くものは限定されるが(誰でもそうだろう。その人の書く俳句には一定の傾向がある)、読むについて限定はないのです(俳句はナンデモアリっすよ)。また融通無碍な成果主義(書き手の信条や系譜などはどうでもいい、その人から出てくる句がおもしろければそれでいい)。
覚書として書き留めておこうと思いますが、ツイッターほかでの議論の全体がわかっているわけではないので、断章。
@mnea2b 今の自由律は「口語でもいい」だったのがむしろ「口語でなければならない」になっています。句会や結社誌でも文語を使用した句は皆無です。勿体無いような気がしますね。
— 藤井雪兎さん (@F_set) 8月 13, 2012
一般に、規範からの逸脱、規範からの自由を当初めざしたものが、やがて規範となってしまう。自由の規範化、逸脱の規範化という、ある種の本末転倒、倒錯はめずらしいことではありません。
ところで、いわゆる有季定型、作風としても穏当な句(群)に「自在」を感じる作家も多い。定型に不自由を感じさせない。もちろんそうでない場合も多い。これはもう書き手による。
一方、口語がもっぱらとなった自由律俳句にもし「自在」が希薄だとすれば、それは反語的に「自由による束縛」という不幸に見舞われていることになる。これもまた書き手によるのだろう。
さて、上記ツイートに文語・口語とあるのは、今回の話題の発端が、自由律俳句集団 『鉄塊のブログに掲載された記事「I Don't Wanna Grow Up」の次の部分だったから。
定型との合同句会の締め切りは間に合わず深夜になってから送った。/定型俳句で「けり」とか使ったけど自分じゃないみたいで気持ち悪い。やっぱ普段使わない言葉を使うのはおかしいよ。定型の人は、最初はみんな慣れないとか言うのだろうけど、腑に落ちない。俳号や自愛が肥大化して気にならなくなるのかも知れない。なんかの病理だ。「気持ち悪い」というのは違和感ということでしょう。俳句をつくるとき、こうした実感部分は大事です。
しかしながら、「普段使わない言葉」だから違和感があるのかどうかは、ちょっと考えどころです。言い換えれば、普段使っている言葉なら、気持ち悪くないのか、違和感はないのか、ということです。
俳句(定型でも自由律でもなんでも)のようなもの(まあ、文芸です、創作です)を書く、それが他人様の目に触れるということは、しばしば、気持ち悪さや違和感を伴います。
だって、思春期をとっくに過ぎたオトナがリリカルな趣を醸し出しちゃったり、「自分語り」の要約+季語(あるいは無季)といった内容だったりするわけですから。一方、それが気恥ずかしくて、一発ギャグのような作風へと走ってみたものの、それはそれで「なんでわざわざ五七五に?」という冷静な反応の仕打ちにあったりします。
このあたりは文語・口語、定型・非定型の如何にかかわらず、ついてまわるわけです。
俳句に携わる、俳句を遊ぶとは、それを乗り越えるなり、解消するなりの「処理」が施されていることだと思っています。
よく初心者(であろう人)の句に「恥ずかしい」感じが漂うのは、拙いからというより、本来的に存在するはずの気持ち悪さ・違和感に無自覚というのが大きい。気づかないうちは、技術的に解消されることもありません。
そりゃあ、詩を発表するなんてのは恥ずかしい事です。正気の沙汰じゃ御座いません。だから、せめてバサバサに乾いた詩ってものを書こうと思っているんです。だから自由律俳句なんです。
— 風狂(ヤノカツ)さん (@fu_kyo) 8月 15, 2012
「恥ずかしいなら書かなければいいんじゃあないの?」という冷徹な意見は、私もいっしょに受け止めますが、そこはそれ、恥を乗り越えて到達する人生のコクというものもありますし、俳句というのは、続けていると、書き手とは別に読み手のマターであるということがだんだんわかってくる。読んでおもしがる人が一人いれば書いてやろうじゃないの、と。別に減るもんじゃないし、と。
俳句を続けるとは、読者に出会うこと、ともいえる。これは最初のうち、なかなか気づかない。
話を戻すと、風狂(ヤノカツ)さんのおっしゃる「詩」は、まず置いておいて(私は、俳句を詩と考えていない。俳句は俳句。その話はややこしくなるのでやめておく)、「せめてバサバサに乾いた詩」という部分。
ドライな俳句、ウェットな俳句。これは書き手によるのでしょうが、全体に、自由律のほうがウェットと感じています(その判断が正しいかどうかは知りませんが、自分の印象として)。
なぜなんだろうと考えてみると、ひとつには、《自分》コンシャスという要素。どうも、そこから来る湿度、という部分が大きいようです。
書き手のなかの《自分》が句の中で幅を利かせると、叙情しようが、笑おうが、悲しもうが、怒ろうが、叫ぼうが、囁こうが、結果、ウェットになる。
ちょっと飛躍して言うと、《自分》なんて監獄です。《自分》から自由になれるなら、有季定型だろうが、自由律だろうが、なんだってかまわない。って書いてから、これはまた別の大きなテーマだと気づきました。
少しだけ書いておくと、この《自分からの自由》に、定型を利用している人が多いのではないかということです(私もそう)。例えば、自分がどう考え、自分がどう思うか、それを書かないための定型。言い換えれば、自分では考えてもみなかったこと、思ってもみなかったことを経験するための定型。舌足らずですが、そんな感じです。
その点で、定型を用いない自由律俳句は、どのように対処しているのか。興味が湧きます。
というわけで、自由律俳句については、機会があれば、また考えてみたいな、と。
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