もう八月なのに、七月某日。
「句集もロクに読まない人が、俳句の何を語ろうというのだ?」と少々お怒りというか呆れ顔の御仁に、「さあ、何なんでしょうね。でも、まあ、そういう人、多いのかも」とだけ答えておく。
ひょっとしたら、これには俳句特有の事情がある。つまり、俳句をやる人は句会でかなりたくさんの句を読む。それで十分に俳句を読んでいる気になるのかもしれません。でも、それはちょっと違う。句会の句は「途中」の句〔*〕。それだけで俳句を語ろうとするのは、楽屋話しか聞いたことのない人が落語を語るようなものだろ う。
自分の視野がはたしてこれでいいのか。ときどき確かめてみることが必要です。高校の文化祭のステージに出てきた数バンドを聞いただけでロックを語る人はいない。ところが、俳句の場合、それに近いことをしてしまうようです。
〔*〕句会の句、まだ途中の句はいわば初稿。これを、どう捨てて、あるいは、どう温めて、あるいはどう改変(推敲その他)するか。投句(初出)と発表句(最終型)の間にある距離や段差こそが、その書き手の書き手としての価値、言い換えれば「作家性」の重要な部分だと考えるですよ。
七月某日。
妻が立石に住んでいる生徒さんに、「面白い街だよね、京成立石にはたまに食べに行く」と話したら、数日後、その生徒さんが、「立石の美味しいもの」リストを書いて渡してくれたという。
なんて、かわいらしい生徒さんなんだ!
ところが、そのリスト、ケーキやパンばかり。「いや、私らの食べに行く(飲みに行く)のはホルモン屋とか鶏屋とか、そういうとこなので」とは言えず(妻は甘いものがほとんどダメ)、ありがたく受け取ったという。
ええ話やね。
七月某日。
「はがきハイク」第6号の送り先からの丁重なおはがきに、西瓜と答えた箇所こそが「俳句」である、と。なるほど。
最近うれしかったこと西瓜 tenki
韻律もなかなか良い。
0 件のコメント:
コメントを投稿