さて、ここで問題です。次の句は文語体? それとも口語体?
蛇口の構造に関する論考蛭泳ぐ 小澤實
答えは、「どちらでもない」。
ついでに爽波も見てみましょうか。小川春休さんの「朝の爽波」第28回で取り上げられている7句。
雪兎作つて溶けて如意ケ嶽 →文・口どちらでもない。調子は口語っぽい。
煙草盆火を埋めて草芳しや →文語体
落ちてゐる明智の森の古巣かな →文語体
洩るがまま溢るがままの桶日永 →文語体
葭切の戸を押してくる見舞人 →文・口どちらでもない。
柿の木のいつまで滴らす喜雨しづく →文・口どちらでもない。調子は口語っぽい。
箒草蝶の骸の沈みゐし →文語体
7句のうち3句は、文語体でも口語体でもない。
はい、このように、一句一句を見ると、文語体でも口語体でもない句は存外多い。これ、当たり前のことを言っているだけです。
なぜ、当たり前のことをわざわざ書くのかといえば、文語体・口語体どちらでもない句がたくさんあるのに、「私は文語体だ」「あの人は口語体だ」とかといった姿勢や作風にそんなにこだわってもしかたない部分もありますわな、というわけなのです。
もちろん、口語体が、いわゆる作家性の主成分であるかのような作家はいます。たいていの人がすぐに思いつくのは、例えば池田澄子さんでしょう。ただ、作家の「文体」は、文語/口語の二分法で割り切れるほど大雑把じゃない。
文語体でも口語体でもない句はたくさんある。これは屁理屈ですし、一面を言ったに過ぎない(問題となるのは、文語体・口語体の違いが出る場合の話だから)。
でも、あんまりしゃっちこばって、文語体で行くのか? それとも口語体か? と見構える必要もないのではないでしょう。
(文語体だからダメ、口語体からダメ、という予見に支配された狭量な読者は、とりあえず相手にしなければいいのです)
そのときそのとき体が欲するものを食べていれば、まずまず健康に過ごせるでしょう、という程度に。
(喩えがヘンか)
0 件のコメント:
コメントを投稿