2012/08/21

俳句甲子園を安全に語る方法

ますはじめに言っておきたいのは、私は、俳句甲子園にほとんど関心がなく、あまり知らないということだ(ここ、「マツコ&有吉の怒り新党」新・3大○○調査会のナレーション調で)。

関心がなくて知らないなら書くな、って? まあまあ、そうおっしゃらずに、そういう視点も何かの役に立つかもしれない。

俳句甲子園という名は昔から聞いたことがあるような気がしていたが、はっきり存在を知ったのは、週刊俳句の当番をやりはじめる少し前(2006年)くらいか。今では、しくみはなんとなく知っているし、開成があんまり強いんで、敵役の位置づけになってることも知ってる(2チーム出ているのは最近知った。開成Aと開成Bで決勝になったら、どうすんの? みんな引くよ)。それくらいの知識はあるのですが、実際に「対戦」を見たのは、何年か前、YouTubeで数分のみ。

これまでどんな句が登場したのかも、あまり知らない。週俳の縁で、俳句甲子園に出たことのある若手俳人とたまに話をするようになり、その関係で、彼らの俳句甲子園時代の句を知っているが、その数句程度(いま週俳の当番をやっている村越敦君の《それぞれに花火を待つてゐる呼吸》とかネ)。

で、そんな私にも、ツイッター上で、俳句甲子園の話題が流れてくる。ちょっと興味深い展開があったので、まとめてみた。

≫ 「俳句甲子園のレベル?」 http://togetter.com/li/358959

sekihanさんの、レベル低すぎ、自信満々風に擁護するこましゃくれたディベートとやら、といった、いわゆるdisりに端を発したもの。

私自身は、その次のツイート「若者は俳句を捨てよ、街に出よ。せっかくの夏休み、他にやることはないのかしらん。」のほうがむしろsekihanさんの言いたいことなのではないかなあと想像する。

私も少しそう思った。「若い身空で何が悲しうて俳句なんぞを」と、俳句甲子園に限らず若い俳人さんたちを見て、思ったものだが、「おまえはどうなんだ?」と訊かれたら、「年取ってからだから、悲しくない」と胸を張って答えられない。それに、何をしようが大きなお世話なので、言わない。いつ何と出会って、どうハマってしまうかは偶然に過ぎないのだ。

話を戻そう。上に挙げたツイッターのまとめは「誰でも編集可能」にしてあるので、まだ増えるかもしれない。このさき別の展開があるかもしれないが、現時点では、「高校生がやることに、おとなげないことを言うものじゃない」といった意見が多い。

それはそうなのだが、「おとなげない」というセリフは、子どものテーマを扱うときは、最強の抑止力になる。「オトナとして、やさしく見守ってやればいいじゃないか」といった心優しい態度は、じつは凶暴に言論を封殺する(大袈裟に言えばだけど)。ツイッターでも書いたが、苦言が出てきてもいいじゃないですか。「素晴らしい」ばかりじゃ、気持ち悪い。

俳句甲子園というのは、上記の「おとなげない」をはじめとする《安全に語る語り方》というのが確かにあって(これが問題だと思うのですが)、それから逸れたことを言うと、しばしばヒステリックな反駁に遭う。

週刊俳句で、以前、佐藤文香さんが俳句甲子園のレポートを書いたところ(≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2009/08/blog-post_16.html)、コメント欄が少々荒れた(記事の下に延々と並ぶコメントを参照)。

これはまあ、佐藤さんがみずからのチームの勝敗や判定に触れたものだったので、なんらかの反駁が来るのは予想できたが、かなりの粘着ぶりでありました。

さらに、ウラハイで私が、上記佐藤記事に触れたところ(≫http://hw02.blogspot.jp/2009/08/blog-post_3256.html)、またもやコメント欄でゲンナリするやりとりに。

コメント主の名義が「シキ」とか「ノボル」とか。松山の方ですか、俳句甲子園の関係者ですか、との類推を呼び(もちろん断定はできません)、そうだとすると、さらにゲンナリ疲れてしまうのであります。

数例の出来事で、何かを判断するのは不適切かもれませんが、どうも、俳句甲子園というのは、きれいごとでしか語れない、語らせないところがある。だとしたら、かなり気色悪い状態でしょう。なんなんでしょうね。この雰囲気は。

これは、参加している高校生の問題ではありません。オトナの問題です。

別に、disれ、けなせ、と言っているのではありません。ついでにいえば、私自身は、俳句甲子園が悪いとも良いとも思わない。disるネタもないし、けなす話題も持ち合わせていないから。

ただ、「素晴らしい若者たちが素晴らしい俳句に出会う素晴らしい場、素晴らしい先輩たちや素晴らしい先生方に囲まれて素晴らしい時間を過ごす」といった語り口以外の意見もあっていいよな、とは思います。

そして、こうした《「素晴らしさ」強制力》を居心地悪く思っている高校生や俳句甲子園出身者もいるのではないか。私が知っている俳句甲子園出身者に関するかぎり、彼ら当事者は、むしろ醒めています。《素晴らしい症候群》には罹っていないのです。



さて、俳句甲子園をあまり知らない私も、俳句甲子園出身者から感想を訊かれたりします。外から見てどのように見えるものなのか、彼らも知りたいのです。数分間のYouTube観戦だけですが、正直にそのときの感想を言いました。

「出てきた句は忘れたが、サラリーマンがコンペでプレゼンしているみたいだった」。

なぜそう思ったのか。きっと、互いに言葉が、対戦相手にではなく、クライアント(審査員と聴衆)に向かっていたからです。これは対話ではなく、もしかしたらディベートでもない。それぞれのチームがクライアントに向かってプラン(句)を提示し、競合の別プランと比べていかに優れているか、さらにいえばクライアント(審査員)にとって、この句を選ぶことが、いかに適切な選択であるかを説得する。当然ながら、このように見えたのは、対戦システムのせいで、高校生諸君のせいではありません。

それともうひとつ、サラリーマンのように見えたのは、既存の評価基準への従順を強いられているせいでもあるようです。これも、高校生諸君のせいではありません。



もうひとつ余談として。俳句甲子園出身で今も俳句を続けている人を何人か知っていると先程も言いましたが、「俳句甲子園」という出自をどう捉えているかは、各自大きく違うようです。これは内面の話。

「俳句甲子園」という自分の過去を、引きずる、誇る、利用する、疎んじる、それらが本音かポーズか…等々、各自がたいそう複雑に異なるようなのです(私が充分に理解しているとは言いません。見ていて、話していての感想です)。



私自身、俳句甲子園に関心がなくとも、俳句甲子園が、俳句世間の現在のありように大きな影響を与えているとの認識ははっきり持っています。俳句甲子園がなければ、俳句世間の風景は、今とはまったく違ったものだったでしょう。

その意味でも、俳句甲子園は、夏の風物詩、俳句好きの十代の少年少女がたくさんいることにオトナが安心する行事というだけでは捉え切れないものを抱えているように思います。もう少し批評の言説でもって語られることも必要かもしれません。


《参考記事》 俳句甲子園出身者の今の気持ち、というか機微がうかがえる座談記事です。

俳句甲子園の思い出① 村越敦×千倉由穂×高崎義邦×神野紗希×野口る理
http://spica819.main.jp/yomiau/7738.html
俳句甲子園の話②
http://spica819.main.jp/yomiau/7795.html

3 件のコメント:

葉月 さんのコメント...

>「年取ってからだから、悲しくない」と胸を張って答えられない。

私ぐらいの年齢になっても「趣味は俳句」と言うと「本当にやることがないんだな、哀れな奴」という顔をされることがよくあります。面と向かって言われたことはありませんが。

10 key さんのコメント...

あはは。

「趣味は俳句」。私は言ったことがないです。

さすがに最近は周囲にも少しバレてきましたが。

匿名 さんのコメント...

非難するなら じかに 俳句甲子園観戦するか 選考委員になって 会場で非難するだけの勇気はないのか!
正々堂々 有馬朗人先生にもの申せ!
陰口たたくな!