へえ、自由律俳人も、そんなことを考えるんだー!と少々驚き、その後のツイートに注目。質問を入れて、考えを聞かせていただいた。それをまとめたのが、これ↓
@fu_kyo さんによる《自分からの自由》《写生》《定型・自由律》
≫http://togetter.com/li/361047
どうなるのかと経緯を追っていたら、どうも雲行きがあやしい。で…
@10_key 多分、僕は自分濃度100%の「世界」は面白いと思っていると同時に、それをそのまま第三者に伝えても第三者は面白いとは思ってくれないとも思っているんです。ここが天気さんのいわれる「含羞」の部分(あくまで僕なりの「含羞」ですが)。だから、自分濃度を調整する必要がある。
— 風狂(ヤノカツ)さん (@fu_kyo) 8月 23, 2012
えー! 思いっきり、「自分」に行っとるやんけ~!
と、まあ、びっくりするやら、力が抜けるやら、です。
つまり、「自分濃度100%」で行きたいけど、それじゃあまりに恥ずかしいし、読者にはつまらないだろうから、「自分濃度」を薄めるために《自分からの自由》をちょこっと混ぜますわ、ということですから、最初に抱いた私の関心は、いったいなんだったのでしょう?
風狂子さんは、《自分コンシャス》を全面的に受け入れていらっしゃるようです。それならそれで、そこを貫けばいいと思うのですが、「それだけだと、ほ ら、読者が…」というのは、合コンで、自分の話だけしてモテたいけど、それだと嫌われるみたいだから、違う話もするね、みたいな話でしょう。
それにですね、「ここが天気さんのいわれる「含羞」の部分(あくまで僕なりの「含羞」ですが)」って、ぜんぜん違いますからw 「自分濃度100%」って時点で、含羞ゼロですから。
風狂子さんは、マジメなのか、ふざけているのか、私がからかわれているだけのか。そこはもう、なにがなんだかわかりません。
私がだまされ、からかわれてるだけだとしても、だいじょうぶ、「私の青春を返して!」などとは言いません。
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上記の「まとめ」のあと、「写生」や五七五についてもコメントややりとりががあるのですが、「え? 定型の人は削っていって五七五にするんじゃないの?」といった驚きを見せる風狂子さんがいて、こっちのほうがよっぽど吃驚しましたぜ、という感じです。
ひょっとして、削るのがもったいないと思った人が、長い系の自由律に行くんですか? 教えて、自由な人。
写生に関する部分も、なんだか、《世界》を描写するには、地球の表面積と同じ大きさのスクリーンがベスト、みたいで、それはそれで「シミュラークルとシミュレーション」ぽくて刺激的ですが、文芸でそれだと大変です。
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まあ、そんなこんななわけですが、ひとつ、要点は、風狂子さんに限らず、《自分コンシャス》っぽい俳人さんは、「自分濃度」の濃淡は別にして、基本的には、読者が、作者に興味をもつ、と信じているフシがあるところです。
念の為に言っておくと、これ、有季定型も無縁じゃなく、日常のつぶやき+季語、人生訓+季語、私ってこんな人+季語、といった俳句は少なくないのです。「自分なりの表現」「自分なりの感性」といったワケのわからないことを言う人も、その部類です。
でもね、ふつう、読者は、俳句(ことば)に関心はあっても、それを書いた「どっかの人」になんて興味はありません。
「あんたの話はいいから。俳句がどうか、だから」。
それが読者の気持ちなんじゃないですか。
特定の俳人を好むというのは、その人名義の俳句が、読んでおもしろかったという積み重ねの信頼が基盤。その意味では、作者名は商標みたいなものです(これは週俳掲載の 俳句のなかの「私」 に書いた)。
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どうも、これは、おもしろい自由律俳句に出会うのが、私にとって先決かもしれませんね。こんど自由律の話をするとしたら(しないかもしれない)、その話ですかね。
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