2015/09/30

■毒婦の威力 『鷹』10月号より

『鷹』2015年10月号より。

百鬼より毒婦恐ろし秋の風  小川軽舟

百人(喩えだけれど)の鬼よりも一人の毒婦が恐ろしい。毒婦のアタマの「一人」が省略されていて、そこがじわじわ効いてくる。一般論のように見えて、特定の毒婦が想定されているような、微妙なニュアンス。

秋風という季語は、それだけで「なんだか俳句」になっちゃうので、「いまさら感」に陥りやすい。ベタに付くより、ちょっとずらして軽く付いていたほうが、気持ちよく読めます。



2015/09/29

■雪我狂流句集『スウィングしなけりゃ意味がない』より気ままに3句


七夕の男便器に的のあり  雪我狂流

満月や松がくねくねしてをりぬ  同

このあいだは中秋の名月。昨晩はスーパームーン。



秋の句が黒板拭きで消えにけり  同

これが挙句。


句集『スウィングしなけりゃ意味がない』(2015年9月)は本文36頁。プリンター+ホチキス綴じの私家版。頃合いを見て上梓されるいつもの狂流句集。もう何冊目になるのかなあ(ずいぶん出てる)。今回は扉がオシャレ。

2015/09/28

■くにたち句会、無事終了

いつも句会場に使わせていただいているキャットフィッシュに、新しく「俳句カフェ」なる看板が!



場所は⇒ここ。くにたち近辺で吟行など開催の際はぜひご利用を。会場料金はナシ。美味しいコーヒーは500円ほど。俳句をしない人ももちろん使えます。



選句と飲み食いに、拙宅へ移動。こちらは、テーブルの形が変わり、椅子の色が変わりました。



スパークリングワインやらブラウンマッシュルームとカテッジチーズのサラダやらドイツ亭で買ってきたピザやら。

みなさま、お疲れ様でございました。

■九月最後の菅井きんの歌

菅井きんならさつきまでその椅子に孔雀を抱いて座つてゐたよ 10key

浜美枝と植木等の大手町サラリーマンの息づく聖地

紙巻の煙くゆらせ原泉(はらせん)は何かを待つといふのでもなく


みなさん、月曜日ですよ。

2015/09/27

■それを「いのうえ」と呼ぶことにしたわけだが

こちら(↓)です。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/09/blog-post_21.html


ならば、こちらはどうだろう?

ササキサンを軽くあやしてから眠る  榊陽子

この句も「いのうえ系」と思しきものの、

A:「ササキサン」という〈例えば特別親しいわけではないがなんとなく気にはしている仕事関係の知り合い〉的な人〔*〕。彼/彼女との関係。

B:「あやしてから眠る」という母子関係と強く結びつく行為。

このAとBのあいだの断絶・段差が、この句の魅力(コクが深い)。元祖「いのうえ」よりは「わけのわからなさ」が薄まっているとも言えそうです。

その際に「軽く」と文字どおり軽くいなして/かわしてあるところも、なかなか。


それにしても「いのうえ」とか「ササキサン」とか、世の中は不思議な事物で溢れております。



〔*〕中嶋憲武・スズキさんシリーズを思い出したりしましたよ。

【参考】
柳本々々:あとがき全集
http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/blog-entry-232.html

2015/09/26

■郵便の話

コットンペーパーの便箋(無印良品)。よくある便箋の紙質と違っていて(インクがよく滲みる)、なかなか新鮮。

小ぶりなところがちょっと女性っぽくて、やや難、ではあるけれど。



でね、週刊俳句・第439号に「トボケてみせる 大島英昭『花はこべ』の一句」を寄稿しているわけですが、記事中、いちばん好きな句として挙げた、

焚き火する人に郵便届きけり  大島英昭

について、少し。

焚き火をしている人のところに郵便が届いた。それだけ。

俳句には、どこがいい、なにがいい、と美点を説明しやすい句と、しにくい句があります。この句はおそらく後者。

けれども、いくつか、この句の成分、好ましい成分については語ることができます。
焚き火と郵便物に関する物語の蓄積。例えば焚き火で手紙を燃やすという行為・シーンはたいへん馴染みのあるモチーフです(私も、焚き火と手紙で一句つくっております:≫こちら)。それを詠むわけではなくとも、手紙と焚き火という安定した組み合わせ、その歴史的繰り返しの上にこの句があって、読者の興趣・感慨はある程度保証されている。

外にいる人に届くのだから、郵便夫の手が見えます。直接手渡される瞬間、あるいは郵便受けに入るところ。それがはっきり見える。ここが、この句の気持ちのいいところです。

そして、「郵便」という語の選択。この部分は「はがき」「手紙」なども代替可能ですが、例えば「手紙」だと物語過多。若干の感傷も帯びる。「郵便」の語は、抽象・省略でありながら、他の語と比べて、なぜか不思議に即物的です。 「郵便」の語で、うまくバランスがとれているなあ、と思うですよ。

2015/09/25

【再掲】くにたち句会〔9月〕のお知らせ

2015年9月27日(日)14:00 JR国立駅改札付近集合

句会場所:いつものキャットフィッシュ(予定)

席題10題程度

句会後の飲食もよろしければどうぞ(会費アリ)


ご参加の方は、メール(tenki.saibara@gmail.com)、電話etcでご一報いただけると幸いです。

また問い合わせ等も上記メールまで。

2015/09/24

■外階段28 葉山2日目はハイキング

前田川渓流~大楠山。






山頂で外階段をチェック。



螺線形の展望台はあまり見たことがない。

外観的に激シブの大楠山ビューハウス。関西ではお馴染みのサンガリア。関東で自販機を見るのは初めてかもしれません。とてもめずらしい。


■外階段27 連休は葉山

…でした。

葉山名物げんべえTシャツ

葉山にいても、外階段はチェックです。






2015/09/23

■「俳壇マップ」直後

備忘録的に。

拙記事 『クプラス』の「俳句界マッピング」余談 普遍主義、ボン・グー、統治

上田信治  「ku+2号」付録「(略称)俳壇map」を読みほどく(ただし白地図) (1)

2つの記事を受けて。
















■外階段26 浅川近く・その2




2015/09/22

2015/09/20

■帰ってきたっぽい菅井きんの歌

彗星が近づく菅井きんつひに帰還せる夜となりにけり ぽ  10key

話題の「ぽ」を使ってみました。連休中の月曜日です。


2015/09/19

■『川柳カード』大会・余談 その3 『THANATOS 石部明 1/4』

何かになることはぞんがい難しい。

男にも鳥にもなれず傘たたむ  石部明

未成就や不可能性(への愛惜・諦観、と言うと言い過ぎか?)の色濃い句群。

壺割れる四十男の静けさで  同


『川柳カード』大会では、川柳関係の冊子をいくつか貰って帰りました。掲句は、そのうちのひとつ、フリーペーパー『THANATOS 石部明 1/4』(2015年9月/knot:小池正博・八上桐子)収録の一句。2012年10月に亡くなった石部明の句業をまとめ、4巻を発行予定。その1巻目。


なお、問い合わせetcはこちら(↓↓↓)の模様。
http://kurageabuku.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/thanatos-2274.html

承前 
承前 

承前

蛇腹式に折り畳まれてB6判変型の掌サイズに。
 

■子規忌ですね

過去記事(2011年9月18日)
子規式 馬糞に始まり糸瓜に終わる 

2015/09/18

■『クプラス』の「俳句界マッピング」余談 普遍主義、ボン・グー、統治

承前:「原理主義」って?……『クプラス』の「俳句界マッピング」

前記事はなんだか回りくどい書き方になっちゃいましたが、原理主義とは、原理を、相対化も何もなくそのまま受け入れて堅持していく態度だから、記事・企画の言わんとすることと逆、何かの間違いでしょう、という話でした。

用語の間違いが些細なことかどうかは別にして、ここでは些細ではないこと、もうすこし大枠の話を。



前記事で「ロマン主義」という軸の立て方が秀逸と言いましたが、じつにそのとおりで、例えば、俳句における「ロマン主義の国」をマッピングするという手も、あるにはある。そのほうがよかったのではないかと、私などは思うのですが、『クプラス』がやったのは、俳句業界すべてをマッピングの範囲とする「全土地図」でした。

これはなぜなだろうと考えたとき、そのほうが面白い、ということの一方に、「統治」という観念が、アタマに浮かびました。

もちろんのこと、広義での統治。

政治機構(各種協会)を統一して、国土(俳句世間)全体の秩序をつくりあげたり租税したり、といった、狭義の統治ではもちろんありません。全体を見渡し、理解し、名づけ、位置づける。極端な話、地図をつくるという行為がもはや統治の観念ともいえそうです。

《統治の欲望》を一貫して持つのが『クプラス』。そう捉えています。

これは今回(第2号)の「俳句界マッピング」だけをもって、そう思うのではなく、第1号の「いい俳句」特集以来変わらず感じるものです。



『クプラス』の提示する「いい俳句」について詳しく書くのは別の機会に譲るとして(こう書いて別の機会が訪れる試しがないのですが)、あれを読んで、即座に思ったのが、文化人類学などでひところ盛んだった《文化相対主義vs普遍主義》の論争です。

「そんなもの知らない、きちんと知りたい」という方は調べてください。
cultural relativism vs universalism
元の英語も書いておきますね、ググりやすいように。
〔参考記事〕

簡単・雑駁に言えば、例えば異文化の習俗を見て、「それぞれなんだなあ」と、それぞれにそれぞれの価値を見るのが文化相対主義、それぞれをひとつの(普遍的な)枠組みの中で位置づけていく/位置づけられるはずと信じるのが普遍主義。

前者は「それぞれ別々の世界に棲んでいる」という捉え方、良い面は、そこに差別(いわゆる「未開」概念etc)はない。しかし、これは同時に冷淡な態度。「あんたらはあんたら」

後者は「それぞれ別々に見えてもひとつの世界に棲んでいる」という捉え方。

例えば、異文化のとても変わった習俗。文化相対主義者は「奇異」とは考えず、「属する文化の内側では、変わってなどいない」と考える。一方、普遍主義者にとっては「奇習」。

で、俳句の話。『クプラス』の話です。

『クプラス』の「いい俳句」概念は、普遍主義の立場です。伝統・前衛を統合する/総合する、という目論見が、あの特集にはありました。それって、単純に普遍主義の立場です〔*〕

文化相対主義者は、そうは考えません。ホトトギスの人はホトトギスの人の決まり事やら美意識・価値観やらがあり、無季・破調、ポエティックな俳句をものする人も同じく。

それらは、互いに「奇習」に見えようとも、それぞれの体系の中では「奇習」などではなく、称揚され尊重され、受け継がれていく。そして、そうして永らえる複数の文化(複数の流派)は、べつだん総合/統合される必要もない。

クプラスが、旧来のサブジャンル(eg. 伝統・前衛)それぞれに備わる価値体系に依ることなく、「いい俳句は、いい」と言うとき、俳句全体を貫く(サブジャンルすべてをを串刺しにする)、あるいは包摂する枠組みのようなものが想定されています。これって、普遍主義です。



ところで、伝統にせよ前衛にせよ「いいものは、いい」と『クプラス』が言うとき、その判断基準とは、何でしょう?

サブジャンルごとなら、ある程度定まった基準があるはずです(細かい流派によっても)。ところが《サブジャンル横断》的な判断基準となると、依拠する既存の体系はありません。そこで何に頼るかというと、見識や好み、ということになるのではないか。

創刊号を読んでみても、実際、そのようです。『クプラス』を見ていると、なにかこう、みずからの「ボン・グー(良き趣味、舌が肥えていること)」への自信・矜持のようなものを感じるのです。

それは悪いことではありません。そういうのって必要です。とりわけ俳句のような「論じる」よりも「味わう」に向いた非・論理の工作物には。

ただ、「ボン・グー」とは、ロックミュージックの喩えでいえば、パンクによって罵倒されるべきもの、打倒されるべきもの、言ってしまえば、保守的で旧来的な観念です。

『クプラス』という俳誌は、たしかに清新な雰囲気をまとい、チャレンジングで、いっけん企画性にあふれる俳誌でありながら、悪く言えば、どこか「古い」感じがつきまとう、良く言えば、正統の格式が漂う。それは、「ボン・グー」への自信が、『クプラス』の核にあるからだと思ったりします。

付言すれば、「統治」への欲望は、きわめて古臭い欲望であり、《正統》の持つべき/持ちがちな欲望です。



というわけで、創刊号の「いい俳句」特集から第2号の俳句界マッピングへ。みなさんが受けるこの雑誌のイメージとは、ずんぶんちがったものを、私は感じているのかもしれません。


適当に乱文乱筆。ていねいに書く精力・体力・知力がないのが残念かつ「誠に申し訳ありません」ではありますが、ちょっとメモ的に書き留めておきたかったことなのです。

(簡単にちょこっとだけ書くつもりが、こんなになっちゃった)

余談が長くなって、ごめんな。



〔*〕私は、俳句に関しては「文化相対主義」がいいんじゃないの、という考え方です、今のところ。それぞれのサブジャンル、流派は、互いに別の体系の中にある。それを前提に存在を認め合う。

〔関連過去記事〕
子規がらみで鶯谷のホテル街に出かけながら記事に街娼(男娼)を買った形跡がないのはいったいどうしたことだろう、あるいは「Jポップ」という罵倒語
若手俳人のイメージ

2015/09/17

■「原理主義」って?……『クプラス』の「俳句界マッピング」

『クプラス』第2号、座談記事「平成二十六年の俳句界をマッピングしてみたらこんなことになった」を、付録「平成二十六年俳諧國之概略」と併せて読みました。

で、そこにね、「マッピング」の際の「三つの大枠」=ロマン主義・伝統主義・原理主義についての説明があるのですが、以下は、「原理主義」についてのくだり。
《伝統主義》がマナーとしての俳句であるのに対して《原理主義》は言語表現としての俳句を対象化し、詩歌および表現することそのものの広い領域を批評の座に組み込もうとします。かつ、現状を疑い、ともすればあるべき理想へと傾斜してゆく。(山田耕司)
えっ?(大袈裟) それを「原理主義(ファンダメンタリズム)」と呼ぶんですか?

ここが、わたしにはわかりませんでした。「原理主義」を、そういう意味で使うなら(座談会では、そう)、私の知っている原理主義とは別物です。

用語の問題に過ぎない、という向きもありましょうが、気になりました。俳句世間で「原理主義」という語がこの意味で定着していくのだとしたら、話が通じない局面が出てきそうで困った困った(もちろん困るのは私。気にならない人はきっと困らない)。


上記の説明だと、「ラディカリズム(根源主義)」のほうがしっくりきます(誤解を招きやすい語ですけどね)。マップにある鴇田智哉や関悦史の俳句も「ラディカリズム」と呼んでさしつかえないだろう、というのが私の考え。

むしろ、この記事で「伝統主義」と呼ばれているもの〔*〕をこそ「原理主義」あるいは「俳句原理主義」と呼びたいところです(「俳諧原理主義」とは言わない)。


補記:「ロマン主義」という項目の設定は秀逸ですねえ。つくづく。


〔*〕「伝統主義」についての山田耕司の説明は「厳然として存在する俳句の、その存在を疑わないという主義。師匠の言ったことを一言一句ゆるがせにしないという姿勢の問題でもある」。





2015/09/16

■くにたち句会〔9月〕のお知らせ

2015年9月27日(日)14:00 JR国立駅改札付近集合

句会場所:いつものキャットフィッシュ(予定)、あるいはロージナ茶房

席題10題程度

句会後の飲食もよろしければどうぞ(会費アリ)


ご参加の方は、メール(tenki.saibara@gmail.com)、電話etcでご一報いただけると幸いです。

問い合わせ等も、上記メールまで。

■『川柳カード』大会・余談 その2

柳本々々さんの「俳句があいさつの文芸だとしたら、川柳はお別れの文芸」は至言。

ただ、サヨナラもあいさつのひとつなのではないか、と思っているので。


(柳本さんの言う「お別れ」には死も含まれる)


承前 
承前

2015/09/15

■『川柳カード』大会・余談 その1

『川柳カード』大会の懇親会で、「俳句なんですか?」と訊かれ、

「はい、もっぱら。
あとは、川柳1年間(川柳カードに投句してた)、
そして菅井きんの歌です」

と答えた。


(なぜか改行スタイル)

承前

2015/09/14

■『川柳カード』の大会に出かけ柳本々々×小池正博対談を聞くなどの午後

同人誌『川柳カード』の大会(大阪・上本町)を見学してきました。

前半は、柳本々々さんと小池正博さんの対談(もっぱら小池さんが柳本さんから内容を引き出す感じ)。

内容は、石原ユキオさんがうまいことヴィジュアル化(↓↓↓)、こちらをご覧ください




少しだけ書き添えると、短歌が七七のぶん「滞在時間」が長く、(作者の)顔つきが出てくるのに対して、川柳は「覆面レスラー」のまま、句を去っていく。こうした興味深い喩えが頻出。飽きさせないトークでした。

後半は句会。投句もしていないので、いったん外に出てコーヒータイムにしようかとも思いましたが、せっかくの機会、見学しない手はないと、そのまま座って、選者の撰を聞いておりました。川柳はたくさん選ばれるのですが(「抜かれる」という用語)、面白い句が多々。

その後、懇親会・二次会と、新幹線の上り最終の時刻が許すかぎりのぎりぎりまで、お邪魔してきました(ああ、名残惜しかった)。お名前は存じ上げていても、お会いするのは初めてという方々にご挨拶できたのは大きな収穫でした(柳本々々さんともお会いするのは初めてだったのですよ)。


なお、大会出席前の昼ごはんは、ネギスジ焼きを食しました。そのへんの店で(次回は、十三のやまもとに行くぞ! と、ひとり気勢を上げる)。





■もう菅井きんの歌でなくなりつつある菅井きんの歌

北大路翼の記事が新聞にそれは九月の晴れた日のこと 10key

準備万端ピカビアの絵の裏へきみ旅立つといふのかあした

たじきすたんたじきすたんと唱つつチャーリー浜の謎の深みへ


みなさん、月曜日ですよ。



2015/09/11

■地図と孔雀

パリの地図ひろげておとなしい孔雀  佐藤りえ

意味が確定しない句(悪いことではありません。為念)。地図をひろげたのが誰か(何か)で句意が違ってきます。

パリの地図ひろげて//おとなしい孔雀 ……切れを読んで、誰かが地図をひろげた、と読む。

私はそうではなく、孔雀が「パリの地図」をひろげたと読みました(羽をひろげると、それがパリの地図)。

前者だとパリの動物園か何かの一場面。穏当な句です。後者だと、かなりマボロシ的・前衛的(一種の見立て、伝統に属する見立ての技法ではあるのですが)。

後者のほうが、イメージが豊かです。前者だと冊子・紙の地図、こぢんまりまとまります。後者だと、孔雀の羽程度には大きく、きらびやか。

後者の読みを採るもうひとつの理由は、この句が「怪雨(ファフロツキーズ)」という、たぶんに物語的(あるいは奇譚めく)タイトルの20句(『俳句新空間』第4号/2015年8月20日所収)のうちの一句であること。

作品中の、

人工を恥ぢて人工知能泣く  同

夏痩せて肘からのぞくベアリング  同

といったSF風味、それも20世紀中葉のSF風味を備えた句と併せて読むと、この孔雀もパリも、いまのものではなく、50年か100年か前の孔雀とパリのように思えてきます。

2015/09/10

■はがきハイク、この秋、出したい、とか思ったりする

六番町さん(亞子さん)に相談しましょう、近いうちに。


■冒頭集:日影丈吉、および外階段のメモ

 兼任絹子は二、三日前から、彼女の周囲が急に変って見えて来た。というよりも、いままで気づかなかったことに、気づくようになった。学校と彼女の家をくるめた環境から、たまにデパートに行くとか、映画を見に盛り場へ出たりすることはあっても、かつて一度も持ったことのない感じであった。
 わずか二回の外出から、絹子は多くのものを示唆されたように思った。最初、その暗示を受けたのは、街路の感じからだった。それまで何気なく視野に入ってきた物が、ふいに顔つきを変えていたのだ。テレビのつまみを動かしたように、影が急にひきしまり、きわだって来た。彼女に何の関係もないはずの建物の前面が、凡庸な沈黙を捨て、意味ありげに微笑をうかべるのだった。

日影丈吉『非常階段』(講談社・1960年)



ところで、外階段の写真をしばしばここに掲載しています。外階段がなんとなく好きというだけの話で、これを大々的に蒐集しようなどという意図はなく、あるいは整理・分析して「外階段学」(ソトカイダノロジー)を確立したいわけでもないのですが、ここに写真を掲載し始めて以来、やたら外階段が目につくようになりました(度を越して目に入ってきて困ってるんです)。いや、もう、ほんと、町は外階段だらけ、です。で、その膨大な外階段のうち、相当数が「非常階段」なのです。

外階段は「非常」と「日常」の2つに大別できるようです。

「非常」階段は、いつもは使わない、非常のときの非常階段。マンションや学校〔*〕に設えられた外階段がそれにあたります。

「日常」階段は、頻度にかかわらず、日常的に使う外階段。そこを通ってしか階上階下の行き来ができない。

アパートの外階段が典型例。二階建てで、部屋数が上下合わせて6室程度の、昔ながら学生アパート。これにほぼ漏れなく外階段をが付いています。

実は私、最も愛しているのが、この何の変哲もないこの安アパートの外階段です。物件自体が築何十年。したがって外階段も、いいぐあいに古びている。安い家賃だから簡素。

町工場にも「日常」の外階段が多い。これもなかなか味わい深い。作業場から外階段を伝って上に上がると事務所、あるいは家族や従業員が暮らしていたりするのでしょうか。想像が膨らみます。


私自身の外階段ラヴという点では、日常・外階段>非常・外階段。

なんのヘンテツもない安手の簡易な外階段こそが、最愛の外階段、というわけです。


〔*〕学校の外階段は立派です。非常時、マンションなどと比べても一度に大勢が使うからでしょう、とてもがっちりとした造り。堂々たる外階段、です。デザインや色もたまに惚れ惚れするようなものがあります。ただし、カメラを向けるときは要注意。小学生をカメラで狙う不審者は警察に通報するかんね、といった掲示を見たことがあります。だから、めったに撮らない。「いえ、あの、小学生ではなく外階段が趣味なんです」などといった申し開きは通用しそうにありませんから。

2015/09/09

■『静かな場所』掲載の鴇田智哉作品に関する追記

きのう俳誌『静かな場所』掲載の鴇田智哉作品に触れたのですが(≫こちら)、2点、追記。

「石を売る」15句で少し意外だったのは、《舟虫にたばこの箱は墓のよう》 《服のみな肩より吊られゐる西日》《かはほりは眉の連なりともうつる》といった、「見立て」とはまでは言い切れないものの、ある種直截な描写、形状比喩の句が散見されること。こういうアプローチは第1句集『こゑふたつ』から第2句集『凧と円柱』への流れで、どんどん少なくなっていると思っていたので。

上に挙げた3句のうち《舟虫~》は「箱(はこ)」と「墓(はか)」の音の近似を遊んだところもあって、そちらを重視するほうが気持ちよく読めそうです(「墓」にまつわる隠喩や象徴を排除する方向)。

ちなみに、いちばん好きな句は、

洋服にうたごゑのして夜の短か  鴇田智哉

複数の感覚(この句の場合は視覚と聴覚)がクロスしたとき高確率で妙味が出ると思っているのですよ、この作者は。



2点目。

前の記事で、前の時間の遠さ・距離の遠さと「青」のイメージの結びつきに触れましたが、私自身は、この連関に、深く納得するでもないのです。詩的心性として「なんとなくわかる」という程度。ところが、最近読んだ別の作家の句集に、

冬桜遠くの町は青みつつ  藤井あかり『封緘』

という句があって、ああ、なるほど、ここにも〔遠い=青〕が。

色彩の語を句に含ませることに関して、多くの作家は慎重な態度でありましょうから、こうした脈絡の「青」という表現はかなり意識的なはず。別の色も含め、作家横断的に検証するとおもしろいかもしれません。


■前島密ふたり〔19〕 カタログな密ふたり





2015/09/08

■箱庭をめぐって

俳誌『静かな場所』には毎号、「田中裕明の一句鑑賞」。同人諸氏による田中裕明句鑑賞のページだが、第15号(2015年9月15日)には、鴇田智哉による鑑賞文を掲載。

箱庭にありし人みな若かりし 田中裕明『夜の客人』

を取り上げ、次のように書く。
夏の昔を思うとき、人はうっすらと青い。それは、昔を思い出している今の作者もそうだ。机にいるのなら、机にいるまま、一人で、作者はうっすらと青い存在になっている。(鴇田智哉)

併せて、鴇田智哉は、この号の巻頭に招待作品「石を売る」15句を寄稿。

箱庭を斜めにみると遠ざかる  鴇田智哉

トリビュート(頌)。

時間の遠さ・距離の遠さが、つまり「青」のイメージなのだろう。

2015/09/07

■まだ帰らない菅井きんの歌

雨冷えの舗道を行くよコンビニのガラス越しなる左とん平 10key


みなさん、月曜日ですよ。


2015/09/04

■外階段24 消防

消防小屋には外階段が付きものの模様。


2015/09/03

■子規がらみで鶯谷のホテル街に出かけながら記事に街娼(男娼)を買った形跡がないのはいったいどうしたことだろう、あるいは「Jポップ」という罵倒語

『クプラス』第2号。まずは高山れおな「根岸の一夜」をたのしく拝読。

その後も気ままにページをめくらせていただいております。


お問い合わせはこちら(↓)みたいですよ。
https://twitter.com/kuplus_haiku