2016/05/31

■メモ:映画館

馬と陛下映画の夏を通過せり  山田耕司〔*1

銀幕を膀胱破裂寸前の影が一枚ゆらゆらとゆく  木下龍也〔*2


〔*1〕山田耕司『大風呂敷』(2010年)
〔*2木下龍也『きみを嫌いな奴はクズだよ』(2016年/書肆侃侃房)

ウラハイ「映画」
http://hw02.blogspot.jp/2010/12/blog-post_26.html


映画むかし八月が濡れ砂が濡れ 10key

■土の中からこんにちは

ひさしぶりの【真説温泉あんま芸者】 を週刊俳句・第475号に。

すこしでもマシなことを書きたい、週刊俳句には、と思って逡巡することも多かったのですが、それを言っていたら、何も書けなくなるので、気軽に書いていくこともだいじ、と思うことにしました。

書かれていること・書かれていないこと、ついでに作中主体のことなど
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/05/blog-post_29.html

とりあげた句は、埋めたり掘り出したり。同じ号、小津夜景さんの【みみず・ぶっくすBOOKS】第8回 ライアン・マコム『ゾンビ俳句』と、偶然の軽い符合。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/05/books8.html


大好きなエドガー・ライトの、大好きな「ショーン・オブ・ザ・デッド」から。


2016/05/29

■どこで切るのかわからない問題

どこで切れているのか判断のつかない句があります。

ハリウッドザコシショウみたいなものです。ハリウッドまではいいとして、ザコシ/ショウ? ザコ/シショウ? ザ/コシ/ショウ?

昨日の記事にある《絶対電柱少女ぎしぎし歩く 大畑等》は、

  絶対電柱///少女/ぎしぎし歩く

なのか?

  絶対電柱少女/ぎしぎし歩く

なのか?

どこで切れるのかわからないときは、句がいちばん良い状態になるように切る、が基本です。ただし、それに正解はないかもしれない。読む者が決めるしかないところもあります。

私は、《絶対電柱少女》と、ひとたかまりに読みます。絶対安全剃刀(高野文子)みたいな感じ。


でもね、どこで切れるかは、やはりわかるようにつくること。それもだいじだと思います。

いわゆる山本山(上五と下五を入れ替えても通用してしまうカタチ)、助詞の省略などからくる「どこで切るのかわからない問題」は、初歩技術の問題ですから、上の例とは、また違うのです。


2016/05/28

■組句:少女

鉄塔のひとつは少女鳥渡る  江口ちかる〔*1〕

絶対電柱少女ぎしぎし歩く  大畑等〔*2〕


聳え立つイメージ。巨大な少女。前者は立ちつくし、後者は歩く。


〔*1〕『俳句と超短編』第3号(2016年6月5日)

〔*2〕大畑等句集『ねじ式』(2009年2月/私家版)


2016/05/27

■心臓バナナ 瀬戸正洋『俳句と雑文B』の一句

バナナという季語が好きなのは(好きな季語・そうじゃない季語があるみたいですよ、俳句を作る人はたいてい誰でも)、なんだか素っ頓狂な感じがするからです。

バナナ、というだけで、ちょっとにんまりして、からだの力が抜ける感じです。

さて。

心臓に筋肉ありてバナナかな  瀬戸正洋

あのですね、心臓って筋肉のかたまりなんでしょう? よく知らないけど。

ヒト人の心臓はさわったことがありませんが、サメの心臓なら、あります。まさに筋肉でした。「ありて」なんてものではないです。「心臓は筋肉ですね」(五七)ですよ、まったく。

この句における「バナナ」の働きについて、すこし考えましたが、わかりませんでした。説明がつかない。これ以上、ないアタマをめぐらせてもしかたがない気がして、「ああ、バナナかあ。バナナだよな」と、ここに「バナナ」の語があることの《おもしろさ》に包まれたまま、初夏の午後を過ごしたことでした。ふだんとおなじに心臓を動かしながら


掲句は瀬戸正洋『俳句と雑文B』(邑書林/2014年1月)より。


2016/05/26

【句集をつくる】第10回 めざすはヘンテコリン

脇道、寄り道が多い【句集をつくる】シリーズ。それでいいのです。だって、このところ俳句をぜんぜん作ってないですし。

で、どんな寄り道かというと。

小津夜景さんがこんな本を紹介。

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/05/books7.html

字〔活字と肉筆、横組と縦組〕やら絵やら音符やら(マルチメディアですな)。それらがフィールドワークの記録として一冊になっている。フランス語は読めませんが、とても心を惹かれます。

俳句も考えてみればフィールドワーク的なもので(牽強付会)、制作過程は、この『ヴェトナムの路上の声、そして俳句』にあるような、自由気ままで、しかし勤勉に地道なところがあります。句集の場合、制作過程を見せてもしかったがないし、この本のスタイルを真似るということではないのですが、それにしても、他の句集とはまるで違うもの、ヘンテコリンな風合いをもったものを考えてもいいでしょう。

書物として、ヘンテコリンで、キュート。どうせなら、そんな高望みしたいものです。

2016/05/25

■石棺 『鏡』第20号の一句

石棺のあつけらかんや冬の草  羽田野令

音で遊んで、座五は順当に締める。夏草では、石棺がはんぶん隠れてしまい、「あっけらかん」とまでは見えてこない。石棺と草の枯れ具合は、テクスチャーの調整も含め、良いあんばいです。

掲句は『鏡』第20号(2016年5月1日)より。

2016/05/24

【外階段】東京都港区・鳥居坂下近く


某日。麻布十番をぶらぶらと散歩。蕎麦を食べて、さらに六本木方面へ散歩。初夏の、まだ明るさの残る夕方は、散歩に最適。気持ちがいい。

このあたり、麻布十番の駅から鳥居坂下あたりまで(都道319号線?)、5~6階建てくらいまでの古いビルが多い。古いと言ってもそれほど古くない。銀座の奥野ビルみたいに本格的に古いビルじゃなくて、てきとうに古いビル。その手の《微妙に古いビル》愛好家にはたまらい一画です。すぐその先には六本木ヒルズとあおの周辺の、ぜんぜんそそられない、新しいビル群になってしまうので、これは貴重です。


2016/05/23

■「いる」と「いる」 髙柳克弘句集『寒林』の一句

「いる」(動詞)は、終止形も連体形も「いる」。

句読点も「くぱぁ」(句の中の1字アキ)もない俳句において、この〔終止形連体形同形動詞〕はときに事件を引き起こします。


ぼーつとしてゐる女がブーツ履く間  髙柳克弘

この句ね、

  ぼーつとしてゐる女が///ブーツ履く間

一瞬、こう読んじゃいましたよ。

履くのを待っていると、イライラする、あるいは心配になってしまうだろうなあ。


いやいやいや、違う。違う。この句はもちろん、

  ぼーつとしてゐる///女がブーツ履く間

と読むべきなのです。


「をり」「をる」と終止形・連体形が別のかたちをとる動詞のありがたみに、ときどき思いを馳せてもいい。そんな思にかられる出来事でしたよ。今回の、「ぼーっとした女」事件は。


掲句は髙柳克弘句集『寒林』(2016年5月/ふらんす堂)より。

2016/05/22

■たたみ!


2016/05/19

■歩道橋はとりあえず渡る主義


押立歩道橋(稲城大橋近く) は巨大。自転車用のスロープと歩行者用階段、どちらも設置。

歩道橋があれば、なにはともあれとりあえず渡る主義ですので、ええ、もちろん渡りましたとも。



2016/05/18

■実山椒とりはずし大会2016

夏ですね。恒例の実山椒とりはずし大会です。

時間は、かなり、かかりました。テレビ(録画しておいたタモリ倶楽部など)を見ながら。



昨年の大会の模様はこちら↓
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2015/05/blog-post_70.html

2016/05/17

■三社祭からミートソースへ

三社祭のなか、松喜で牛コマを購い、ミートソースをつくる(嫁はんが、ではない。私が、であります。ここ強調)


三社祭2015はこちら↓
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2015/05/421_17.html

2016/05/15

【お知らせ】5月のくにたち句会

2016年529日(日)14:00 JR国立駅改札付近集合

句会場所:ロージナ茶房(予定)

席題10題程度

句会後の飲食もよろしければどうぞ(会費アリ)


ご参加の方は、メール(tenki.saibara@gmail.com)、電話etcでご一報いただけると幸いです。

問い合わせ等も、上記メールまで。



2016/05/13

■光町散歩

「光町」の名は、ここに鉄道技術研究所があった(いまもある)ことから(新幹線ひかり号)。


うぉー! 国分寺崖線!


崖は気分が上がります。出てきたら(多摩は崖が多い。立川崖線、国分寺崖線)、とりあえず、崖下を行くのがマイルール。

こういう道は、自転車より徒歩の散歩がよろしいです。


2016/05/12

■組句:森林

父方といっても花の森のこと  野間幸恵〔*〕

あたたかな橋の向うは咲く林  宮本佳世乃**〕


森と林の違いは、木の本数ではないようですね(なるほどという説明≫こちら)。

あたたかな光に満ちた橋の向うは、諸々の美しい花が咲く林。こう読んでくると、〈あたたかな橋〉は天国への入口のような、あるいは彼の世と此の世を結ぶ、能の橋掛かりのような不思議さを帯びてくる。(相子智恵)
http://hw02.blogspot.jp/2016/05/blog-post_9.html

「父方」という出自=時間にも、「向う」という距離にも、シャグリラ感。花の威力でしょうか。


〔*〕野間幸恵『WATER WAX』(2016年1月/あざみエージェント)より

**〕『オルガン』第5号(2016年5月)より

2016/05/11

■あやまちは忘れちゃえ、忘れても忘れなくてもくりかえすかもしれないしくりかえさないかもしれない秋の暮

福田若之 〔ためしがき〕「忘れちゃえ」の句についてのメモ

ソフィスティケーションの一方、やや生硬に倫理的な色合いの濃い方向へ。

いわば「人文科学系・進歩的左翼」(この語は末尾にあえて(笑)を付して)、それは私の先入見かも知れないにしても、どうも、この2句を倫理的な正しさで〔弁護〕するような印象をもってしまう。それは、弁護自体は悪いことじゃないけど。


忘れちゃえ赤紙神風草むす屍 池田澄子》も《あやまちはくりかへします秋の暮 三橋敏雄》も、ある種の破壊力、やわらかな破壊力が眼目と思っています。で、破壊の対象は「倫理」も含まれる。

もちろん両句とも反語表現と解するのがふつうでしょう(参照≫かわうそ亭 池田澄子さんの俳句)。反語も読み取れずに「忘れちゃえ」とはなにごとだ?と憤る幼稚な読み(当時、実際にあったと聞く)は論外としても、反語や諷刺(皮肉)は、そうと言い切ってしまうと妙味が薄れる。わざわざ直截を避けた甲斐がなくなる。

反語・諷刺を含んだ口吻は、これらの句において、それほどシリアスに、シロクロをつける方向には向いていない。

つまり、どっちだっていいのですよ。あやまちも忘却も。

句を作った人はどっちか心を決めているかもしれないが、テクストは、シロでもクロでもない、いわば超然とした、あるいはイイカゲンな立場に身を置く。

俳句は「意見」を言い合うものではないでしょう。俳句が「短くまとめた意見」だとしたらしたら、こんなに退屈なもの、ありません。意見なら、季語なんて要らないしね。

シロとかクロとか意見とか倫理とか、そういうものをやわらかく破壊していく俳句は、やはりおもしろいです。


(ただ、言っておかねばならないのは、この2句を併置したのは、初めてではないにしても、手柄。若之くん、グッジョブ!)


過去記事http://tenki00.exblog.jp/2072763/

■咳が心配 『川柳カード』第11号の一句



『川柳カード』第11号(2016年3月25日)より。

カーテンの向こうの咳が止まらない  草地豊子


こわい。

心配になってきます。


ところで「咳」は冬の季語として俳句にも出てきます。この句にある材料は、俳句でも言えそうです。「咳き(しはぶき)」とか言っちゃってね。

けれども、俳句だと、怖さは醸しそうにない。

この句の、「止まらない」という過剰、言いぶり(口吻)。そのへんに川柳の要諦がありそうにも思うですよ。




2016/05/10

【外階段】祭りの夜



この日、府中・大國魂神社では「くらやみ祭り」。そのこと、週刊俳句に書いています(↓)。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/05/472.html

2016/05/09

■ぬるぬるした世界 『川柳カード』第11号の一句

『川柳カード』第11号(2016年3月25日)より。

ヌルヌルの会見場のパイプ椅子  兵頭全郎

冒頭の「ヌルヌルの」は、パイプ椅子に掛かると考えれば、なるほどという形容。ぬるぬるしてますよね、あの、安手のパイプ椅子。

けれども語順のせいもあって、会見場が「ヌルヌル」している気もしてくる。こちらは「なるほど」からは遠く、やや奇妙な、それゆえ妙味のある把握。

ま、考えてみれば、ぬるぬるのパイプ椅子があれだけたくさん並べば、場所全体がぬるぬるしてきて不思議はない。そしておのずと、集まった人間たちもぬるぬるしてくる。


ああ、いまや、私のアタマのなかは、会見=ぬるぬる、という等式でいっぱいです。



2016/05/08

■白鳥が来るとき 『豆の木』第20号の一句

白鳥に純白で絢爛なイメージがあったのは、実際に目にするまでのことで、秋田で、ほんのそのへんに、たくさんいるのを見たときは、泥でそこそこ汚れているし、田を行き来する姿はそれほど優美でもない。日常のなかの白鳥。この鳥を間近に暮らしている人たちのイメージは、私たちとは違うのだろう。

と、それはそれとして。

白鳥が来るとき狭い君の部屋  近恵

「君の」と二人称で限定された「部屋」にまつわる、関係の近さ、いわゆる親近感。それと白鳥の飛来とが照応する。

「いる」白鳥が場合によっては少々泥で汚れ日常的ではあっても、「来る」白鳥は、そんなことはない。私(たち)の住む地域、というよりももっと広いスケール=「気候帯」への飛来であるからには、いつでもいくばくかの非日常性をまとう。「君の部屋」という「狭い」空間との対照も相俟って。

なお、「とき」を「狭い」に続けて読むことはせず、つまり散文的に読まずに、ここで切って読む。白鳥渡るときだけ狭いわけではない。「君の部屋」はいつだって「狭い」。君と私とふたり、あるいはもうひとり加えたくらいでもう、人でいっぱいの、狭い部屋。


掲句は『豆の木』第20号(2016年5月5日)より。

なお、手元に残部1冊あります。ご興味のある方は、tenki.saibara@gmail.com までお知らせください。送らせていただきます。


2016/05/07

■前島密ふたり(三名超過)+ウスターソースな晩春の某日日記

晩ごはんの食卓に出てきたとんかつソースを見ながら、「じつはウスターソースのほうが好きなんだけど」と告白。

「え? 私も、そう」と嫁はん。

というわけでウスターを常備するようになった。

早く言ってよ、という話。

何十年一緒に暮らしていても、お互いに知らないことが多い。





某日。帰国中の小津夜景氏来訪。

小津夜景氏のリクエストでベートーベンのソナタ28番と25番を弾く嫁はん。



昨年と同じ4月、晩ごはんを一緒したメンツも偶然昨年と同じだったので、昨年の記事を貼っておきます。

http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2015/04/blog-post_27.html
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2015/04/blog-post_14.html

食べたものは昨年とは違って(ふつうそうだろ)、餃子。ただひたすら餃子を焼いて食べる(餃子を食べるときは他のオカズを食べない、というのがウチ流)。

具:嫁はん担当。

皮:お店で買ってきた。

包む:わたし担当。京都・百万遍の王将(我が青春! 19歳の原点!)を思い出しながら、心を込めて包みました。

昼は空が、夜は夜空と雨露を防ぐ屋根があれば、そしてそこに友人がいて、すこしの食べ物があれば、それでもう100パーセント。何も欠けるものはありません。



某日。嫁はんが蒲団の中で譜読み。

勤勉なのかズボラなのか、シロウトには判断がつかない(前者と信じたい)。

2016/05/06

■推定無罪、および、この世のものとしてマンゴー

いろいろと思いをめぐらせてみたのですが、フィリピンパブも台湾式マッサージも、心当たりがない。

https://tmblr.co/ZCNMfr25q1IZ0

わたし、潔白です。


それはそれとして、取り上げていただき、深く感謝。



2016/05/03

〔外階段〕なぜにトラック


東京都国立市谷保

2016/05/02

■夏はすぐそこですね(クラゲ)

クラゲ好きとしては見過ごせないハンカチ。



ハンカチを拾うてよりの松の風  依光陽子


2016/05/01

■七曜

『絵空』第15号(2016年4月15日)より。

七曜の真ん中あたり水温む  茅根知子

「七曜」は一年中なのに、やはりどうしても春を思ってしまう。それは、有名句、

麗しき春の七曜またはじまる  山口誓子

のせいでしょう。

こんなのもある。

七曜の埋めつくされて花粉症  山崎せつ子

せっちゃん、元気かなあ。

私も春でつくった。

七曜をたゆたふ春の金魚かな  10key(句集『けむり』)

もちろん春以外もあります。

七曜のはじめ身軽し赤い羽根  河野南畦

赤い羽根募金は10月から12月。1947年(昭和22)スタートといいますから、比較的新しい習俗。

ところで、数十年ぶんの絶望が横たわっていたとしても、このさき一週間ぶんの希望があれば、楽しく暮らせる。かも。

みなさま、良い一週間を。