2020/12/30

■年末

年末恒例。ランちゃん(♀三毛)の予防注射に、憲武画伯、来訪。


今年のおみやげは豆源。美味美味。謝々謝々。



なお「おとぼけ豆」に関して、どこがおとぼけなのか? 凝視してのち口に運んでみても、わからんかった。

とりあえず、ラヴ&ピース!

2020/12/29

■亀のゆくえ

男根と弾痕大根は亀戸だと思ふ  瀬戸正洋

こうしたパワフルなことば遊びがあるかと思うと、

狸罠夕日汚れてゐたりけり  同

ぎょっとするような肌理と温度をもったワンダフルに美しい句もありますし、あるいは、離れた箇所に置かれた2句、

饂飩にもカレーライスにも茸  同

松茸も毒茸も同じ茸だと思ふ  同

このキノコらに、共通する論理・理念・接近・把握があるような、ないような、そうしたバリエーションに富む愉しみ方のできる句集『亀の失踪』について、『ブルウマリン』に寄稿させていただいた関係から、手元に残部些少あります。ご興味のある方は、tenki.saibara@gmail.com までご連絡ください。郵送させていただきます。


2020/12/28

■家庭内音楽

こんなご時世なので、音楽も、大規模なライブは無理。しぼんでいく心配をしている人もいるんだろうけど(実際行き詰まるビジネスもある)、YouTubeではホームコンサート的な小規模なパフォーマンスが目立つようになった。

NPR Musicというチャンネルを見つけてしまい、そこには毎日聴いても聴ききれないほどの、その手のコンテンツがある。ざっと見た顔ぶれは知らない人がほとんどなのだけど(私が知らないという話)、世の中には、こんなにもたくさんのナイスな音楽があって、こんなにもたくさんの人が歌ったり奏でたりしてるんだなあ、といまさらのように。

NPR Musicは、Wikipedia(翻訳)によれば「2007年11月に設立された米国の民間および公的資金による非営利会員メディア組織であるNational Public Radioのプロジェクトであり、公共のラジオ音楽番組と音楽発見のためのオリジナルの編集コンテンツを提供」だそうで、ずいぶんと歴史がある。音楽好きの人には大昔から周知・承知なのかもしれない。

ともかく、家で、書斎で(書斎がなくても、デスクで)、楽しめることは、まだまだたくさんあるということを、みんなで理解する一年だったのかもしれませんね、この2010年、新型コロナ・イヤーは。

2020/12/22

■切れか否かでふたとおり生じてしまう読み・後篇

 ≫承前

切れているのか切れていないのか、かたちのうえでは判別できないケースについて話していたのですが、後篇は自分の句を例に。

ともだちが帰つてこない冷蔵庫  10key「灰から灰へ」2013年10月13日

《~こない》と《冷蔵庫》のあいだに切れを読むか、ひとつづきで読むか。ふたとおりがあって、どちらとも決められない。

週刊俳句に載せた句なので、句評がいくつかあります。そこでは切れているか否かで読みが分かれています。

津髙里永子さんには、切って読んでただいています(≫こちら)。

柴田千晶さんは、切れているような切れていないような、中間の読み(≫こちら)。ホラーな連想/妄想。句評に読み応えがあります。

そして、鈴木茂雄さんは、切らずに読んでいらっしゃいます(≫こちら)。

作者として(自句自解になっちゃいますね)、これをつくったときのことを思い出すと、宮本佳世乃《ともだちの流れてこないプールかな》がまずあって、そのもじり。ナルニア国物語の簞笥が頭にあったので、鈴木茂雄さんの句評はそのへんの作句の端緒をお見通しというわけです。

とまあ、作者は「取り合わせ」で作ったわけではないのですが、もちろんそんな意図は読みに無関係。だいじなことは、上に挙げた読みがいずれも面白いこと。句が曖昧さをまとうことで、読み手の愛情を呼び寄せたようです。

でね、俳句において不確定は、今回の切れに限らずついてまわる。それを表現としての瑕疵・不完全ととる向きもありましょうが、そこはそれ、例のあれ、読者に向かって《開かれている》(opera aperta)ととるほうが、きっと私たちは幸せです。なんでもかんでも楽観のほうへとむりやり持っていくのも問題といえば問題でしょうが、この手のものは、曖昧さでもって他人を傷つけることも、まあ、ない。読み手に任せるという、まわりまわって、それが結論かい? といったことで話をまとめていいでしょうか?(誰に訊いてる?)

ま、ともかく、ラヴ&ピース!


2020/12/14

■詰め合わせ

ともだちからコンピのCD-ROM(いろんな曲の詰め合わせ)をもらうのは愉しくて、知らない曲、はじめて聴く曲が流れてくるだけで気分が上がる。

きょう気に入ったのは、これ。


デヴェンドラ・バンハートってらしい。メロディーや歌唱の感じが過去の何かにとてもよく似ているんだけど(既知感)、思い出せない、わからない。この人の他のも聴いてみたんだけど、ちょっと違うかんじ。この曲、このトラックがいいのだってことですよ。

2020/12/08

■予約って心理的ハードルがとても高い

『ミセス・ノイズィ』とか、観たい映画はいろいろあるんだけど、「予約」して観るというのが習性になっていないので、「予約」が心理的にかなり高いハードルになる。…ってことが今回のコロナでわかった。予約かあ、まあいいか、となっちゃう。

未見の『子猫をお願い』(2001年)も、今月映画館でかかるんだけど、DVD買っちゃった。

もう1枚、ペ・ドゥナ(ファンなのです)で『ほえる犬は噛まない』(2000年)。ポン・ジュノ監督でいちばん好きな映画。DVDで持っとくのもいいかな、と。えらく安かったので。



2020/12/06

■切れか否かでふたとおり生じてしまう読み・interlude

承前≫http://sevendays-a-week.blogspot.com/2020/12/blog-post_4.html

東京タワーが雑煮になったりするのか?

という問題はたしかにあります。

きっと、なりません。でも、起こり得ないことが起こるのが俳句、というか文学全般なわけですから、わたしたち的にも日本政府的にも科学会議的にもなんら問題はない。

実際に起こること、実際には起こらないこと、どちらも俳句では起こります。

実際に起こることしか起こらないのであれば、その実際を見ればいいわけで、不要とは言いませんが、例えば、どんなに的確に〈描写〉された句も、「見に行けばいいんじゃないの?」「実際に見たほうがおもしろいでしょ?」といった残酷な反応に晒されることを承知しておかねばなりません。

もちろん、起こらないようなことが起こりさえすればいいってものではなく、非現実・幻想の度合いと句の魅力はまた別問題です。

結論的には、俳句はナンデモアリ、ということでしょうか。

ラヴ&ピース!

2020/12/04

■切れか否かでふたとおり生じてしまう読み・前篇

この年末年始は全世界的に旅行や帰省を避けるだろうから、全国的に御節料理がたくさん売れそうだね、などと、自分ん家とは無縁の話を、今朝、嫁はんとしたのですが。

東京タワー雑煮となるまでの時間  瀬戸正洋『亀の失踪』

この句ね、俳句ではよく起こることなんだけれど、東京タワーと雑煮のあいだを切れと読むか、省略と読むか(助詞その他の省略)で、句が変わってくる。

切れと読めば、東京タワーがあって(窓の外でも頭の中でもどこでもいい)、そこで散文的な脈絡はいったん断絶して、《(餅が)雑煮となるまでの時間》というフレーズが上五と照応する。

省略と読めば、《東京タワー》が《雑煮となるまでの時間》という一句一章。事態としては異常で、かなり無理のある読み筋とする向きも多いでしょうが、俳句は(散文的に)よくわかることを目的とするものではないので、こちらの読みもナシというわけではない。

どっちで読むのがおもしろいか(広義の「おもしろい」です。為念。いちいちめんどう。私が「おもしろい」と書くときは「笑える」という意味ではないです。そういうときは「可笑しい」と書く)。

どちらの読みも同時に響く、景としてオーヴァーラップする、というのもアリ、とすれば、俳句を読むとき、たいていは読者(少なくとも私)の中でコレが起こっている。で、このとき、作者の意図なんてものはいっさい関係ないので、勝手にオーヴァーラップさせて、あるいは耳でブレンドして、愉しむわけです。

(つづく)


■事情急変

仔猫を預かっているという話をしました(≫こちら)。飼い主が決まっていて、引き渡すまで一時的にウチにいる。はずだったのが、「飼えなくなった」と言われて、え! どうしよう? と言ってるうちに、すっかりウチの子に。



2020/11/30

■踵がゲル状のもの

2、3時間歩いても脚はぜんぜん大丈夫。ただし、踵にくることがある。なので踵にクッションの入った靴が欲しかった。ってわけで、買った。

府中の地元で使えるお得な商品券があって(コロナ対策)、それを使ったぜ。

オニツカタイガーは大昔に履いたことがあるかもしれんが、アシックスは初めて。

たのしみ。

歩いてるうちに走り出しちゃう、なんてことは、ないか。ないな。



2020/11/29

■青空 小池康生句集『奎星』より

空はなぜ青いのか? この問いへの正答はなかなかややこしい。フィリップ・プレイト『イケナイ宇宙学』(好著!)に一章を割いての詳しい解説がある。かいつまむと、レイリー散乱と人間の網膜のしくみ、ということになのだが、科学用語に難渋する向きに喩えも示されている。軽い葉っぱは風に散らばり、思い木の実は地面に落ちる。青は葉っぱというわけだ。

ここでひとつ興味深いのは、眼のしくみがちがっていれば、空の色は紫だったという事実(紫は青よりもさらに葉っぱ的=軽い=波長が短い)。ま、それはさておき。

青空は微動だにせず囮籠  小池康生

青空はなぜ動かないか? この問いは、自然科学よりも論理学、文学の範疇のような気がするので、モノの本で調べることはしないでおく。

青空は動かない。

自明の理といっていいんでしょうか。掲句、口調によって伝わる心持ちを横に置くと、あたりまえの事実と季語で成り立っています。

そう。季語の話です。

あたりまえの事実だけではきほん俳句にも詩にもならない。それがなんと、季語というもの、不思議というか強力というか便利というとネガティブなので効率的なものか。季語が加わるとたちまち地味のある句になったりする。

こういう具体的で方法論的な事柄が、俳句と川柳を元も子もなく分かつと思っているのですが、それはさておき、季語のよく言われるところの「斡旋」、ここに作家の特質があらわれる。

囮籠。

景がくっきりとしますし、獲物を待つ静的な空気、鳥から連想される空、それも秋の澄んだ空(蛇足ながら囮籠は秋の季語)などのイメージを同時に喚起する。俗な言い方をすれば、囮籠いっぱつで作者の力量がわかるというもんです。

掲句は、小池康生句集『奎星』(2020年10月23日/飯塚書店)より。≫amazon


なお、自明の理+季語という作りはまずまず頻繁で、自作からも思い出しました。掲句と比ぶべくもありませんが。

物体に陰そなはりて毛糸玉  10key(『けむり』2011年)

斡旋の優劣とは別に、その人らしさ、その句集らしさが出るかたちでもあるようです。毛糸玉は「らしい」かな? と、つくったとき思ったことを、いま思い出しました。

ラヴ&ピース!










2020/11/26

■吸取紙

万年筆で縦書きに字を書いたりするので、吸取紙は必需品です。

むかしは便箋を買うと1枚目として吸取紙が付いていて、不自由はしなかった。ところが、このところ、吸取紙が付属していないことがとても多い。

しかたなく、手元の1枚をずいぶん長いことだいじに使っている。

なんとかなりませんかね? 伊東屋特撰便箋さん、満寿家の優雅箋さん、ほか。

……とボヤいていたら、なんと、丸善「WRITING TABLET」さんには、吸取紙が付いているではありませんか。ちょっと硬めだけど。

あっさり問題が解決した。

地虫出づ吸ひ取り紙に字のかけら 10key(句集『けむり』)



2020/11/25

■はらだとくろだ 播州散髪剃毛事情

昨日取り上げた『金曜日の川柳』(樋口由紀子)をめくっていると(手元に置いてぱらぱらしたい本です。最初から読むんじゃなくてね。例えばトイレに置いておくのもオススメ)、こんな句があった(ウラハイからの転載なので一度は目にしているはずなのですが)。

風がはじまる理容はらだのお顔剃り  北村幸子

解説によれば、姫路吟行での一句。

これで思い出すのは、週刊俳句(2016年7月10日号)での特集「BARBER KURODA」。


はらだとくろだは違うんだけど、同じ姫路だしね。

で、理容はらだを調べてみると、ありましたありました(≫画像)。この道(みゆき通り)、じつは私、千往復以上はしているのですが、大昔のことなので憶えていません。ですが、店のファサードの既知感・既視感たるや、そりゃあもう色濃い。

なんの話をしているのかわからなくなりましたが、掲句、出だしの《風がはじまる》から、後半、なんともいえぬ脱力へ。落差がたまらない句。

ああ、姫路にも行きたい、というか帰りたいなあとも、一瞬思いましたが、とうぶんかなわないのでしょうね。コロナな世情。




2020/11/24

■ずれる 普川素床の川柳

ごはんほかほか顔の左右の不思議なずれ  普川素床

前半は穏やかで幸せな事象。まあ、日常の明るい側面。そこから、後半、文字どおり「ずれ」て、少々不穏。

人間の顔は厳密な左右対称ではなく、左右でいくぶん違う。近頃は小さいときから片一方の奥歯でばかり嚙むんでいるせいで顎や輪郭が非対称になる人が増えたという話を聞いたことがあるが、それはそれとして、少々の非対称は美的にも問題がないだろう。むしろ魅力的だったりする。その話も置いておいて、この場合、《不思議なずれ》だから、あるとき、非対称を《不思議》に感じてしまったのろうか。

自分の顔なのか、ごはんをいっしょに食べる人の顔なのか、それで句の情景は変わってくるが、私は、一読、自分の顔と読み、そのあと、目の前の顔のほうが不穏さ・不思議さが増すように思うようになった。
ちなみに、この句は、樋口由紀子『金曜日の川柳』に収録されていて、樋口氏は、自分の顔と解している。


余談。

ほかほかのごはんというと、真っ白な炊きたてを想像するが、わが家では長らく胚芽玄米と白米を1対2なので、たまに真っ白なごはんを見ると、なんだか奇妙な気がするし、味もちょっと物足りなかったりする。習慣って大きいですね。

ラヴ&ピース!



2020/11/22

■虹と食パン 西橋美保「夏の川」より

はちみつのわうごんいろが食パンに垂れつつおもてとうらがさだまる  西橋美保

はちぐわつのこの世のほかの街にたつ虹がこの世の街にかさなる  同

西橋美保「夏の川」24首(『姫路文学』第134号・2020年9月)の冒頭と掉尾。ともにひらがなが効果的。

前者。トーストに蜂蜜をかける習慣はないのですが、ちょっと、してみたくなった。

後者。虹って、この世でない街に立つかんじがしますよね。あの根元はいったいどこなんだろう。

2020/11/21

■嫁はんのコンサートが無事終了

客席50パーセント以下という条件をぎりぎりクリアして(つまりたくさんの人に来ていただいた)、受付で検温やら手指消毒やら、終演後に会場外で出演者がお客さんたちに対面で挨拶というこれまでの習わしはナシだとか、いろいろいつもと違っていましたが。

ラヴ&ピース!



2020/11/19

■あやしい 『猫街』第2号より

中元のハム用に太らせておく  近江文代

豚を見る目が、人と違う。

蛇のため卵を買って帰ろうか  同

蛇、飼ってる。

この人、あやしくないですか。


『猫街』第2号(2020年10月)収録の近江文代「卵」30句は、奇妙な視点の句がいくつか。

自動販売機ぶつかりながらビール来る  同

ビール視点ではないのだけれど、見えない内部がありありと見えるような句。


それはそうと、駅のプラットフォームで飲料水の自販機の詰め替え(補充)・集金の作業にたまに出くわすと、まじまじと見てしまいます。作業員の挙措がよくこなれていて、手際よくムダがない。缶を放り込むしぐさが美しい。このあいだの人は、レシート(数値管理なんでしょうね)をたたむ指先もスタイリッシュで、ほれぼれしましたよ。

ラヴ&ピース!





2020/11/17

■事後の破片 『Picnic』第1号より

糊余るこの世に昆虫の破片  榊陽子

糊塗という語は良い意味では使われない。「この世」はとりあえず糊で貼り合わせておくこと、とりつくろうことが、とても多い。ふつうに考えてめちゃくちゃで、やってらんない。糊が大量に要る。

でも、せんぶの作業が終わったようだ。糊はちょっと余っちゃった。

昆虫の破片=破壊や壊滅のイメージは、さまざまな〈終わり〉のさらにその後だろうか。


掲句は『Picnic』第1号(2020年11月)より。ここに収められた榊陽子「糊余る」21句は、《秋牡丹西に傾く性交痛》やら、《ご覧なさいしっかり米が勃っている》になぜに「勃」の字を使うかなあ? とか、通常運転部分はあるものの、全体にエロ度は薄い。特定の作家に「エロ」ばかりを求めるのではないが(すでに八方から非難を浴びそう)、エロって、とことん素晴らしいので、ラヴ&ピース! ついつい求めてしまう。

ところで、こう、エロ、エロゆってると、掲句もそんなふうに見えてきた。

「糊」からの即物的な連想ではない。「昆虫の破片」に漂う事後のイメージ、ポストコイタス(postcoitus)のイメージ。


なお、『Picnic』は「5・7・5作品集」と冠されていて、柳人・俳人双方が参加の模様(詳細わたしには不明)。150mm正方形・リング綴じ・本文横組というユニークな体裁。


2020/11/16

■3日後のピアソラ

当初の今年の3月予定だった嫁はんのピアノコンサート、コロナで中止/延期となったが、この11月に客席50パーセント稼働で決行とのことで、それがいよいよ3日後に迫り、

≫こちらがチラシ(今で言うところのフライヤー)

わたしはというと、当日配布のプログラム(曲目解説)の作成を手伝うわけで、もうすぐ夜中にプリンターがじぃこじぃこと鳴り続けるはず。

それはそうと、ピアノ2台のピアソラは、自宅練習を居間から聴いているだけでも迫力。

ラヴ&ピース!

2020/11/15

■11月前半が終わる

ご恵贈いただきながら未読の句集が30cmを超えた。もうぼくはダメかもしれない。


タイガースの今季最終戦を観る。9回は能見投手。タイガースでの最後の登板でセーブ(キャリア2個目)がつく。ずっと長いこと能見が好きだったのは、ピッチングフォームが素人目にも美しいことはもちろん、マウンドでの表情が理由。馘首にする選手は他にもいるだろうに。残念。


陰謀論に陥ったトランプ信者が米国にたくさんいることはわかる。けれども、日本(おもにSNS上?)に少なくないこと、これがどうにも理解できない。彼らは何がしたいの? どんな自分でありたいの? まあ、世の中、不思議なことは、いっぱいある。


家の外で鳴いていた子猫(親からはぐれた? 捨てられた? とにかく切ない声で泣き続けたわけですよ)の捕獲作戦が成功(それ用の罠を獣医さんに借りた)。真っ黒な女の子。獣医さんところで健康チェックの終わった彼女を引き取り、月曜までウチで預かり、そののち新しい飼い主へ。それまで、ウチの猫たちの好奇の眼差しの中で過ごすはず。


といった脈絡のないさまざまに囲まれて、日々過ごしているわけです。いつもそうだけど。

ラヴ&ピース!



2020/11/12

■鏡

さいきん、鏡の句がふたつ、目にとまった。

ひとりずつ鏡に呼ばれ藪からし  倉本朝世〔*1〕

鏡よ鏡もうすぐ雪になるらしい  小林苑を〔*2〕

前者は川柳作家の俳句(句に添えられた解説に「俳句の句会」に参加したとき席題「藪からし」でつくった句とある)。「ヤブカラシ」はブドウ科の蔓植物で、初秋の季語。解説を読む前に「いかにも俳句的な」と感じたのは、この「藪からし」という季語が、ある程度経験や年数を経た俳人が使いそう(個人的な思い込みです)だから。前半の詩的なフレーズとの組み合わせも俳句的。

まあ、そうしたナニナニ的といったジャンルに関する不毛はさておき、鏡に呼ばれるという事態はなかなかに不思議。鏡の前に立てば、鏡のむこうにも「呼ばれ」た自分が立っているわけで、奇妙な同定作業のようにも思えてくる。

後者は、グリム童話の引用から天候の伝聞へ。質感と温度が句の芯にいっぽん通っている。

鏡の温度は低い。《死ぬならば夏いちまいの鏡のうへ 八田木枯『天袋』》。暑い夏も鏡の上はひんやりとして気持ちが良さそう。真夏の置かれた鏡にしても、カジュアルな景ならば、冷房のよく効いた室内を映している鏡がしっくりくる。熱帯雨林を映すよりも。

冬の温度は、鏡面の冷たさとよく合うんですよね。

ラヴ&ピース!


〔*1〕『あざみ通信』シークレット号2(2020年10月)
〔*2〕『みしみし』第7号(2020年秋)

2020/11/11

■びゅびゅっと川柳

ぐびゃら岳じゅじゅべき壁にびゅびゅ挑む  川合大祐

以前、この句を取り上げて、意味了解性の希薄・喪失をもっぱら指摘したのですが、もう少しこまかく言うと、擬音めいた部分を取り除くと、岳の壁に挑む、といった内容で、きわめて明快。散文として意味が通り過ぎるくらい通る。そこに「ぐびゃら」「じゅじゅ」「びゅびゅ」が挿入されて、意味がとたんに溶解してしまうというわけで、この仕掛けはシンプルかつ強力。

この3つは、文脈からすると、順に固有名詞、動詞、副詞の役割を果たしており(別の受け取り方も可能だが)、このあたりの作りはとても周到。発想一発ではなく、操作的で練り上げられている。

ああ、やっぱりこの句、好きだわ、ってことで、再度取り上げた。

ラヴ&ピース!


〔参考〕柳本々々:こわい川柳 第五十話
http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/blog-entry-844.html

ここにも、同様の指摘がある(記事中盤あたりの「ヒント」の部分)。ちなみに、私はこの句に怖さは感じない(柳本々々の言う「こわさ」は通り一遍の怖さではなく、機微を含むものであることは承知の上で)。脳天を突き抜けるほどの快楽・享楽を見る。世界の祝祭・ことばの祝祭。

掲句は川合大祐句集『スロー・リバー』(2016年8月/あざみエージェント)より。



2020/11/08

■大統領選とTVドラマ

米国大統領選の報道を横目で見ながら、TVドラマ『ファーゴ』や『ベター・コール・ソウル』を観る愉しみ。

前者の舞台はもっぱらミネソタ州。雪だらけ。後者はニューメキシコ州で、砂だらけ。風土の色濃いドラマはやはり面白い。

なお、TVドラマ版は、映画『ファーゴ』とは別の話が3篇(シーズン4がもうすぐらしい)。で、「ソウル」は人名。「ソウルに電話してネ」という広告文句。素晴らしくいかがわしい弁護士が主役。こちらの完結シーズンは来年の模様。

一方、大統領選を太平洋越しに眺めて面白いかといえば、ぜんぜんそうではない。うんざりの種は増すばかり。





2020/11/04

■瀬戸正洋『亀の失踪』の人名句

瀬戸正洋句集『亀の失踪』には人名句が3句並んでいる箇所がある。

春の暮ジャッキー吉川が死んだ  瀬戸正洋

大阪や石原ユキオは女である  同

夕立や映画の中の樹木希林  同

ジャッキー吉川が亡くなったのは今年4月20日。石原ユキオ、樹木希林については詳細を省く


くわえて、これにも人名が隠れている。

八月のあんどうなつの油かな  同




瀬戸正洋句集『亀の失踪』2020年9月/新潮社 ≫amazon

2020/11/03

■父と夏木マリ 『みしみし』第7号より

夏木マリ的な午後だと父が言う  瀧村小奈生

人名句は、おおむね二者が基本。人名の持ち主(登場人物)と作者。

ところが、この句、父が介在することで不思議な広がりを見せた。

その午後がまさに句の現在であり、父と作者がまさに其処にいるという設定で、喩としての「夏木マリ」がはるかなものにも感じられる。


掲句は『みしみし』第7号(2020年秋)より。


2020/11/02

■象と老眼鏡 『みしみし』第7号より

一喝に象は座りて冬はじめ  岡村知昭

暖冬や老眼鏡は踏まれたる  同

『みしみし』第7号(2020年秋)に収録された岡村知昭「花子」10句の最後の2句。こう並ぶと、象が老眼鏡を踏んだ(それも足ではなく尻か胴体で)として思えない。一句ずつだと、まったくそうは読めないが作者の意図だと思う。

躾けられた象、皺だらけの胴体、老眼鏡、それらすべてが冬とよく合う。冬はモノを古びさせるのかもしれない。

そうなると、この2句の前に置かれたこの句も、なんだかとても不穏なのだ。

筋弛緩剤の空瓶暮の秋  同


2020/11/01

■ローラーコースター 瀬戸正洋『亀の失踪』より

秋の暮ジェットコースターは落ちる  瀬戸正洋

ジェットコースターが落ちるの既定の事実であって、また、落ちるだけでなく登ったり曲がったりするものなのですが、俳句効果と言うんでしょうか、「秋の暮」と付くと、なんだか味わい深く、これはきっと「釣瓶落とし」が横から響いてくるせいです。


瀬戸正洋句集『亀の失踪』2020年9月/新潮社 ≫amazon

2020/10/13

■続・下六のグルーヴ

 承前≫http://sevendays-a-week.blogspot.com/2020/10/blog-post.html

『藍』第552号(2020年10月1日)は花谷和子(1922 - 2019)の追悼号。花谷清抄出の「花谷和子の百句」を下六の観点から読んでみた。

手ばなせし家避け通る露にまみれ  花谷和子(以下同)

子供の日の頃の迅さで泥鰌遁げる

いま乾くとも炎昼の水打つ母

月光がいまてのひらに深夜の色

金魚の朱しずめ朝から瀟洒な雨

以上、1962年刊の第一句集『ももさくら』より。抄出とはいえ20句のうち5句だから、頻度は高い。昭和半ばには、男性俳人と限らず、下六が積極的に採用されていたのでしょう、きっと。

前掲のうち下五に収めることが容易にできそうな句も(例えば、露に濡れ、泥鰌逃げ、夜の色)、あえて下六。ここまで言うのだ、という覚悟のようなものが韻律に勁さを与えている気がします。

もっと下六が試みられていいように思います。

ラヴ&ピース!

2020/10/11

■下六のグルーヴ

 俳句の五七五の下が1音あまった五七六のリズム、グルーヴに魅了されることが、わたし、しばしばなんですが、最近は過度に有季定型流行りのようで、見かける頻度は多くない。ちょっと昔、というかベテラン、それも男性俳人の句に、この素敵な下六を見つけることが多いような気がする(ふわっとした印象・把握ですみません)。

で、週俳にもレビューを書いた今井聖『九月の明るい坂』をめくってみると、あんのじょう、ありますあります。

永遠に下る九月の明るい坂  今井聖

アカルイサカ。いいです。この最後ひきずるかんじのリズム。

かなかなの止む頃に来る不思議な客  同

フシギナキャク。前掲句と同様に、週俳レビューで取り上げた句。こちらも4+2の6音。

暁闇の蟹がバケツを引掻く音  同

ヒッカクオト。「音」まで言わなければ5音にまとめる方法がいくらでもありそうですが、あえて6音。蟹の執念やら聞いている作者の反応の粘度が伝わります。


下六はもっと狙っていい技巧。5音ですっきりまとめるよりも、いいグルーヴが出て、それが句のもつ質感や気分に大きく寄与することもあると思いますよ。

(他の句集でも探してみて取り上げるかもしれません。結果、「少ない!」という発見も含めて)

ラヴ&ピース!

2020/09/25

■漂流する句集

贈呈本の行き先という問題。


心情的にモヤモヤするところがあるのはよく理解できます。

でも、自分の句集で考えると、もとが贈呈にせよ購入にせよ、死蔵よりはどこかに売られるなり人の手に渡るなりしてほしいというクチ。死蔵はそのまま朽ちていく。中古市場にせよなんにせよふたたび世の中に出れば、人目に触れ新しい読者に出会う可能性が(かすかだけど)ある。

海底に沈んでいるより漂流のほうがいい。

本は、流れていくもの、という考え方。


『けむり』はともかく『チャーリーさん』はamazonとかで見たことがない。どこかで見つけたら、高値でも買うかも。買い戻しの里帰り。

2020/09/20

■週刊俳句・700号を迎えて

≫週刊俳句・第700号
http://weekly-haiku.blogspot.com/2020/09/7002020920.html

第600号と何が違うかというと、1000号が見えたこと。

感覚レヴェルですけどね。

週俳創刊の頃、「1000号」という数字を口に出していました。号数が三桁の俳誌はたくさんありますが、四桁はめずらしいのではないか。そんな程度の発想です。

1000号は、月刊なら84年かかる計算です。調べてみると、『ホトトギス』はこの9月号で第1485号。すごい。

ともかく、この「1000」という数字、この第700号まで来ると、ちょっと見えてくる感じがするから、自分で不思議です。第699号までとは実感がまるで違う。

第1000号は何年先の何月か。その計算は、しないでおくことにします。とてつもなく先のことかもしれないので。


第700号がアップされるまさにそのとき、土曜日の24時。私は寝てしまっていて(早起きが身に付いて、ときどき24時を待たずに眠りに落ちてしまいます)、700号記念の記事も書けず仕舞い。せっかくなので、ここに創刊以前のことをひとつ。

創刊は2007年4月ですが、アイデアが生まれたのはその半年以上前です。数人に声をかけ、mixi(時代ですねぇ。なつかしい)にコミュニティをつくり、まず誌名について語り合いました。候補はほとんど忘れましたが、「俳句エッグ」というのは憶えています。それにならなくてよかった。

創刊は2006年秋を考えていましたが、私の個人的事情で半年延期。私一人でとりあえず始めるというローギア発進。ほどなく複数当番になりましたが、そのへんは予定どおり、というか目論見どおりでした。

創刊当初、俳句作品の掲載がなかったのは、創刊の背景の一つに「俳句が読まれない」「みんな作るばかりでぜんぜん読まねえなあ」というのがあったから。週俳は「もうちょっと俳句を読みましょう」運動でもあったわけです。

そのうち川柳と俳句の競詠が登場。それをきっかけに俳句を載せるのも、まあいいか、という空気に。

そのへん、ヒトケタからフタケタのバックナンバーをあけると、なかなかおもしろいかもしれません。


当時は「インターネット俳句」なる語もあって、ウェブ上の俳句関連サイトは、なんだか新しいもの、なんだかリアルに対抗するものとみる向きもありましたが、新しい気もないし、なにかに対抗する気もない。

媒体ではなく、「場」、というのが、めざすところ。

求心力は不要というより邪魔。遠心力は欲しい。

このあたりはくりかえしいろいろなところでしゃべたり書いたりしました。


そろそろ大きな変化、大きなテコ入れが必要かもしれない、と考えてはいるものの、なかなか腰は上がりません。まあ、これまでどおり、流れに任せて、力を入れず、いい意味でテキトーに、続いていくといいなあ、と、思ってますよ。

ラヴ&ピース!


2020/09/18

【句集をつくる】第26回 このさいもう句集じゃなくて

人名歌集というのは、どうだろう。

ストック

短歌の人に叱られそうだから、「歌集」ではなく「歌のアルバム」と銘打つ。

それに考えてみれば、人名句集『チャーリーさん』のときも、俳句の人に叱られそうなのに出しちゃったわけだから。


2020/09/16

【句集をつくる】第25回 歌仙からのサルヴェージ

過去作から拾い上げるのに、連句(歌仙)もあるな、と。最近はやっていないけれど、ずいぶん古くから遊んでいる。百巻までは行ってないけど、数十巻はやった。どこかに残っているはずの記録を探し出すのは骨が折れるが、例えば、

ぜんぶある耕耘機から入れ歯まで  10key

これは歌仙「厨」から。

こういうマヌケな句をどんどん見つけたい。

ところが、最近、こんな記事を読んでしまう。

高松霞:連句の著作権について

そこには「単一の著作物について、各人の寄与を分離して個別に利用できない」「転載する場合やどこかの大会に応募する場合などは、著者全員に許可を得ておいた方が良いと思います」とあり、ううむ。

参加者(連衆)の許可なんて、きっと無理。

そのへんは無法者を通すというムチャもやぶさかではないし、歌仙からのサルベージなんて、拾える句は多くないだろうし、拾う先も見つからないことのほうが多いから、それはいいとして、それよりも、今後、歌仙への参加は二の足を踏んでしまいそう。

自分のつくった句は(俳句でも付句でも)、そののちのリイシュー(再編集)という作業が愉しい、というクチなので、歌仙から自分の付句を切り離すのにハードルがあるのは、現実にどうとかいう以前に、心理的負担(つまり、「なんだかめんどうだなあ」という)が先に来てしまう。

まあ、この問題は保留ってことで、ラヴ&ピース!


2020/09/15

■バナナつながり

橋本直句集符籙』のレビューでバナナを取り上げたあと、バナナのことが気になってしかたない。

 


でね、太田うさぎ句集『また明日』には、バナナの句がふたつあるんです(気づいた範囲で)。

商標の輝いてゐるバナナかな  太田うさぎ

Tシャツに曰くバナナの共和国  同

前者。バナナにぺたんと貼られたシールは、今でこそバナナも多様化しているようですが、かつては、というのはバナナが高価・高級ではなく手に入りやすい果物になっていった頃には、なんといってもチキータドール。どちらも米国起源の国際巨大資本。実態は知りませんが、イメージ的には帝国主義・植民地・プランテーションを連想させるブランド。さんざ美味しくいただいておいて、何という言い草!

後者。カジュアル服のブランド「バナナ・リパブリック」もまた米国起源。私自身はあまり縁がない(ポロシャツを1枚持っていたことがある)。

つまり、バナナって、私(たち)の消費生活・消費社会と密接な事物のようでありまして、橋本直さんが見たバナナ山積みのバイク《幾らでもバナナの積めるオートバイ 橋本直》(生産の現地)から、世界資本主義的にグローバルな地球規模まで、3句を並べると、なかなかに滋味深いスケール感なのですよ。

ラヴ&ピース!


2020/09/13

■〈非=五七五〉を愉しむ・その3


〈非=五七五〉の句には描写が少ない。抜き出していて、そう思いました。「豆の木」という集まりの傾向でもあるでしょうが、そればかりではない。五七五定型と描写(いわゆる写生)が強固に結びついている面があるので、五七五定型から外れてなお写生、というのは、手順的に操作的にむしろ不自然なのかもしれません。

意味了解性が比較的薄いこと、いわゆる「膝ポン」俳句、「あるある」俳句、標語俳句が少ない(ほとんど無い)こと。そんな傾向も見られます。従来的な俳句の集合、効果面でのマジョリティとは離れたところにあるようです。

では、引き続き『豆の木』第22号から。

みづむしの足フランスから郵便  高橋洋子

5-2/4-2-4。後半、PAR AVIONの赤青白が目に飛び込む。それは国際郵便の色であり、フランス国旗の色(トリコロール)でもある。洒落て清新な後半の前半がなぜに水虫? ああ、これこそが俳句の不思議です。 

姿かたちは法廷まなざしは雪  田島健一

7-4/5-2。散文的な妥当をいくつも壊しているので、「難解」「わからない」の誹りを受ける典型のような句。作者・田島健一は「難解」批判、「わからない」迫害の渦中に長くいる作家(大袈裟に表現してみた)。

この句、好きですよ(今回のシリーズであげている句はそれも好きです)。意味は辿るけれど、因習的に解釈しない。意味の因習から逃れていることがこの句の価値だと思うから。

まあ、それよりも、事物の感触と空間への布置を味わう。科学への態度。そのまますなおに、法廷の姿かたちしたものを脳内に繰り延べて、まざさしという形のないものに、雪の色と形状と温度を与えてみる。すると、私(読者)のなかで、きわめて新鮮な経験が沸き起こる。

約束って恐いよね ブーツ履かない  中内火星

6-5/3-4。対句ではなく対話のような作り。若い女性が想起されるのは、口吻とブーツのせいか。

痛みはじまり主よ加速する新緑  中嶋憲武

3-4/2/5-4。上掲3句の構造=前半と後半で2部構成と違い、「主よ」の2音が挟まる。切字以上に大きく切れるかのような形。意味的には前半と後半がわりあい順当に照応する。つまり、新緑のなか痛みが始まることに(そう散文的に示していないが)、なぜか実感。

それにしても新緑の加速は魅力的な言いぶりですね。


こんなところで、いったんおしまい。

〈非=五七五〉の俳句、愉しんでいただけましたでしょうか。

ラヴ&ピース!


2020/09/11

■〈非=五七五〉を愉しむ・その2


ところで、いっけん〈非=五七五〉のように見えて、〈五七五〉が強く意識されているケースがあります。同じ『豆の木』第22号では、

幣辛夷ほどけて心臓の高さ  近恵

落花生ください明け方が近い  近恵

一匹の芋虫にぎやかにすすむ  月野ぽぽな

といった句。どの句も、5453。中の7音が崩れているが、全体の音数は17音。これらは五七五定型と亜種とみなされる。

それぞれ、

しでこぶし/ほどけてしんぞ/うのたかさ

らっかせい/くださいあけが/たがちかい

いっぴきの/いもむしにぎや/かにすすむ

と読めば、五七五定型感が強まる。独特のビートが出やすく、じつは、この5・4・8(5+3)のかたち、わりあい見かけるかたち。

ところが、同じ17音でも、

通勤電車とけて牛蛙の眼  鈴木健司

となると、7361。548から離れ、五七五定型感が薄まる。〈非=五七五〉とすべきでしょう。

それはそうと、通勤電車の融解という禍々しいようなナンセンスのような景が、「牛蛙の眼」の質感に連続して、おもしろい。

で、本日はここまで。長くなるまえに終わって、小出しに回数を稼ごうと思います。

ラヴ&ピース!

(つづく)

2020/09/09

■〈非=五七五〉を愉しむ・その1

〈非=五七五〉。こなれない言い方ですね。耳慣れない呼称だと思います。

五七五定型からはずれた音数構成をもつ俳句のことを「破調」と呼んだりもするようですから、「破調」と言えばいいじゃないかという向きもありましょう。

しかしながら、この「破調」、見ていると、どうも定義・運用が定まっていないかんじです。対象の幅が語を使う人によって違う。

広義では、句跨りも破調に入れてしまうケースがあるようです。極端なケースでは、《愛されずして沖遠く泳ぐなり 藤田湘子》など、どう見ても五七五にしか思えない句も、人によっては破調になってしまう。

そんなわけで、〈非=五七五〉と言わせていただくわけですが、まずもって私の〈五七五定型〉の幅はかなり広い。

句跨りはもちろん、上の字余り(例:《人体冷えて東北白い花盛り 金子兜太》)も下の字余り(例:《朝起きてTシャツ着るやTシャツ脱ぎ 榮猿丸》も五七五定型のうち。上下いずれも字余りというケース(例:《入歯ビニールに包まれ俺の鞄の中 関悦史》)も同様。

中八も五七五のうち。例えば、《春ひとり槍投げて槍に歩み寄る 能村登四郎》。五八五は昭和には意外に多い。好悪は別にして、槍投げの句を非=定型とする人はいないでしょう。

字余りと中八が同時に起こっている句。《蛇口の構造に関する論考蛭泳ぐ 小澤實》も五七五定型とみなしてしまう。繰り返しますが、私の捉え方ですよ。

そのうえで、五七五定型とはいえない句を見つけ(もちろん、俳句ではあります)、楽しもうというわけです。

探す場所は『豆の木』第22号(2018年5月)。

ではさっそく行きますね。

逃げ水を追う喋り方講座  三宅桃子

5-2/5-3。最後に2音あれば、五七五定型ですが、ない。寸足らず感が素敵です。追って追いきれない感じ。「喋り方講座」の胡散臭さ・安物感・バッタモン感が、前半の詩的な行為と対照されて滋味深い。

かはほり廻り闇を守る団地  宮本佳世乃

4-3/3-3-3。短句(七七)の字余りともとれるような性急な韻律。333の畳み掛けって、俳句的ではないけれど、歌のような効果も。

「守る」の主体が「かはほり」とも「団地」ともとれるので、明瞭な景ではないが、ある種、民俗的な雰囲気も醸す。

あたらしい記憶きつと鶫だらう  山岸由佳

5-3/3-3-3。後半が前の句と同じ333ですが、促音と「らう」の伸びる感じを含むせいで、畳み掛ける感じはない。前半と53のセットと後半のセットの2段重ね。意味了解性は低いが、前半=後半という構造で、後半のいわば「回答」に裏切りを持たせた作り。

しかしコーヒーうまいねセーターに穴
  柏柳明子

3-4-4/5-2。前半はセリフの引用。後半は叙景。こうした場合、どちらが主眼なのか判然としないが、どちらが前景でどちらが後景なのか、というより、時間軸で線的に書かれているように思える。


〈非=五七五〉の句、おもしろい。韻律(グルーヴ)はたしかにあって、そのうえに意味の遊戯が乗っかっている。

『豆の木』第22号から、もうすこし拾ってみようと思います。

(つづく)

2020/09/08

■繰り返され蒸し返される〔12音+季語〕

すこしまえに〔12音+季語〕の話を何度かに分けてしましたが↓↓↓
http://sevendays-a-week.blogspot.com/2020/08/12_11.html

繰り返されるわけです。

6年前のツイッター↓↓↓
https://togetter.com/li/728226

繰り返されてきたから、すでに論じられたテーマだから、もうみんな飽き飽きしているから、やめておこう、という選択もあるのですが、何度でも話題にあげればいいという考えに、このところ変わってきました。

むかしの記事ややりとりをみなさんが読んでいるとは限らない。というか、一般に、素晴らしく読んでいない、驚くほど読まれていない。俳人は、句を作ることには一所懸命ですが、きほん、読まない。それを日に日に実感するので、何度書いても、「また書いてる」とはならないと踏んでいるわけです。

(本人も忘れてるし。むかし書いた記事なんてほとんど)

ラヴ&ピース!

2020/09/07

■オンリー・ユー・アンド・ミー

途中からのラップが素敵です。



タイトルの「オンリー・ユー・アンド・ミー」も素敵です。

〈あなた〉は特定の人ではなくて、目の前にいる人。それをたいせつに暮らしたい。ちょっとスウィートなことを言っちゃいました。

ラヴ&ピース!

2020/09/06

■「さん」付けの蔓延

慣習は変化していくもの。ことばの慣習も変化する。

著名人への言及(その人に呼びかけるのではないという意味)は呼び捨て、というのが長らくの習わしだった。「さん」の有無で、ある種のコンテクスト、すなわち書き手と対象人物との関係やら場面を推し量ることもできたわけで、例えば、「川端康成がそのとき言ったのは」と「川端康成さんがそのとき言ったのは」は、ちょっと違う。他に情報がなくても、後者は書き手が直接耳で聞いたことが、ふんわり伝わる。

書いたものだけでなく、話すときも、「吉永小百合さんが」なんて聞いたりすると、知り合いですか? となった。

ところが、このところ、しだいに「さん」付けが増えていき、なんだか「マナー」のようになってきた感。呼び捨てはマナー違反とでも言うように。

(不思議なことに外国人にはほぼ付かない。ピカソさんとか毛沢東さんとかは見たことがない。ただし、新聞ほか媒体には、スポーツ選手などは引退したら「さん」付けというルールがある)

さて、「さん」に溢れる世界がSNS。SNSはきほん話しことばだから、言及としての呼び捨てには抵抗があるのかもしれないが、それにしても物故にまで「さん」が付いていたりする。

なお、俳句世間も「さん」付けだらけです。

ただし、有名俳人と知り合いという可能性は大いに残るので、物故はともかく、その人にとっては「さん」付けの根拠があるのかもしれない。

ここにも不思議なことがあって、「子規さん」はやたら見るが(もっとくだけて「のぼさん」もある)、「虚子さん」は見たことがない。キャラクター、人物から受ける印象の違いなのか。

で、ひとつ、どうにもこうにも背中がむずむず痒くなる「さん」付けが、これ。

 芭蕉さん


というわけで、ラヴ&ピース!

2020/09/05

■西瓜

あとで食べるんだろうなと思っていたら、食べた。

2020/09/01

■9月1日は……

97年前のきょう、9月1日。関東大震災だったんですよね。

むかしこの震災関連で調べた、というか、いろいろ本を読んだりしたことがあって、なかなかおもしろいのですよ。

どこかに一度書いたと思うけど、明治以降の日本を見たときに、太平洋戦争よりも関東大震災が「区切り」になっていることも多いってのが、まずいちばんの驚きでしたよ。憶えてることを断片的にしゃべると、映画の輸入元が欧州から米国にシフトするとかね(これは資料を見てて思った)。

人の移動も興味深い。東京がたくさん燃えちゃったから、材木がいる。材木と一緒に大工さんも大量に東京にやってきたとかね。ニューカマーが膨れ上がった時期です。

ちょっと変則だと、横浜も被害甚大だった。横浜で商売をしていたユーハイム夫人が、震災を機に神戸に移ったとかね(これは震災関連目的でなく読んだ私家版社史で知った)。震災がなれけば、私のバウムクーヘン初体験もまったくちがったものになっていたわけです。ついでにいえば、この菓子舗、もともと第一次世界大戦でのドイツ敗戦で、青島から横浜に渡ってきたのが起こりってのも、おもいしろいですよね、事のなりゆき的に。

あと、震災の3日後には即席の舞台が仮設されて、軽演劇をやってたとかね。人はパンだけじゃ生きていけない。笑いもたいせつなんですね。

さらには、その時期に読んだんじゃなく後日読んで結びついたのは、当時の復興担当内務大臣、後藤新平の都市計画とかね。

まあ、こんなふうに、関東大震災って、興味はつきないんですよ。

もちろん、もっとどす黒いこと、ネガティヴなこと、人間のいやな面を見せられるようなこともたくさん起きたようです。それも含めて、この巨大カタストロフにかつわる事象は、何度でもいくらでも振り返ってみるといいと思います。

ラヴ&ピース!


2020/08/16

■とある日のマネキン

マネキンをばらばらにして春のシャツ  小野義江

ばらばらしてから、マネキンにシャツを着せるのか(工程的に不自然)、マネキンが着ていたシャツを脱がせるのか(こっちのほうがありそう。店員的に)。

ある種凶々しさをかすかに連想させる《ばらばら》から、《春のシャツ》の開放感へ。転換にコク。

掲句は『川柳木馬』第165号(2020年7月)より。

2020/08/15

■賜り物

封筒で郵送されてきた梵天椿。

鉢と土を手に入れなくては。

それと、うちの猫たちは、家の中の葉っぱを食べ物(サラダ)とみなすので、どこに置くか考えないと。


2020/08/11

■〈12音+季語〉調査 最後は『水界園丁』

承前≫http://sevendays-a-week.blogspot.com/2020/08/12_10.html

〈12音+季語〉の頻度や浸透度について、実際の句集で見ていっているわけですが、少々飽きました。〈12音+季語〉の句は、句としてマジョリティにはあるのですが、それ以外もたくさんあるよ、ということがわかれば、それでいい。

なので、最後の句集にします。

いやあ、出てこないなあ。かなり少ない。というか、ぜんぜん、ない。ってのが、生駒大祐『水界園丁』(2019年6月/港の人)です。

やっぱり? という人もいれば、意外だ! という人もいるでしょう。10句目に《声のある家を覗けば枯芙蓉》、11句目に《鱈驚く中華麵より湯を切る音》がありますが、どちらも季語の「斡旋」て感じじゃありません。なにしろ《鱈驚く》ですから。こっちが驚いちゃいますよ。

34句目の《針山の肌の花柄山眠る》が形としてそうですが、「山」の相同/転換で遊んでいるので、あとから《山眠る》を持ってきたわけではないでしょう。ただ、〈12音+季語〉の特徴、いわゆる「季語が動く」(きらいな言い方です。二句一章はそりゃ動きますよ。「これは動かない」なんて、したり顔でおっしゃられても、ねえ。動かそうと思えば動きますよ)ということでは、《山笑ふ》でもいいだろう。でも、それでは句として賑やかすぎる。《山粧ふ》はツキすぎるし、《山滴る》は液体が針とぶつかりすぎる。こう考えていくと、《山眠る》は、いわゆる「動かない」「正解」としてよさそうです。よく出来てる。

というわけで、『水界園丁』もまた〈12音+季語〉パターンがとっても少ない句集でした。

生駒くん、おめでとう!

って、何がめでたいんだか。

ラヴ&ピース!




2020/08/10

■セルフチェック 〈12音+季語〉の頻度

承前≫http://sevendays-a-week.blogspot.com/2020/08/12.html

〈12音+季語〉という作句手順と思しき句の出現度合いを、実際に句集で見ているわけですが、他人様の句集にあたるまえに、自分のをちょっと見ておきます(怖いけど)。

『けむり』(2011年10月/西田書店)。

最初からめくっていくと、4句目に《白南風や潜水服のなかに人》。早くも登場。んんん、たしかに、これ作ったとき、中七下五を思いついて、まあ海だし、ってことで、わりあい安易に一瞬で「白南風」を持ってきたように覚えています。

しかし、さらにめくってみて、〈12音+季語〉はそれほどの頻度ではありません。

冒頭からの50句で拾ってみると、《朝顔やべつべつに干す紐と靴》《しまうまの縞すれちがふ秋の暮》《冬ざくら空のはじめは大むかし》《レコードのかすかなうねり山眠る》の4句を加えて5句。ちょうど1割。ただ、このうち3句目は《冬ざくら》から考えを進めたように記憶しています。ほかも、「斡旋」というより、ほぼ同時に季語がくっついた感じ。

1割が多いのか少ないのかわかりませんが、作風としてわりあいフツウの句集なので(アヴァンギャルドでもチャレンジングでもない)、意外に少ないと言っていいかもしれません。

句会などで、とくに席題の即吟では、〈12音+季語〉という作句手順をよくやります。でも、自分で残す句は、句会への投句とはまた別の経路で考えているフシがある。だから、『けむり』には〈12音+季語〉がそれほど多くない。それと、いわゆる「一句一章」「一物仕立て」を好むせいもある。

というわけで、世の中には、〈12音+季語〉が溢れているように見えて、そうでもないのかも、ですよ。


画像は、柳本々々さんから無断で拝借しました。http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/blog-entry-148.html

2020/08/09

■胡瓜の使い途

家庭菜園な日々でもあるのですが。われわれのこのところの日々は。

こちら≫http://sevendays-a-week.blogspot.com/2020/06/blog-post_17.html

7月は雨や曇天が続き、日照がぜんぜん不足。でも、育つものは育つ。

ミニトマトはナマのほか、パスタにもなるし、使い勝手がいい。



どの野菜も量は知れているが、二人で食べるには充分すぎるくらいで、各所にさしあげても余る。とくに胡瓜は、ナマ(サラダ関連)と糠漬け以外に何か食べ方はないかと模索(中華でよくやるような炒めも試したが難易度高し)。そこでyuki氏がご友人から教えてもらったのが、おろす、という使い途。冷奴にのっけると、あらま美味! さわやか。ここに七味を振っても、また美味。

2020/08/07

■世の中〈12音+季語〉ばかりじゃないよ、という話:実証的に

≫承前
http://sevendays-a-week.blogspot.com/2020/07/12.html

12音をつくって、季語をプラス、という作句手順は、初心者向け、と言いました。実際そうなんですが、入門期を過ぎても、これ、やります。私た私の周りを見ていると、これをやらないという人はいない。誰でも、これ、やるんです。でも、これ一辺倒じゃないって話で。

12音をつくって、季語をプラス、という作句手順が広く普及しているわけですが、一方で、「え? なに、それ?」という人たちも、いるにはいます。そういう発想がない、という人たち。

例えば、「季題」との用語が身についた俳人(季語じゃなく季題ね)は、〈12音+季語〉という発想はしないと思います。季題/季語が先立つので。

とはいえ、出来上がった句は、季題の人たちと〈12音+季語〉の人たちとでそう変わらなかったりもする。過程は違うが、結果は似る、という現象。

季題の人(そんなことばないけど)以外にも、〈12音+季語〉の発想が薄い人たちも、きっといる。と、思う。

そこで、実際に、どのくらい、この〈12音+季語〉の手筋・指跡の見える句が、世の中に存在するのか。句集で見ていこうと思います。


〈12音+季語〉だらけの句集はたしかにあります。めくってみると、予想していた以上に多い、という句集が、ある。やっぱり、このパターンって、多いのです。

例えば、気持ちや境涯+季語、どこどこでなになにしたよ+季語、これってこういうもんだよね(概念化・うまいことまとめる化)+季語。言い換えれば、作者が言いたいことを言う俳句。言いたいことを12音にまとめて、季語が動員される(斡旋というやつです)。そういう句が多い句集ってのは、ほんと多い、とことん多い。おのずと〈12音+季語〉だらけになる。

一方に、そうじゃない句もたくさんあるはず。〈12音+季語〉パターンの少なそうな句集ということでメドを付けて、あたってみましょう。1ページ目から見ていきます。

あくまでメドなので、ドキドキしますよ。少ないだろうなと思ってページをめくったら、あらま、こんなに多い。ということになったら、どうしようって感じで、ドキドキする。

(なお、切れとの関係など、難しくて微妙な問題は置いておいて、語の構成・句の構造として、12音に季語がくっついた「感じ」の句を見つけていきます)

はい。まずは、関悦史さんの第2句集『花咲く機械状独身者たちの活造り』(2017年2月/港の人)。

ページをめくりました。なかなか出てきません。

8句目の《女児同士ほとに頭突きや花の中》という、刑法的にちょっと危ない句が、〈12音+季語〉といえばそうなのですが、それほど〈+季語〉っぽくはない。さらに読み進むが、これぞ〈12音+季語〉はなかなか出てこない。数十句読んで、ほとんどない、と言っていい。

これはもう、俳句の作り方(の道筋)が、〈12音+季語〉とはまったく別のところにあるということだろう。ちなみに、無季句はほとんどない(まったくないかもしれない)。

次。

田島健一ただならぬぽ』(2017年1月/ふらんす堂)。

いかにもなさそうな句集を選んでるな、と思ったでしょ? それはそうなんですが、わかりませんよ。意外に多いかも。

さて、行きます。

8句目。《目があるから独りになれずあまがえる》が形としては〈12音+季語〉っぽいですが、《あまがえる》からの発想のようにも思える。10句目の《爪切りにぐっとかたちのある薄暑》が、季語「薄暑」を〈斡旋〉したっぽいですが、純然たる〈12音+季語〉とは言い切れない。

結論的には、田島健一さんも、〈12音+季語〉の発想のない人です。きわめて、ない、と言っていいかもしれません。

次。

小津夜景フラワーズ・カンフー』(2016年10月/ふらんす堂)。

ぜんぜん出てこない。

無季句がちらほら混じるせいもありますが、〈12音+季語〉成分はほんと少ない。11句目《ぷろぺらのぷるんぷるんと花の宵》が、かろうじて「花の宵」斡旋っぽい。さらに読み進んでも、出てこない。

小津夜景さんは、俳句のキャリアが短い人ですから、ひょっとしたら〈12音+季語〉発想にまったく染まらず、俳句を作り続けているのかもしれません。

で、意外なことに、無季句がそこそこあるにもかかわらず、きほん、季語から出発している(季題発想)ような気がします。んんん、興味深い。


というわけで、3冊見てきました。

〈12音+季語〉といった組成の句をほとんど作らない(発表しない)という作家も、たしかにいることがわかりました。

関悦史さんは1969年生まれ。田島健一さんと小津夜景さんは1973年生まれ。ほぼ同世代の作家のそれぞれとびっきり個性的な句集でした。

〈12音+季語〉じゃない句が読みたいときは、この3冊をめくればいいです。


句集渉猟はもうすこし続けます。違う世代の作家も取り上げなくっちゃ、ね。

ラヴ&ピース!

(つづく)

2020/07/30

■〈12音+季語〉は入り口の一つに過ぎない(という当たり前のことを言っておきたくなった)

12音をつくって、季語をプラスして、はい一句、という作句の手順。

参考≫https://twitter.com/sorori6/status/1287568320737107968

初心者への作句のコツとして一般的なものらしく(私は教わらなかったが、これは年をとってから俳句を始めたせいもあるし、参加した句座にもよるのだろう)、ずいぶんと前から、また現在もたびたび話題にのぼるが、退屈な応酬に終わるようだし、実りのある議論にはならない(とりあえず単純なノウハウの話だしね)。

この話題で一点だけ、私が思う、というか、誰かに言いたいのは、俳句の愉しみ・俳句のコクは、その先にある、ということ。

これは誰でも思っているし、言うだろうけど、あらためて。

「こうすれば、ほら、俳句ができますよ」という「俳句入門」の指針として、《12音+季語》という考え方は有効だろう。実際、よくこういうふうに教える人が多い。けれども、それは入り口の一つに過ぎない。

入口付近で俳句を楽しんでばかりでは、もったいない。〈12音+季語〉のほかにも、作句の方法はあるし、読み方もある。その豊かさに触れず、入り口で盛り上がっているのは、もう一度言いますが、もったいない。つうか、俳句って、そうじゃないからね。そんなダンドリっぽいもんじゃないから。

ということで、この話題を終わらせてもいいのだけれど、ちょっと色をつけて、実際、〈12音+季語〉というパターンが、どのくらい浸透しているのか、一方、〈12音+季語〉じゃない句って、どんな感じなのか。それをちょっくら見てみようと思います。

(つづく)

2020/07/27

■侍はパンツの中にシャツを入れ・樋口由紀子 川柳 in『暮しの手帖』

『暮しの手帖』という雑誌。めくるのは数十年ぶりだと思う(はじめてではない。大昔に読んだことがある。実家にたくさんあった)。1948年(昭和23年)9月に前身『美しい暮しの手帖』が創刊されてから70年以上! すごい!

なんで手元にあるかというと、金井真紀の連載「はじめてのお楽しみ」の「その二」が「川柳」ってことで、樋口由紀子さんが案内人。『金曜日の川柳』の縁で、私にもご恵贈いただいたわけです。


金井氏の記事は軽妙で要点が手際よくまとめられている。例句も、いい(これ、だいじ)。樋口さんの似顔絵はあまり似ていない。今年の第7号(8-9月号)。おすすめ。料理のページが「身体をいたわる 夏の中国料理」とか「わたしのお昼ごはん日記」とか、かなり良さそうです。

2020/07/16

■可笑しくも不穏 『トイ』第2号より

算盤が置いてある洞窟の前  樋口由紀子

景として明瞭。だが、これ、事態として、不穏なのか、可笑しいのか、判断がつかず、きっと、どちらも、なのだろう。


『トイ』第2号(2020年8月1日)より。


2020/07/07

■白いもの

あかときの月より白く蟬生まる  北杜 青〔*1〕

鶴よりもましろきものに處方箋  八田木枯〔*2〕

世の中に白いものはたくさんある。そこから何と何を持ってくるか。

何と何なら優れた句になるのか、といった問題ではなくて、そこはもう、好みというか、作者の審美や心持ちと読者(私)がどう呼び合うかということだと思います。

どちらの句も、美しい。


〔*1〕北杜 青『恭(かたじけな)』2020年3月/邑書林
〔*2〕八田木枯『鏡騒』2010年9月/ふらんす堂

2020/06/29

■ダウン・バイ・ザ・リバーサイド

ひさしぶりの吟行はJR武蔵小金井駅から南へ。午前中の雨が上がって分厚い雲からときどき日の差すなか、野川に出て、草ぼうぼうなリアル川辺を下り、武蔵野公園から野川公園へ。

途中、天牛もいた。100分ほどの散歩。


2020/06/23

■冷奴 太田うさぎ『また明日』より

句や句集について語るはずなのに、自分のことばかり言ってるのは駄文、読む価値の薄いレビュー(≫参照:読まなくていい記事を冒頭数行で見分ける方法)。

というわけで、冷奴の薬味。好きなベスト5を、以前挙げたかもしれませんが、

1 ミョウガ
2 白胡麻(あるいは金胡麻)+七味唐辛子(俳人仲田陽子氏推奨の京都長文屋中辛)
3 おかか
4 大葉
5 おろし生姜

ほかになかったっけ?

さて。

夕方が町に来てをり冷奴  太田うさぎ

夕暮ではなく〈夕方〉。街ではなく〈町〉。池袋でも新潟でも北九州でもなく〈町〉。

冷奴はどこで食べるのだろう?

都心の料亭ではない。自宅でもいいけど、自宅近くの個人店がしっくりくる。

薬味は? それはどうでもいい。

夕方は豆腐屋の喇叭も合うが、冷奴と調理を指定してあるので、冷奴に食べようと思って買う豆腐、というのでは、まわりくどい。

なぜ冷奴か? という問いはラディカル。俳句において最も説明が困難、かつ最重要、かつ俳句が最もアドバテージを発揮する部分。

いろいろあるわけですが、この句を読んで、むしょうに冷奴が食べたくなった。それが冷奴の理由かな?

ラヴ&ピース!


太田うさぎ句集『また明日』2020年6月/左右社

2020/06/20

■茄子チョコ

むかしこっちに出てきた頃、定食屋さんで焼き茄子を頼んだら、油で炒めたのが出てきて、え? なにこれ。違うでしょ? わお、異文化体験?

というわけで、昨日は、畑でとれた茄子で、焼き茄子をつくりました。ほんとの焼き茄子です。

焼き網を使わずオーブンでひっくり返しひっくり返し。焼き上がったら、あっちっちあっちっちと指で皮をむく。冷蔵庫に入れておいて、食べるとき、出汁でおひたしにしてもいいのだけれど、今回その手間は省いて、生姜とお醤油でいただきました。美味。

コロナのせいでもないようなあるような、なんだか、食べ物を作りだしたりして、嫁はんは微苦笑をもって眺めている模様。

茄子では飽き足らず、カカオと干しベリーを買ってあるので、果実チョコを作るつもりなのは、我ながら、完全にトチクルッてる。

2020/06/17

■野菜ってね、とれたてが一番なんですよ。鮮度、大事。

我が家の隣の隣が保育園。その裏が区画借りの家庭菜園。近いのが一番。ちょっと距離があると、絶対続かない。


メインでやってるのは嫁はん。私は手伝い。でも、早起きは私なので、朝の水やりは私が担当。

ドシロウト2名なので、なんだかわからん畑ですが、それでも種は苗は伸びてきて、実を付ける。大自然と神様に感謝、ですな。



2020/06/15

■太田うさぎ句集『また明日』から漏れた2句


きょうは太田うさぎ句集『また明日』に収録されていない句についての話。

句集に漏れる句が出てくるのは当たり前で、ふだん句集を読むとき、そんなことは意識せずに読む。けれども、この作者とはこれまで句会を共にする機会を得てきたし、週俳編集の『俳コレ』で拝読しているという経緯もあって、「あ、あれが入ってない、入れなかったんだぁ」とか、ね。

そりゃあもう、入れなかった句は膨大にあるんだろうけど、私が気に留めたのはこのふたつ。

エリックのばかばかばかと桜降る  太田うさぎ

二の酉を紅絹一枚や蛇をんな  同

前者・エリッ句(って勝手に略す)は『俳コレ』には収録。取り上げられることが多く、ちょっとした有名句。この作者のメインの作風からは少し外れて、いわゆる暴れた句と言っていいかもしれません。

後者・蛇女(紅絹は「もみ」。為念の註)は、ウェブサイト「増殖する俳句歳時記」で土肥あき子氏が紹介。俳誌『雷魚』で発表された句。

どちらの句も私は好き。でも、だからといって、今回の第一句集に「入れるべきだった」とかというのではありません。

句集を編むとき、一定の雰囲気、一定の気分で句を揃える(いやそうじゃなくこれまでの句作から良いのを選ぶ、いわばベスト盤という考え方もありますが)。基調音を決める、読者の読みの導線を確保する、作者の特質がうまく伝わるような選択と集中、ゾーニングを施す。

一方、作風の「幅」が出るよう、主線ではない句も入れていく、ということもする(しない人もいるだろうけど)。

その意味で、前者・エリッ句は、作風のひとつの「極」を示し(極北?)、「幅」に寄与する句ではあろうけれど、外す手は大いにある。「あ、やっぱり漏れるよね」というこちら側の勝手な同意・首肯を促すものではあります。

一方、後者・蛇女は、一読者として、ちょっと残念な気もしている。というのは、この句の路線というのは、この作者の大きな特質・美点だと、私は思っているので。

伝統的かつ猥雑な素材を粋に処理する手技は、句集収録の《なまはげのふぐりの揺れてゐるならむ》と同系。この路線って、他の作家があまり思い浮かばない(閒村俊一とかかな? 仕上がりの感じは少し違うけど)。粋な素材を粋に詠むのは、久保田万太郎を筆頭にまあまあ多くいらっしゃる。でも、猥雑を粋に、というのは、ね。

この一句の有無で、句集の印象ががらっと変わるとは思いませんが、『また明日』は、私が思い描いていた作者・太田うさぎ像よりも少し若くて、カタギな感じ。「うさぎ姐さん」観(作風キャラクターですよ、あくまで。社会的人格じゃなくて)が薄い。

句集って、でも、それだから、つまり自分が思っていた作者像・作風とは違った面を見せてくれるから面白いんですけどね。

それとね、「増殖する俳句歳時記」できちんと後世に残っていくんだから、実はそれほど残念じゃない。ほら、レコードでも、アルバムには入っていないけど人気曲ってあるじゃないですか。そういう句になっていく(少なくとも私の中では)と思います。

ラヴ&ピース!


2020/06/14

■読まなくていい記事を冒頭数行で見分ける方法

読まなくていい記事、つまらない記事を、最初の数行で見分ける方法があります。おもに文芸記事だけど。例外はあるけど。

編集部からコレコレこういうことについて書けと依頼があった。と、こんなふうに始まる記事は、読み進めなくていいです(この書き出し、わりあい多いですよ。自分もたくさんじゃないけど、やっちゃったことがあるような気がする)。

書きたいわけじゃない、依頼があったから書くけどさ、と宣言しているわけですから、おもしろい記事にはならない。

ある企画があって(あるいはレギュラーな記事があって)、そのテーマに適切な執筆者に依頼するというのが、編集の理想ですが、そうならないときもある。

最近、内田樹がいかにもいやいややる気なく引き受けた書評が話題になった(≫こちら参考)。ネームバリューとか、引き受けてくれ易さとか、そういうので執筆者が決まることが、残念ながら多々あるようです。

この書評(読んでないけど)も、参考になりますね。テーマと関係あるようなないような個人的な事柄から文章が始まるのも、危ない。これは最初の数行ではわからない場合もあるので、困りものです。

記事って(記事に限らず、音楽とか料理とか、なんでもかな?)、モチベーションがだいじ。

本人が「しかたないから」と書いたもの、やったことに、付き合うのは、だいたい時間のムダになります。

本人がほんとにやりたいこと(少々出来栄えがまずくとも)に付き合う。そのほうがこちらも実り多き人生になる(と信じてる)。

ラヴ&ピース!

2020/06/12

■猫と夜汽車 太田うさぎ『また明日』より

太田うさぎ句集『また明日』(2020年5月)を愉しく通読。このブログに、週刊俳句に、何度か取り上げるだろうと思うが、まずは、この一句。

恋猫に夜汽車の匂ひありにけり  太田うさぎ

なぜそんな匂いがするかというと、路地裏にいたから。

《路地裏を夜汽車と思ふ金魚かな 攝津幸彦》が感じよくさりげなく下敷きになっている。洒落てる。

(ついでに、路地をさまようとき、金魚がいたら、大きな瞳でじっと見つめるはず。猫は金魚とか無視できないタチだから。もちろんこれはこの句には書いてない)

で、そんなようなことを別にしても、恋猫は、じっさい、夜の闇をまとって/引きずって帰ってくるんですよ。

昨今は「猫は家で飼え、外には出すな」がマナーになっているが(ついでに去勢手術・避妊手術が必須)、以前、外にも出して飼っていたことがある。去勢していない雄猫は、さかりがつくと何日も帰ってこない。もう帰ってこないなと思った頃に、頬をげっそりさせて帰ってくる。どんだけがんばるねん!

きっと夜を徹して恋をもとめ、雌をもとめ、雄と争い、どこかで寝てどこかで餌を獲得して、何日も愛の旅をつづけたわけで、かなり愛おしくなる。ねぎらいたくなる(きっと強い雄に連戦連敗で、恋は成就しなかったにちがいなく、それだとよけいに愛おしい)。「おかえり」と抱きしめた。

そのとき、夜汽車の匂いがした記憶は、私にはないが、してもおかしくない。


というわけで、先行テクストをかろやかに遊びつつ、実感・実景もともなう。いいですね。






2020/06/10

■こんどのターコイズブルー

承前≫http://sevendays-a-week.blogspot.com/2020/05/blog-post_19.html

新しいブルー。LAMYのターコイズブルーは、思っていた以上にターコイズな色合い。


気に入りました。

ラヴ&ピース!

2020/06/09

【句集をつくる】第24回 続・掉尾の一句

 承前≫http://sevendays-a-week.blogspot.com/2020/06/22_5.html

前回が面白かったので、もうちょっと、句集最後の句について。

ちなみに、拙句集『人名句集チャーリーさん』(2005年1月)の最後の句は、

霊長類ジミー大西なる隘路  10key

さて。

拾っていきますよ。

ゆと揺れて鹿歩み出るゆふまぐれ  生駒大祐

『水界園丁』(2019年6月)。んんん、雰囲気雰囲気。鹿のこの句集での出現頻度は確かめていないけど、深く印象に残る。のは、最後が鹿だからか。

白藤や此の世を続く水の音  岡田一実

『記憶における沼とその他の在処』(2018年8月)。水音と白い藤の花の組み合わせが清らか。「を」がいいですね。助詞をめぐっては、この作者の別の句を材料に、文法と修辞、用例と表現刷新をまぜこぜにしたような議論もありましたが、俳句(と限らず表現)は、なんでもアリ。誤用・誤字・造語を含め(評価とは別に)。ま、この「を」は順当な用法ですが。

投函のたびにポストに光入る  山口優夢

『残像』(2011年7月)。話題作・問題作として知られる無季。俳句全体・俳句業界全体へのスタンスというか覚悟みたいなものがうっすら感じられる。

鶴眠るころか蠟燭より泪  鳥居真里子

『月の茗荷』(2008年3月)。鶴と蠟燭という素材からだろう。八田木枯を思う。木枯さんがこの句を見ていたら特選に選んだろうなあ、と、勝手に、不遜にも、想像。いずれにせよ、素晴らしい。美しく、湿度があるのに、句の立ち姿が毅然。

綺語(きぎよ)生れよ水銀灯の手くらがり  高山れおな

第一句集『ウルトラ』(1998年10月)。季節の順に章が並び、最終章は「雑」。その最後の句。綺語は〈真実に反して言葉を飾りたてること〉〈美しく飾った言葉〉と辞書にある。

列車来ぬおのが照らせる雪衝きつつ  栄猿丸

『点滅』(2013年12月)。言われるところのこの作者のトリヴィアリズムとはまた違ったある種本格を感じさせる句が締め。

朝が来るまた菫から始めます  広瀬ちえみ

川柳からもひとつ。『雨曜日』(2020年5月)は出たばかりの句集。メージをめくり終える最後にまたもう一度、始める。清々しい掉尾。

俳句思えば霞に暮れて朧月  池田澄子

『拝復』(2011年7月)。五里霧中など慣用句でなく、霞と朧。同様の心情を譬えるにしても。なお、帯の自選には《俳句思えば徐々に豪雨の吊忍》が挙がっている。


ほかにも挙げたい句集がたくさんあるが、このへんで。

手元の句集を、新旧含め(あまり古いものは除いた。句集を編むという意図が今とはずいぶんと違うような気がしたので)、再度ぱらぱらめくる作業は愉しかった。

こう並べたものを見て、私同様に愉しんでくれる人が、きっといるよね?

ラヴ&ピース!

2020/06/05

【句集をつくる】第23回 掉尾の一句 

以前、句集の最初の句について話しました。

こちら≫http://sevendays-a-week.blogspot.com/2016/08/16.html

今回は最後の句について。

一句目ほどではないが、最後もだいじ。とはいえ、これは読者にとって、よりもむしろ、作者/著者がこだわる部分という気がする(編年体だと無頓着な人もいそうですが)。

ちなみに、拙句集『けむり』では、

空に雲ありしは春の名もなき日 10key

ぼぉっとしたかんじ、おとなしく、あかるくめでたいかんじを狙いました。歌仙の36句目(挙句)みたいなかんじ。

さて。

手元にある句集から、拾ってみます。

永き日の椅子ありあまる中にをり  安里琉太

『式日』(2020年2月)。所在なく、〈作者〉にフォーカスして(にをり)終わる。

梟や息の終わりのきれいな詩  田島健一

『ただならぬぽ』(2017年1月)。美しい句にあふれたこの句集のなかでもひときわ美しい句。「詩」で締めた点、句集全体を俯瞰、あるいは自己言及っぽくもあります。

この丘の見ゆる限りの春惜しむ  太田うさぎ

出たばかりの『また明日』(2020年5月)から。開放感+哀感。視界を広げて終わる。映画っぽい。

猫去って曖昧な闇残したり  笠井亞子

『東京雪柳』(2008年4月)。消えて、残る。ふわっと句集を了える。

やわらかいかまきりのうまれたばかり  福田若之

『自生地』(2017年8月)。ビルドゥングスロマン的第一句集のラスト。最初に戻るかんじ。自己言及的でもあります。

デレクおやすみキンミズヒキもルリチシャも  金原まさ子

第3句集『遊戯(ゆげ)の家』(2010年10月)。デレクはデレク・ジャーマン(これ、「ガーデン」の章の最後の句なので)。耽美かつ愛に溢れる掉尾。

手をつなぎながらにはぐれ初夜(そや)の雁  八田木枯

第3句集『あらくれし日月(じつげつ)の鈔』(1995年11月)。艶かしくも哀感。

眠き夢なり月見草まで這ふ夢なり  山田耕司

『大風呂敷』(2010年1月)。ある種古典的芳香をもって、一巻すべて夢であることよ的な締め。


んんん、キリがない。続篇やろうかな。

ラヴ&ピース!

2020/06/04

■錆びている

鷹鳩と化し缶切りが錆びている  萩野明子

缶切りはどの家にもひとつはあって、けれども、最近は缶切りなしで開く缶詰が多い。めったに使わず抽斗か何かの中に仕舞われたまま、気がつくと、刃が錆びている、ということはよくある。

故事・古典由来の季語と卑近な/日常的な話題がよくバランスした句。

掲句は『棒』第7号(2020年4月)より。


2020/06/03

【句集をつくる】第22回 セルフカヴァー


ある人と類句の話をしていて(このご時世ですから対面ではありません)、自句のなかのそっくりな句という話題になりました。句会で一人の人から似た句が出てくるくらいなら愛嬌ですが、句集の中に、となると、ちょっとね、というところがあります。

〈自句のなかの類句〉にはいくつかの層というかカテゴリーがあって。

1 同じ句が句集の中に入っちゃってる

単なるミス。そっくりどころではない。なさそうで、あります。何度か見たことがある。並べ替えたり差し替えたりしているうちに、起こってしまう事故。他人事じゃない。エクセル利用して確かめたりしましたよ。前の句集のときは。

2 同工異曲

得意のアプローチや処理法が繰り返し用いられる。誰にもありがち。ポジティブな効果として、味わいにバラエティを生む一方、この四文字熟語のネガティブな側面、すなわち、材料は違っても「やりくち」は同じ、という印象が生まれれば、それはやはり読む側も退屈する。

これ、句集に限らず、ふだんの作句でも、〈自己模倣〉が分厚い壁になるケースがありますね。でもこれはまあ、ある程度、作風を確立している人の悩みでしょう。私の場合は、いまだに自分の作句の傾向とかわからずにその場その場、そのときぞのときで作っているので、この悩みは少ない。

以上は、句集づくりの際の留意点ですが、同じような句をわざとこしらえる、というケースもあります。人によっては避ける、そんなことはしない、のでしょうが、私は自分の句をいじるのが(既発表であってもさらにいじるのが)好きなので、わりあいやります。

セルフカバー(カタカナ英語)です。

いま思いついたところでは、「走れ変態」(2014年7月)という連作に、

夏ゆふべドンキホーテで鞭を買ふ 10key

というのがありまして、これをいじって/もじって、

歳晩のドンキホーテで餅を買ふ 10key

どちらも句集に入れるとしたら(こんなの入れるんかい!というツッコミ/お叱りには、はい、いいかげんなのをどんどん入れちゃいます、と答える)、ページを考えないといけません。いまのところ、季節が違うし、テーマも違うので、近くには置けません。次の見開きの同じ位置とかがいいかもしれません。

なお、この句は、これ以前に、

秋深しドンキホーテで紐を買ふ 10key

というのがあって(上京悲話・2011年10月『鏡』第2号)、いろんなものを買っている。


話題をもうひとつ。以前につくったのが(どこかに出しているかも)、

青蚊帳によこたふ父といふ鈍器 10key

青蚊帳にたゆたふ乳といふ鈍器 10key

パロディっぽい。同ページに並べるよりも、連作の前半と後半とか、視界内でちょっと離すのがよさそうです。


んんん、こんなことを書いていると、句集をつくりたくなっちゃいますね。




2020/06/02

■出来事としての蛇

『街』第143号(2020年6月)より。

蛇入れし袋と言へり動きけり  今井聖

わわっ、だか、おぅ、だか、ひぇえ、だか、ともかくその瞬間の心の反応が見えるような句の作り。終止形の畳み掛けが認知の連続(聞く→見る)と呼応して、効果的。

蛇の胴体は句に出てこない。その点では、こんな句も最近。

蛇見しと両手大きく広げけり  守屋明俊『象潟食堂』(2019年11月)

蛇はそれ自体が出来事みたいになるんですよね。


2020/05/31

■貧乏でリンボー

正月のビンボーリンボーダンスなり  広瀬ちえみ

正月にオカネがなくて、リンボーダンス?

悲しい。可笑しい。

雑然とモノにあふれて汚い六畳間(妄想です)。売っ払えばいいのになギターが1本壁に(妄想です)。女房には逃げられて(妄想ふくらんでます)、することもなく、ひとりリンボーダンス。あのパーカッシヴなBGMも脳内で鳴る。

あらためて、悲しい。可笑しい。

なお、limbo は辺獄の意でもあるそうな。ジミー・クリフ「シッティング・イン・リンボ」は、こっちの意味かな? ようわからんけど。

掲句は広瀬ちえみ句集『雨曜日』(2020年5月30日/文學の森)より。


ところで、雨曜日ってなんだろう? と検索してみると、こんなMVが。



鶴というバンド名とアフロ、雨曜日。統一感のなさが素敵です。

2020/05/30

■両耳に

両耳に音楽ぶらんこを漕いで  近江文代

音は耳で聴くものでですが、この句の場合は、耳孔で鳴る音楽、イヤホンかヘッドフォンでしょう。

思いきり高く漕げば、音の位相に変化が生じるかもしれません。いや、それはないか。

いずれにせよ、音楽って、いいものです。いつも身近にしていたい。

ただし、私個人は、ふだん音楽を愉しむのにイヤホンやヘッドフォンは使わず、空気を鳴らすタイプ。だからどう、というのではなくて。


掲句は『猫街』創刊号(2020年5月)より。


2020/05/28

■おうち食:保存系

出来上がりが手軽に買えるものでも、じぶんちで作るほうが美味しいことがよくあって、辣韮とか生姜とか山椒とか、素材を手に入れて、処理をほどこす。といっても、おおかたは嫁はんの発案と作業。私はちょっと手伝うだけ。

辣韮は鳥取産が出回るまで待って、入手。包丁で頭と尻を切り、手で皮を剥く。塩漬けの手順は省かないほうが、美味しい甘酢漬けが出来る(塩漬けの段階で食すという愉しみもあるしね)。


新生姜をスライスして甘酢漬け。アントシアニンが酸化してピンク色になるそうですよ。きれい。


辣韮も生姜もたいへん美味。

山椒の実を茎から外すのはなかなかに時間がかかる。けれども、ちまちましたルーティン作業が好きだから、苦にならない。音楽を聴きながら数時間(この分量だと小一時間?)。

ラヴ&ピース!


2020/05/27

■歌人と俳人

社会集団が違えば、文化も異なる。

あのう、この記事、短歌とか俳句が出てくるんですが、文芸・文学の話ではなく、社会学的なことです。

まず、この記事。

短歌時評155回 歌人を続ける、歌人をやめる 千葉聡

これを読んでまず思ったのは、俳句世間とちょっと違うな、ということ。「俳句を続ける/やめる」とは言うが、「俳人を続ける/やめる」という文言は聞いたことがない。もちろん管見の限り。

上記記事は、「短歌を続ける/やめる」ではなく「歌人を続ける/やめる」。

で、少し読むと、「歌人」がたんに短歌を作る人・書く人ではなく、なんからのステイタスであることがわかる。有り体にいえば「ヒエラルキー」の上位=歌人。裾野には「短歌愛好家」がいるのだろう(呼称は知らない。俳句では「俳句愛好家」の語を使う)。

この説明(↓)を読めば、そのことがもっとはっきりする。



誰でも歌人を名乗っていいわけではないらしいのです。

んんん、これはしんどい世界ですね。

俳句では、どうでしょう?

これも管見の範囲となりますが、「俳人」という呼称やカテゴリーに、それほどの価値やステイタスはないと思います。「俳人」「俳句愛好家」「俳句作家」etc、自分でしっくりくる呼称を選んでいるような感じです(呼称が必要な場合は、ですが)。

俳句にも「俳壇」とか俳句世間(社会集団)はあって、そこで自らがいかなる存在感を築けているのか、他の俳人からどう目されているのか、といったことを気にする人は少なくない。そのうえで、俳句を続けるかやめるかに悩むことはあっても、俳人を続けるとか俳人をやめるとか俳人でなくなるとか、そういうケースには立ち会ったことがない。

「歌人を続ける/やめる」と「俳句を続ける/やめる」。言い方の違いにすぎないとおっしゃる向きもあろうかと存じますが、どうもそれだけではない気がする。

ノリというか、文化が、短歌と俳句では違うのだろうと、想像するのですよ。

「俳壇」のことをよく知らないで言ってますが。

で、何が言いたいわけでもないのですが、俳句のほうが、いいかげんでふわふわしたかんじでもオッケーな感じ、それで許される土壌・風土があるような気がして、ラッキー、自分、俳句でよかったぁ、と呑気に思うわけです。

ラヴ&ピース!

2020/05/26

■お家で映画 『ハーフ・オブ・イット』

映画館が閉まっていることもあって、ネット配信のドラマや映画を観る人が増えているそうです。私も、『全裸監督』見たさに Netflix に加入。すでに何本か見ました。やたら長い韓国ドラマに睡眠時間を削られたり(新味も刺激もないけど面白いんだわ)、米国のノンフィクション『タイガー・キング』がたいそう面白かったり。

そんななか、5月1日配信開始の『ハーフ・オブ・イット』(アリス・ウー監督)がとても良かった。

舞台は米国の片田舎、ハイスクールの3人(中国出身の女の子、学年一美人の白人、冴えない善良な男の子)の物語。最終学年と来れば、もう王道青春モノで、代筆が鍵と来れば、古典的ラブストーリー。なんだけれど、ちょっと違う。

映画レビューっぽいことはさておき(つまり粗筋やらキャストがいいとか)、映画って(映画に限らず)細かいところがピリッと巧いと、ほんとに愉しめるものだなあ、といまさらながら。それは、もろエンターテイニング志向でも、そうじゃなくいわゆる文芸的でリリカルな映画でも変わらない。

例えば、この『ハーフ・オブ・イット』だと、タコス・ソーセージがどんなに美味しいかを、セリフいっさい無しで、頬張る様子と表情で伝えるとか、ビデオを観る数秒の表情で男の子の善良さやイノセンスを伝えるとか(基本ちゃあ基本だけど、やたらセリフで説明するポンコツ映画も多いのでね)、主人公の女の子がキッチンで父親と並んで会話を交わすその後ろ姿で、ジーンズの右だけちょこっと中途半端にロールアップになっているとか(偶然か意図かはわからない)、もろもろ。ことばが重要な要素になっているだけに、そのへんの出来の良さが、ピシピシとこちらの快感に届く。

そうした細部が積み重ねられ、ラスト近くのキス、さらに車窓の別れへと、映画は進む。これねえ、ほんとに美しいキスシーン。そして、車窓の別れは、映画前半の伏線が効いて、出色。乗り合わせた乗客たちの(なにげない表情だけの)演技がそれぞれ最高の部類という、作りのていねいさ。

素敵な映画でした。