ここでひとつ興味深いのは、眼のしくみがちがっていれば、空の色は紫だったという事実(紫は青よりもさらに葉っぱ的=軽い=波長が短い)。ま、それはさておき。
青空は微動だにせず囮籠 小池康生
青空はなぜ動かないか? この問いは、自然科学よりも論理学、文学の範疇のような気がするので、モノの本で調べることはしないでおく。
青空は動かない。
自明の理といっていいんでしょうか。掲句、口調によって伝わる心持ちを横に置くと、あたりまえの事実と季語で成り立っています。
そう。季語の話です。
あたりまえの事実だけではきほん俳句にも詩にもならない。それがなんと、季語というもの、不思議というか強力というか便利というとネガティブなので効率的なものか。季語が加わるとたちまち地味のある句になったりする。
こういう具体的で方法論的な事柄が、俳句と川柳を元も子もなく分かつと思っているのですが、それはさておき、季語のよく言われるところの「斡旋」、ここに作家の特質があらわれる。
囮籠。
景がくっきりとしますし、獲物を待つ静的な空気、鳥から連想される空、それも秋の澄んだ空(蛇足ながら囮籠は秋の季語)などのイメージを同時に喚起する。俗な言い方をすれば、囮籠いっぱつで作者の力量がわかるというもんです。
掲句は、小池康生句集『奎星』(2020年10月23日/飯塚書店)より。≫amazon
なお、自明の理+季語という作りはまずまず頻繁で、自作からも思い出しました。掲句と比ぶべくもありませんが。
物体に陰そなはりて毛糸玉 10key(『けむり』2011年)
斡旋の優劣とは別に、その人らしさ、その句集らしさが出るかたちでもあるようです。毛糸玉は「らしい」かな? と、つくったとき思ったことを、いま思い出しました。
ラヴ&ピース!
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