2015/05/31

2015/05/30

■行く春には行く春の

『鷹』2015年6月号より。

行春や木戸遊ばする蝶番  小川軽舟

季語「行く春」の取り合わせには、ふわっとして不安定な事物が多い。この句もその範疇。形容詞、形容動詞を用いずに「ふわっと不安定」感を描き、雰囲気を醸し出す、確かな腕前。


ところで、時期的には隣接している「夏きざす」「夏はじまる」に類する季語となると、一転して、しゃきっと鮮やかな事物が選ばれる。昨日まで晩春の懈怠や無聊を句にしていたかと思うと、立夏が訪れたとたん、しゃきっと明度の高い描写へ。

融通無碍に「季語」に寄り添うような俳人の習い性は、パターン依存のようにも見えるが、それが季節感というものだろう。




2015/05/29

■橋ラヴァー垂涎の絶好散歩地帯

散歩するのにそれほど場所を選ぶほうではありませんが、これ(↓)黄金地帯のひとつ。


地図を見ていただければわかるとおり、橋が多い。一帯をぐるっと歩くのは時間もエネルギーもかかるが、その気になれば、半日の散歩で、いろいろな橋を渡りまくれる。水があれば眺め、橋があれば渡る、橋ラヴァーとしてはうれしいかぎり。

地図には出ていない小さな橋(水路にかかっている)も含めれば、このあたりは橋だらけ。おまけに水門も多い。


ぜんぶ徒歩でなくても、クルマであちこち停車しながら短い散歩を積み重ねるという手もあります。



【過去記事】
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2015/02/blog-post_22.html
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2008/09/blog-post_12.html

2015/05/28

■マネーロンダリング(十円玉洗浄)

ものすごい濃紺に染まってしまった十円玉。

こちら↓
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2015/05/blog-post_76.html


きれいにするには、タバスコかソースに浸けておけばよいとのこと。タバスコが即効性があるそうですが、ソースのほうが味がしみて、おいしく仕上がりそうなので、ソースにしました。



東都生協のとんかつ用ソース(無着色)。

貧乏だけど意識高い系のソース?


ひと晩、漬け込みました。




きれいにはなったのですが。





十円玉じゃないみたいです。


色落ち?

贋金みたいなので、支払いに使う気になれません。


2015/05/27

■「え? そ、そんな、ご無体な!」的な導入部をもつ俳句的事象

『君に目があり見開かれ』(2014年)より。

電球や柿むくときに声が出て  佐藤文香

「電球や」はかなり攻めてます。


突拍子もない上五(○○○○や)といえば、

物質や犬ひたひたとクリスマス  長谷川裕(『彼等』2003年)

を思い出すわけですが、「え? そ、そんな、ご無体な!」という切り込み方をされると、ちょっとうれしくなります。



2015/05/26

■濃紺の十円玉

小銭入れが見つからない。小銭入れがないと、どうなるかというと、小銭を持ち歩けないので、小銭がどんどん溜まる。

そこで、どこかに小銭入れはないかと抽斗を探してみると、むかし使っていたサイフが出てきた。札入れと小銭入れが合体したタイプ。

で、中から小銭が出てきたんですが、十円玉が凄いことになっている。



紺の革製サイフの中で長年眠っていると、銅って、こんなことになるのですね。



ご親切な方が、ソースかタバスコに浸けておくとキレイになるよ、と教えてくださったので、いま、それやってるとこ。

濃紺の夜のひろごりて銅貨かな   10key


2015/05/25

■思いのほか菅井きんじゃない歌

季語として五月みどりの遍在をつくづく思ふ蒲田駅前 10key

「ぱみゅぱみゅ」の部分は筆の滑りだと思ふさしたる根拠はないが
 
ポスターの大村崑に〈いま〉〈ここ〉がどこかと問へばここは駒込

谷啓を永久の課長と思ふべしオフィスに並ぶデルのパソコン

とある日の動く歩道につぎつぎと等身大の桜井浩子

ゆふぐれのふの字を思ふふと思ふ根津くんだりを蛭子能収



みなさま、月曜日ざます。



2015/05/24

■『凧柱』との距離

やや旧聞に属するのですが、「昨今の〈鴇田句への信頼〉の風潮(平たく言えば『凧柱』アゲの風潮)から距離を置」いているとの指摘があり、そこで思い出してみると、このブログでの、

≫0グラムの俳句 鴇田智哉『凧と円柱』を読む
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2014/11/0.html

『凧柱(たこちゅう)』は手強い句集ですから、これ(↑)は自分にとってはアリ。

それから、

≫抽象の景色 鴇田智哉『凧と円柱』イベントのメモ
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/12/blog-post_56.html

この記事に、「蛸と炎昼」、もとい「凧と円柱」に関して、いま自分が考えていることのほとんどは書いた気がします


なお、距離を置いているように見えることには、心当たりがあります。「正直、『こゑふたつ』のほうが自分は好きかもしれないなあ、現時点では」などと思ったりするので。ただ、それをわざわざ言うことはしないじゃないですか(言ってるのと同じ?)。『凧柱』アゲでみなさんが盛り上がっているなか、わざわざ。それに、作者にとっては最新句集が常に一番だろうし。

またページをめくってみることにします。気ままに適当な箇所をめくるという読み方がいい、そんな読み方に耐える句集だと思うので。


2015/05/23

■『関西俳句なう』にまつわること・追補

『関西俳句なう』についての記事。

http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2015/05/blog-post_9.html

↑これね。

これを読んだ島田牙城さんから、「版元/版元の担当編集者」に触れないのはなぜか?といった疑問、というか質問がありました。

フェースブック上のことだったので、フェースブック(自分のページは非公開設定)で答えました。

しかしながら、考えてみると、 それを読んだ方がオープンな場で、その内容に言及する可能性もあります。その場合、元の私の文言がクローズドなままだと、いろいろと誤解を招く危険性もあります。そこで、このブログにも再録(一部調整・加筆)しておこうと思います。

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たしかに私の記事は「版元/版元の担当編集者」は触れていません。思い返してみて、触れなかった理由はいくつかあります。

1 レビューでネガティブな指摘をするとき、責任の所在を追及したいわけではない

「誰が悪い」という話ではなく、「『関西俳句なう』は、ここがへんだよ」ということを書きました。「ヘン」の元がどこにあるのか、つまり、(記載のない)編者なのか、周囲の船団関係者なのか、版元なのか、わかりませんし。

書籍に触れるとき「人」や「組織」にフォーカスする必要もないでしょう。例えば「装幀、どうにかならなかったのか」という感想や指摘は、書籍に向けて書けば いい。なぜ、そんな装幀になったか。そこには、装幀家も関わっているし、その装幀にOKを出した担当編集・版元も関わっています。レビューを書く人間は、制作の分担など(憶測はできても)わからない。誰に問題があったか(逆に誰が良い仕事をしたか)は結局は制作側の事柄です。

2 『関西俳句なう』で版元が決めたことはあまりなかった〔憶測〕

この出版はおそらく版元から持ち上がったものではない(いわゆる自費出版かそれに近い形)。そのとき、版元にそれほど決定権はなかろうと思います。

ここで、牙城さんは「そんなことはない」とおっしゃるでしょう。記事でも《いい本にする方向修正》ができると書いていらっしゃる。そうかもしれません。でも、《方向修正》は、誰がしてもよかった。でも、誰もしなかったから、こうなった。制作過程を遡って、こうしたらよかったのに、ということは言えますが、「誰が」という部分は、こちら(読者)にはわからないし、読者が言及する問題でもない

3 編集の専門家でなくても気づくべきことがある

本全体の基本スタイル、基本設計、すなわち〔船団13名+外部13名+船団先輩俳人諸氏によるミニエッセイ多数〕を「船団」と記さずに1冊の本にしたというスタイル・設計。そこに問題があることは、編集の専門家が指摘するまでもないことだと思います。


以上が、私が版元や担当編集者に触れなかった理由かなあ、と思い返していますが、加えて、ひとつ。『関西俳句なう』に編者名がないのを見て、まず思ったのは、版元(本阿弥書店)が「よく許したなあ、これをよく受け入れたなあ」ということでした。

ちなみに、関悦史さんが指摘していますが、国立国会図書館の公式記録にも「著者」「著者標目」がない。
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I026248727-00



以下は余談です。

編者(編集実務を担当する編集者ではなく、編者)は、別に設けるべきだったのではないかと思います。『関西俳句なう』がアンソロジーであるなら、編者が自分(たち)を入集させるというのは、あまりカッコウのいいものではない。つうか、かなりカッコ悪い。

そんなこともあって、『関西俳句なう』については「アンソロジーと考えるからおかしなことになる、アンソロジーじゃないと考えることにしよう」と思うようになりました。じゃあ何なのか?と問われると困ってしまうのですが。



ついで、この本の基本構造、2人の作家が対になるという部分。これはいいとして、往復書簡は、実際に読み始めてみると、かなりキツい。ここはすっ飛ばして、俳句だけ拝読することにしました。

このスタイルは、褒め合うと読者はドン引きするし、シビアに批評してあったらあったで妙な緊張感を強いられる。企画としてきわめて難しい。無理があるのだろうと思います。

「俳句は誰にでもつくれる」という俗説に、俳人の多くは(少なくとも自分の句を広く発表しようという俳人の多くは)なんらかに反発をおぼえるようです。ならば、「散文は誰にでも書ける」と思わないことです。これらはすべて自戒をこめて。



最後に、帯の惹句から始まる関西ローカリティのことや「在京感」のこととかについては、さしあたり無関心であることを申し述べておきます。

関西? 東京? 知らんがな。

俳句をやっていくうえで、そんなことの百万倍こだわるべきことが、ほかにあると思いますけど?


て感じかなあ、と。


2015/05/22

■人外の歌

『別腹』(文芸すきま誌)は、佐藤りえさんの短歌アンソロジーを真っ先に読みます。第8号(2015年5月4日)の特集は「人外」ということで、「人外歌境」。

わたくしはどちらも好きよミカエルの右の翼と左の翼  紀野恵

ほか。

おもろしろい歌がたくさん。


短歌に限らず、俳句も川柳も、こういう「詰め合わせ」があれば、とてもうれしい。短さ(字の少なさ)が「詰め合わせ」に向いています。相当数入れても、小さな箱に収まる感じ。



2015/05/21

■消息:5月のこのところ

週刊俳句・第421号に

八田木枯の一句 空罐と五月照応しつつ老い
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2015/05/blog-post_56.html

後記:動画やら写真やら
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2015/05/421_17.html




ツイッターで引用していただいています。『川柳カード』に投句したもの。1~3号だけでしたが、いい経験でした。川柳雑誌に載れば川柳、ということでしょうから、私も川柳を残したことになります。縁を感じたら、話には乗ってみるべき。


川柳といえば、「川柳スープレックス」というサイトで柳本々々さんに、ふとん句2句を話題にしていただいています。

勇気のための川柳処方箋76 ふとんと怪談
http://senryusuplex.seesaa.net/article/419229413.html

メインの話題は

関節の音たてている夏ぶとん  大野風柳

《ふとんってぜったい関節の音たたなそうだから、こわいですよね。》(柳本々々)という把握からの一文ですが、ふとんに寝ている人の関節の音と解せば、句の印象ががらりと変わります。いずれにせよ、おもしろい句。


糖質制限の本によれば、間食としてナッツは許される。
でも、食べ過ぎたらダメなんだろう。おそらく。

2015/05/20

■実山椒とりはずし大会

箱買い。

まことに大量であります。

実をはずす。嫁はんと二人でも1時間半くらいかかりました。

できた。これ以降は嫁はんの担当。ちりめん山椒は確定。あとは何になるのか?

■中嶋憲武さんの記憶力には嫁はんも私も舌を巻いたのですが…

≫対岸の過去~関戸橋フォーエバー
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2015/05/blog-post_17.html

…惜しい。事実誤認が2つあります。

1 食材を買いに渡った橋は関戸橋ではなくて石田大橋(散歩の前に渡ったのは関戸橋で合ってる)

2 《カーステレオからオスカー・ピーターソンの「ジョーンズ嬢に会ったかい?」が流れた》とき、運転していたのは嫁はんではなく私

細かいことだし、どうでもいいですね。この一文はフィクションのようなものだし。

ああ、また、あの、関戸橋の多摩市側には行ってみたい。ほんとうに気持ちのいい川辺なんですよ。


【過去記事】
■某日、ニースより
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2015/04/blog-post_27.html
■某日、ニースより【補遺】画伯の絵その他
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2015/04/blog-post_14.html

2015/05/19

■いったい何が

ドーナツの穴 犯人は捕まらず  古谷恭一

このあいだの句会でのこと、「いったい何が起きたのか、それとも何も起きてないのか」(吾郎)という選評がありました。それをそのままこの句の感想に。

何か尋常でないことがあったっぽくもあり、《穴・捕まらず》=欠落は何もなかったっぽくもあり。意味が固定せず、ぐらぐら揺れる感じが快感な句。


掲句は『川柳木馬』第144号(2015年4月)より。

■外階段08 +石段


撮影場所:上中里駅(北区・京浜東北線)近く。

■巣鴨~駒込~田端~日暮里 七七です、いちおう。

2015/05/18

■たまたま菅井きんの歌

一箇所に俳人さんと詩人さん集めて菅井きんが一喝 10key

とりあへず下五を「菅井きん」とするひんやりあまいものの喩へに

ぎりぎりまで追ひ詰められたきみたちの爆発力は菅井きん級

未来から舞ひ込む問ひの答案に記すは菅井きんの四文字


いまさらですが月曜日は菅井きんの歌。


2015/05/17

2015/05/16

■標語? いりません。

わかりやすい反戦川柳が有象無象を呼び寄せる力にはあらためて感心させられます。

http://hw02.blogspot.jp/2015/05/blog-post_15.html

これは川柳の持つアドバンテージのひとつ。



さて、五七五は標語と相性がいい。

川柳の顔をした標語、俳句の顔をした標語は数多い。

標語を作らず、標語に反応しない。最低限ぜったいに守るべき原則。なにかしら五七五にかかわっている自分の、原則。


標語には人を吸引する力があります。どんな人を、か、はさておき。どんな言説を、か、はさておき、吸引してどうするのか、はさておき。

標語は実用であり、そこには機能があります(機能が実用が、実現するか役立たずに終わるかはさておき)。

私の愛する五七五は、機能を持たない五七五、実用に供することのない五七五です。

例えば、視力の良くなる絵や、運気が上がりオカネの儲かる壺は、愛せない。それは、絵画を愛し、焼き物を愛する人なら、しごくまっとうな態度でしょう?

2015/05/14

■置く眼鏡 『豆の木』第19号より

『豆の木』第19号(2015年5月5日)には、太田うさぎさんの「豆の木賞」受賞作。

色鳥や天地逆さに置く眼鏡  太田うさぎ

ふと机の自分の眼鏡を見ると、「おお! 天地逆さだ!」。


第19号向けの新作では、

秋冷の卵の殻を重ねけり  同

なにげないようでいて、「秋冷の」の「の」で、卵と指先の関係が見える。秋冷は季節感であると同時に、卵の殻の「秋冷」。

タイトルの下に写真、句の下に短文(あるいは俳句)が付くのが『豆の木』誌のスタイル。

さしあたって自分を十二音で表すならば「気は小さくてお酒飲み」と思っているが、前半部分については「気が短くて」と言い換えても構わないのであった。(太田うさぎ)

気をつけようと思います。



ほかもゆっくり読ませていただきます。

■「アメリカン・ハッスル」をビデオで

「アメリカン・ハッスル」(デヴィッド・O・ラッセル監督/2013年)。「ファイター」の監督ですね。

映画は、まあまあ。

俳優は、みんな良いです。さすがです。

挿入歌も良いです。懐かしい音の感じもあって。

例えば、音楽はデューク・エリントンばかり聴いている、というのは、とてもかっこいい音楽愛好スタイルですが、そんなにかっこつけることもない。エレクトリック・ライト・オーケストラの抑制の効かないポップさ、やり過ぎ感、脳天気さも、同時に愛せばいいわけです(CD持つ気はしないけど)。子供の頃、ロック(!)を聞いて、胸が高鳴った感じを、いつまでも忘れたくないと思うのですよ。




2015/05/13

■言葉遊びは俳句ヒエラルキーにおいて下層にあるらしいのですが

これはいったいどうしたことでしょう。

おまけに、

(…)軽い言葉遊びを滑り込ませたくて作った句、なのではありますまいか〉などという説を、ここに掲げたとしよう。すると、それはたちまち「不謹慎だ」「コッチはまじめに考えているのにふざけていて不愉快だ」「不純だ」という批判が飛んでくるのは想像に難くない。
(山田耕司・「そこらへん」の話)
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2015/05/4_66.html

叱られたりするらしい。

どこでどうなっちゃたんだろう、俳句は。

google

■ハープ演奏による5月の朝

浅野くんから昔もらったコンピを聞き返していたら、By the Time I Get to Phoenix の素晴らしいインストゥラメンタルが。

2015/05/12

■神田祭の最終日



神田川祭の中をながれけり  久保田万太郎

この日は神田川を神輿が流れていきました。

「遷座400年奉祝の年」ということで大々的イベントの数々。プランを立てずにふらっと見物に行ったわりには、いろいろとスペシャルなものが見物できた模様。



2015/05/11

■大学の食堂で食べたい(いえ、ぜんぜん部外者なんですけど、それでも)

私の若い頃の大学の食堂(学食)といえば、椅子やテーブルは壊れて(学生に壊されて)ガタガタ、壁に落書きがあったり、立て看(自治会の勇ましい文言を独特の書体で描き込んだ暑苦しい立て看板)が作りかけやら廃棄の途中でそこらに転がっていたり。それでも食堂のおばちゃんたちはやさしかったけど。

ところが最近はずいぶんきれいで、カフェテリア方式(なんというキラキラした響き!)のところもあるらしい。なんたること。隔世の感。

大学に食堂のある日永かな  宮本佳世乃

この句、内容をいえば、「学食日永」と7音・4文字で済む。長いものを短く17音にまとめるのが俳句と思っている人もいるようですが、それは違います。長く伸ばすのも俳句。だらーと伸ばした感じがいかにも日永、だなんて句評を言う人もいそうです。

では、なぜ、 7音・4文字で済むものを17音・12字にまで伸ばしてあるのか。それは、それが俳句の調べというものだから。

素晴らしくのんびりした句。


ところで、道を歩いていて、大学があり、それが昼どきだったりすると、「学食で食べたい!」と思うことがあります。でも、学生でも職員でもない人間が食べちゃあいけないんだろうな、潜り込めたとしても落ち着かないだろうなあ、と思うので、入っていったりはしません。

学生さんと一緒なら大丈夫なのでは?

私といっしょに学食に入ってくれる学生さんはいないのだろうか。

そう贅沢でもない願いだと思うので、ずっとこの願いを抱きつづけるつもりです。


掲句は、『オルガン』創刊号(2015年4月20日)より。


■ともかく菅井きんの歌

永遠に十進法のなかに棲む例へば菅井きんてふ無意味 10key

彼方より掃海艇と菅井きん目の錯覚のたぐひだらうか

うちそとのあはひに吊るす風鈴のひと揺れ菅井きんはいづこへ

戦後史を覆ひ尽くせる一枚の名づけて菅井きんてふ荒野


ご承知のように月曜日は菅井きんの歌。

2015/05/09

■『関西俳句なう』。あかん、これはあかんで。

まず、『関西俳句なう』(2015年3月・本阿弥書店)刊行に尽力された関係者の皆さまに、敬意を表します。この手のアンソロジーは、人の面で、資金面で、その他さまざまな面で大変なご苦労があったと思います。

加えて、私は、この本を購入させていただいたことをお伝えしておきます。どうでもいいようなことですが、「俳句の本は買うものではなく貰うもの」と思っている人もいるようなので、「買う人間もいるんだよ」ということを言っておきたいわけです。

さて、では、本題です。


誰が『関西俳句なう』をつくったのか?

『関西俳句なう』には、編者名の記載がない。表紙/カバーにも、奥付(書籍で最もオフィシャルな箇所、というのは好き勝手できない箇所という意味)にも、編者名が、ない。

これはきわめて異例。というか、珍しいことです。

どのくらい異例で珍しいかというと、著者名・編者名の記載のない書籍を大きな書店で一日かけて探してこい、と言われて、1点見つける自信が私にはありません(他の人は知らんよ)。それくらい異例。

「ユニークでいいじゃないですか」

って、そういう問題じゃない。

「まえがき」によると、「関西俳句なう」というウェブサイトがかつて運営されていたとのこと。「まえがき」の書き手として「関西俳句なう 代表 塩見恵介」の記載があります。

とすれば、ウェブサイト「関西俳句なう」が編者ということになります。書名は、このサイト名「関西俳句なう」をそのまま生かした、と「まえがき」にあります。つまり、「関西俳句なう」が編んだ『関西俳句なう』というわけです。ひゃあ、ややこしい。


この本はどんなアンソロジーなのか?

編者名がないのはさておいて、ページをめくってみると、これはアンソロジーのような本です。

「『船団』に所属している若手作家」(まえがき)13人と「他結社・個人の作家」(同)13人の俳句50句がそれぞれペアとなっていて、「書簡交換」の記事が付いています。さらに、「『船団』諸先輩俳人」(まえがき)〔*1〕による「ミニエッセイ」28篇。

え? 「船団」の若手13人? 「船団」の俳人による28篇のミニエッセイ?

そう、内容の半分以上は「船団」のメンバーによるものです。そして、編集した「関西俳句なう」は船団のメンバー。

つまり、船団メンバーの編集による船団若手のアンソロジー、そこに「他結社・個人の作家」13人が加わったのがこの本、ということが、ページをめくるとわかります。それが自然な受け取り方です。

こう書くと、「他結社・個人の作家」13人がゲストのように思うかもしれませんが、最終ページにある「凡例」によると、掲載順は「船団」会員の年齢順だそうです〔*2〕。船団側が基準。ゲスト扱いでもないようです。


このように、『関西俳句なう』にはいろいろと奇妙なところがありますが、それはそれでいいと思うのです。

書籍の発案(発端)が「関西俳句なう」という船団メンバーによるウェブサイトであること、それ自体は問題ではありません。なにをやるにも言い出しっぺは必要で、それが船団メンバーであってもかまわない。

船団メンバーが編集したアンソロジーに船団若手が半数(13人)入集するというのは、ちょっとカッコ悪いとは思いますが、この手の本の人選はどう選んでも異論は出る。編集で、そうと決めれば、それでいい。

それに、中に入っている俳句を読むときは、どこの所属かなんて気にかけませんし。

「船団」の成分のきわめて高いアンソロジーを「関西俳句なう」と呼ぶのも、まあ、しかたがいのかな、と思うことにします。他に手がなかったのか、とは思いますが、もともとアンソロジーとして歪(ひとつのグループに偏った人選)なのだから、タイトルは難しいでしょう。

以上のようなことは、カタチとしてあまりキレイではありませんが、まあ、「よし」としましょう。

問題なのは、カバー、表紙、帯のどこにも「船団」と記されていないことです。これは、致命的な齟齬です。

この本、ページをめくれば、誰でも、「船団」の人たちの本だと思いますよ。にもかかわらず、「船団」と書いていないのです。どこにも。


「中を読めばわかる」という言い方は、偽装表示を認めるようなものです。「中」ではなくて、「外」に示されていないとダメなのです。こういうだいじなことは。

帯(裏表紙面)には26人の作家名が並んでいますが、これを見て、所属(船団だとか船団じゃないとか)がわかる人、つまりアンソロジーの構成がわかる人などほとんどいません。


「書籍の外観に『船団』の文字がないのが、なぜそんなに問題なのか?」と訝る人もいるかもしれません。

大問題です。読者に対して不誠実だから。それって大問題なのです。

読者に誠実であること。あらゆる出版物はそこからスタートしなければいけない


「それはそれとして、要は中身でしょう?」という意見もありましょう。でも、それを言ったら、表紙も書名も不要ということになってしまいます。あるいは、そうした極論以外にも不都合はあります。書名ほか外観から伝わるものと中身のあいだにこんなふうに大きな齟齬があると、それが情報のノイズ、激しいノイズとなって、なかなか中身にたどり着けません(現に、この記事、中身にはまだまったく触れていない)。


タイトルにもサブタイトルにも編者名にも「船団」という重要な情報を盛り込む技術がない、アイデアが浮かばない、ということなら、帯に書く手もあります。一般書籍でも、タイトル・サブタイトルで伝えきれない重要な情報を、帯に記したりします。

この本の帯には「東京がなんぼのもんじゃ」という話題の惹句が記されています。これも情報のノイズとなって、読者/潜在読者を本の中身から遠ざけていると思いますが、また、このダサダサの書体選択とレイアウトはどうにかならなかったのか、とも思いますが、ダメとは言いません。これはこれで、なんらかの思惑・戦術があったのでしょうから。でも、この惹句だけで帯一面を使うことはない。本の中身(成分の50%以上を船団が占めていること)を明示/暗示する文言は盛り込めたはずです。

書名はそのまま『関西俳句なう』でもいいです。帯文で、例えばシンプルに「『船団』若手13名+関西在住若手13名」とでも記し、「ミニエッセイ」をぜんぶやめにする〔*3〕。これでだいぶ違います。少しはたたずまいのマシな本になります。

もっとキレイなかたちがとれたはず、いくらでもやり方はあった、と思うのですが、どうしたことでしょう。ケアレスミスでしょうか。そうではなく、もしも、わざと「船団」と謳わず「関西俳句」を名乗ったのだとしたら、悪質ですが、それはないと信じます。

『関西俳句なう』については、今のところ、以上のようなところです。


そんなわけですが、さて、肝心なのは、俳句です。

本の体裁や成り立ちがどうであれ、句に責任はありません。どうか、みなさんが、この本でステキな句に出会えますように。

私も楽しみにページをめくらせていただきます。



〔*1〕 「諸先輩俳人」って、たぶんに尊敬語っぽいですね。身内に向かって奇異な感じがしますが、細かいことはすっ飛ばしましょう。

〔*2〕年齢順は、編集がラクでしょうけれど、読者のこと、作家のことが考えられていない。読者の側に立って、どんな並び方が楽しく読めるか、作家の身になって、どんな並び順なら、それぞれの作品が際立つか、そういう発想があってもいいのではないでしょうか。

〔*3〕ミニエッセイ。これ、要りますか。ただでさえ、「誰でも書けそうでいて、結果、悲惨」の筆頭がミニエッセイです。果敢にも28名の「諸先輩俳人」が挑んでおられます。結果は、読者諸氏がお確かめください。


2015/05/08

■捕捉されちゃった!



霜降銀座は、キャラも、とてもいいと思います。赤い「し」の字。ちょっと妖怪ぽくもありますし。

2015/05/07

■絵を飾る

ゆっくり眺められて、目にできる機会もそこそこ(毎朝快便)。ということで、トイレには大好きな絵を飾ります。


浜田知明のこの版画「Grand Place」は、むかし、想像の景色だと思っていました。あまりに美しいので。

ブリュッセルの超有名なグランプラスであることを知ったのは、少し経ってから。

でも、この絵の美しさは実物とはまた違うのかもしれません(と、行ったことも見たこともないのに、言っておく)。



テレビの上には、中嶋憲武画伯の鴨の版画。ここはいちばん大事なポジション。野球で言えば4番・新井さんです。



「春隣」という鉛筆書きのタイトルを消しゴムで消し、「通し鴨」と書きました。夏ですし。

(ウソです。憲武さん、安心してください)

2015/05/06

■インターネットは「自分」を映す鏡

インターネットはどうこうと、いろいろな人が語るわけですが、忘れないようにしたい当たり前の事実があります。

それは、私が見ているインターネットとあなたの見ているインターネットと誰かが見ているインターネットは「違う」ということです。

ある人のブラウザーには、おっぱいやおしりが次々と現れる(なんとステキなインターネット)。

ある人のブラウザーには、恨みや罵倒がずらずらと並ぶ(それはそれで人生)。

ある人のブラウザーには、旅へのあこがれがふくらむような風物が溢れる。

(もちろん、それらは一人の人のなかで同居もする)

いずれにせよ、インターネットを見ることは、「自分」を見ているということです。

もちろんそれだけがインターネットの様相ではありませんが、そういう側面を忘れたままだと、なんとも恥ずかしいことを語っちゃうかもしれませんよ。

■露結さんのツイート(その後消滅?)で知った Clarence Gatemouth Brown が、もう…





■霜降銀座



商店街は、道幅が狭いほうがおもしろい。密度が高くなる。

東京に(全国に?)数多い○○銀座でいえば、有名な戸越銀座は道幅が広く、私には今ひとつ。霜降銀座はその点、魅力たっぷりです。


巣鴨~駒込~田端~日暮里 七七です、いちおう。

2015/05/05

■週俳はどこに在るのか?

『週刊俳句』は電網に漂う不定形のメディア。

だなんて、インターネット草創期のヘタなコピライトみたいなことはさておいて、このところ話題になっている「在京感」について、あまりピンとこない、というか、どうでもいいようなところがあることは、前に書いたのですが、 こんな(↓)、週俳の紹介記事のような記事も書いていだたいて、

曾呂利亭雑記「在京感、ていうか。」
http://sorori-tei-zakki.blogspot.jp/2015/05/blog-post_3.html

多謝。

寄稿はいつでも大歓迎なんだから、という部分、特に有意義な指摘です。

週俳を読んで、他人事みたいに言ってる場合ではなくて、明日にはあなたも書き手となって、週俳の(重要な)一部を為すわけです。週俳の当番(運営)はコーディネーターみたいなもので、コンテンツは、みなさんがつくっているのですよ。



曾呂利亭さんの記事には、あれれ?という箇所もあります。

関悦史に影響うけた小津夜景、柳本々々》 そうなんですか。初耳。

先に記したとおり週刊俳句にはある種の「カルト」的側面があると思われるので》 ねえよw


もちろん、

週刊俳句だって(…)一部の人に「無闇に信奉」されている対象、にみえうるということ。

は承知しております。一方、

《一部の人に無闇に嫌悪されている対象、にみえうるということ。》 もじゅうじゅう承知。


ところで、わかっていない・知らない、わかっていないふりをする・知らないふりをする。この2つは見た目に同じです。週俳みたいなものを運営するには、後者でいいんですよ。


ちなみに「権威」という語については、人によって使用する脈絡が違いすぎて、議論が嚙み合わないので、言及はしません。 ちょっとだけ言うと、信用・信頼を保証する権威は、必要でしょうし、週俳は、ある程度備えているでしょう。一方、いわゆる権威主義と結びつく権威ということで言えば、そんなものはない。運営の人たちには、そんなものにかかずらう暇はない。楽しんだり、納得のいく(広い意味の)仕事をするのに忙しい。「本人たちはそうでも権威主義的だよ」と言い出す人もいるかもしれませんが、そこまでめんどうは見きれない。



「東京がなんぼのもんじゃ」で対視(あえて敵対視とはいわない)されている「もの」が、週俳のような限定的で流動的なメディアでは、あまりに気宇が小さい。

これはおかしな記述。『関西俳句なう』という限定的(地域限定。また党派的とまでは言いませんが参加者限定)な出版物と週俳とは、世界が違うのですよ。やろうとしていることのレベル(層)が違う。週俳は、この出版物に「なんぼのもんじゃ」と言われるほど小さくない。

曾呂利亭さんのこの文言に続く《もっとありますでしょ、「東京」のもつ権威的なもの。》は、そのとおり。「権威的なもの」がどこにあるのかは、冷静に見極めないとね。「見えない俳壇」かもしれないし、草の根かもしれないし、「関西俳句」へとみずからをカテゴライズする若手俳人の心の中かもしれない。

というか、惹句「東京がなんぼのもんじゃ」の「東京」と週俳は、結びつきようがない。どうしてこうなっちゃったんだ?w 

「週俳=在京感」という、どなたかの淡い印象を、福田若之くんがわざわざ拾い上げたのがきっかけだろう。福田くんが悪い。《一方で、『週刊俳句』が、「東京」の一部をなしているという認識が生じる可能性は(これは『週俳』側の問題として)、ありうるのかな、と。》と思うのはもちろんかまわないのだけれど、その対処について、私はあまり力になれない。そこのところを問題視していないので。



でね、週刊俳句について、いろいろな人がいろいろなことを思うのは、そりゃ思うでしょう。週俳が人々の目にどんなふうに映っているのか、当番として興味・関心がまったくないわけではないけれど、正直、どうでもいいかな、と(他の当番のことは知りません)。

ウソだろ?と思う人がいるかもしれませんが、ホントです。考えてもみてください。人がどう思うかなんてことを気にしていたら、8年間、420号も続けられませんて

■不思議なオブジェがいいかんじに経年劣化して摩訶不思議なオブジェに




撮影場所は駒込あたりの小公園。

巣鴨~駒込~田端~日暮里 七七です、いちおう。

2015/05/04

■現実の生活と同じレーンで同じレベルのベタなもの

先週の「金曜日の川柳」。

http://hw02.blogspot.jp/2015/05/blog-post_1.html

「よかったですね、おじいちゃん」と申し上げる以外、何の感想もない句ですが、それよりも、

川柳は現実の生活と同じレーンで同じレベルのベタなものも一句に仕上げる。

と樋口由紀子さんが書いたそのすぐ下に、 匿名諸氏による「現実の生活と同じレーンで同じレベルのベタな」コメントが並ぶという、コクのありすぎる展開。サクラじゃないの?と疑いたくなるほどです。


匿名コメント欄の醍醐味ですね。


なお、《「よかったですね、おじいちゃん」と申し上げる以外、何の感想もない》という私の感想は、「現実の生活と同じレーンで同じレベルのベタな」感想ですから、これで、いいのだ。

■巣鴨~駒込~田端~日暮里 七七です、いちおう。

先週末は散歩。上中里駅から旧古河庭園経由で巣鴨駅。正午から2時、ここまでは月天の吟行に一緒させてもらい、あとは一人散歩。巣鴨駅からコの字で駒込駅へ(コの字とはきほん南に向かい途中東に折れて途中北上)。駒込駅からコの字で田端駅へ。田端駅からコの字で谷中経由日暮里駅へ。途中ぶらぶら寄り道しながら4時半くらいまで。


■どこまでも菅井きんの歌

どこからがCGなのか雲はるか超えて巨大な菅井きん像 10key

夏ですね。

月曜日は菅井きんの歌。

2015/05/03

■福田くん、呼んだ?

となると、『週刊俳句』の「「在京」感が高い」ということは、『週刊俳句』が少なからず観念としての「東京」、すなわちひとつの中心に近づいているということにもなる(…)天気さん、そこらへん、どうでしょうか(と急に名指しで振ってみる)。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2015/05/419_3.html

そうは思わない。

中心って、嚙み砕けば、「俳壇(ぷっw)」とか?

週刊俳句は、ぜんぜん中心志向ではないし、「俳壇(ぷっw)」にも関わっていないね、実際のところ。

だいいち、俳壇の「外」、俳句業界の「外」の人たちが週刊俳句の当番をやっていますしね。

上田信治さんにしても、村田篠さん(捉え方はむずかしいけれど、「魚座」色・「雲」色が最近薄まり「月天」色に戻った)にしても、私にしても。

現状のメンバーでは福田若之くんがもっとも「中心」ぽい。

中心と周縁でいえば、やはり周縁的でしょう。



「東京がなんぼのもんじゃ!」 と言われても、ねえ。その惹句が出てくるローカル性は理解できますが、何かに「対抗」して俳句するという発想がない(私にも週刊俳句にも)。

『関西俳句なう』さん(書籍を「さん」付けした。画期的だと思う)には、「せいぜいお気張りやす」としか申し上げようがない。

週刊俳句は、気張らない、がんばらない。そこ、美点だと思うのですよ。週俳の。

「対抗」も「敵」もない。



週俳は「在京感」が強いと言われても、「ふうん、そうなんだ」が実感。「後記」なんかでリアルの話題を書いたとき、東京の話題(住んでいる場所の近くの話題)になりがちなので、東京の感じになるという程度のことだとは思いますが。


で、福田くんさあ、八王子住みのキミと府中住みの私としては、帯に

「港区がなんぼのもんじゃ!」

とでも大書しましょうか、この際。


(どの帯だ?)


【関連過去記事】週刊俳句はなぜここから始まったのかという問題
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2015/04/blog-post_9.html

2015/05/01

■「毎日」性・「人々」性

Sly & The Family Stone でいちばん好きな Everyday People

(シリーズにできますね)


「毎日」性・「人々」性ってのは、巨大なテーマです。

その一方に、「あるとき私は」性というのがあるわけですが。


■5月1日のジレンマ

ポール(牧じゃないほうのポールね)にはほとんど興味がないことを口に出しにくい、また、出す必要のない日々が続いたわけですが、ビートルズの曲(制作順で言えばアルバム「アビーロード」まで)ならほとんど聞いているという人は、私の年代だとかなり高い割合になると思います。 以前、どの曲がいちばん好きか?という話題になって、これはそうとう考えないといけないし、迷ってしまってなかなか結論は出ないのですが、「サムシング、 かなあ」と答えると、吾郎さんが「それはかなり変態かも」と。

「どの曲がいちばん?」というのを他のグループ、ミュージシャンでやってみると、今ではあまり顧みられることがないけど私が若い頃大人気 だったサイモンとガーファンクル(「と」が時代っぽい)でいちばん好きな曲は、「パンキーのジレンマ」。これは長考も迷いもなく答えられるですよ。