2016/12/30

■小晦日の三毛猫・甘納豆・その他

ランちゃん(三毛猫)の予防注射(国立市の獣医さん)に中嶋憲武画伯が来訪。これ、毎年恒例。



おみやげは本所平野屋の甘納豆。包み紙がシブい。


美味ざんす。


嫁はんは相方とピアノデュオの練習。昼ご飯までのひととき、画伯とふたり、上中下をじゅんばんこでつくる合作遊び。

ちょうど目の前にあった中村安伸さんの句集『虎の夜食』の冒頭の句から上五(赤字がそれ)をいただいてスタート。青字が憲武画伯。緑字がわたくし 10key。




今年も残りわずかですね。みなさま、良いお年をお迎えください。


2016/12/29

■眼 西橋美保の二首

何を見てわれは病みしか花のころ鷹匠町の眼科に通ふ  西橋美保

青空の奥に潜みし星々をそのまま眼鏡の函へとしまふ  同


歌集『うはの空』(2016年8月/六花書林):「夢前の鹿」12首の冒頭2首。

鷹匠町(たかじょうちょう)は兵庫県姫路市の地名。夢前川(ゆめさきがわ)は十代の頃、毎日のように電車で渡った川。そのときは何も思わなかったけれど、故郷を離れてから、夢前とは、なんとロマンチックな地名であろう! と。

さて、上に掲げた2首。

「眼科」って、不思議な事物なんですよね。妖しい感触。それが「花のころ」ともなれば、なおさら。鷹匠町という美しい地名を伴えば、なおさら。

隣り合う2つの歌が響き合うように、眼科が、ひかり(青空、眼鏡)を帯び、眼鏡ケースが魔法の函めく。

見えない星や「鷹」の一字にも、眼のイメージが沁みわたる。

うっとりとするほど美しいページです、この2首を収めた185頁は。

〔過去記事〕


■積み残しての越年がほぼ確実となった俳句案件

1 読めていない(したがって礼状を出せていない)句集が10冊近い。

2 ウラハイの「句集の読み方」シリーズ。あとは、「本文」と「あとがき」を残すのみで、年内に終わらせたかったが、無理そう。

3 このブログでやってた「句集をつくる」シリーズ。年を越すのは想定内だから、それはいいのですが、問題は、自分の中で雲散霧消しそうなこと。「あれ? そんなこと、考えてたっけ?」と、健忘・脳内シャングリラ状態。これがなかなかに快適で、困ったもんだ。

4 『週刊俳句』の「作成マニュアル」の作成。これ、あると便利なんですが、作業としては、わりあいぶっとい。「そのうちやろう」で、出来上がった試しがない(一般論、ネ)。


まあ、のんびり行きましょう。

ひなたぼっこ気分。

ひなたぼっこしているうちに年が明けたら、サイコーですね。そんなことは地球的・天文学的にあり得ないのですが。



2016/12/28

■一句の戦闘能力 「あやす」vs「いたぶる」

句を変えてみるという話が川柳作家・榊陽子さんのブログにあって。



ササキサンを軽くあやしてから眠る  榊陽子

ササキサンを軽くいたぶってから眠る  同

オリジナルの前者(第17回杉野十佐一賞受賞)が「どうにも生ぬるさが気に食わないので」、後者に変えるという話。


さて、「あやす」vs「いたぶる」。この対決、どちらの勝ちか。

私は、「あやす」が圧勝だと思う。

「あやす」から「いたぶる」へ、句の戦闘能力は減衰したような気がします。

冷酷さにおいて、戦略性において、狡猾さにおいて、暴力性において、「あやす」>「いたぶる」。

ことばはおもしろくて、語気の強い語、攻撃的な語のほうが生ぬるくなったりする。やさしい口調の人のほうがよほど怖い、てことは、世の中によくあることですし、ね。


なお、蛇足ですが、「ササキサン」がオトナであることが、今回の比較の前提。対象がササキサンではなく赤ん坊や子どもなら、このかぎりにあらず。



■なぜ歴史的仮名遣いで俳句を書くのか?




これ、ラディカルな問い、ですよね。

自分にとってこれまででいちばん説得力があったのは、(俳句における現在の)歴史的仮名遣いは、コスプレ、というもの。

誰が言ったか憶えていない。石原ユキオさんだったか?(彼女はこういうの言いそう)

俳句想望(@小野裕三)的に、俳句コスプレをする。

ちなみに私も、ずいぶん長いこと、歴史的仮名遣いで俳句を書いていて、「コスプレ」的側面を否定しない。

まあ、俳句想望俳句かどうかは別にしても、衣装は要る。
参照:五七五定型=パンツ騒動
https://togetter.com/li/35781
普段着じゃないものをまとうのは、俳句の場合、悪くない、という感じです。

別の答えもありそうです。もっと「これだ」という答えがそのうち見つかるかもしれません。


【追記】

歴史的仮名遣い=コスプレ説は、短歌起源のようですね。

ツイッター検索

石原ユキオさん、濡れ衣だったら、ごめん。

上記ツイッターを見ると、「歴史的仮名遣い=コスプレ」には否定的な向きが多いようです。「コスプレに過ぎない」てな具合。

んんん。これは不思議。

コスチュームなしに短歌や俳句を詠むなんて、よくそんな恥ずかしいことができますね……と言うと、問題を広げすぎか。

ともかく、私がここで言うコスプレに否定的な要素はありません。

2016/12/27

■ノイジーなエコー 煤逃へと徐々に

今年1月にギターを購入。もうすぐ1年。まだ、ほっぽり出していません。三日坊主ではなかったのですが、技術習得は遅々としてさしたる進歩なし。歳をとると、からだが動いてくれません。でも、焦らず、のんびり続けていこうと思いますよ。

嫁はん(電気ピアノ購入)とはなかなか一緒してもらえず、一人で弾いていてもすぐに飽きてしまう(この飽き性も加齢とともに激しくなるような気がします)。そこで、ふと、エコー(今どきの言い方はディレイ)を使えば、一人でも合奏風になるのでは、と。

フェイドアウトせずにひつこく音が残る設定でやってみたところ……(画面を凝ってみました)




なんちゃってアヴァンギャルド。

音がほんとにぜんぶ残るせいか、不協和音、でも、キーはあるような。リズムは、たゆたう(ときどきわざとずらしているとポジティブに解釈)。


なお、ふだん練習しているのは、こういうのではなくて、なんちゃってR&B、なんちゃってファンクです。


ギターは(ギターに限らず楽器全般)むずかしい。精進精進。

2016/12/26

■某日日記:年惜しむ(惜しむほどの年じゃなかったけれど)

某日。今年最後の週刊俳句を更新。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/12/50520161225.html



某日。今年最後のくにたち句会。

句会後の飲食で「俳人のゴール」という話題が出る。たいそうな話ではない。サラリーマンなら社長がゴール、という人も多いだろう。その程度の話。

「主宰がゴールって人は多いんじゃないの?」

それはそうでしょうね。

結社の主宰って、だいたいは親切で面倒見がいいのだろうけど、ひとり残らず俗物でしょう?(そんなもの、ロールモデルにもならない)

…と言ったものの、「ひとり残らず」は言い過ぎ。「ほとんど」にいま訂正。

主宰たる俳人の、俳人としての側面に関心をもつことはあっても、主宰であることには関心ゼロ。だって、そんなこと、私と何の関係ないものね。どこかの結社に入ってるわけじゃないから。

で、自分と俳句のことを訊かれたので、きれいごとかもしれないけれど、「俳句の近くにいられたらいい。これからもずっと」と答える。

俳句の近く。それは、俳句世間の「中」や「近く」じゃない。為念。

俳句を読んだり、俳句について考えたり、句会で俳句をつくったり、『週刊俳句』に関わったり。

ゴールを想定するのはつまらなくて、いつも、どれもが、自分と俳句の関わりの《始まり》であれば、それは素敵でしょう。



某日。友人の植木屋が来訪。「これを庭と呼ぶのか?」というくらい狭小な庭(のような部分)ですが、毎年手入れをしてもらうのは良いこと。

東京の美しき米屋がともだち  阿部完市

東京じゃなくて調布だし、あんまり美しくないし、米屋じゃないけど。

嫁はんはピアノデュオの相方と練習。おふたりの昼ごはんに、私が近くのパン屋さん(優良店プチアンジュ)まで自転車でひとっ走りして、サンドイッチやおかずパンを買ってくる。

友人と私は外へ昼ごはんを食べに。

友人がスマホの写真でセルマーのサキソフォン(光り輝いている!)を見せてくれる。高校の吹奏楽部に入った娘に買ってやったのだという。おお! 素晴らしい!

昼頃聞こえていた植木鋏の音は、やがて地べたを履く箒の音へ。

平和。


2016/12/24

■俳人でだいじなことは

俳句でだいじなことは愛嬌、という話をしたのですが(≫こちら)、では、俳人でだいじなことは、というと。

それは、含羞です。


(字が大きすぎて、言ってるのと逆方向になっちゃってますが)

これは説明不要ですね。




■ハッピー・ホリデイズ

ネット通販事業者から毎年グリーティングカードが届く。


2016/12/23

■俳句は愛嬌

連作なり句集を読んだとき、「愛嬌」という要素をとても重視します。愛嬌は、だいじ。

これ、しかし、ワケがわからないという人が多いだろうし、よしんばワケがわかったとしても、その「重視」というとこが、まったくわからん、という人も多いことでしょう。

愛嬌って、なに? と問われても、うまく説明できないけれど、〈ちょっとした余裕のようなもの〉では、あります。


なお、この愛嬌、作者の話ではなく、句の話。作者に愛嬌があってもしかたない。あってもなくても、どっちでもいいです。句に愛嬌があればいい。


ちなみに、「女は愛嬌、男は度胸」という成句もあって、ひょっとしたら、度胸も必要なのかもしれません、俳句には。


2016/12/22

■拾い読み 『俳句と超短編』第4号

『俳句と超短編』第4号「甘い果実 苦い真実」。

冒頭に「短い文芸に共通する魅力を楽しむために、俳句(3句)and/or超短編(1編、500文字以内)という規定で作品を募集」とあります。

「掌編」とせずに「超」を付けたのが現代的。「超みじかい」といった口語も連想させます(「俳句と掌編」じゃあ昭和文学ぽいもんね)。

さて。

月光に白し吾が手も合鍵も  堀田季何

合鍵の物語性よりも、視線の落とし方、視野の絞り方に注目。

超短編では、鳥栖なおこ「ケガレドリドリ」に奇妙な味。サキの短編「トバモリー」を思い出した。

ゲストコーナーの、

従業員拍手攻めなるわが誕生日揺らめく栗  榮猿丸

猿丸さん内部に字余りブーム到来?



あと、体裁で。

超短編部分、字間・行間がページによって異なる(みごとにバラバラです)のは、書物に関して保守主義で機能美をもとめる私には、かなりの違和感。




■霊もまた 柳本々々の一首

「霊もまた緊張するの」と彼女が言ういろいろ話が進み過ぎている  柳本々々

具体的な物語を連想するのは、読者の在り方として正しいのかどうかはさておき(と言いながら想像してしまうわけですが)、この「彼女」は、ある程度、近距離にいる。結婚を数か月後に控えて、彼は、ちょっと固まってしまった。「考え直すなら、今だ」と忠告したい。忠告に効き目などないのは知っていても。

と、これはベタな物語化。「言う」と「いろいろ」のあいだに、俳句で言うところの「切れ」を見るのがいい。コクが出る。


2016/12/21

■呉智英で話を混ぜっ返すのはもっと先でいい

「すべからく」の誤用が以前より減ったとしたら、呉智英の功績大。しかしながら、この誤用指摘に「また呉智英かよ」と混ぜっ返すのは、まだ早い。もっと減ってからでいい。

減ったといっても、まだまだ多い。俳句で見つけることさえある。

1本の論考のなかの1箇所とはワケが違う。17音のうちの5音、3語ほどのうちの1語。だから、めだつ、めだつ。誰か言ってあげればいいのに。



で、誤用の話題になると、かならず出てくるのが、「ことばは生きている。誤用が広まれば、運用となり、誤用ではなくなる」といった意見。

ことばはたしかに生きている。うつろいやすい。誤用もアリになっちゃうこともある。けれども、誤用が出自というのも、ちょっとかなしい話。

あるいは、「過去に用例がある。ほら、誤用じゃないでしょ」という指摘。たしかにそんなこともあるけれど、古くからの誤用に過ぎないケースも多々。



ちなみに、このところ用字でよく目にする間違いが、

追求(追究)と追及。

誤用というよりタイポ、変換ミス? スペースキーを押して先に出てきたほうで行っちゃうかんじか。



ま、そんなことはさておいて、踊りましょうか。年末だし。

2016/12/20

■冒頭集:地獄のミサワ


地獄のミサワ『カッコカワイイ宣言! 1』(2010年10月/集英社)

部品を顔のまんなかに小さく寄せ集めた意匠。微妙なアブノーマルがちょっとクセになる。いまさらですが、地獄のミサワは、可笑しくて、素晴らしい。

2016/12/19

■揺れる 『なんぢや』第35号の一句

『なんぢや』第35号(2016年12月10日)より。

冬近し貸しボート屋に鳴るラジオ  鈴木不意

所在なげなボートの揺れとラジオの音の揺れ。


連作「先生一人」10句には、ほかに。

ホテルからホテルの見ゆる野分かな  同

ビルとビルを詠む句は多いのですが、「ホテル」と特定するだけで、気分が出ます。

障子貼りきつねうどんの昼が来て  同

ああ、いい昼。


■神話の雨 『なんぢや』第35号の一句

『なんぢや』第35号(2016年12月10日)より。

桃の皮神話に雨の降り初めし  太田うさぎ

改稿以前(初出?)は『週刊俳句』誌上夏休み納涼句会への投句、

桃の皮雨は神話の中に降り

と思しく。


後者の、「中に」あたりの、また語順からくる生硬さがみごとに解消されると同時に、「初め」の語が加わることで、この世に初めて降る雨といった連想も生まれましたぜ。

推敲はだいじ。

2016/12/18

■電気ピアノの活躍

今年買った嫁はんの電気ピアノは居間に置いて、もっぱら「テレビ観ながら練習」に活躍。

ヘッドフォンも活用。相撲がトントン、鍵盤もトントン。



「別の音で鳴らす遊び」は、私が頼んでやってもらう(練習にはならないので、嫁はんには迷惑)。シャブリエ(1841-1894)を弦楽器の音で。



2016/12/17

■冒頭集:もし自分が死んでも

もし自分が死んでも、誰も追悼などしないで欲しい、これは諧謔でも逆説でも照れでも、愛情飢餓的ないじけでもない。ガチガチの本気だ。口にもしないで欲しい。SNSとかがあるから、口をつぐむのは難しいかもしれないが、誰も口にしないで欲しい。自分が知りもしない人の訃報を読むと、一回目を通しただけで、もう次の何かを読み始めている筈だ。あの時と全く同じ対応をして欲しい。(…)
菊地成孔追悼文集『レクイエムの名手』(2015年11月/亜紀書房)

2016/12/16

■NOCTURNAL SUNSHINE

ノクターナル・サンシャインとミッドナイト・サン。どう違うんだろ?

ME'SHELL NDEGEOCELLO - NOCTURNAL SUNSHINE feat. HERBIE HANCOCK

2016/12/15

■葬り去る句 句会の濾過機能

句会で無視される句。これ、ひじょうに重要なことで、「あ、これは、誰にも届かないのだ」と知ることができる。

(無点句の作者を開ける句会もありますが、開けないでそのままそっと葬り去るのがいいと思っています)

(句会参加者の誰にも届かなくても、自分には届く、ということも、たまにはあるでしょうから、それは持って帰って、なんとでも好きにする)

句会は、濾過装置みたいなところがある。

最初の濾過=スクリーニングは自分ですが(句会で短冊に書いてみたものの、ダメだ、こりゃ、と捨てる等)、その次の段階は句会の互選、かもしれません。


ちなみに、SNSなどでさかんに自分の句を披瀝する人がいますが、あれは、なんだかもったいない気がします。句会等、他者(自分以外)に葬り去られるという過程を経ない、という意味で。

そっと葬りされていていたはずの句も、世界に向けて発信されてしまう。付き合いなのかなんなのか、「いいね!」とかが付いたりもするので、(よほど自選が効く人を除いて、ということはつまり、ほとんどの人は)ワケがわからないまま、句作を続けていくことになるでしょう。


2016/12/14

■嚙む女

5リットル入りのワインを買ってきた。ところが、蛇口がうまく開かない。

そこで、嫁はん、嚙み切った。

大胆すぎないか?

いや、凶暴すぎないか?


あんのじょう蛇口は壊れ、用をなさなくなった。




■句会は楽屋・ワークショップ

句会によって、合評のスタイル/マナー/内容はいろいろ。




私は、この例とは対照的に、「変えられる」ことに抵抗感がありません。代替案は、むしろ歓迎。受け入れるかどうかは、もちろん案によるが、「あっ、そのほうがいい! それ、いただき」というときはうれしい(季語とか自分でもしっくり来ずに投句してることが多々あるし)。

でも、代替案を添削みたいに捉えて、嫌がる人も、確実にいる。そのことは前からわかっているので、他人の句に代替案を出すときは、「こういう手もある」という言い方で選択肢を提案するようにしているつもり。まあ、これも、気の置けない同士だと、直接的な言い方になってしまう。

句会は楽屋、あるいはワークショップと考えるので、メンバーでくっちゃくちゃいじるのが当たり前。

※何句か用意して持っていくスタイルよりも、句会のその場でつくるほうを好むのも、そのせいかもしれません。

※大人数の句会は楽屋的・ワークショップ的にはなりにくいので、好みません。


一方、「批評」は、予測がつくことも多い。同じメンツで長くやってると、とくに、ね。いくつかの判断軸(意味了解性とかポエティックへの傾き具合とか既視感のハードルとか)で、各自、スタンスが定まっていたりするし。合評での批評/感想は、いろいろな捉え方や感じ方があることをそのつど確認する、という感じです。

2016/12/13

【お知らせ】12月のくにたち句会

2016年12月25日(日)14:00 JR国立駅改札付近集合

句会場所:ロージナ茶房(予定)。

席題10題程度

句会後の飲食もよろしければどうぞ(会費アリ)


初参加の方は、メールtenki.saibara@gmail.com)、電話etcでご一報いただけると幸いです。

問い合わせ等も、上記メールまで。

2016/12/12

■ある日、お爺さんとお婆さんが

パティ・スミス(@ストックホルム)が貫禄のあるお爺さんみたいだった。
http://www.jiji.com/news/kiji_photos/0161210at78_p.jpg

かたや、お婆さん3人。



年をとると、性別を交換できるのかもしれない。

いろいろ楽しみ。せいぜい長生きしよう。




2016/12/11

■某日日記:極月と月極の違いについて

ウラハイにひさしぶりの【俳誌拝読】。
http://hw02.blogspot.jp/2016/12/blog-post_8.html

取り上げたのは『靑猫』創刊第一号(2016年9月20日)。

書籍や冊子の「デザイン」というと、表紙に目が行きがちですが、だいじなのは、本文。書体、字の大きさ、字間、行間、版面位置(ページの中に印刷部分をどう配置するか)等。

その意味で、山形の同人誌『靑猫』は俳誌の中で最上クラスの、きちんとしたデザイン、洗練されたデザインでした。

ということはつまり、俳誌(結社誌・同人誌)の本文デザインの多くが洗練味を欠き、ゆるいということなのですが、これはエディトリアルデザイナーの手が入らないことが多いし(とくに同人誌)、デザイナーさんがきちんと仕事をしてくれるとも限らないので、いたしかたのないところ。

一方、本文デザインなんて、気に留めたことがない、というのが一般的かもしれません。それはそれでよし。デザインて、そんなものです。でも、使う人が意識して見ていないところに気を使うのが専門の作り手。それが、知らず知らずに使う人の気持ちよさに繋がっていたりする。


某日。値段について考える。

六花亭の「マルセイバターサンド」とセブンイレブンの「濃厚クリームのレーズンサンド」がほぼ同じ単価であることに気づき、それなら前者でしょう、と。ちなみに小川軒の「レイズン・ウィッチ」は上記より少し安い。セブンイレブン、何やってるのだ?

お米は土鍋で美味しく炊けるのに、何万円さらには十何万円もする電気釜が世の中にある不思議。

食べ物の話ばかりになりますが。

日高屋でチャーハン(430円)を食べた後、コーヒーが飲みたくなってホテルのロビーラウンジ(1,000円から1,500円前後)というライフスタイルは大いにアリと考えるタイプです。


ソウル系のレコードにありがちですが。


もう1枚。


このジャケットは、凝ってるといえば凝ってるのだろうけれど。

で、何度も言いますが、フルアルバム、聴けるって、YouTube無法。


未読の句集が、例によって溜まる。少し前、身軽になったはずなのに、油断するとあっというまに。

一箇所に積んであるが、視界に入るたびに気が萎えるので、目立たない場所がいいのだけれど、そうすると永遠に忘れるかもしれない。

ところで、ときどき、句集レビューを書いて、週刊俳句に載せてもらったりするのですが、某日、〈句を一句も引かないレビュー〉を思い立つ。実行・試行に移していないが(実際にはムリっぽいが)、このアイデア、まだ捨てていない。

2016/12/10

■Get Your Freak On とりあえず踊る。年末だし。

以前に雪我狂流さんからもらったコンピで知ったSkeewiff




Get Your Freak On」のオリジナルはこっち?

大阪のおばちゃんみたいなミッシー・エリオット。大好き。



2016/12/09

■この時季に五月の句というのもなんですが 生駒大祐・攝津幸彦賞正賞「甍」の一句

『豈』第59号(2016年12月1日)掲載の生駒大祐「甍」(第3回)より。

五月来る甍づたひに靴を手に  生駒大祐

五月と甍は、童謡「こいのぼり」(屋根より高い♪と違うほうのやつね)によって直結。

炎帝やら冬帝といった擬人化もあるので、「五月」が靴を手にしてやってくる、と読んでも、なかなかに可笑しい景。

通常は上五の後ろで切って読むのだろう。それにしても、「なんでまた?」という可笑しさは残る(もっとも卑近な連想なら、間男の逃走)。

「来る」終わりの季語を選択している点、前者の誤読・擬人法読みも、すこし意識しているのかもしれません。

「づたひに」がなにげない工夫。ここ、だいじ。細かいところの仕上げがだいじな。雑な作り手だと、「の上を」とかやっちゃいそう。


■駅

大きさが公衆トイレほどの駅舎。



2016/12/08

■十二月八日

【過去記事・旧ブログ】

徳川夢声『夢声戦争日記』
http://tenki00.exblog.jp/2333157/

『古川ロッパ昭和日記・戦中篇』
http://tenki00.exblog.jp/2335597/


2016/12/07

■蟹と原爆 『川柳カード』第13号の湊圭史

ひきつづき『川柳カード』第13号(2016年11月25日)より。


押してよい赤いボタンに見詰められ  湊圭史

ああ、これは押してしまいますね。「押しちゃダメなボタン」でも、見詰められたら押しちゃいます。


原爆許しちゃうってカニなら云うね  同

原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ 金子兜太》が下敷きになっています。

カニがほんとうのところ何を考えているのか、わからないけれど、すぐあとに《前言を撤回します枝豆として》とあるので、原爆を許すのは、さすがにまずいと、かたわらの枝豆は思い、フォローした体(てい)。


なお、掲句2句を含む10句連作タイトルは「メルドタウン」。

メルトダウン(meltdown)ではありません。メルド。タウン。フランス語のメルド(merde)は「糞」の意で、日本語「クソッタレ」と同じく悪態に使われる(ジャリ『ユビュ王』のセリフとかネ)。タイトルはこのメルドと掛けてあるのかもしれません。


2016/12/06

■優秀な分析が出来の悪い読者を楽しませてくれない一例 『川柳カード』第13号の小津夜景レビュー

小津夜景「〈みせけち〉の主体と〈みせかけ〉の世界」(『川柳カード』第13号・2016年11月25日)は、兵頭全郎句集『n≠0 PROTOTYPE』のレビュー。

否定等号(≠)からの発想だろうか、〈みせけち〉を鍵語に、句集の傾向を明晰に分析。主体やら対象やら意味やらの「確実性」の否定=不確実性への言及・まなざし・そぶりを、句群に見て取ります。

と、こう書くと、すばらしいレビューのようですが、全体に優秀な学生のレポートのようで、読んで納得はできるものの、おもしろいかと問われれば、ちょっと答えに逡巡。出来の悪いオトナを楽しませてくれない。

(これは難解とか衒学的とかいった問題ではない。秀逸な批評は、理解力の及ばぬ読者にも満足や幸せや刺激を与えてくれるものです)

このレビューの《腰のひけ方》は、書き手が最後に「メモ書き」とことわっているように意図の範囲内ともいえますが、(この書き手にはめずらしく)技術的な部分での収まりの悪さ・不足にも原因があるようです。

記事の理路に置かれた引用句には、「これでいいのか?」と立ち止まってしまうこと、たびたび。例えば、1句目、2句目、そして3句目として引かれた《おはようございます ※個人の感想です》において、「ただし」の意に用いられる「※」から公共性の〈みせけち〉を導き、1句目の「付箋」に立ち戻るあたりは、あざやか。ところが、読み進むうち、レビューの枠組みと引用句のあいだの齟齬がしだいに目立つようになります。

「むりやり強引に」という批評の力技を愉しむこともできないことはないのですが、書き手自身がだんだんとしんどくなっていくようにも見えます。20分興行のプロレスなのに5分で息があがるかんじ。

援用されるエピソードも、モナリザの髭(デュシャン)はみごと。なのに、マグリットのパイプを持ってきたところは「その差し手、ちょっと浅いかな?」と、こちらの《読みの熱》が醒める。

ひょっとしたら、半分の紙幅だったら、ぴったりクリアカット! という成功を見せてもらえたかもしれません。


とはいえ、句集『n≠0 PROTOTYPE』に〈みせけち〉という視点を定めた点、出色には違いなく、小津夜景が俳句・川柳界隈に突然登場して以来、私が抱き続けている尊敬と畏怖(夜景、おそろしい子!)を損ねるものではありません。機会があれば、ご一読を。


なお、句集『n≠0 PROTOTYPE』は私も拝読しました。興味深い試行がそこここにありました。つまり、これって作者自身が言うように「プロトタイプ」なんだろうな、と。

これらの試行を経て、次のタイプ、量産型とは言いませんが、作品として読者に提示される「次」が出て来るのだろうという気がしました。


あとね、最後にひとつ。一般論。レビュー・批評に不可欠なのは、気合、ガッツやで。

(思考・技術は「ある程度」備わっているのが前提だけど)


【過去記事】相同 兵頭全郎『n≠0 PROTOTYPE』の一句



2016/12/05

■人肌の句

鳥の巣にひとの匂いの雨が降る  榊陽子

「俳句のような句」という言い方は、川柳には褒め言葉にならないし、むしろ失礼なのだろうが、「鳥の巣」=春の季語という決まりごとに慣れたアタマには、そこを手がかりに雨の温度などにも思いが到り、「なるほど、人の匂い、か」と。

いや、多くの俳人にとっては、冬に「鳥の巣」が出てくることに驚くかもしれない。これは単なる習い性。鳥の巣は一年中ありまっせ、だんな。

一方、「ひとの匂い」という捉え方の興趣の領分が、川柳か俳句か、といったこともあるにはあるのですが、これ、じつはどうでもよくて、ジャンルとしての川柳/俳句の別はあるものの、一句を読むとき、向かい合うときは、区別なんて知ったことか、となってしまうのであります。

なお、掲句は以下のブログ記事より。
http://yoko575.blog.fc2.com/blog-entry-172.html


人肌の湿度や温度やテクスチャ、人肌の機微やら紆余曲折やら。この作家の句は、そんなところから始まるのかもしれない。

そんなふうに思うのは、同じ記事に、こんな句があるせいかもしれません。

マフラーを巻いて行き止まりの体位  同

マフラーと体位という、近いのか遠いのかわからない二物(「裸エプロン」ならぬ、「裸マフラー」という、素敵な絵も想像してしまった。神様、ごめんなさい)から来るのだろうか、乾いた即物性があります。さらに「行き止まり」に色濃い、ある種の「投げ出し」感。そのあたりのクールさがおもしろいわけです。




※動画は記事内容とさしあたり無関係。

■座興とそうじゃない句ははっきり区別するタイプです

上田信治さんの整理(酒席で聞いただけ)によれば、作句には、3つの態度の別がある。

A 手習い

B 座興

C 上記以外

私の場合、〔A 手習い〕がない。結社等に属さず、どだい習う気も根気もない。

そして、〔B 座興〕と〔C 上記以外〕ははっきり区別するタイプ。ちなみに、前記事のようなイベントはもちろんのこと、その場の座興。

座興の句を貶める気はありませんが、手習いでも座興でもない〔C 上記以外〕が、その人の本線として、例えば句集に収められたりするわけです。ところが、このところ、困ったことに、B:Cの数的比率において、どんどんBが増え、〔C 上記以外〕がなくなりつつある。

こんなことでは句集なんて出来ないぢやあないか。


2016/12/04

■臍にまつわる忘年句会

「月天」忘年句会は毎年恒例の団体戦。剣道柔道方式に一対一で点数を競う。対戦ごとに句が張り出される、それをアギョウさんが書いてくれる。終了後は自分の句を持ち帰る。これはいいおみやげ。帰宅後、写真を撮っておこうとしたら、ムクがどいてくれない。


山本勝之の法要を兼ねるのも恒例。今年は九回忌。

勝之の忌日を「無臍忌」という。「臍」の句は参加のたびにつくっている気がする。

 寒き世に臍を抱へて生まれ来し 10key


なお、まんなかの句は、いちおう尻子玉句会所属なので。なんでも使うて暮らし続けにゃならんのですけぇ、うちらは。

2016/12/03

■ゆるずる 週俳の10年

週俳500号を、私信で祝ってくださる方もいる。

ある人の便りには、記念号で「みんな褒めすぎ」との指摘。

そのとおりですね。原稿依頼には「批判・罵倒もオッケー」と添えたけど、それをやってくれる人はなかなかいない。書き手に心理的な負担がかかるし、罵倒には芸もいる(芸のない罵倒は見苦しいだけのなので、誰のトクにもならないのに、実際にはこれが多い。不思議不思議)。

結果、執筆陣はなかなかに巧み。すでに書いたけれど、含蓄がそこらじゅうに煌めいております。

「ゆるくやってるのでそこらへんよろしく、というのは、ずるい」という声も。

「ずるい」は褒め言葉。ありがたたくいただく。だって、こういう媒体で「ずるい」の対義語は「無能」「まぬけ」だから。

「ゆるくやってる」は、わざわざそうしてるわけじゃない。構成員(というのか私の)性格・紙質もとい資質。

でもまあ、意思もすこしはあるでしょう。こんなもんを必死のギチギチでやるのは野暮。


というわけで、ほんと、いろいろありがたいことです。これからも週俳をよろしくお願い申し上げます。

2016/12/02

■マンボウの雑さ 『里』12月の一句

『里』2016年12月号(2016年12月9日)より。

ずつとゐるまんばうの白色雑  田中惣一郎

マンボウ(翻車魚)の肌はおおむね白いが、たしかに、なんだか雑。「ずつとゐる」で、雑さが常態化したような気配もある。

ところで、マンボウは泳ぎがヘタだそうで、ほんと、雑。顔も雑だし。


で、それはそれとして、『里』のこの号、上田信治「成分表129」に出てくる「寝たまんまヨガ」というアプリが気になって気になって。

この話、解釈のしようによっては、入信とか洗脳という領域に半歩どころか数歩突入している感。「おーい、信治さーん、帰ってこいよー」って感じ。


なお、『里』は頒価500円(税込み)。問い合わせは邑書林のウェブサイトでいいと思います。


2016/12/01

■某日日記:本洗ったりチョコ盛ったり

袋から出して器に盛ると、コンビニの税込267円チョコには見えない。……いや、見えるか。




某日。アアサさんの作品展を見に、嫁はんと千駄木へ。

会場の名前が思い出せず、二人で「ペニーレーンだっけ?」と検索したが、わからない。記憶とは別の検索ルートで「ペチコートレーン」と判明。老人ボケが進んでおります。「ペチコートレーン」なんてややこしい名前が悪い! ペニーレーンにしとけや! と、我ながらむちゃくちゃなことを言いつつ、ようやく辿り着く。

会場は、別件の知らない人たちのパーティーの最中。そんななか、ステキな絵や字がたくさん見る。とりわけ日本画。

買って帰った絵葉書5葉。



猫(モモ)はこのところ、よく吐く。某日、枕元の本に吐いてくれちゃって、洗ったが、汚れは落ちず。

続きは風呂の中で読むことにする。


■冒頭集:海鼠

  人間の海鼠となりて冬籠る  寺田寅彦
厚く着ぶくれ、炬燵に身を縮めているヒトの姿と、海底にどてっとうずくまったナマコのイメージが重なっている。ヒトはナマコになれるのかもしれない。
鶴見良行『ナマコの眼』(1990年/筑摩書房)