2016/12/06

■優秀な分析が出来の悪い読者を楽しませてくれない一例 『川柳カード』第13号の小津夜景レビュー

小津夜景「〈みせけち〉の主体と〈みせかけ〉の世界」(『川柳カード』第13号・2016年11月25日)は、兵頭全郎句集『n≠0 PROTOTYPE』のレビュー。

否定等号(≠)からの発想だろうか、〈みせけち〉を鍵語に、句集の傾向を明晰に分析。主体やら対象やら意味やらの「確実性」の否定=不確実性への言及・まなざし・そぶりを、句群に見て取ります。

と、こう書くと、すばらしいレビューのようですが、全体に優秀な学生のレポートのようで、読んで納得はできるものの、おもしろいかと問われれば、ちょっと答えに逡巡。出来の悪いオトナを楽しませてくれない。

(これは難解とか衒学的とかいった問題ではない。秀逸な批評は、理解力の及ばぬ読者にも満足や幸せや刺激を与えてくれるものです)

このレビューの《腰のひけ方》は、書き手が最後に「メモ書き」とことわっているように意図の範囲内ともいえますが、(この書き手にはめずらしく)技術的な部分での収まりの悪さ・不足にも原因があるようです。

記事の理路に置かれた引用句には、「これでいいのか?」と立ち止まってしまうこと、たびたび。例えば、1句目、2句目、そして3句目として引かれた《おはようございます ※個人の感想です》において、「ただし」の意に用いられる「※」から公共性の〈みせけち〉を導き、1句目の「付箋」に立ち戻るあたりは、あざやか。ところが、読み進むうち、レビューの枠組みと引用句のあいだの齟齬がしだいに目立つようになります。

「むりやり強引に」という批評の力技を愉しむこともできないことはないのですが、書き手自身がだんだんとしんどくなっていくようにも見えます。20分興行のプロレスなのに5分で息があがるかんじ。

援用されるエピソードも、モナリザの髭(デュシャン)はみごと。なのに、マグリットのパイプを持ってきたところは「その差し手、ちょっと浅いかな?」と、こちらの《読みの熱》が醒める。

ひょっとしたら、半分の紙幅だったら、ぴったりクリアカット! という成功を見せてもらえたかもしれません。


とはいえ、句集『n≠0 PROTOTYPE』に〈みせけち〉という視点を定めた点、出色には違いなく、小津夜景が俳句・川柳界隈に突然登場して以来、私が抱き続けている尊敬と畏怖(夜景、おそろしい子!)を損ねるものではありません。機会があれば、ご一読を。


なお、句集『n≠0 PROTOTYPE』は私も拝読しました。興味深い試行がそこここにありました。つまり、これって作者自身が言うように「プロトタイプ」なんだろうな、と。

これらの試行を経て、次のタイプ、量産型とは言いませんが、作品として読者に提示される「次」が出て来るのだろうという気がしました。


あとね、最後にひとつ。一般論。レビュー・批評に不可欠なのは、気合、ガッツやで。

(思考・技術は「ある程度」備わっているのが前提だけど)


【過去記事】相同 兵頭全郎『n≠0 PROTOTYPE』の一句



0 件のコメント: