2019/10/31

■電線 辻村麻乃『るん』の一句

石川美南歌集『架空線』の架空線は、架空(fiction)の線ではなくて(そう思わせるところもきっと仕掛け)、空を走る電線その他のこと。一般に、電線と言えば、それを思い浮かべるけれど、考えてみれば、地中を走るライフラインもあるわけで。

さて、架空線。電柱をつなげる電線その他。この秋の颱風被害もあって、地中化の話がちらほら出た。日本の空に電線が張り巡らされたこの状態を、美観の観点から嘆く声は以前からあった。

ところが、その一方で、電線と電柱を日本の原風景として「残すべき」との声もある。

日本人「電線のある風景の方が風情があってかっこいい」
https://www.pinterest.jp/pin/44121271335268251/
電柱なくそう団体の写真コンテスト 美しい電柱風景の作品投稿が殺到し論争

https://www.j-cast.com/2017/09/09307591.html?p=all

まあ、見た目とかを言うと嗜好の話になるから、なくせ・なくすな、の両方が出てくる。

 

電線の多きこの町蝶生まる  辻村麻乃

どの町にも電線は多いが、その町ではことに多く感じたのだろう。「蝶生まる」の直前に《切れ》があり、電線の風景と蝶の誕生に因果関係はないが、一句の中で同居すると、電線を伝わる電気・信号の中から蝶が生まれるとの事象もまた見えてくる。電気羊ならぬ電気蝶。

読みとして妥当かどうかは知らないが、そうした幻視は、一句の中の二物の提示によって、読者(私)の中では容易に起きてしまう、快楽的に起きてしまうのだから、しかたがない。

ラヴ&ピース!

掲句は辻村麻乃句集『るん』(2018年/俳句アトラス)より。

わが家の近くも電線だらけ。

2019/10/28

■水辺に始まる 石川美南歌集『架空線』

石川美南歌集『架空線』(2018年8月/本阿弥書店)を読み始めた。冒頭の連作「川と橋」がとっても良い。川ラヴァー・橋ラヴァーとしてもうれしいかぎり。

日本橋ほか、川というか東京の運河というか水辺を散策し、1964年五輪も去来する。歌から歌へ読み進めると、名著『私説東京繁昌記』(小林信彦+荒木経惟)も思い出したり。

以降の連作も、しっとりと、じわっと、来る。

部屋じゃなくて、外で、例えば電車の中で、ゆっくりページをめくっていこうと思います。

ラヴ&ピース!


2019/10/27

■餡

ドーナツのカロリーは真ん中に集まる、ゆえにドーナツは、カロリーゼロ、とはサンドウィッチマン伊達氏(漫才師)のカロリーゼロ理論。この理論、とても好きで、自分でも、餡は野菜、ゆえに餡パンはオッケー、そう信じて、さっき食べました、餡パン。

体重コントロールはだいじ。健康はだいじ。

でも健康のために生きているわけではないので。

ラヴ&ピース!


2019/10/23

■黴が

主体、作中の主体(行為者・観察者)については、たびたび触れてきたのだけれど(最近では、この記事)、これって、俳句その他短詩特有の問題なわけで、比較対照として他の文芸ジャンルでもいいけれど、あえて、ここは音楽。作曲者や編曲者が「作中主体」なんてものを頭に浮かべたりするはずがなく、演奏者にしても、そう。当たり前といえば当たり前なんですが、一人称やら視点視座やらが俳句と違って出てこないから当たり前、と言ってしまっていいのかどうか。

というわけで、黴が主体の句。

黴が感じるときおり黴を撫でる風  福田若之

黴が俳句を書くわけがないで、書いたのは作者・福田若之なわけですが、この句に彼はいない(めずらしいことではない)。黴が何かを(ここでは風を)感じるかどうか、という問題について、俳句は科学でも法律でもないので、「感じる」わけです。なぜなら、作者がそう断じたから。

俳句における主体は、仕組みや仕掛けのたぐいでしかない、と、私などは考えていますよ。うまい仕組み・仕掛けかどうかが問題。そこで、この句ですが、黴の(風を感じる)触覚は、たいそう発達していそうで(黴は触覚のみで出来ているとさえ思えてくる)、奇妙なリアル感があるんですよね。

ラヴ&ピース!

掲句は『豈』題62号:福田若之「渚」12句より




2019/10/22

■千葉から賜り物

茹で。


2019/10/17

■某日某所の「や」

「や」と見るや反射的に切字と思ってしまうのは、重篤な俳病・俳炎・俳癌かもしれません。

小鳥来る炭酸水や天然水  羽田野令

けれども、この句がちょっと新鮮なのは、連綿たる〈や=切字〉精神史があったればこそ、みたいな部分もあって。

ラヴ&ピース!

掲句は『鏡』第33号(2019年10月1日)より。

一方、作者本人は切字のつもりで「や」を使っていても、これ、どう見ても、関西弁の「や」でしょう、というケースもあって、でも、まあ、切字の「や」と関西弁の「や」は同根というウワサもあるので、ね。

2019/10/16

■連濁



「あけぐち」ではなく「あけくち」? これには、かなり抵抗感がある。言いにくいじゃないですか。あけくち。

複合語の後半が濁るのは「音便」だと思っていたら、音便には含まれず(音便はウ音便、イ音便、撥音便、促音便の4つ)、便宜上、「濁音型の音便」と、まあ、亜種的な捉え方らしく、一方、「連濁」という言い方が正式らしい。

で、何が言いたいのかというと、この連濁、どんどん少なくなっていっているのでは? という話。

これを強く思い始めたのは、以前、例えば「ものつくり大学」というネーミングを見たとき。「ものづくり」じゃなくて「ものつくり」。何か意図があるのかもしれないけれど(新コンセプトとか)、抵抗感・違和感があった。

辞書では、清音・濁音を読み方として両表記の語も多いようだけれど、それにしても優勢な読みはどちらかなんだろう。

この種の語の変化、ことばの変化、どこかに研究がありそう。そういうものに出会えるといいな(なりゆきまかせ)。誰か教えてくれるとうれしいな(他人まかせ)。

ラヴ&ピース!

2019/10/15

■カタログ

花瓶を倒す

チェストに水がこぼれる

抽斗の中のものが濡れる

えらいこっちゃ 水ふきとろう

存在を忘れていたものが出てくる

…というわけで、フリッツ・ハンセンのカタログ。ちっさい!



てのひらサイズ、ちいさめの手帳サイズ。

左肩のパンチ穴は、ゴム紐で家具本体と繋がっていたと記憶。タグみたいなかっこうで、パンフが付随してたはず。

ラヴ&ピース! な小冊子。

2019/10/14

■手で撮る

週刊俳句の写真。

https://weekly-haiku.blogspot.com/2019/10/651.html

ほとんど加工していない。手動ピントのマクロレンズ(アナログカメラ向けの瑞光)で撮って、ちょっと変わった味わい。

これは(↓)は大きく加工した。モノクロに近い。枯れ感は、このパターンでも面白い。加工の有無にかかわらず、また手で撮ってみようと思ったことでしたよ。


2019/10/13

■恋歌

たったひとりを選ぶ 運動場は雨  倉本朝世

あざみエージェントのカレンダーより。同社を運営する川柳作家・倉本朝世の有名句。

情感たっぷりながら、毅然とした句。

句と言ったけれど、これ、私の中では川柳ではなく、ましてや俳句ではなく、歌。広義での歌。

恋と読みたいので、いっとう素敵な恋歌。あくまで私の中では、ね。


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2019/10/07

■振るぜ!

買っちゃった。


振るとしゃかしゃか音が出る。マラカスの変型版。簡単そうだけど、手にとってやってみると、それなりに難しく、管の中の粒粒の位置によっても音やビートが変わる。奥深いぞ、これ。

1500円くらいで、そうとう楽しめそう。

ラヴ&ピース!

2019/10/04

■仲田陽子の監獄俳句

訴状に始まり生中継に終わる仲田陽子「此岸」10句(『みしみし』第3号/2019年10月)。

 独房に蛇口と便座冬の鵙  仲田陽子

等、監獄が舞台と思しく、もしも作者=作中主体(作中視点)との立場をとれば、社会的存在としての作者に収監・服役等の経験がない以上(詳しくは知らんけど、そんな話は聞いたことがない。でも、ひょっとすると、そうじゃないかもしれないので、そのときは、ごめん)、あるいは、刑務所見学の経験(これは、あって不思議じゃない)がなければ、フィクションということになるが、作者=作中主体(作中視点)との立場をとらない私としては、同時に、フィクション禁止との教義に与しない私としては、この監獄10句、読者として、大いに楽しんだ。だって、よく出来てるんだもん。

前掲のリアリズムから、

 着膨れて微罪ばかりの閻魔帳  同

と、軽妙に世故へと跳ぶところも、気が効いてる。この句の主人公は、収監された人じゃなくて、面会の弁護士や家族と解したい。

なお、タイトルの「此岸」は「しゃば」と読みたいところ(ルビは振ってないけどね)。


ところで、俳句のノンフィクション・フィクションという問題は、少々ややこしい要素もあるので、横に置くとしても(興味のある方は「フェイク俳句」でgoogle)、ちょっと言えば、私も「フィクション絶対ダメ~!」とは思わない一方、「なんでもアリ」というわけではない。フィクションにはそれなりの趣向が要るし(前掲の「此岸」は行為・視点が弁えられていて、《私》が服役中とは決めつけられない)、作者(俳人)の生物的社会的属性からまったくフリーに詠むことには抵抗がある。例えば、私は、想像妊娠は詠めても、妊娠や出産を詠むとなると、自分でも引く。周囲はもっと引く。これは大いに引いていい。

まあ、そんなふうにいろいろあるわけで、しかしながら、「ノンフィクション主義(造語)を厳格に推し進め、作句現場の逆アリバイ(そこにいたという証拠)を求めていく態度が、俳句世間に根強く在るのは承知の上で、それにしては、全体に「厳格じゃないよな~」という例が多い。例えば、少なからぬ俳人が、見たこともない季語を、まるで目の前にあったかのよう詠む。俳句を読んでると、日本の夜ってこんなに暗かったっけ?(星月夜や銀河の頻出)とか、第1産業従事の人口比率、めちゃくちゃ高いなあとか(実際いは現在4パーセント以下)、その手の《フィクション》は、とても多い。

まあ、俳人って、不真面目なんですよ。融通無碍。

それは、悪い意味ばかりじゃなく、むしろ良いことでもあってね、その作品(俳句)に接するにも、人として付き合うにも、ちょっと不真面目なところがあったほうがいいんですよ(私だけかもれないけど)。

退屈な事実しかクチにしない人が、だいじなところで誠実とは限らないし、人に優しいわけじゃない。誠実や心優しさは、俳句以外で発揮してくれたほうがいいです。私は、そんなふうに考えて、暮らしていますよ。

なんだか話がへんなほうに行っちゃったけど(なおかつ理路がとっ散らかってるけど)、ラヴ&ピース!


なお、連句誌『みしみし』にご興味の方は、こちら(https://twitter.com/officemisimisi)にアクセス。


2019/10/02

■冒頭集:キャラメル

 その日、その時、昼の公園。おれは女にビンタをされていた。
 女が誰で、どこに住んで、いくつなのか見当もつかなかったが、殴らせておく他なかった。
 おれは彼女の店で、森永のキャラメルを万引したのだ。
(平山夢明「いんちき小僧」;『デブを捨てに』文藝春秋/2015年2月)


2019/10/01

■朝はオクムラさんから

ツイッターで【本日のオクムラさん】を再開。

https://twitter.com/10_key

毎朝8時に一首あがります。

奥村晃作を知ってしまった者には、その歌を人に伝えていく使命が生じる。

(↑断言)

ラヴ&ピース!