訴状に始まり生中継に終わる仲田陽子「此岸」10句(『みしみし』第3号/2019年10月)。
独房に蛇口と便座冬の鵙 仲田陽子
等、監獄が舞台と思しく、もしも作者=作中主体(作中視点)との立場をとれば、社会的存在としての作者に収監・服役等の経験がない以上(詳しくは知らんけど、そんな話は聞いたことがない。でも、ひょっとすると、そうじゃないかもしれないので、そのときは、ごめん)、あるいは、刑務所見学の経験(これは、あって不思議じゃない)がなければ、フィクションということになるが、作者=作中主体(作中視点)との立場をとらない私としては、同時に、フィクション禁止との教義に与しない私としては、この監獄10句、読者として、大いに楽しんだ。だって、よく出来てるんだもん。
前掲のリアリズムから、
着膨れて微罪ばかりの閻魔帳 同
と、軽妙に世故へと跳ぶところも、気が効いてる。この句の主人公は、収監された人じゃなくて、面会の弁護士や家族と解したい。
なお、タイトルの「此岸」は「しゃば」と読みたいところ(ルビは振ってないけどね)。
ところで、俳句のノンフィクション・フィクションという問題は、少々ややこしい要素もあるので、横に置くとしても(興味のある方は「フェイク俳句」でgoogle)、ちょっと言えば、私も「フィクション絶対ダメ~!」とは思わない一方、「なんでもアリ」というわけではない。フィクションにはそれなりの趣向が要るし(前掲の「此岸」は行為・視点が弁えられていて、《私》が服役中とは決めつけられない)、作者(俳人)の生物的社会的属性からまったくフリーに詠むことには抵抗がある。例えば、私は、想像妊娠は詠めても、妊娠や出産を詠むとなると、自分でも引く。周囲はもっと引く。これは大いに引いていい。
まあ、そんなふうにいろいろあるわけで、しかしながら、「ノンフィクション主義(造語)を厳格に推し進め、作句現場の逆アリバイ(そこにいたという証拠)を求めていく態度が、俳句世間に根強く在るのは承知の上で、それにしては、全体に「厳格じゃないよな~」という例が多い。例えば、少なからぬ俳人が、見たこともない季語を、まるで目の前にあったかのよう詠む。俳句を読んでると、日本の夜ってこんなに暗かったっけ?(星月夜や銀河の頻出)とか、第1産業従事の人口比率、めちゃくちゃ高いなあとか(実際いは現在4パーセント以下)、その手の《フィクション》は、とても多い。
まあ、俳人って、不真面目なんですよ。融通無碍。
それは、悪い意味ばかりじゃなく、むしろ良いことでもあってね、その作品(俳句)に接するにも、人として付き合うにも、ちょっと不真面目なところがあったほうがいいんですよ(私だけかもれないけど)。
退屈な事実しかクチにしない人が、だいじなところで誠実とは限らないし、人に優しいわけじゃない。誠実や心優しさは、俳句以外で発揮してくれたほうがいいです。私は、そんなふうに考えて、暮らしていますよ。
なんだか話がへんなほうに行っちゃったけど(なおかつ理路がとっ散らかってるけど)、ラヴ&ピース!
なお、連句誌『みしみし』にご興味の方は、こちら(https://twitter.com/officemisimisi)にアクセス。
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