主体、作中の主体(行為者・観察者)については、たびたび触れてきたのだけれど(最近では、この記事)、これって、俳句その他短詩特有の問題なわけで、比較対照として他の文芸ジャンルでもいいけれど、あえて、ここは音楽。作曲者や編曲者が「作中主体」なんてものを頭に浮かべたりするはずがなく、演奏者にしても、そう。当たり前といえば当たり前なんですが、一人称やら視点視座やらが俳句と違って出てこないから当たり前、と言ってしまっていいのかどうか。
というわけで、黴が主体の句。
黴が感じるときおり黴を撫でる風 福田若之
黴が俳句を書くわけがないで、書いたのは作者・福田若之なわけですが、この句に彼はいない(めずらしいことではない)。黴が何かを(ここでは風を)感じるかどうか、という問題について、俳句は科学でも法律でもないので、「感じる」わけです。なぜなら、作者がそう断じたから。
俳句における主体は、仕組みや仕掛けのたぐいでしかない、と、私などは考えていますよ。うまい仕組み・仕掛けかどうかが問題。そこで、この句ですが、黴の(風を感じる)触覚は、たいそう発達していそうで(黴は触覚のみで出来ているとさえ思えてくる)、奇妙なリアル感があるんですよね。
ラヴ&ピース!
掲句は『豈』題62号:福田若之「渚」12句より
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