2009/08/31

答え合わせ

例の選挙予測のカリスマ、和子夫人。8月20日時点の予想と結果を比べてみる。


いやいや、すごい的中といっていいんじゃないでしょうか。週刊誌各誌と比べても。

ひどいのがテレビ。開票が始まってからの予測がコレ

2009/08/30

twitter.com

いまのところ、あまり、つぶやきません。リンク中心。

http://twitter.com/saibaratenki

つぶやけ、って言われてもなあ。

突然つぶやきはじめたら、私になにか大変なことが起こったと思っていただいてさしつかえありませんです、はい。

2009/08/29

「こんなところに」型


  鳥渡るこんなところに洋服屋  髙柳克弘

俳句には数々のパターン(フレーズ)がある。「季語+こんなところに×××××」もそのひとつ。最初に見たのは「こんなところに道の駅」という句。次に見たのが「こんなところに崎陽軒」。戯れに「こんなところに笠井亞子」と詠んでみたりもした(瀬戸わんやでも、越智道雄でも、なんでもかまわない)。×××××には無数の事物が入る。そんななか、この「洋服屋」、じつに、その、なんというか、悪くない。

荻原裕幸氏はこの句を取り上げ、次のように書く。
この洋服屋から物語的な何かのはじまる予感を消すことはできない。饒舌になれば消えてしまうであろうその予感を、五七五という寡黙さが支えているようだ。
http://ogihara.cocolog-nifty.com/biscuit/2009/08/2009822-58d2.html
なるほどです。饒舌と寡黙のあんばいが「こんなところに」句の興趣の度合いを大きく作用する。だが、五七五そのものに寡黙さが備わっているわけではないと、俳句をかじっているからだろうか、思ってしまう。この句にちょうどよろしき寡黙があるとすれば、「洋服屋」というチョイスがもたらす声の調子、気分のトーンだろう。

「崎陽軒」は季語によらず饒舌だもの。これもおもしろいけどね。


掲句は『未踏』(2009)所収。

2009/08/28

ネガティブ・キャンペーン(続)

「ネガキャン」という短縮語が今回で定着しそうです。

で、自民党の動画で、党担当者が「手応えを強調」というニュース。

自民、ネットCMで巻き返し…再生回数22万回
http://mainichi.jp/select/seiji/09shuinsen/news/20090828ddm005010123000c.html

「担当者」が、効果アリと思いたいのはわかりますが、閲覧数=「賛同」数と誤解しているフシもある。

よほどおもしろいものでないかぎり、動画を最後まで観る人なんて、ごく一部。ぱっと見されるぶんには、民主党党首のイメージアップに繋がりそう(アニメのほうがすいぶん若く、男前)。ぜんぶ観た人も、どうだろう? これを観て投票を変更したり決定したりするのだろうか。

ネガキャンが裏目に出ないパターンは考えにくい。日本人は(と一般化していいのかどうか知らないが)、自分が誰かを揶揄するのはともかく、誰かが誰かを揶揄するのを見せられるのが好きではない。ネガキャンが効果を発揮するとしたら、おそらくネットよりもお茶の間のテレビだろう。テレビには「われわれ」感が醸成されているから、「誰かが誰かを」ではなく、「われわれが誰か」のベクトルが生まれやすい気がする。いわゆるバッシング。

してみると、ネガキャンが巧妙にもバッシングに繋がるとき、ちょっと怖いかもしれないですね。

現俳新人賞・落選展のお知らせ

ことしの現代俳句協会新人賞が決まりました(「現代俳句」9月号に掲載)。

週刊俳句では落選の30句を対象に、落選展を開催いたします。
参加される方は、tenki.saibara@gmail.com まで。
〆切:8月29日(土) 22:00 ※明日です。急な話です。

過去の落選展

2009/08/26

感傷のモード変遷

『第七官界彷徨』なんですが、はい、17歳のとき尾崎翠を読んだので、19歳で大島弓子に読んだときは、「これって尾崎翠ですよねー」と思いました。空気がほんとよく似ている。センチメント(感傷)の表出スタイルみたいなものがよく似ている。このふたつを読めば誰だって、そう思います。その手の研究も進んでいるはずです。≫google

(萩尾望都や竹宮恵子には、まったく尾崎翠を感じなかった。大島、萩尾、竹宮をセットで論じるものもあって、それにはそうとうな違和感)

尾崎翠は、時代の中の、流行の変遷の中の〝先駆的離れ小島〟みたいに思ったものですが(実際、文学史上どうなのかは知りません)、1970年代、少年漫画の基調が勝負・友情・努力の世界(少年ジャンプ。一部、少年チャンピオン「がきデカ」のエログロナンセンスはあったものの)だったことからすれば、大島弓子はまさに隔絶、何十年か未来のような隔絶を感じましたが、考えてみればそうではなくて水平的隔絶。進化論的な未来ということで(少年漫画=石器時代、大島弓子=20世紀)、先駆というのとはちょっと違う。むしろ「懐かしいセンチメント」を物語成分にもとめたのが大島弓子だったのではないかと、いま思い出す。なにしろ、「第七官界彷徨」が書かれたのは1930年頃のことなのだ。


ふんどし俳句

そのネイテイヴィズム(土俗主義?)、そのあたりを俳句で、ってのが、ご存じのとおり金子兜太なわけですよね。

いわば「ふんどし」です。

  みちのくの柚子ほどの艶ふぐりに欲し 兜太『両神』

でも、世の中のこのところの流行り(大衆の、とりわけ若年層の選好するテイスト)はいわば「着流し」的ではございませぬか。

2009/08/24

くにたち句会8月は…

オヤスミです。

9月はまたあらためてお知らせいたします。

ネガティブ・キャンペーン

日本人はネガティブ・キャンペーンが嫌い、拒否反応を示すという説がある。事実なのかどうか、研究成果・調査成果があれば、読んでみたい。

例:http://shadow-city.blogzine.jp/photos/uncategorized/2009/08/23/untitled.jpg
例:http://shadow-city.blogzine.jp/net/2009/08/post_62c4.html

2009/08/21

備忘録:主語の隠蔽

どのような政治的過失についても反省の弁を口にせず、すべての失態を他責的な言葉で説明し、誰に信認されなくても自分で自分を信認すれば足りる。/そういうわが風土病的欲望が行間から露出している。
マニフェスト :内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2009/08/20_1005.php

自己責任

(…)うまくいかなくなったとたんに、「努力してるのか?」、「甘えてないか?」、「死ぬ気になってるか?」と問われはじめる。(…)/もうひとつの共通点は、これらの自己責任論的問いにはいずれも答えようがない、ということだ。努力が足りないんじゃないかと言われれば、そうかもしれないとしか答えようがない。甘えてるんじゃないかと言われたときも、死ぬ気になってないだろうと言われたときも、同じ。
「上から目線」の自己責任論が、自分を責め抜き疲れ切っている弱者を黙らせさらに痛めつける
「甘えてない。死ぬ気になって努力している」と答えられる人なんて、いないでしょう。とりあえず「うまくいっている」人だって。

100メートル、200メートルで世界新のボルト選手なら、そう答えるのか。あるいは「いや、べつだん努力してないっすけど、俺、もともと早いんす」とか答えるだろうか。もっとも、どちらにしても自己言明のスタイル付けだから、あまり意味はない。練習していることだけはたしか、というだけ。

ところで、努力とは、才能のひとつだと思う。努力しようとしてできるものではない。それができたら、世の中、努力家だらけになる。でも、そんなことはない。努力とは、努力の才能を持っている人にしかできない行為なのです。

努力する人も、努力しない人も、それが才能に起因するとは気がついていない。だから、努力しない人に「なぜ努力しないんだ?」なんて問い詰めたりする。問われたほうは「じゃあ、努力しよう」と勘違いしたりする。

ただ、実際のところ、ほとんどの人は、そこそこ努力家で、そこそこ怠け者なのだろうと推察します。100パーセント努力の成分でできている人間はきっといない。100パーセント怠け者成分でできている人間もおそらくいない。それでうまくいったり(食べていける、とか)、うまくいかなかったり(食べていけない、とか)する。それが世の中。

うまくいく人が威張らない、うまくいかない人が恨まない。そんな社会が住みやすかろうと思うのですが、どうなのでしょう。

つまり、努力するとかしないとかという問題ではない気がします。「努力しろよ」と言っている人も、言われてカチンと来たり、しょげたりする人も、どっちもちがう。なにかをスタートさせて(例えば仕事でもなんでもいいのですが)それを持続させるのに、「努力」などという天賦の才が必要と思うから、しんどい。

からだとアタマを、生物としてフツーに動かしたり、怠けたり、これでなんでもやっていくしかないと思いますです、はい。

 ●

追記

「自己責任」という語、いつのまに、こんなに範囲が拡張されたのだろう。最初登場したときは、たしか「金融ビッグバン」の際、「株やって損しようが自己責任でっせ。やるなら、リスクとリターンを理解して、やってね」といった脈絡だったはず。それまで一般人は、銀行との付き合いがもっぱらで、元本保証の資産運営。元本割れ込みの商品に手を出すときは「自己責任でね。銀行に文句いわないでね」といった話。ところが、いまや、「自分のせい」程度にまで語の用途が広がっている。どうしたんでしょう。

考えてみるに、社会保障を薄く、という流れからの「自己責任」のようです。「老後に困るのは、アンタが稼いでこなかった報いだ」といった意味の自己責任なら、これはもうかなり、ハードボイルドな社会です。

選挙予測

なんにでもカリスマがいるこのたびは和子夫人の選挙の予測(短歌です。為念)
http://ugyotaku.hp.infoseek.co.jp/jiminRakusen/kazukoFujin.htm

30日を過ぎてから確かめたいので、メモ。

2009/08/19

じゃんけん主義


haiku&me 2009年8月18日 より
   
  後出しじゃんけんで負けて愛媛に生まれたの  岡本飛び地

まことにあっぱれな、レイシスト。

2009/08/17

ネット上の「私」

コメント欄が活発化することのほとんどない「週刊俳句」がめずらしく騒がしい。議論の展開や内容とは別に、不思議に思うことがある。コメントする人の「自己表明」のあり方が、三層に分かれていることだ。

現時点で…
A 佐藤文香さん、山口優夢さん、sumakoさん、猫髭さん:名前を出して語っている
B シキさん:佐藤さんと知り合いのような口調が随所にあるが、匿名
C キノコ さん、春休さん、peeweeさん、匿名さん、謝謝さん:どこの誰かがわからない匿名

※sumakoさんはハンドルネームだが、過去から一貫して固定。渡部州麻子さんと認識している(間違っていたら御容赦)
※B:「シキ」というハンドルネームがヒントなのかも、です。
※Cは私の判断範囲。

ふつう掲示板には三層もの「自己表明」が同居することはあまりない(例;2チャンネルは基本的に匿名ばかり、俳句掲示板の多くはハンドルネームを使っていても、身元が知れている)。

週刊俳句はその点変わっていて、騒がしくなるたびに(たしか古くは「十二音技法」のとき)、三層になる。

なにということもないのだが、こういう多層は、議論の秩序がどうしても生まれにくい。

2チャンネルのあの独特の秩序(あんまり知らないけど)を思うと、ネット上の空気、秩序の醸成は、匿名・非匿名では割り切れないようだ。

吉本新喜劇


栗飯と湯気と吉本新喜劇  野口る理

「週刊俳句」第121号掲載「実家より」10句より

2009/08/16

追悼レス・ポール

8月13日逝去。94歳の大往生。

「週刊俳句」第121号のhaiku mp(動画)で特集しています。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2009/08/haiku-mp_16.html

2009/08/15

ほんとにいいのか「ピー」という名で

ピー助とか、ピー太郎とか、ピーターとか?

いえ、あの、新しくやってきた猫の話。

ピーちゃん(新ネコ)が、サヤ氏(お向かいのマイ氏の御友人)のブログに登場。
http://ameblo.jp/opuutoosuu/entry-10316777263.html



今週つくった4句

めくつてもめくつても無いメロンの図

去勢後の猫のひと鳴き水中花

ドラムスの人だけ汗をかいてをり

前回のオクンチ句会。 お題の「八」「マスコミ関連」。なぜか「八」ができないできないと考えているうちに締切が過ぎた。できていたぶんのメモ(↓)

大衆を動かすちから扇風機

戦争の愚かしさ

「愚かしい戦争」のことを書くとき、 最低限、ふたつの留意点。
ひとつは誠実に書くこと。
ひとつは「愚かしく」なく、書くこと。

「戦争の愚かしさ」について、愚かしく書く人が、その愚かしさを繰り返さないはずがなかろう。

ふたつができなければ書かないこと。俳句も散文も。

2009/08/14

俳句甲子園

もはや旧聞に属しますが、俳句甲子園が終わりました。業界ニュースとして年々大きな存在になっていくようです。

愛媛県立松山中央高等学校が優勝。おめでとうございます。

個人最優秀賞は…

  琉球を抱きしめにゆく夏休み  中川優香(熊本県立菊池高等学校)

こういう句が句会に出てきたときの私のコメントは、ほぼテンプレート化している。

「JTBに高く売ろう!」

2009/08/13

キンクス「ヴィクトリア」

ブリキのおもちゃのような音だ。この頃のキンクス。

そうそう。中学生のとき買ったシングル盤はこのカンガルーのデザインだった。


アルバムには「オーストラリア」という曲も入っているから、カンガルーもあってよかったが、シングル「ヴィクトリア」だと意味不明。もっとも、堅いことは言わなかったのだろう、この頃の邦盤洋楽。

2009/08/12

定型メロン

定型のもたらす、おもしろさ。

まず、そのことです。

≫甜瓜図(野口裕) http://weekly-haiku.blogspot.com/2009/08/blog-post_09.html

にじゅうさん/ぺえじのめろん/ずについて

おもしろい。

もしこれが五七五から一音でもずれていたら、おもしろいともなんとも思わない。俳句にせよ川柳にせよ、「これは五七五です」という前提がつねに背景として存在してくれてこそのおもしろさがあるようです(蛇足ながら、破調を否定するのではなく。否、まずもって破調こそが「五七五」あってこその破調)。

したがって「23」という数字は、それが「5音」であるという以外に、さしたる成分はない。

 

前掲。野口裕さんの記事には、川柳の人たちのこの句についてのコメントがリンクされている。そこで言われる「この句は何も言っていない」との指摘に、私は「ちょっと違う」と思ってしまう。俳句分野にいるからだろうか。「何も言っていない句」は俳句にもたくさんあるが、俳句では、こういう句を、そうは呼ばない。

じゃあ、どんな句か。そのだんでいえば、この「23ページのメロン図について」(森茂俊)という句は、「ふつうあまり言わないようなことを言っている句」だ。その意味で、批評的な句、既存の、あるいはよくある五七五に対する批評をまとった句(具体的な批評内容があるわけではない。基調に対して、それと異なる調子をもつとき、おのずと批評性をともなう、そのたぐいの批評)。

批評的であるからには、「何も言っていない」どころか、はっきりとモノを言っている句だ。

ただし、もし、川柳というものが(くわえて俳句が)「意味」と関係を(距離や位置関係はいろいろあるにしても)結ぶものであるとしたら、この句の「ノンセンス」的な味わいをもって、「何も意味しない」と見るぶんには納得できる。しかし、それにしても、ノンセンスとはセンスに対する批評そのものである。

(思うに、川柳のほうが俳句よりはるかに「意味」志向性が強い)

そして、ノンセンスとして批評的位置にこの句を立たせているのは…(ここで最初に戻る)…まぎれもない「五七五」というかたちにほかならない。

 

加えるに、この句、「ついて」という最後の三文字がクセモノなのだと確信するが、それはまあ、またの機会(が来るかどうかは知らない)。で、この「ついて」もまた、17音という定型がもたらした3音であることは間違いないのだ。

俳句を遊ぶとは、五七五に病むことだと、このところとみに思うざんす。

2009/08/10

花火


  打上花火に五重塔がじやま  雪我狂流

  花火見る大きな女前にいて  和田魚里

和田魚里ははじめて目にするお名前。冨田拓也氏の紹介記事(俳人ファイルⅩⅩⅩⅦ 和田魚里)を読むと、おもしろいです。

2009/08/07

×ガーリー ○ガーリッシュ

「ガーリー」ではない。「ガーリッシュ」じゃなきゃダメ、だそうです。序文のそれを読んで、納得。

千野帽子『文藝ガーリッシュ』(河出書房新社・2006)

紹介された69篇のうち、既読は、尾崎翠「第七官界彷徨」(大フェイバリット:ご多分に漏れず)、森茉莉「甘い蜜の部屋」、久生十蘭「キャラコさん」の3篇のみ。たった(!)3篇のみ。自分がその手の文学少女ではなかったことをあらためて実感。

端から全部、とまでは言わないが、「いますぐ読みたい」ものだらけ。ワンダフルなブックガイドでした。


2009/08/06

ネーミング

「みんなの党」ですか。

ネット上の冗談だと思いましたが、ちがうんですね。

2009/08/05

青春詠

つまり、いつか懐かしく振り返るため、だけものなのでしょう。高柳克弘『未踏』の当該数句か十数句か数十句も。

参照 ≫ ウラハイ2009-7-12


というわけで「つぶやき岩の秘密」より

いつか思い出すだろう♪ ↓



やがて高柳君は、波郷や湘子がそうしたように、青春詠の時代を遠い故郷として捨て去り、見晴るかす荒地に足を踏み出すだろう。(小川軽舟「序」;『未踏』)
ちなみに、この序文全体の、甘美すぎるかもしれない(賛辞です)美しい筆致は、この句集を読むときの空気をいくぶん決定づける。先に読んじゃダメです(笑


 

2009/08/04

歯車

人間のからだが機械だとして(機械論的人間観がどーのこーのは置くとしますよ。堅いこと言えば機械に還元なんかできないんだろうから)、その機械にも大きく分けてふたつのイメージがある。ひとつは蒸気機関のようなイメージ。ダイナミック。もうひとつは螺旋や心棒の寄り合わさった時計のようなイメージ。精密な感じ。

ものを食べて、それを熱に換えて、ということを思えば、蒸気機関のようでもあるが、夜など、ひとり静かに坐っているときなど、そういう動燃的なイメージにはならない。時計、というと、ちょっと上品すぎる、したがって自己愛的なものも絡みついてくるが、たしかに、そういう静かに動き続ける機械を、からだにイメージすることはある。

  体内に金の歯車雪がふる  秦夕美

金だと、高級感が増す、というより、精密さが増す。この句の歯車がくだんの時計のように複数ではなく、たったひとつの歯車と感じるのは何故だろう? 身体感覚をひとつの「金の歯車」が司っている。

だが、ここまでなら、数ある「体内に」俳句、「身の内に」俳句の1バリエーションに過ぎない。この句は、雪が降るのだ。「金の歯車」が降雪をも司っているような気がしてくる。歯車が静かに廻り(あるいは振動し)、そのことによって身体が存在し、身体を大きく包み込む空からは雪が降る。歯車が振らせる雪のような雪が降るのだ。

掲句は『孤舟』(2005年/文學の森)所収。


暑い真夏に雪の句を取り上げるというのも、よろしいのではないかと思いますです、はい。

ダーレン・アロノフスキー監督「π(パイ)」

(レンタルDVD)1998年、アメリカ

映画『レスラー』に、監督アロノフスキーの手腕を感じたので、旧作を観てみることに。

この「π(パイ)」はアロノフスキー29歳、低予算のデビュー作。

簡単にいえば、数字に取り憑かれた数学者の妄想。スタイリッシュなモノクロ画面。音楽も金属音中心でスタイリッシュ。

でもね、こういう妄想(幻想)映画って、「きっと現実のほうがむしろ幻想的だろうな」と思わせた時点で負けだと思うんです。つまり、難問に取り憑かれて一生を棒に振るような生き方をしてしまう天才数学者って、実際にいるわけで、その人の例えば1時間ドキュメンタリーのほうがよほどおもしろいだろうな、と、一瞬でも思わせたら、幻想・幻影としての映画の負け。劇場で観ていたら、違うのかというと、それほど違わないだろう。

星、1つ半。

この手のカッコいい映像というのは、観ていて、かなり恥ずかしい。たびたび繰り返しますが、「カッコいいって、なんてカッコ悪いんだろう」。

まあ、でも、この映画のモノクロ処理は、低予算のアラをカバーするための方策とも思え、その意味では、「クレバーな監督」という自分の中の評価は変わっていません。

『π』(1998年)から『レスラー』(2008年)へ、アロノフスキー監督も成長したんですね。子ども(若者)からオトナへ。

2009/08/03

おいしいところに…

さしかかりました。

ウラハイの連句。

歌仙「百年」≫http://hw02.blogspot.com/2009/03/blog-post_22.html
歌仙「百号」≫http://hw02.blogspot.com/2009/03/blog-post_8690.html

2009/08/02

「端居」という季語

軒下の床板に黒人の爺さんがくたっと坐っていて、ブルースハープとかボロいギターの音が聞こえてくる。それが「端居」という季語のイメージ。

Blind Willie Johnson Trouble Soon be Over


  端居してしみ・しわ・ほくろなど数ふ  高澤良一

2009/08/01

変なものは変なままに こしのゆみこのブルドッグ

分析理論やら読解の集積やら熟慮やら、それはそれで有意義な「読み」の道具を総動員するのも一手ではあろうが、それとは別にヘンテコリンなものをヘンテコリンなまま受け取る。その衝撃力を緩和することなく受け止めることも、たいへん意義深いことだと、これはもう本気で思っているのだが、比喩をめぐって【後編】とりはやし vs 野蛮の二物~こしのゆみこ句集『コイツァンの猫』を読むが「週刊俳句」に掲載されたあとも、その思いはじわじわと強まりつつある。終わった対話(+高柳克弘氏)を蒸し返すというのもなんだが、許してもらおう。もうすこし巧い強弁のしかたがあったなあ、と反省。

いや、こしのさんのこの句なんですが。

  朝顔の顔でふりむくブルドッグ  こしのゆみこ

首から上が朝顔のブルドッグに振り向かれたら、それはもう吃驚ではないですか? 

「喩」や「彩」を感じるまえに吃驚してしまう。こうした場合、句のスピード感、「喩」や「彩」へと思いを到らせる前に衝撃を与えてしまうようなスピードが最もたいせつなことで、この句の場合、中七の「顔でふりむく」のシンプルさ、直截さが、充分なスピードを生んでいる。

余計なことを言う、ぐだぐだ言い回す、本人は一生懸命描写している。そうした「手の跡」「指の跡」のようなものが、句のスピードを損なう原因になってしまうわけだが、この句は、すっきりそうしたものから逃れている。

句のスピード感というのは、実感的にはかなり重要なのだが、それ以上にうまく言えない。それは、まあ、今後の課題にするとして、この句。

とってもヘンだ、わけがわからないヘンだ、という衝撃。それは、何かを読む、何かを味わうえで、至高の価値のひとつだろう。

千野帽子・「わかりません。教えてください」とウェブ掲示板に書きこむ前に。
「あるある的な読み」だろうが「道徳的・教訓的な読み」だろうが「現代思想的な読み」だろうが、カフカの小説の字義のインパクトを削減し、未知のものを既知のものに置き換える作業になりかねない。(…)やっぱり、朝起きたら虫になってるって、変ですよ。(千野帽子・前掲)


ところで、喩というからには二者の間になんらかの類似・相同がないといけないはずだが、ブルドッグと朝顔って似ているか? 鶏頭のほうがよほどブルドッグに似ていると思うのだが。


朝顔とブルドッグって、「喩」でも何でもないんじゃないのか。