定型のもたらす、おもしろさ。
まず、そのことです。
≫甜瓜図(野口裕) http://weekly-haiku.blogspot.com/2009/08/blog-post_09.html
にじゅうさん/ぺえじのめろん/ずについて
おもしろい。
もしこれが五七五から一音でもずれていたら、おもしろいともなんとも思わない。俳句にせよ川柳にせよ、「これは五七五です」という前提がつねに背景として存在してくれてこそのおもしろさがあるようです(蛇足ながら、破調を否定するのではなく。否、まずもって破調こそが「五七五」あってこその破調)。
したがって「23」という数字は、それが「5音」であるという以外に、さしたる成分はない。
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前掲。野口裕さんの記事には、川柳の人たちのこの句についてのコメントがリンクされている。そこで言われる「この句は何も言っていない」との指摘に、私は「ちょっと違う」と思ってしまう。俳句分野にいるからだろうか。「何も言っていない句」は俳句にもたくさんあるが、俳句では、こういう句を、そうは呼ばない。
じゃあ、どんな句か。そのだんでいえば、この「23ページのメロン図について」(森茂俊)という句は、「ふつうあまり言わないようなことを言っている句」だ。その意味で、批評的な句、既存の、あるいはよくある五七五に対する批評をまとった句(具体的な批評内容があるわけではない。基調に対して、それと異なる調子をもつとき、おのずと批評性をともなう、そのたぐいの批評)。
批評的であるからには、「何も言っていない」どころか、はっきりとモノを言っている句だ。
ただし、もし、川柳というものが(くわえて俳句が)「意味」と関係を(距離や位置関係はいろいろあるにしても)結ぶものであるとしたら、この句の「ノンセンス」的な味わいをもって、「何も意味しない」と見るぶんには納得できる。しかし、それにしても、ノンセンスとはセンスに対する批評そのものである。
(思うに、川柳のほうが俳句よりはるかに「意味」志向性が強い)
そして、ノンセンスとして批評的位置にこの句を立たせているのは…(ここで最初に戻る)…まぎれもない「五七五」というかたちにほかならない。
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加えるに、この句、「ついて」という最後の三文字がクセモノなのだと確信するが、それはまあ、またの機会(が来るかどうかは知らない)。で、この「ついて」もまた、17音という定型がもたらした3音であることは間違いないのだ。
俳句を遊ぶとは、五七五に病むことだと、このところとみに思うざんす。
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