2009/08/21

自己責任

(…)うまくいかなくなったとたんに、「努力してるのか?」、「甘えてないか?」、「死ぬ気になってるか?」と問われはじめる。(…)/もうひとつの共通点は、これらの自己責任論的問いにはいずれも答えようがない、ということだ。努力が足りないんじゃないかと言われれば、そうかもしれないとしか答えようがない。甘えてるんじゃないかと言われたときも、死ぬ気になってないだろうと言われたときも、同じ。
「上から目線」の自己責任論が、自分を責め抜き疲れ切っている弱者を黙らせさらに痛めつける
「甘えてない。死ぬ気になって努力している」と答えられる人なんて、いないでしょう。とりあえず「うまくいっている」人だって。

100メートル、200メートルで世界新のボルト選手なら、そう答えるのか。あるいは「いや、べつだん努力してないっすけど、俺、もともと早いんす」とか答えるだろうか。もっとも、どちらにしても自己言明のスタイル付けだから、あまり意味はない。練習していることだけはたしか、というだけ。

ところで、努力とは、才能のひとつだと思う。努力しようとしてできるものではない。それができたら、世の中、努力家だらけになる。でも、そんなことはない。努力とは、努力の才能を持っている人にしかできない行為なのです。

努力する人も、努力しない人も、それが才能に起因するとは気がついていない。だから、努力しない人に「なぜ努力しないんだ?」なんて問い詰めたりする。問われたほうは「じゃあ、努力しよう」と勘違いしたりする。

ただ、実際のところ、ほとんどの人は、そこそこ努力家で、そこそこ怠け者なのだろうと推察します。100パーセント努力の成分でできている人間はきっといない。100パーセント怠け者成分でできている人間もおそらくいない。それでうまくいったり(食べていける、とか)、うまくいかなかったり(食べていけない、とか)する。それが世の中。

うまくいく人が威張らない、うまくいかない人が恨まない。そんな社会が住みやすかろうと思うのですが、どうなのでしょう。

つまり、努力するとかしないとかという問題ではない気がします。「努力しろよ」と言っている人も、言われてカチンと来たり、しょげたりする人も、どっちもちがう。なにかをスタートさせて(例えば仕事でもなんでもいいのですが)それを持続させるのに、「努力」などという天賦の才が必要と思うから、しんどい。

からだとアタマを、生物としてフツーに動かしたり、怠けたり、これでなんでもやっていくしかないと思いますです、はい。

 ●

追記

「自己責任」という語、いつのまに、こんなに範囲が拡張されたのだろう。最初登場したときは、たしか「金融ビッグバン」の際、「株やって損しようが自己責任でっせ。やるなら、リスクとリターンを理解して、やってね」といった脈絡だったはず。それまで一般人は、銀行との付き合いがもっぱらで、元本保証の資産運営。元本割れ込みの商品に手を出すときは「自己責任でね。銀行に文句いわないでね」といった話。ところが、いまや、「自分のせい」程度にまで語の用途が広がっている。どうしたんでしょう。

考えてみるに、社会保障を薄く、という流れからの「自己責任」のようです。「老後に困るのは、アンタが稼いでこなかった報いだ」といった意味の自己責任なら、これはもうかなり、ハードボイルドな社会です。

0 件のコメント: