『第七官界彷徨』なんですが、はい、17歳のとき尾崎翠を読んだので、19歳で大島弓子に読んだときは、「これって尾崎翠ですよねー」と思いました。空気がほんとよく似ている。センチメント(感傷)の表出スタイルみたいなものがよく似ている。このふたつを読めば誰だって、そう思います。その手の研究も進んでいるはずです。≫google
(萩尾望都や竹宮恵子には、まったく尾崎翠を感じなかった。大島、萩尾、竹宮をセットで論じるものもあって、それにはそうとうな違和感)
尾崎翠は、時代の中の、流行の変遷の中の〝先駆的離れ小島〟みたいに思ったものですが(実際、文学史上どうなのかは知りません)、1970年代、少年漫画の基調が勝負・友情・努力の世界(少年ジャンプ。一部、少年チャンピオン「がきデカ」のエログロナンセンスはあったものの)だったことからすれば、大島弓子はまさに隔絶、何十年か未来のような隔絶を感じましたが、考えてみればそうではなくて水平的隔絶。進化論的な未来ということで(少年漫画=石器時代、大島弓子=20世紀)、先駆というのとはちょっと違う。むしろ「懐かしいセンチメント」を物語成分にもとめたのが大島弓子だったのではないかと、いま思い出す。なにしろ、「第七官界彷徨」が書かれたのは1930年頃のことなのだ。
2 件のコメント:
こんばんは。
似てますよね、やっぱり。読みながら思わず「うーむ」と唸ってしまいました。
でも、大島弓子は少女マンガのなかでも「大島弓子というジャンル」といっても良いような、天気さんのことばを借りると隔絶した存在だと思いますし、尾崎翠は、それより遙か昔に小説であれをやってしまったのですから、これはもうとてつもないことだと思います。
どの本でもそうなのかもしれませんけど、私の持っている本では、「第七官界彷徨」には尾崎翠自身の後書きのようなものが付いていて、それによると、この小説を書くに当たって、人物やシーンの構成図のようなものをつくって、それに沿って書いたそうです。
これは、シナリオでいう「ハコ」と呼ばれる話の組立図と、映画でいう「絵コンテ」を足したもののようで、そのあたりにも、彼女の非凡な発想を感じます。
長々と失礼しました。
>尾崎翠自身の後書きのようなもの
確かめていませんが、私が読んだ薔薇十字社版『アップルパイの午後』にはなかったような…。
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