2009/08/04

歯車

人間のからだが機械だとして(機械論的人間観がどーのこーのは置くとしますよ。堅いこと言えば機械に還元なんかできないんだろうから)、その機械にも大きく分けてふたつのイメージがある。ひとつは蒸気機関のようなイメージ。ダイナミック。もうひとつは螺旋や心棒の寄り合わさった時計のようなイメージ。精密な感じ。

ものを食べて、それを熱に換えて、ということを思えば、蒸気機関のようでもあるが、夜など、ひとり静かに坐っているときなど、そういう動燃的なイメージにはならない。時計、というと、ちょっと上品すぎる、したがって自己愛的なものも絡みついてくるが、たしかに、そういう静かに動き続ける機械を、からだにイメージすることはある。

  体内に金の歯車雪がふる  秦夕美

金だと、高級感が増す、というより、精密さが増す。この句の歯車がくだんの時計のように複数ではなく、たったひとつの歯車と感じるのは何故だろう? 身体感覚をひとつの「金の歯車」が司っている。

だが、ここまでなら、数ある「体内に」俳句、「身の内に」俳句の1バリエーションに過ぎない。この句は、雪が降るのだ。「金の歯車」が降雪をも司っているような気がしてくる。歯車が静かに廻り(あるいは振動し)、そのことによって身体が存在し、身体を大きく包み込む空からは雪が降る。歯車が振らせる雪のような雪が降るのだ。

掲句は『孤舟』(2005年/文學の森)所収。


暑い真夏に雪の句を取り上げるというのも、よろしいのではないかと思いますです、はい。

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