鳥渡るこんなところに洋服屋 髙柳克弘
俳句には数々のパターン(フレーズ)がある。「季語+こんなところに×××××」もそのひとつ。最初に見たのは「こんなところに道の駅」という句。次に見たのが「こんなところに崎陽軒」。戯れに「こんなところに笠井亞子」と詠んでみたりもした(瀬戸わんやでも、越智道雄でも、なんでもかまわない)。×××××には無数の事物が入る。そんななか、この「洋服屋」、じつに、その、なんというか、悪くない。
荻原裕幸氏はこの句を取り上げ、次のように書く。
この洋服屋から物語的な何かのはじまる予感を消すことはできない。饒舌になれば消えてしまうであろうその予感を、五七五という寡黙さが支えているようだ。なるほどです。饒舌と寡黙のあんばいが「こんなところに」句の興趣の度合いを大きく作用する。だが、五七五そのものに寡黙さが備わっているわけではないと、俳句をかじっているからだろうか、思ってしまう。この句にちょうどよろしき寡黙があるとすれば、「洋服屋」というチョイスがもたらす声の調子、気分のトーンだろう。
http://ogihara.cocolog-nifty.com/biscuit/2009/08/2009822-58d2.html
「崎陽軒」は季語によらず饒舌だもの。これもおもしろいけどね。
掲句は『未踏』(2009)所収。
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