2020/09/25

■漂流する句集

贈呈本の行き先という問題。


心情的にモヤモヤするところがあるのはよく理解できます。

でも、自分の句集で考えると、もとが贈呈にせよ購入にせよ、死蔵よりはどこかに売られるなり人の手に渡るなりしてほしいというクチ。死蔵はそのまま朽ちていく。中古市場にせよなんにせよふたたび世の中に出れば、人目に触れ新しい読者に出会う可能性が(かすかだけど)ある。

海底に沈んでいるより漂流のほうがいい。

本は、流れていくもの、という考え方。


『けむり』はともかく『チャーリーさん』はamazonとかで見たことがない。どこかで見つけたら、高値でも買うかも。買い戻しの里帰り。

2020/09/20

■週刊俳句・700号を迎えて

≫週刊俳句・第700号
http://weekly-haiku.blogspot.com/2020/09/7002020920.html

第600号と何が違うかというと、1000号が見えたこと。

感覚レヴェルですけどね。

週俳創刊の頃、「1000号」という数字を口に出していました。号数が三桁の俳誌はたくさんありますが、四桁はめずらしいのではないか。そんな程度の発想です。

1000号は、月刊なら84年かかる計算です。調べてみると、『ホトトギス』はこの9月号で第1485号。すごい。

ともかく、この「1000」という数字、この第700号まで来ると、ちょっと見えてくる感じがするから、自分で不思議です。第699号までとは実感がまるで違う。

第1000号は何年先の何月か。その計算は、しないでおくことにします。とてつもなく先のことかもしれないので。


第700号がアップされるまさにそのとき、土曜日の24時。私は寝てしまっていて(早起きが身に付いて、ときどき24時を待たずに眠りに落ちてしまいます)、700号記念の記事も書けず仕舞い。せっかくなので、ここに創刊以前のことをひとつ。

創刊は2007年4月ですが、アイデアが生まれたのはその半年以上前です。数人に声をかけ、mixi(時代ですねぇ。なつかしい)にコミュニティをつくり、まず誌名について語り合いました。候補はほとんど忘れましたが、「俳句エッグ」というのは憶えています。それにならなくてよかった。

創刊は2006年秋を考えていましたが、私の個人的事情で半年延期。私一人でとりあえず始めるというローギア発進。ほどなく複数当番になりましたが、そのへんは予定どおり、というか目論見どおりでした。

創刊当初、俳句作品の掲載がなかったのは、創刊の背景の一つに「俳句が読まれない」「みんな作るばかりでぜんぜん読まねえなあ」というのがあったから。週俳は「もうちょっと俳句を読みましょう」運動でもあったわけです。

そのうち川柳と俳句の競詠が登場。それをきっかけに俳句を載せるのも、まあいいか、という空気に。

そのへん、ヒトケタからフタケタのバックナンバーをあけると、なかなかおもしろいかもしれません。


当時は「インターネット俳句」なる語もあって、ウェブ上の俳句関連サイトは、なんだか新しいもの、なんだかリアルに対抗するものとみる向きもありましたが、新しい気もないし、なにかに対抗する気もない。

媒体ではなく、「場」、というのが、めざすところ。

求心力は不要というより邪魔。遠心力は欲しい。

このあたりはくりかえしいろいろなところでしゃべたり書いたりしました。


そろそろ大きな変化、大きなテコ入れが必要かもしれない、と考えてはいるものの、なかなか腰は上がりません。まあ、これまでどおり、流れに任せて、力を入れず、いい意味でテキトーに、続いていくといいなあ、と、思ってますよ。

ラヴ&ピース!


2020/09/18

【句集をつくる】第26回 このさいもう句集じゃなくて

人名歌集というのは、どうだろう。

ストック

短歌の人に叱られそうだから、「歌集」ではなく「歌のアルバム」と銘打つ。

それに考えてみれば、人名句集『チャーリーさん』のときも、俳句の人に叱られそうなのに出しちゃったわけだから。


2020/09/16

【句集をつくる】第25回 歌仙からのサルヴェージ

過去作から拾い上げるのに、連句(歌仙)もあるな、と。最近はやっていないけれど、ずいぶん古くから遊んでいる。百巻までは行ってないけど、数十巻はやった。どこかに残っているはずの記録を探し出すのは骨が折れるが、例えば、

ぜんぶある耕耘機から入れ歯まで  10key

これは歌仙「厨」から。

こういうマヌケな句をどんどん見つけたい。

ところが、最近、こんな記事を読んでしまう。

高松霞:連句の著作権について

そこには「単一の著作物について、各人の寄与を分離して個別に利用できない」「転載する場合やどこかの大会に応募する場合などは、著者全員に許可を得ておいた方が良いと思います」とあり、ううむ。

参加者(連衆)の許可なんて、きっと無理。

そのへんは無法者を通すというムチャもやぶさかではないし、歌仙からのサルベージなんて、拾える句は多くないだろうし、拾う先も見つからないことのほうが多いから、それはいいとして、それよりも、今後、歌仙への参加は二の足を踏んでしまいそう。

自分のつくった句は(俳句でも付句でも)、そののちのリイシュー(再編集)という作業が愉しい、というクチなので、歌仙から自分の付句を切り離すのにハードルがあるのは、現実にどうとかいう以前に、心理的負担(つまり、「なんだかめんどうだなあ」という)が先に来てしまう。

まあ、この問題は保留ってことで、ラヴ&ピース!


2020/09/15

■バナナつながり

橋本直句集符籙』のレビューでバナナを取り上げたあと、バナナのことが気になってしかたない。

 


でね、太田うさぎ句集『また明日』には、バナナの句がふたつあるんです(気づいた範囲で)。

商標の輝いてゐるバナナかな  太田うさぎ

Tシャツに曰くバナナの共和国  同

前者。バナナにぺたんと貼られたシールは、今でこそバナナも多様化しているようですが、かつては、というのはバナナが高価・高級ではなく手に入りやすい果物になっていった頃には、なんといってもチキータドール。どちらも米国起源の国際巨大資本。実態は知りませんが、イメージ的には帝国主義・植民地・プランテーションを連想させるブランド。さんざ美味しくいただいておいて、何という言い草!

後者。カジュアル服のブランド「バナナ・リパブリック」もまた米国起源。私自身はあまり縁がない(ポロシャツを1枚持っていたことがある)。

つまり、バナナって、私(たち)の消費生活・消費社会と密接な事物のようでありまして、橋本直さんが見たバナナ山積みのバイク《幾らでもバナナの積めるオートバイ 橋本直》(生産の現地)から、世界資本主義的にグローバルな地球規模まで、3句を並べると、なかなかに滋味深いスケール感なのですよ。

ラヴ&ピース!


2020/09/13

■〈非=五七五〉を愉しむ・その3


〈非=五七五〉の句には描写が少ない。抜き出していて、そう思いました。「豆の木」という集まりの傾向でもあるでしょうが、そればかりではない。五七五定型と描写(いわゆる写生)が強固に結びついている面があるので、五七五定型から外れてなお写生、というのは、手順的に操作的にむしろ不自然なのかもしれません。

意味了解性が比較的薄いこと、いわゆる「膝ポン」俳句、「あるある」俳句、標語俳句が少ない(ほとんど無い)こと。そんな傾向も見られます。従来的な俳句の集合、効果面でのマジョリティとは離れたところにあるようです。

では、引き続き『豆の木』第22号から。

みづむしの足フランスから郵便  高橋洋子

5-2/4-2-4。後半、PAR AVIONの赤青白が目に飛び込む。それは国際郵便の色であり、フランス国旗の色(トリコロール)でもある。洒落て清新な後半の前半がなぜに水虫? ああ、これこそが俳句の不思議です。 

姿かたちは法廷まなざしは雪  田島健一

7-4/5-2。散文的な妥当をいくつも壊しているので、「難解」「わからない」の誹りを受ける典型のような句。作者・田島健一は「難解」批判、「わからない」迫害の渦中に長くいる作家(大袈裟に表現してみた)。

この句、好きですよ(今回のシリーズであげている句はそれも好きです)。意味は辿るけれど、因習的に解釈しない。意味の因習から逃れていることがこの句の価値だと思うから。

まあ、それよりも、事物の感触と空間への布置を味わう。科学への態度。そのまますなおに、法廷の姿かたちしたものを脳内に繰り延べて、まざさしという形のないものに、雪の色と形状と温度を与えてみる。すると、私(読者)のなかで、きわめて新鮮な経験が沸き起こる。

約束って恐いよね ブーツ履かない  中内火星

6-5/3-4。対句ではなく対話のような作り。若い女性が想起されるのは、口吻とブーツのせいか。

痛みはじまり主よ加速する新緑  中嶋憲武

3-4/2/5-4。上掲3句の構造=前半と後半で2部構成と違い、「主よ」の2音が挟まる。切字以上に大きく切れるかのような形。意味的には前半と後半がわりあい順当に照応する。つまり、新緑のなか痛みが始まることに(そう散文的に示していないが)、なぜか実感。

それにしても新緑の加速は魅力的な言いぶりですね。


こんなところで、いったんおしまい。

〈非=五七五〉の俳句、愉しんでいただけましたでしょうか。

ラヴ&ピース!


2020/09/11

■〈非=五七五〉を愉しむ・その2


ところで、いっけん〈非=五七五〉のように見えて、〈五七五〉が強く意識されているケースがあります。同じ『豆の木』第22号では、

幣辛夷ほどけて心臓の高さ  近恵

落花生ください明け方が近い  近恵

一匹の芋虫にぎやかにすすむ  月野ぽぽな

といった句。どの句も、5453。中の7音が崩れているが、全体の音数は17音。これらは五七五定型と亜種とみなされる。

それぞれ、

しでこぶし/ほどけてしんぞ/うのたかさ

らっかせい/くださいあけが/たがちかい

いっぴきの/いもむしにぎや/かにすすむ

と読めば、五七五定型感が強まる。独特のビートが出やすく、じつは、この5・4・8(5+3)のかたち、わりあい見かけるかたち。

ところが、同じ17音でも、

通勤電車とけて牛蛙の眼  鈴木健司

となると、7361。548から離れ、五七五定型感が薄まる。〈非=五七五〉とすべきでしょう。

それはそうと、通勤電車の融解という禍々しいようなナンセンスのような景が、「牛蛙の眼」の質感に連続して、おもしろい。

で、本日はここまで。長くなるまえに終わって、小出しに回数を稼ごうと思います。

ラヴ&ピース!

(つづく)

2020/09/09

■〈非=五七五〉を愉しむ・その1

〈非=五七五〉。こなれない言い方ですね。耳慣れない呼称だと思います。

五七五定型からはずれた音数構成をもつ俳句のことを「破調」と呼んだりもするようですから、「破調」と言えばいいじゃないかという向きもありましょう。

しかしながら、この「破調」、見ていると、どうも定義・運用が定まっていないかんじです。対象の幅が語を使う人によって違う。

広義では、句跨りも破調に入れてしまうケースがあるようです。極端なケースでは、《愛されずして沖遠く泳ぐなり 藤田湘子》など、どう見ても五七五にしか思えない句も、人によっては破調になってしまう。

そんなわけで、〈非=五七五〉と言わせていただくわけですが、まずもって私の〈五七五定型〉の幅はかなり広い。

句跨りはもちろん、上の字余り(例:《人体冷えて東北白い花盛り 金子兜太》)も下の字余り(例:《朝起きてTシャツ着るやTシャツ脱ぎ 榮猿丸》も五七五定型のうち。上下いずれも字余りというケース(例:《入歯ビニールに包まれ俺の鞄の中 関悦史》)も同様。

中八も五七五のうち。例えば、《春ひとり槍投げて槍に歩み寄る 能村登四郎》。五八五は昭和には意外に多い。好悪は別にして、槍投げの句を非=定型とする人はいないでしょう。

字余りと中八が同時に起こっている句。《蛇口の構造に関する論考蛭泳ぐ 小澤實》も五七五定型とみなしてしまう。繰り返しますが、私の捉え方ですよ。

そのうえで、五七五定型とはいえない句を見つけ(もちろん、俳句ではあります)、楽しもうというわけです。

探す場所は『豆の木』第22号(2018年5月)。

ではさっそく行きますね。

逃げ水を追う喋り方講座  三宅桃子

5-2/5-3。最後に2音あれば、五七五定型ですが、ない。寸足らず感が素敵です。追って追いきれない感じ。「喋り方講座」の胡散臭さ・安物感・バッタモン感が、前半の詩的な行為と対照されて滋味深い。

かはほり廻り闇を守る団地  宮本佳世乃

4-3/3-3-3。短句(七七)の字余りともとれるような性急な韻律。333の畳み掛けって、俳句的ではないけれど、歌のような効果も。

「守る」の主体が「かはほり」とも「団地」ともとれるので、明瞭な景ではないが、ある種、民俗的な雰囲気も醸す。

あたらしい記憶きつと鶫だらう  山岸由佳

5-3/3-3-3。後半が前の句と同じ333ですが、促音と「らう」の伸びる感じを含むせいで、畳み掛ける感じはない。前半と53のセットと後半のセットの2段重ね。意味了解性は低いが、前半=後半という構造で、後半のいわば「回答」に裏切りを持たせた作り。

しかしコーヒーうまいねセーターに穴
  柏柳明子

3-4-4/5-2。前半はセリフの引用。後半は叙景。こうした場合、どちらが主眼なのか判然としないが、どちらが前景でどちらが後景なのか、というより、時間軸で線的に書かれているように思える。


〈非=五七五〉の句、おもしろい。韻律(グルーヴ)はたしかにあって、そのうえに意味の遊戯が乗っかっている。

『豆の木』第22号から、もうすこし拾ってみようと思います。

(つづく)

2020/09/08

■繰り返され蒸し返される〔12音+季語〕

すこしまえに〔12音+季語〕の話を何度かに分けてしましたが↓↓↓
http://sevendays-a-week.blogspot.com/2020/08/12_11.html

繰り返されるわけです。

6年前のツイッター↓↓↓
https://togetter.com/li/728226

繰り返されてきたから、すでに論じられたテーマだから、もうみんな飽き飽きしているから、やめておこう、という選択もあるのですが、何度でも話題にあげればいいという考えに、このところ変わってきました。

むかしの記事ややりとりをみなさんが読んでいるとは限らない。というか、一般に、素晴らしく読んでいない、驚くほど読まれていない。俳人は、句を作ることには一所懸命ですが、きほん、読まない。それを日に日に実感するので、何度書いても、「また書いてる」とはならないと踏んでいるわけです。

(本人も忘れてるし。むかし書いた記事なんてほとんど)

ラヴ&ピース!

2020/09/07

■オンリー・ユー・アンド・ミー

途中からのラップが素敵です。



タイトルの「オンリー・ユー・アンド・ミー」も素敵です。

〈あなた〉は特定の人ではなくて、目の前にいる人。それをたいせつに暮らしたい。ちょっとスウィートなことを言っちゃいました。

ラヴ&ピース!

2020/09/06

■「さん」付けの蔓延

慣習は変化していくもの。ことばの慣習も変化する。

著名人への言及(その人に呼びかけるのではないという意味)は呼び捨て、というのが長らくの習わしだった。「さん」の有無で、ある種のコンテクスト、すなわち書き手と対象人物との関係やら場面を推し量ることもできたわけで、例えば、「川端康成がそのとき言ったのは」と「川端康成さんがそのとき言ったのは」は、ちょっと違う。他に情報がなくても、後者は書き手が直接耳で聞いたことが、ふんわり伝わる。

書いたものだけでなく、話すときも、「吉永小百合さんが」なんて聞いたりすると、知り合いですか? となった。

ところが、このところ、しだいに「さん」付けが増えていき、なんだか「マナー」のようになってきた感。呼び捨てはマナー違反とでも言うように。

(不思議なことに外国人にはほぼ付かない。ピカソさんとか毛沢東さんとかは見たことがない。ただし、新聞ほか媒体には、スポーツ選手などは引退したら「さん」付けというルールがある)

さて、「さん」に溢れる世界がSNS。SNSはきほん話しことばだから、言及としての呼び捨てには抵抗があるのかもしれないが、それにしても物故にまで「さん」が付いていたりする。

なお、俳句世間も「さん」付けだらけです。

ただし、有名俳人と知り合いという可能性は大いに残るので、物故はともかく、その人にとっては「さん」付けの根拠があるのかもしれない。

ここにも不思議なことがあって、「子規さん」はやたら見るが(もっとくだけて「のぼさん」もある)、「虚子さん」は見たことがない。キャラクター、人物から受ける印象の違いなのか。

で、ひとつ、どうにもこうにも背中がむずむず痒くなる「さん」付けが、これ。

 芭蕉さん


というわけで、ラヴ&ピース!

2020/09/05

■西瓜

あとで食べるんだろうなと思っていたら、食べた。

2020/09/01

■9月1日は……

97年前のきょう、9月1日。関東大震災だったんですよね。

むかしこの震災関連で調べた、というか、いろいろ本を読んだりしたことがあって、なかなかおもしろいのですよ。

どこかに一度書いたと思うけど、明治以降の日本を見たときに、太平洋戦争よりも関東大震災が「区切り」になっていることも多いってのが、まずいちばんの驚きでしたよ。憶えてることを断片的にしゃべると、映画の輸入元が欧州から米国にシフトするとかね(これは資料を見てて思った)。

人の移動も興味深い。東京がたくさん燃えちゃったから、材木がいる。材木と一緒に大工さんも大量に東京にやってきたとかね。ニューカマーが膨れ上がった時期です。

ちょっと変則だと、横浜も被害甚大だった。横浜で商売をしていたユーハイム夫人が、震災を機に神戸に移ったとかね(これは震災関連目的でなく読んだ私家版社史で知った)。震災がなれけば、私のバウムクーヘン初体験もまったくちがったものになっていたわけです。ついでにいえば、この菓子舗、もともと第一次世界大戦でのドイツ敗戦で、青島から横浜に渡ってきたのが起こりってのも、おもいしろいですよね、事のなりゆき的に。

あと、震災の3日後には即席の舞台が仮設されて、軽演劇をやってたとかね。人はパンだけじゃ生きていけない。笑いもたいせつなんですね。

さらには、その時期に読んだんじゃなく後日読んで結びついたのは、当時の復興担当内務大臣、後藤新平の都市計画とかね。

まあ、こんなふうに、関東大震災って、興味はつきないんですよ。

もちろん、もっとどす黒いこと、ネガティヴなこと、人間のいやな面を見せられるようなこともたくさん起きたようです。それも含めて、この巨大カタストロフにかつわる事象は、何度でもいくらでも振り返ってみるといいと思います。

ラヴ&ピース!