2012/12/27

今年一年、週俳で仕事したっけなあ、と

週刊俳句は今年中に297号を数え、来年1月には第300号を迎えます。1号も落ちずに続いてきたことはエラいことです。

今年を振り返ると、当番の一人として、いろいろな人に記事を書いてもらえたという意味で、まずまず仕事をした感じですが、自分自身はあまり書いていないです。

句集評などをポツポツ書いたほかは、ウラハイの「コモエスタ三鬼」もずいぶん長いこと書いていないし、「真説温泉あんま芸者」シリーズは《第9回 俳句のなかの「私」》のみ(《第10回 引用のマナー 法や規則の以前に》 は昔の記事の転載)。

来年は、もう少し書きたい所存であります。

「自然」

「ルサンチマン」

「コンテクスト」

このへんを「真説温泉あんま芸者」シリーズの記事企画として、いま並べておけば、気力が出るかもしれませんので、挙げておきます。

「自然」は、橋本直さんの週俳での連載(転載)、《俳句自然 子規への遡行》が参考になる。

「ルサンチマン」は、どうもみなさん、ちょっと違う意味でお使いになっているようですね、という話。

「コンテクスト」はすでにしばしば言及しているけれど、これって大事よ、という話。

…になるかなあ、と。


まあ、のんびり行きましょう。

週刊俳句は来年も、それ以降も続くでしょうから。

2012/12/26

美しい日本語 vs 美しくない外国語

『俳句界』2013年1月号をめくっていたら、こんなものが。
日根野 英語、ドイツ語など西洋の言語と比べて、日本語は美しいと言いますか心地よいですね。

八木 それは音楽アクセントだからです。西欧の言語の大部分は強弱アクセント、日本語やフランス語は音楽アクセントです。ドイツ人と話していると叱られているみたいです。
これ、「美しい日本語」という特集のなかの「美しき日本語 音声表現考察対談 八木健(俳人・元NHKアナウンサー)×日根野聖子(俳人)」の冒頭。

「美しさ」について語る言説が「醜悪」となる例はめずらしくないけれど、のっけからこれだから堪らないです。

何語が美しいとか、何語が美しくないとか、あるいは「西欧の言語の大部分」と言っておきながら「フランス語は」というシッチャカメッチャカに始まり、「このお二人、何をアホウなことをおっしゃっているのでしょうか?」つうような対話が以降も続きます。たった3ページで終わっているのは、対談させてみたものの、さっぱり使えなかったという編集上の事情と拝察いたしました。

「美しい日本語」とか「美しい日本」とかという切り口からは、ロクなものが出てこないということですね。


「ことば」は美しいかもしれないです。美しい瞬間があるかもしれません。その「美しさ」とは何だろう? その「瞬間」はどのように訪れるのだろう? と、ドイツ人と会話したことも叱られたこともない私、「西欧の言語」を知らない私、それどころか日本語もあまり知らない私は、貧弱なアタマを絞って、ことばの美しさについて、誠実に考えていこうと思いましたですよ。

2012/12/25

某日日記 至福その他

十二月某日

週刊俳句・第296号に「近恵 ひとり落選〔×4〕展」、今年1年、落選した4作品、計120句を一挙掲載。

そのうち自分も参加したことがあって親しみのある「豆の木賞」落選作品「まばたき」20句をまず読む(豆の木賞は互選。1人6点持ちで3作品以下に点を割り振る)。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/12/4_5879.html

えっ? これ、いいじゃないですか。豆の木賞を受賞しなかったんですね。

出だしの4句がいいし、全体に、いい。ポニーテールの句と人形の句と稔り田の句以外はぜんぶ、悪くない(褒め言葉です。ちょっと上から目線になっちゃってますが、そこは気にせず)。《膨らんだ桔梗朝を待っている》は「きちこう」と読ませるから、こうなるんでしょうけれど、「ききょう」なら、いろいろと改稿が進みそうです。あとは「膨らんだ」の「だ」はどうなの?とか、いろいろ。

落選の理由を考えると、ご本人が自覚されているだろうと思いますが、コレっていう一句がない感じでしょうか。それにしても、私にはじゅうぶんに愉しい20句でした。

  虫の夜の電柱ことごとく斜め   近恵

来年の「ひとり落選展」は、ぜひ120句超えを、と。


十二月某日

山田露結句集『ホームスウィートホーム』の附録「裏悪水14句」で解説を書かせていただいた、その肩書が「ウラハイ=裏「週刊俳句」運営管理人」とあるのを見て、「とうとう週刊俳句をクビになったのか?」との問い合わせが…。「とうとう」は余計ですよ、と答える。


十二月某日

くにたち句会。いつも利用させてもらっているキャットフィッシュが「はがきゑ展」ということで、急遽、句会場所をロージナ茶房に変更。

句会後は、角上魚類で買ってきたお刺身やら博多華味鳥からいわゆる「お取り寄せ」(ぷっw)の水炊きやら、果ては白いご飯に柚子ちりめんをかけたのやら、いろいろ悪魔のように食す、ワインやら日本酒を飲す。

句会後は例によっていろいろな話題に。「××の犬か!」という言い回しが流行の兆し。来年は「俳壇の犬」「結社の犬」「××誌の犬」という呼称を、当該の俳人に積極的に用いたい所存。


十二月某日

中野のルノアールで年に4回の句会に。河童や尻子玉といった句がどっと出てくる、ちょっと変わった句会。

十二月某日

スチューベンという青森産の素晴らしく甘い葡萄をいただく。至福。



2012/12/24

八田木枯少年期句集

『八田木枯少年期句集』が発刊されました。14歳から24歳までの句作、約1200句を収録。

ご興味のある方に差し上げます。tenki.saibara@gmail.comまでご連絡ください。

なお、手許に残部がなくなるまでご希望を受け付けています。



2012年12月25日 10:22 の コメント欄から
 
残部ゼロとなりました。

編集委員には、寺澤一雄、森宮保子、村井康司の三氏の名があります。御希望の方はそちらに問い合わせてみてください。



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2012/12/19

七七が付いてしまう俳句

自分の俳句に七七を付けられるのを嫌がる、あるいは怒る人もいるので、そんなに気軽に七七を付けちゃあいけないのですが、でも付けちゃう、という話題です。こういうのは最初に断っておくのがいい。




なるほど、万能でもない、と。

いま話題の『俳諧曾我』がらみで、こういうのはどうでしょうか。

  麿、変? 死して屍拾うものなし

前半は高山れおな『荒東雜詩』より。

 ●

七七が付いてしまう句はダメな句、というのも昔からよく言われるようです。以前にも話題にしましたが、ダメ句判定機として使用される七七は、「昼のおかずにコロッケを買う」とか「それにつけても金の欲しさよ」。

でも、これって、どうなんでしょう。七七を付けてうまくハマるようならダメ、そうじゃなければダメじゃない句、というのは、ある種、俳句への幻想のような気がします。つまり、どんな句にも、付けようと思えば付いてしまう。

試しに……と考えているうちに、「昼のおかずにコロッケを買う」が素晴らしい感じで付いてしまう句群を見つけました。

鴇田智哉さんが「あるきだす言葉たち」という新聞の俳句コーナーに発表した作品「丘にゐた」を眺めていると、どの句も、コロッケと相性がいいような気がしてきたのです。

 ひとかげと九月の丘で入れかはる昼のおかずにコロッケを買ふ

 灯台になりたい秋は目をつむり昼のおかずにコロッケを買ふ
 
 丘にゐたときとは違ふいわし雲昼のおかずにコロッケを買ふ

元の俳句とはまた違う興趣が湧くような気がしてなりません。

七七が付く句はダメというのは間違いで、実は、七七が付かない句はダメ、ということではないのか。

ちがうか。

鴇田智哉さんが、七七を付けられると怒る人でないことを祈ります。

2012/12/17

【再】くにたち句会〔12月〕のお知らせ

前にちょっとお伝えしましたが、くにたち句会のお知らせを、あらためて。

2012年12月23日(日)14:00 JR国立駅南口集合
句会場所:キャットフィッシュ(予定)

10題程度の席題。

よろしければ句会後の飲食もご一緒に(会費アリ)

はじめての方もひさしぶりの方も御常連さまも、よろしくどうぞ。

2012/12/12

わが家

「増殖する俳句歳時記」のウェブマガジン「ZouX」の第308号(2012年12月8日号)に
「西一丁目」8句を掲載していただいております。










2012/12/08

「つづきもの」の愉しみ

(歌集の話題は小早川忠義『シンデレラボーイなんかじゃない』以来です)

田中槐『サンボリ酢ム』(2009年・砂子屋書房)という歌集は、落掌する前から書名が気になっていました。

酢?

この部分もそうなのですが、象徴主義というもの、自分が俳句を齧るようになってから、気になるテーマではあったので。

その気になるというのは、枇杷や柿の実ではなく、種のようなものとして、なわけですが、はじめに言っておくと、この枇杷の種としての「サンボリスム」への関心が、この歌集によって、なにか解決とか進展を見たのではありません。

で、この本を読んで、ひとことでいえば、とてもおもしろかった。

歌が集まって歌集、というのとはちょっと違います。歌が集まった「連作」が集まった本。だから「歌集」というより「連作集」です。

帯文に、
連作ごとに「私」が再起動する、短篇集のような歌集だ。(斉藤斎藤)
とあります。「再起動」というのが大事なところのようで、そういえば、連作ごとにちょっと感触の異なる語り手が現れる感じです。

実際、連作ひとつひとつが掌編小説から中編小説のようで、自分が今まで読んだ句集や(あまり読書体験のない)歌集と比べて、読んだときのボリューム感がある。だから、最初にひと通り読んでから、ときどき引っ張りだしてきて、拾い読みしています。

こういう場合、どんなふうにおもしろいのかを伝えるのに、歌を引くべきなのでしょうが、連作としてのおもしろさなだけに、歌をいくつか引いて済むというものでもない(この本の書評って、どんな引用のしかたをしているのでしょうね)。

まあ、一首も引かないのもヘンなので、例えば、連作「尼寺へゆく」は、ちょっとした思い出話の前振りと引用から、
かつてかのハムレット氏ののたまふに「尼寺へゆけ」尼寺はいづこ
と歌われ、横浜駅を経て横浜港へ。そこに「恋のようなもの」もちらちら見える。

かと思うと、陸上部入部から箱根マラソンまでの物語であるとか、「さうだ」と思い立って京都へ出かけたりだとか、少年犯罪をたどったりだとか、飯島愛のブログの引用をさしはさみつつ、その死が描かれるだとか。

楽しみは尽きないのですよ。




 

こういうことが俳句でもできないものだろうかと、まあ、これは軽い夢想として言っているのですが、自分の場合、この歌集、「俳句の隣にある短歌」を読む、というより、小説を読んでおもしろがる自分が『サンボリ酢ム』を読んでいる感じなので、俳句と結びつけるのは、どだい無理な話かもしれません。

(連作集ということでは、関悦史『60億本の回転する曲がった棒』に思いが到ります。あるいは最近出た高山れおな『俳諧曾我』)

以前、『にんじん 結婚生活の四季』というのをウラハイに掲載してもらったが、これも連作といえば連作。9句で1年だから駆け足なんてものではない、映画でいえば予告編みたいな感じか。こうではなくて、それ自体が短編映画のような連作がおもしろいのではないか、と。

例えば10句作品(週刊俳句に多い)も、連作っぽいものはある(例えば、野口る理「実家より」10句 週刊俳句・第121号 2009-8-16)。それらと決定的に違うものをイメージしているのではなくて、〔つづきもの〕という見せ方を強く意識したようなものができないかなあ、と、漠然と思っているわけです。

それは一人でやる連句みたいなものかもしれないし、もっとコンセプチュアルなものかもしれない。まあ、ゆっくりのんびり考えておくことにします。

12月8日は

12月8日は、日米開戦日であり、力道山が赤坂のナイトクラブで喧嘩になりナイフで刺された日であり(死亡は15日)、ジョン・レノンの命日。

開戦日とその翌日の徳川夢声の日記

開戦日の古川ロッパの日記

2012/12/07

よしっ!

誌上やら句集でなくてもウェブ上でも俳句(新作)は読めます。週刊俳句には毎週掲載されているし、ほかのサイトでも。例えば、スピカでは、運営3人が毎月、月初に新作を発表するのが常になっています。ウラハイの【ネット拾読】というコーナーでやってもいいのだけれど、まあ、自分のブログのほうが、気楽でいいので。


手袋の手にあはざるをよしとして  江渡華子 「よし」より。

手にフィットしてもフィとしなくても、どっちでも良し。簡単にいえば、プラス思考? 前向き? のんき? こういう考え方は、文句なしに良いです。 


死は神に捧ぐものなり志も私も詩も  野口る理 「希臘行」より。 

ほんまかいな。

と。

作者ではなく、ギリシャのことかもしれないが、それならそれで、そんなこと言うとる場合か、と、EU成員ではないし世界経済にさしあたり無縁な私も思ってしまう。

こういう句は《実は神に捧ぐものなり身もミーも》などとパロディをつくりたくなりますが、それはさておき、「詩」という語を、このところ、よく俳句で目にします。社会学的に考察してみたいところです。


恋幾度セーター脱げば静電気  神野紗希 「N」より。

《花びらの一つを恋ふる静電気 石田郷子》という句がかすかに響いてきます。この句は恋の句ではないのでしょうが、「恋」の一文字で、恋の雰囲気が漂う。

掲句は、性愛にまで踏み込んだ点、セーターと静電気を詠んだ凡百の句とは一線を画しています。

「幾度」の2字3音は、疑問/感嘆のフレージングとして効果大。「恋幾度」の直後にある「切れ」に注目です。



ウェブ上に発表された句も、これからはときどき取り上げたいと思います。

選挙とインターネット

こういうのはアリなんですね。




選挙におけるインターネットの利用と制限、恥ずかしながら、よくわかっておりません。

2012/12/06

ことの次第

〔ここは、それではない〕と〔ここが、そうなのかもしれない〕の中間のような心情が〔ここ〕から〔どこか〕へとたゆたうように移動していくのがロードムービーというふうにも言えて、けれども、『ことの次第』(ヴィム・ヴェンダース監督/1982年)のまったく動かない前半部分も、〔ここは、それではない〕と〔ここが、そうなのかもしれない〕の中間という意味ではロードムービーなのかもしれない、などと。

オン・ザ・ロードの途中の長い長いポーズ(一旦停止)。

映画制作費がショートして、ロケ地であるポルトガルの海岸で足止めを食うスタッフと俳優が、たまたま〔一旦停止〕の時と場所を共有したかのようであるのは、帰るところがあるような人がひとりも見当たらないせいか。


ま、それはともかく、初期のヴェンダース映画の何本かが、たまらなく好きであることが、いまさらのようにわかった。





2012/12/05

くにたち句会12月

毎月、最終日曜がくにたち句会なんですが、となると今月は30日(日)。だが、さすがに押し詰まり過ぎているので、一週間ずらして、12月23日(日)にします。

また近づいたら、詳細をお知らせします。

クリスマスどまんなか?

2012/12/04

AC/DC

AC/DCというバンドは、半ズボンのギタリストというくらいしか知らず、ほとんど聴いたことがなかったのですが、このバグパイプとの共演はなかなかです。



で、そのAC/DCのコピーバンド(トリビュートバンド)。


2012/12/02

壁画、法要、団体戦句会

壁紙の張り替えが決まったら、子どもに絵を描かせるのがいいです。

家に帰ってきたら、こんな(↓)ステキな絵が出来上がっていましたよ。
http://instagram.com/p/SrzvYKNOva/

たまたまやってきた近所のボウズによる壁画。来週にはなくなってしまうのが惜しいけどね。

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「月天」の12月の句会は毎年、無臍忌法要(山本勝之の法要)と団体戦。

勝ちゃんが亡くなって、もう4年。数日前、用あってオクンチ(メール句会)の句会録を見ていたら、亡くなる一週間前に投句していた。

  生前の霜夜に廻る洗濯機  勝之

病床にあったわけでもなく、まあまあピンピンしていたわけなので、この符合は不思議、というか、ちょっと切ない。けれども、毎年、友人が集まり、法要のあと仏前でわいわいと句会に興じるなんて、なかなかないぞ。幸せ者だ。わかってんのかな、勝之は。

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俳句の団体戦は詳しく説明するのはめんどうなので簡単に言うと、4チームに分かれて総当たり戦。対戦チーム以外の2チームの全員が判定する。今年は1チーム6~7名。6句から7句の勝負で、12~13名が判定。

私が所属するチームは逆転優勝。わーい!

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12月が始まった。