田中槐『サンボリ酢ム』(2009年・砂子屋書房)という歌集は、落掌する前から書名が気になっていました。
酢?
この部分もそうなのですが、象徴主義というもの、自分が俳句を齧るようになってから、気になるテーマではあったので。
その気になるというのは、枇杷や柿の実ではなく、種のようなものとして、なわけですが、はじめに言っておくと、この枇杷の種としての「サンボリスム」への関心が、この歌集によって、なにか解決とか進展を見たのではありません。
で、この本を読んで、ひとことでいえば、とてもおもしろかった。
歌が集まって歌集、というのとはちょっと違います。歌が集まった「連作」が集まった本。だから「歌集」というより「連作集」です。
帯文に、
連作ごとに「私」が再起動する、短篇集のような歌集だ。(斉藤斎藤)とあります。「再起動」というのが大事なところのようで、そういえば、連作ごとにちょっと感触の異なる語り手が現れる感じです。
実際、連作ひとつひとつが掌編小説から中編小説のようで、自分が今まで読んだ句集や(あまり読書体験のない)歌集と比べて、読んだときのボリューム感がある。だから、最初にひと通り読んでから、ときどき引っ張りだしてきて、拾い読みしています。
こういう場合、どんなふうにおもしろいのかを伝えるのに、歌を引くべきなのでしょうが、連作としてのおもしろさなだけに、歌をいくつか引いて済むというものでもない(この本の書評って、どんな引用のしかたをしているのでしょうね)。
まあ、一首も引かないのもヘンなので、例えば、連作「尼寺へゆく」は、ちょっとした思い出話の前振りと引用から、
かつてかのハムレット氏ののたまふに「尼寺へゆけ」尼寺はいづこと歌われ、横浜駅を経て横浜港へ。そこに「恋のようなもの」もちらちら見える。
かと思うと、陸上部入部から箱根マラソンまでの物語であるとか、「さうだ」と思い立って京都へ出かけたりだとか、少年犯罪をたどったりだとか、飯島愛のブログの引用をさしはさみつつ、その死が描かれるだとか。
楽しみは尽きないのですよ。
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こういうことが俳句でもできないものだろうかと、まあ、これは軽い夢想として言っているのですが、自分の場合、この歌集、「俳句の隣にある短歌」を読む、というより、小説を読んでおもしろがる自分が『サンボリ酢ム』を読んでいる感じなので、俳句と結びつけるのは、どだい無理な話かもしれません。
(連作集ということでは、関悦史『60億本の回転する曲がった棒』に思いが到ります。あるいは最近出た高山れおな『俳諧曾我』)
以前、『にんじん 結婚生活の四季』というのをウラハイに掲載してもらったが、これも連作といえば連作。9句で1年だから駆け足なんてものではない、映画でいえば予告編みたいな感じか。こうではなくて、それ自体が短編映画のような連作がおもしろいのではないか、と。
例えば10句作品(週刊俳句に多い)も、連作っぽいものはある(例えば、野口る理「実家より」10句 週刊俳句・第121号 2009-8-16)。それらと決定的に違うものをイメージしているのではなくて、〔つづきもの〕という見せ方を強く意識したようなものができないかなあ、と、漠然と思っているわけです。
それは一人でやる連句みたいなものかもしれないし、もっとコンセプチュアルなものかもしれない。まあ、ゆっくりのんびり考えておくことにします。
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