ディスコタイム。雪我狂流さんのダンス用コンピ第2弾は、アフリカ、アラブ、インド、レゲエ+ラテン含み。途中、私の一存でスーダラ節(植木等)を挟み込む。
2018/04/30
■くにたち句会、無事終了
句会後は、手巻き寿司その他。
ディスコタイム。雪我狂流さんのダンス用コンピ第2弾は、アフリカ、アラブ、インド、レゲエ+ラテン含み。途中、私の一存でスーダラ節(植木等)を挟み込む。
ディスコタイム。雪我狂流さんのダンス用コンピ第2弾は、アフリカ、アラブ、インド、レゲエ+ラテン含み。途中、私の一存でスーダラ節(植木等)を挟み込む。
2018/04/26
■冒頭集:無名戦士の墓碑
無名戦士の墓と碑、これほど近代文化としてのナショナリズムを見事に表象するものはない。これらの記念碑は、故意にからっぽであるか、あるいはそこにだれがねむっているのかだれにもわからない。そしてまさにその故に、これらの碑には、公共的、儀礼的敬意が払われる。これはかつてまったく例のないことであった。それがどれほど近代的なことかは、どこかのでしゃばりが無名戦士の名前を「発見」したとか、記念碑に本物の骨をいれようと言いはったとして、一般の人々がどんな反応をするか、ちょっと想像してみればわかるだろう。奇妙な、近代的冒瀆! しかし、これらの墓には、だれと特定しうる市街や不死の魂こそないとはいえ、やはり鬼気せまる、国民的想像力が満ちている。これこそ、かくも多くの国民が、その不在の住人の国民的帰属(ナショナリティ)を明示する必要をまったく感じることのない理由である。
(傍点を下線に換えた;引用者)
ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体 ナショナリズムの起源と流行』 Benedict Anderson: Imagined Communities, 1983(白石隆・白石さや訳/リブロポート/1987年)
(傍点を下線に換えた;引用者)
ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体 ナショナリズムの起源と流行』 Benedict Anderson: Imagined Communities, 1983(白石隆・白石さや訳/リブロポート/1987年)
2018/04/25
2018/04/24
2018/04/23
2018/04/22
■るさんちまんとしようにんよくきう(なぜか歴史的仮名遣い)
ちょこっと煽情的な内容が入ると、いつものの数倍のページビューに膨らむんですね。
≫http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2018/04/blog-post_19.html
好きな句のことや好きなものについて書いていたいし、そっちを読んでほしいけど、うまくいかないものですね。みなさん下世話というか、あ、失言、もとい、私の不徳のいたすところであります。
さて、俳句世間でルサンチマンに囚われてると聞いた読者の反応は、
1 どういうことか、記事を読んでもわからない
2 特定の人物をアタマに思い描く:読んだ人によって違う
3 これって、私だ
人それぞれ。
あの記事は一般論で、俳句世間に言及した後半部分も、特定の人について書いたわけではありません(数例、目にしたことを念頭に置いてはいるけれど)。
ひとつの記事が、読む人によっていろいろ、というか、ぜんぜん違ったふうに読まれることはまえまえから充分に知っていますから、どうでもいいんですけどね。
●
この記事には直接の反応もあって、「承認欲求」という語を使う人もいました。まあ、シンプルに捉えれば、承認欲求が満たされない状態が続くと、ルサンチマンに囚われたりもするのでしょう。
「承認欲求」という語の使用には抵抗があります(なんだか甘えに聞こえる)。俳句と関わっていくのに、そんなもの、要るのか、とも思う。
でも、考えてみれば、「承認」なしでやっていける人間はいないわけで、現実では、適量、欲求して、そこそこ満たされれば、幸福に暮らしていけのかもしれない。このへんは、あまり興味がないので、いいかげんなことを言っています。
ところで、この「承認して!」という心の叫びは、ルサンチマンへと向かうこともあれば、旺盛な「俳壇」活動に向かうこともある模様。2つの道は似ているようにも見えるし、ずいぶんと違うようにも見える。違うとすれば、どこでなにをきっかけに分岐するのか。ちょっと興味はあるけど、ま、これもどうでもいいこと。
前にも書いたけど、この年齢になると、承認欲求どころじゃない。承認されようがされよまいが、生きてくしかないわけです。そして、どうせ生きてくなら愉しいほうがいい。人生、そんなに長くない。
ラヴ&ピース!
≫http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2018/04/blog-post_19.html
好きな句のことや好きなものについて書いていたいし、そっちを読んでほしいけど、うまくいかないものですね。みなさん下世話というか、あ、失言、もとい、私の不徳のいたすところであります。
さて、俳句世間でルサンチマンに囚われてると聞いた読者の反応は、
1 どういうことか、記事を読んでもわからない
2 特定の人物をアタマに思い描く:読んだ人によって違う
3 これって、私だ
人それぞれ。
あの記事は一般論で、俳句世間に言及した後半部分も、特定の人について書いたわけではありません(数例、目にしたことを念頭に置いてはいるけれど)。
ひとつの記事が、読む人によっていろいろ、というか、ぜんぜん違ったふうに読まれることはまえまえから充分に知っていますから、どうでもいいんですけどね。
●
この記事には直接の反応もあって、「承認欲求」という語を使う人もいました。まあ、シンプルに捉えれば、承認欲求が満たされない状態が続くと、ルサンチマンに囚われたりもするのでしょう。
「承認欲求」という語の使用には抵抗があります(なんだか甘えに聞こえる)。俳句と関わっていくのに、そんなもの、要るのか、とも思う。
でも、考えてみれば、「承認」なしでやっていける人間はいないわけで、現実では、適量、欲求して、そこそこ満たされれば、幸福に暮らしていけのかもしれない。このへんは、あまり興味がないので、いいかげんなことを言っています。
ところで、この「承認して!」という心の叫びは、ルサンチマンへと向かうこともあれば、旺盛な「俳壇」活動に向かうこともある模様。2つの道は似ているようにも見えるし、ずいぶんと違うようにも見える。違うとすれば、どこでなにをきっかけに分岐するのか。ちょっと興味はあるけど、ま、これもどうでもいいこと。
前にも書いたけど、この年齢になると、承認欲求どころじゃない。承認されようがされよまいが、生きてくしかないわけです。そして、どうせ生きてくなら愉しいほうがいい。人生、そんなに長くない。
ラヴ&ピース!
2018/04/20
■火と人間 『鏡』第27号より
ストーヴをまづ寄せてから長電話 三島ゆかり
固定電話の世界。
ところで、現在は、この頃よりも、長電話の条件がだんぜん整っている。
1 子機もそうだけど、携帯電話・スマホはストーヴを寄せる必要もない。蒲団の中だって可能。
2 無料のインターネット電話。昔は、電話代にどきどきしながら長距離電話・国際電話をしていたんだけどね。
なんの話だっけ?
あ、そうそう。ストーヴと長電話の話。
火のそばの会話は、電話よりももっと古く、暖炉や炉端、さらには焚火の時代からなんだろうな、と。火とコミュニケーション(人間関係)のセットは、きっと人類最古の文化。
火のそばの会話は、電話よりももっと古く、暖炉や炉端、さらには焚火の時代からなんだろうな、と。火とコミュニケーション(人間関係)のセットは、きっと人類最古の文化。
掲句は『鏡』第27号(2018年4月)より。
2018/04/19
■俳句世間のルサンチマン
ルサンチマンがきらいなのは性分と言ったけれど、もうすこし説明すると、それは、ルサンチマンを抱いた人は、他人を幸せにしないから、幸せにする気もないから。
私はやっぱり、他人のことを考える人が好きだし、自分は、他人のことを考えていたい(不充分で失敗ばかりにしても)。
ルサンチマンの人は、自分が権力を行使する側にいないことを嘆く。世の中の不公正やら不正義を嘆くのではない。だから、ひょんなことから権力を行使する側に立つと(集団の単位を変えれば、容易にそんなことが起きる)、とたんに無慈悲・非道になる。
彼は、みずからの不遇を嘆く。自分はもっと評価されるべきだと怒る。その打開策として、他人を評価しない。貶める。彼にとっての価値は相対的でしかなく(他人との比較でしかなく)、確たる基準はない。下世話に言えば、自分よりも評価が高い(と感じた)他人を、虱潰しに批判していく。
彼は、従う側にいることを嘆き、怒る。従わなければいいだけなのに、なぜか。それは、従わせる側にいたいから。従属関係を否定するのではなく、従属関係が実はとても好きなのだ。
さて、彼の思う世界・世間(規模がさまざまな社会集団)が彼の思うとおりになったとしよう。そのとき、彼は幸せかもしれないが、「みんな」はきっと幸せではない。ルサンチマンは「自分」が基準で、「みんな」が基準じゃないから。
●
俳句世間(俳句作者、俳句読者、俳句業者etcが成員)にも、ルサンチマンの人たちがいる。「自分はもっと評価されていい」という恨みが、彼のなかに蓄積していく。
俳句世間はとても狭く、評価なんてきわめて曖昧。エスタブリッシュメントも、あるのか、ないのか、よくわからない。それでも、ルサンチマンを発散させる人たちがいる。
「主流」(あくまで彼の思うところの主流)を仮想敵にして、言論・批評を展開。自分の「舌鋒の鋭さ」に酔いながら、自分に向けられた過小評価を恨む。それらがループになって、ますますルサンチマンを深めていく。
敵も味方もないし、戦いもないのにね。
ラヴ&ピース!
私はやっぱり、他人のことを考える人が好きだし、自分は、他人のことを考えていたい(不充分で失敗ばかりにしても)。
ルサンチマンの人は、自分が権力を行使する側にいないことを嘆く。世の中の不公正やら不正義を嘆くのではない。だから、ひょんなことから権力を行使する側に立つと(集団の単位を変えれば、容易にそんなことが起きる)、とたんに無慈悲・非道になる。
彼は、みずからの不遇を嘆く。自分はもっと評価されるべきだと怒る。その打開策として、他人を評価しない。貶める。彼にとっての価値は相対的でしかなく(他人との比較でしかなく)、確たる基準はない。下世話に言えば、自分よりも評価が高い(と感じた)他人を、虱潰しに批判していく。
彼は、従う側にいることを嘆き、怒る。従わなければいいだけなのに、なぜか。それは、従わせる側にいたいから。従属関係を否定するのではなく、従属関係が実はとても好きなのだ。
さて、彼の思う世界・世間(規模がさまざまな社会集団)が彼の思うとおりになったとしよう。そのとき、彼は幸せかもしれないが、「みんな」はきっと幸せではない。ルサンチマンは「自分」が基準で、「みんな」が基準じゃないから。
●
俳句世間(俳句作者、俳句読者、俳句業者etcが成員)にも、ルサンチマンの人たちがいる。「自分はもっと評価されていい」という恨みが、彼のなかに蓄積していく。
俳句世間はとても狭く、評価なんてきわめて曖昧。エスタブリッシュメントも、あるのか、ないのか、よくわからない。それでも、ルサンチマンを発散させる人たちがいる。
「主流」(あくまで彼の思うところの主流)を仮想敵にして、言論・批評を展開。自分の「舌鋒の鋭さ」に酔いながら、自分に向けられた過小評価を恨む。それらがループになって、ますますルサンチマンを深めていく。
敵も味方もないし、戦いもないのにね。
ラヴ&ピース!
2018/04/18
■スプリングボードのこと 『翔臨』第91号の小山森生句
背筋を覆ふ背廣と凍る瀧 小山森生
跳躍の前の踏切板のような役割を果たすのが「背広」。まずは現実的な要素を置いておいて、次に跳躍する。
背筋を覆う凍滝という景(美しい)を現前せしめるための「背広」。
ところで、これは、句のなかの1字がしばしば大きな役割を果たす一例でもあって、例えば「と」を切れ字「や」に替えると(背筋を覆ふ背廣や凍る瀧)、凍滝は跳躍の先というより、従来的な取り合わせとなり、いわゆる伝統派的に意味了解性の高い句となる。
1字がたいせつよ、ゆきちゃん(誰に言ってる?)。
掲句は『翔臨』第91号(2018年2月28日)より。
跳躍の前の踏切板のような役割を果たすのが「背広」。まずは現実的な要素を置いておいて、次に跳躍する。
背筋を覆う凍滝という景(美しい)を現前せしめるための「背広」。
ところで、これは、句のなかの1字がしばしば大きな役割を果たす一例でもあって、例えば「と」を切れ字「や」に替えると(背筋を覆ふ背廣や凍る瀧)、凍滝は跳躍の先というより、従来的な取り合わせとなり、いわゆる伝統派的に意味了解性の高い句となる。
1字がたいせつよ、ゆきちゃん(誰に言ってる?)。
掲句は『翔臨』第91号(2018年2月28日)より。
2018/04/17
■冒頭集:中心の発見
ロンドンにあるBBC(英国放送協会)の一室で、BBCの古いタイプライターに向かい、BBCのなめらかで、"音のしない(ノンラッスル)"タイプ用紙に、はじめて本のかたちとなるはずの原稿の最初の一文を書いたのは、今から三十年以上も前になる。私は、あと三ヵ月ほどで二十三歳の誕生日を迎えようとしていた。オックスフォードを離れて十ヵ月が経ち、ロンドンで暮らしていた。どうにか生計を立て、その合間に不安をやわらげようとしていあtが、たいていは不安をつのらせるだけだった。私は作家の道を歩きだそうとしていた。
オックスフォードでは、ずっとトリニダード政府の奨学金をもらっていた。ロンドンでは自力で生活費を稼いでいた。収入といえば、BBCのカリブ海向け放送から、わずかばかり天引きされて支払われる週八ギニーがすべてだった。それまで、というか過去二年間の唯一の幸運は、カリブの人びと向けに週一回の文芸番組を編集し、放送するというパートタイムの仕事を見つけられたことだった。
V.S.ナイポール『中心の発見』Finding the Center, 1984(栂正行訳/草思社/2003年)
≫冒頭集:神秘な指圧師
オックスフォードでは、ずっとトリニダード政府の奨学金をもらっていた。ロンドンでは自力で生活費を稼いでいた。収入といえば、BBCのカリブ海向け放送から、わずかばかり天引きされて支払われる週八ギニーがすべてだった。それまで、というか過去二年間の唯一の幸運は、カリブの人びと向けに週一回の文芸番組を編集し、放送するというパートタイムの仕事を見つけられたことだった。
V.S.ナイポール『中心の発見』Finding the Center, 1984(栂正行訳/草思社/2003年)
≫冒頭集:神秘な指圧師
2018/04/16
【お知らせ】4月のくにたち句会
●2018年4月29日(日)14:00 JR国立駅改札付近集合
●句会場所:ロージナ茶房(予定)。
●席題10題程度
初参加の方は、メール(tenki.saibara@gmail.com)、電話etcでご一報いただけると幸いです。問い合わせ等も、このメールまで。
ラヴ&ピース!
●句会場所:ロージナ茶房(予定)。
●席題10題程度
初参加の方は、メール(tenki.saibara@gmail.com)、電話etcでご一報いただけると幸いです。問い合わせ等も、このメールまで。
ラヴ&ピース!
2018/04/13
■ユースケ・サンタマリアと植木等
ユースケ・サンタマリア主演のテレビドラマ(かなり古い弁護士もの)を観ていて、あ、この人は植木等だ、と思いました。
すると、シリーズ終盤で、洗面器が彼のアタマの上に落ちてきて、ああ、みんな、そう思ってこのドラマをつくってるんだな、と。
そういえば、どちらも、もともとミュージシャン。
すると、シリーズ終盤で、洗面器が彼のアタマの上に落ちてきて、ああ、みんな、そう思ってこのドラマをつくってるんだな、と。
そういえば、どちらも、もともとミュージシャン。
2018/04/11
■「若いから新しい」?
仮屋(賢一)「若いっていうだけで期待されることって多いじゃないですか。期待の仕方があんまりうまくないというか」
安岡(麻祐)「無責任な期待の仕方が多いですね。若いから新しいでしょ、みたいな」
野住(朋可)「俳句界に、お年を召した人が多いからかもしれませんね」
(…)
安岡「若くて新しいね、と言われたらマジで? みたいに思います」
『奎』第5号(2018年3月12日)の巻頭座談会「若手俳人の動向を見渡す・後編」より。
年寄りだかオトナだかが、若い俳人に「新しさ」を期待するって話はよく聞きます。
本気で言ってるんなら、「新しさ」をナメてる。
本気じゃないなら、若い人をナメてる。
どっちにしても取り合わずにおいたほうがいい。
(だいたいは本気じゃないです。おそらく社交辞令)
●
「新しさ」って、そんなに簡単なものではないでしょ? どんなジャンルでも。
何十年と近くにいて、一度、新しさを目の当たりにできるかどうか。そのくらいのもののはず。でも、その「一度きり」に出会えるかもしれないから、ずっと付き合っていくわけです。好きなジャンルには。
「新しい俳句」を、これを読んでいるあなたが、座談会の若者たちが、あるいは私が、これから書ける確率は、きっと万に一つもない。でも、百万に一つが起きるかもしれないから、ずっと付き合っていくわけです。好きなジャンルには。
ま、「新しさ」をそれほどのものとは考えず、昔から延々たくさんの人が書いてきたような句ばかり作ってんじゃないよ、くらいの意味ならわかります。でも、それって、若い人に限った話ではないわけで。
●
なお、冒頭で引いた座談会、若い俳人さんたちの気分みたいなものも伝わってきて、おもしろいです。機会があれば、ご一読を。
ラヴ&ピース!
2018/04/09
■冒頭集:神秘な指圧師
後年の彼は南カリブ海方面きっての名士だった。民衆の英雄としてあがめられ、のちにはレイク・サクセス駐在のイギリス政府代表になった。しかしわたしがはじめて会ったとき、彼はまだ無名の指圧師にすぎなかったし、当時トリニダードには指圧師なら掃いて捨てるほどいた。
それは第二次世界大戦がはじまったばかりのころで、わたしはまだ小学生だった。むりやりフットボールをやらされて、最初の試合でしたたかむこうずねを蹴とばされ、わたしは何週間も寝たきりになっていた。
V.S.ナイポール『神秘な指圧師』The Mystic Masseur, 1957(永川玲二・大工原彌太郎訳/草思社/2002年)
タイトルの「神秘な」という用法はやや変則。堅苦しいことをいえば「神秘の」あるいは「神秘的な」となるところ。でも、これでもいい。その手の正統とは無縁の小説だから。
翻訳は、直接話法(トリニダード訛りの英語)を「広島弁」に訳すという快挙。
で、この小説、おもしろさ超絶、文句なしのオススメ。
それは第二次世界大戦がはじまったばかりのころで、わたしはまだ小学生だった。むりやりフットボールをやらされて、最初の試合でしたたかむこうずねを蹴とばされ、わたしは何週間も寝たきりになっていた。
V.S.ナイポール『神秘な指圧師』The Mystic Masseur, 1957(永川玲二・大工原彌太郎訳/草思社/2002年)
タイトルの「神秘な」という用法はやや変則。堅苦しいことをいえば「神秘の」あるいは「神秘的な」となるところ。でも、これでもいい。その手の正統とは無縁の小説だから。
翻訳は、直接話法(トリニダード訛りの英語)を「広島弁」に訳すという快挙。
で、この小説、おもしろさ超絶、文句なしのオススメ。
2018/04/08
■揮毫にまつわるもやもや
https://www.huffingtonpost.jp/2018/04/02/unique-signboard_a_23401280/ |
ホラー味のあるギャグとして、こういうの、嫌いではありませんが、本人はきっとギャグでもホラーでもない。
ま、それはそれとして、注目したのは、河野大臣の弁、「結構いい字でしょ?」という部分。
(言っておきますが、政治的な話をしようというのではありません。経済でもない。「揮毫」に関する話題です)
俳句世間で暮らしていると、短冊や色紙、句集の見返しなど、カジュアルな揮毫をよく目にします。このときたびたび生じる「もやもや」の理由がわかりました。書いた本人の「結構いい字でしょ?」感なのです、きっと。
目にする字は、いろいろです。味のある字、デザインセンスを感じる字、ただただヘタな字(悪筆)、学校の習字で褒められたっぽい字。
いろいろのうちどれかを決めるのは見た人だから、その字がどうとは決めつけられない。けれども、どんな場合も、なにかちょっと、どう反応していいのかわからない(反応を強いられているわけではないですが)、居心地の悪さみたいなものがある。それは、字がどうということではなく、字面に漂う「結構いい字でしょ?」感からくるもののようです(もちろん私個人の問題)。
ちなみに、俳人の色紙・短冊がもらえることになったとき、うれしい人とそうでない人がいて、私は後者。うれしくないというよりさらに進んで、「困ったな、捨てるわけにも行かないし」というタイプ。
これって、字の「良さ」がわからないということ(いわゆる朴念仁)である以上に、バチ当たりな態度かもしれません。
ラヴ&ピース!
2018/04/05
■冒頭集:風博士vs蛸博士
諸君は、東京市某町某番地なる風博士の邸宅を御存じであろう乎(か)? 御存じない。それは大変残念である。そして諸君は偉大なる風博士を御存知であろうか? ない。嗚呼。では諸君は遺書だけが発見されて、偉大なる風博士自体は杳として紛失したことも御存知ないであろうか! ない。嗚呼。では諸君は僕がその筋の嫌疑のために並々ならぬ困難を感じていることも御存じあるまい。しかし警察は知っていたのである。そして其筋の計算に由れば、偉大なる風博士は僕と共謀のうえ遺書を捏造して自殺を装い、かくてかの憎むべき蛸博士の名誉毀損をたくらんだに相違あるまいと睨んだのである。諸君、これは明らかに誤解である。(…)
坂口安吾「風博士」1931
坂口安吾「風博士」1931
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