2017/07/31

■夜の広場

日に少なくとも一度はブリュッセルに思いを馳せるわけです。

ぜんぜん知らないし、それほど興味があるわけではないんだけどね。

つまり、ブリュッセルでなくてもいし、グランプラスでなくてもいいのです。この版画の中の夜に思いを馳せるわけです。

浜田知明 グランプラス 10/20

2017/07/30

■室外機の風景 『奎』第2号より

蠅生まるビル一面に室外機  小池康生

ビルの裏面は、蠅の生誕地としていかにもふさわしく、また室外機が襞のように覆うコンクリートの一面もまたふさわしい。

『奎』第2号(2017年6月12日)より。

なお、室外機はときとしてフォトジェニック。カメラを向けたくなることがある。

東京・湯島付近。2015年3月17日15時30分撮影。

■インディアン・ライスの昼

こういう写真を載せると、食通っぽい(違う?)。


ダバクニタチというおしゃれなインド料理店。信治さんに教わったよ(「おしゃれ」は私の領分でも担当科目でもない)。

店名に「くにたち」とあるけれど、国立駅北口からちょっと行ったところなので、住所は国分寺のハズ。付近に「くにたち」感もない。

私たちが知っているカレー屋さん・インド料理屋さんはどうも北インドらしい。この店は南インド料理ということで、味がとても優しい。キーマとインド米のこのひと皿はサラダのような食べ心地。ふわっと軽い。

2017/07/29

■平日の噴水 『絵空』第20号より

平日を見てゐる噴水のまはり  茅根知子

視界にあるのは「噴水のまはり」。それはすなわち「平日」という、かたちがなく見えないものを「見てゐる」ことになる、と解した。

噴水の近くを歩く人、腰かける人の種類・様相は、平日と休日でずいぶん違うのだろう。オフィス街の広場の噴水とかだとね。

軽い意表から切り込んで、「まはり」への着目・ていねいな記述で、その場そのときの空気や明度が伝わる。

掲句は『絵空』第20号(2017年7月15日)より。

なお、同誌掲載の茅根知子「他人」12句には、次のような句も。

五月来る梯子があればのぼりたし  

遠雷や手にざらついてくる卵  

錆びた音たててくちなは進みけり  

暗がりに金魚が息をしてゐたる  

2017/07/28

■釣堀へ 『鷹』2017年8月号より

釣堀や帰る家ある者ばかり  小川軽舟

ホームレスは釣堀になんぞ行かないのかもしれない。

みな家がある。数時間も経てば家に帰っていく人たち。とはいえ、あの漂泊感(坐り続けているにもかかわらず!)。あの far from home 感。

家に帰りたくない。会社に行きたくない。釣堀に居たいのではなく、どこかに居たくない人たちのようにも、こちらの勝手な思い込みながら、見えてしまうことも、奇妙な漂泊感の理由かもしれません。

掲句は『鷹』2017年8月号より。

東京・市ヶ谷駅から見下ろす釣り堀。撮影日時そうとう前の夏。

2017/07/27

■茄子です(脚韻)


茄子の炊いたん。

しぎ焼きとは違います。油は使いますが、煮含めるのに出汁と醤油に足す干し海老がポイント。田舎で食べてたのを嫁はんが再現。

焼き茄子も大好きですが、皮を剝くのに指の先が熱すぎるので、「作って」とは頼めない(自分で作れという話)。

あ、そうそう。以前、「焼き茄子」とメニューにあるので注文すると、しぎ焼きが出てきて、大いにあきれ、納得がいかなかったことがあります(食べたけど)。

2017/07/26

■《作者主義/読者主義/いいね主義》by 斉藤斎藤

≫斉藤斎藤さん @saitohsaitoh による「作者主義/読者主義/いいね主義」
https://togetter.com/li/1133663

発端になった「歌会こわい」騒動、これはまあ、どうでもよくてね、例えば俳句の場合、「句会こわい」という人がいたら、もっと怖がるようなエピソードを教えてあげて、おもしろがればいいんです。夜中の怪談話のノリ。それに、自作を評されたり無視されたりを怖がったり、読解をたしなめられるのがイヤという人は、句会に行かないほうがいい。俳句に向いてもいないと思う(俳句の場合ネ。短歌は知らない)。別の遊びを探すほうがいい。

そんなことより、ここで示された《作者主義/読者主義/いいね主義》という三元(trialism)の設定が鋭く、簡潔・明快。

でね、いちおう私の立場を示すと、きほん、作品主義。

一読してすぐ「いいね」を押せる」ものがいいとは、句会という即断を迫られる場においても思わないし(お笑いネタと同列に扱わない)、「一つの単語から連想をひろげ、(作者の意図をはずれた)自由な読みを披露する」ようなことは、「自宅でひとりでやっててください」と思う(だから、例えば「BL読み」に対しては、つまらない冗談を聞いているような態度でしかいられない。「BL俳句」は作者がやりたいのだろうから当然ながら認め、句ごとに反応する)。

作品主義は作者主義に近い(この見解にもまあまあ近い)。

作品主義が作者主義とどう違うかというと、ちょっと微妙かつ観念的・空想的になるけれど、「テキストから「作者がやりたかったであろうこと」を推測する」のではなく、「作品がこうありたいと思うところ/こうあるところ(実現)」に目を向ける。

作品の実現したものは、作者の意図から遠くてもかまわない(作者主義とは異なる)。かといって、読者たる自分の欲望の受け皿にはしない(読者主義とは異なる)。

句(作品)はいわば言語的事実。それは(ちょっと飛躍するようだが)社会的事実/世界の現実と変わらない。(なかば喩えになってしまうが)社会/世界は私(読者)が欲する姿をしてくれるわけではないし、社会/世界の事実を個人的/集合的に作り上げる行為者の意図どおりでもない。

なお、作品主義の態度は、つねに読者たる私の「解脱」を要求するところがあって、自省が必須。同時に、俳句世間的〈内部知〉=作句の抽斗をいったん横に置くという態度も要る(擦り切れた読者に陥らないような努力)。



ところで、読み手たる私は、句会において、句集などを読むにおいて、このふたつでかなり違った態度をとる。

句会は楽屋あるいはワークショップと捉えるので(句会は発表の場じゃないよ)、技術論にもなり、代替案・選択肢もときとして提示する。作者主義に近づく。

そして、大いに反省すべきことに、読者主義者さながら、句を曲解し、茶化すことがないとは言えない。たまにある。いや、もう、ほんと、ごめんなさい。

一方、連作・句集は、楽屋ではない。すでに舞台だから、悦楽・愉楽する気満々で臨む。楽しめない句は心に残さず捨て去り、愉しめる句については、その瞬間瞬間、悦楽・愉楽に身を任せ、ときに悦楽・愉楽の謎に思いをいたらせたりする(レビューを書くときは後者を増幅させ、文章化に努める)。

句会で読むときと、連作や句集を読むときは、まったく異なる態度になるわけですよ、ダンナ。

(ダンナって誰だ?)

2017/07/25

■ペンチ

ペンチがあると、何かないか、と探してしまいます。なんでもいいから、ペンチしたくなる。すなわち、バチンバチン。あるいは、グリングリン。

かわいいよ、マイ・ペンチ。


2017/07/24

■誕生日だけが万人に平等なのかも

誕生日のない人はいないし(わからない人はいるだろう)、誕生日が2つ以上って人もいない。

ほかに平等なことってひとつもなく、誕生日だけ、ということかもしれません。だから、フェースブックで誕生日おめでとうだの、ありがとうだの、鬱陶しいことこのうえないものが飛びかうのでしょう。

ちなみに、嫁はんはフェースブックに登録したものの(私が強く薦めた。ごめん)、誕生日メッセージが並ぶのを見て、即やめた。「こりゃ、ダメだ。耐えられん」

わかる。気持ち悪いもん。

でもね、食べるものやらの暮らし向きに貧富があり、社交に格差があっても、誕生日だけは誰にも年に一度。だからこそ、同調と差異化のゲーム・フィールドたるSNSで、誕生日が重宝なのかも、ですね。

2017/07/23

■居間音楽

居間でふたりセッション。2コード循環、ベースラインと主メロディーだけ前提。テキトーに合わせる(いわゆるアドリブ)。途中に掛け合いめいた箇所も出て、老夫婦の週末、数十分の娯楽としては、なかなか良いものです。

エレピの鍵盤の不具合やら夫婦の会話やらもはさんで10分ほどの録音。




なお、ギター(エピフォン・カジノ)を買って17か月が経過。まだ続けられそうです。めざせ、ファンク。

関連過去記事≫ぼやぼやカレーパン

■いまさらですが、祝フラカン

昨晩のフラカン・パーティーは、いい雰囲気でした。

食べ物も美味しかったし、出席者は、この夜の主役・小津夜景さんと愉しい時間を過ごした(と思います)。



ところで、小津夜景『フラワーズ・カンフー』の歴史は「手のひら返し」の歴史でしたね。

俳壇(大笑い)の、俳句世間の、版元の。


小津夜景の名も『フラカン』も、知らないし、注目もしていなかった。ごく一部を除いては。

出版されると、ネット上でレビューが頻発(わいも書いたで)。それでも、みんな、あんまり知らない状態が続き、やがて、『俳句』誌の鼎談で結社主宰2人が取り上げて、この頃から、いろんなところで手のひらが返り始める。

で、田中裕明賞。これで「手のひら返し」のクライマックス。

読んでもなかった人たち、贈呈されながら頁をめくりもしなかった人たちが、受賞を知ったとたん、賛辞を送り始める。ギャグですか?

俳句世間の評判、エラい人や他人の評価、受賞、どれも、句集と自分(読者)の関係にとって、まるっきりどうでもいいことないのにね(好きなものは好き)。


というわけで、今夕でかける田中裕明賞受賞式@飯田橋では、上に書いたようなことは、ひとことも口にせず、上機嫌で談笑し、飲み食いするつもり。

では、行ってまいります。

2017/07/22

■夕陽の蟇

口中に夕陽まるごと呑んで蟇  三枝桂子

スケール大。蟇には、こうした、のうのうとして泰然たるところがありますね。実景としても、畦か小川のほとり、日がまさに沈まんとするそのときのこと。

掲句は『SASKIA』第10号(2017年6月1日)より。

2017/07/21

■タコ

キーマカレー≫キーマカレー、のあとのタコライス。超絶美味。

(なお、サルサソース:嫁はん特製)


2017/07/18

■夫婦の仁義

某日、嫁はんの生徒さんの発表会、無事終了。


私はプログラムを作り(ワードとエクセルによる原始的製造法)、当日は運転手。夫婦の仁義を通すでございます(年に1回だから自慢にならない)。



■小津夜景×関悦史イベントの速報とか

イベントレポートは都合であいにく行けなかった人には便利かつ親切。速報ならなおさら。

ただし、チェック無しの聞き書きは、聞き間違い、言い間違い、文脈の誤解etcが、どうしても起きる。読むほうに、その心積もりが必要。

ちなみに私は出かけれられなかったので、以下のふたつ、ありがたく拝読いたしました。

togetter 御前田あなた @anata_omaeda さんによる「小津夜景×関悦史「悦子の部屋」イベントで心に残った言葉」
https://togetter.com/li/1131092

かものはし(佐藤文香)小津夜景『フラワーズ・カンフー』イベント「悦子の部屋」のことや極私的なこと
http://aiaccare.blogspot.jp/2017/07/2017718.html

2017/07/17

■鼻のこと 『ぶるうまりん』第34号より

鼻ずるり池の氷が鈍く溶け  井東泉

「氷解く」は初春の季語。

A=Bという構造を嫌う向きもありますが(この句の場合、「鼻ずるり」という現象と氷が溶けることがなんらかの相同で結ばれ、互いに説明し合うような構造)、かなり突拍子がないともいえる身体の出来事と、この季語とのぶつかり具合には、少なからず驚かされました。

それに、切り込み方が図太くて、気持ちがいい。

掲句は『ぶるうまりん』第34号(2017年6月24日)より。

2017/07/15

■大木vs黒揚羽 『なんぢや』第37号より

大木に吸はれてゆくは黒揚羽  下坂速穂

受動態の構文は、黒揚羽の受動と大木の能動を同時に伝え、動きの中で二物があざやかな対照を成す。景の、叙述のシンプルさが心地よい。

世界に(視界に)それとそれしかない/世界はそれとそれで成立している、と思わせる切り取りの明快さは、俳句のあきらかな美点のひとつ。

『なんぢや』第37号(2017年6月10日)より。

2017/07/14

■このところいちばんのお気に入りは

チンアナゴです。

Heteroconger hassi

あまりに好きなので学名まで調べてしまいました。


2017/07/12

■豆本展に行ってきました

佐藤りえさん(歌仙「自転車」連衆)が参加するグループ展「豆本の宇宙 2017」に行ってきました。
https://twitter.com/sato_rie/status/883337818973413376

おもしろかったぁ。

実用から程遠い趣味・審美の豆本には、もともと興味があったのですが、先入見を覆すバリエーションの豊富さ、アイデア、仕上がりのキュートさ。


佐藤りえ作、蝶の詞華集。
同じく佐藤りえさん作。和綴。

カメラ裏蓋を開けるとページが。風古堂製。

飛び出す豆本。マスダユタカ作。

関川敦子作。第二もあるんだろうか?



2017/07/11

■前田吟の歌

気配だけして透明の前田吟八重洲あたりの夏のゆふぐれ 10key

菅井きんの歌が途絶えて久しい。

気になっていましたが、そのまま復活させるのではなく、菅井きんから前田吟へ、ドラマチックでロマンチックな展開を試みようと思います。

俳句を書いていたら(句会じゃなく書いているのです、たまの週末)、前田吟の歌がとつぜん現れたので、スタートさせる次第。


2017/07/07

■蛇と人 月犬句集『鳥獸蟲魚幻譜抄』

洋封筒入り・A6版・20頁(表紙まわり含む)。手のひらサイズの月犬句集『鳥獸蟲魚幻譜抄』。


タイトルのとおり、鳥獸蟲魚のいずれかを詠み込んだ句群。

穴を出て蛇まだ人と遭はぬまゝ 月犬

穴を出ることは、人界へ身を晒すことなのかもしれません。蛇視線が興趣。

2017/07/06

■す~ゔに~るのかいも~の

切手、売ってるんですよ。郵政博物館。

承前≫

紫陽花は来年の6月用です。25円、15円は7円との組み合わせで62円、82円ぴったりにもできて、重宝。余らせてもいいのですが(65円分とかネ)、ぴったりもまた気持ちがよろしいのです。


2017/07/05

■某日、郵政博物館

東京スカイツリーは水族館がよく知られるところですが、郵政博物館がなかなかシブい。小ぢんまりで足が疲れない。人が少なくゆっくり楽しめる。

日本と世界の切手を年代別に整理。見やすい収納・展示。

その数膨大で、何日通っても見きれないであろうほど。

前島密ひとり。切手の肖像と似ていない。

2017/07/04

■曇り方のいろいろ

空蟬の古椅子ほどの曇りやう  青本瑞季

いい距離感の意表が2段階(空蟬→古椅子→曇)。

曇りようはいろいろで、それは程度ということでなくて、さまざまな様態に曇る。

マフラーの巻き方森の曇り方  笠井亞子〔*〕


掲句は青本瑞季「無言でゐる」10句より。
http://kangempai.jp/seinenbu/haiku/2017/07aomoto.html

〔*〕笠井亞子『東京猫柳』(西田書店2008年4月)

2017/07/02

■選者/読者


ひとまず、答えがほぼ出てしまったわけですが。



例えば、句会。俳人諸氏にとって日常的な句会における「選」が、句と自分(読者/選者)の関係のかなりの部分を決めてしまっている側面が、たしかにあります。

でもね、「選者」である前に「読者」でありたいと、やはり願うわけです。「わかる」愉楽、「わからない」愉楽、双方を全身で浴びようとする享楽的読者。

句会は、いや、句会に限らず、俳句を読む、ということにおいては、人(作者)との関係よりも先に、まず、句(作品)との関係があるわけで、ならば、いわゆる「上から目線」、昨今の流行語で言えば「マウンティング」など、みずからのポジションにこだわる/すがる必要はない。

なお、居丈高な「わからない」アピールは、句会よりむしろ何かの賞の選考会のほうが、確率よく見物できます。ま、これは、選者>読者、な態度が求められているので、当然。

しかしながら、信用の置ける選、魅力的な選とは、「しっかりと読者」な人の選である。そう信じております。

2017/07/01

■なぜ俳句世間には鼻たかだかに「わからない」とおっしゃる方が多いのだろう

「わかりません」

これ、おずおずと言ったものです。こどものとき、教室とかでね。

ところが、俳句をやっていると、なんだか居丈高に「わからない」と。そういう場面に少なからず遭遇する。

鼻たかだかに、わからないことがエラいみたいに、私にわかってもらえないような句はダメ、とばかりに。

(短歌や川柳はどうなんでしょう? 句会とか批評文で)


ある一句、あるいは句群、あるにはある作家の作品全体、それらにまつわる「わからない」は、かなり複雑。

また、いろいろと考えたり整理したりしようと思います。


(田島健一さんがしばしば、「わかる」「わからない」問題について書いていますね)